ペットは心のオアシス

  

 中学から高校時代に、カナリアや十姉妹など

いろんな動物を飼ったが、主な担当?は

ニワトリの一種のチャボだった。非常に仲の良い

夫婦で、いつも連れだって庭をつつきまわって

いた。当時は、狭いながらも庭に池があって

いたずら心で、そのチャボを浮かべると

静かに浮いていた。メスの方を浮かべると、

オスが騒ぐ。それはそれは大騒ぎである。

オスを浮かべてもメスが知らん顔なのとは

実に対照的。騒がれても、メスは大人しい

ものだが、水面下の鯉の動きにのって、縁が

近づくと慌てて這いあがったりするのも

楽しかった。そのメスを抱いて対岸に行こう

ものなら、またまたオスは大騒ぎ。

何をするのだ、自分の連れ合いを!ということ

だろう。大して飛べもしないのに、必死で

対岸に飛んでくるのである。対して、オスを

抱いて対岸に行っても、メスは知らんぷり。

その頃は子供だったから夫婦の機微は知らず、

オスはメスをかくも大事にするものかと、いたく

感心したものだった。また、子犬を見つけては

持ち帰って最初は親に内緒で裏庭で飼ってみたり、

子猫もしかりで何回も飼ったりしたが、それらの

犬やネコは、可愛がる人間とそうでない人間を

完璧に識別するようで、なつくのは私および母等に

決まっており、なかなか父ほか可愛がらない者には

なつかなかった。それどころか、わざわざ父の

枕元に糞をしたりして、その翌朝にはもう追放!

犬は、その家のあるじ、あるいは一番上位の人間に

なつくというが、どうであろうか。やはり、可愛がる

人間に対してが一番ではなかろうか。ただ、当時は

今のような七種混合などのワクチンなどを打たない

ためだろう。数年くらいしか生きなかった。

懲りずに何度もその繰り返しである。

チャボのなつきかたも、抱かれたまま卵を産んだり、

オスもまた抱かれたまま「コケこっこー」である。

こんなことも、たぶん可愛がっていたからと思う。

 大学から会社時代の約20年間は一人暮らしおよび

マンションだったから動物とは縁がなかったが、

長崎に移って一戸建てに住むのを待ちかねるように、

早速芝犬を飼い始めた。名前はモモ。

以前、海で泳いでいたところ、近所の悪ガキが

やっていた花火が、モモをかすめて泳いでいた

海の方に飛んできた。モモは驚いて、なんと海へ

飛び込んで助けを求めにくるのである。悪ガキは

こっぴどく叱ったが、かくも頼られて、しかしこの

情けない有り様では、番犬にはなりようもないが、

実に可愛いものである。どうも未だに自分を犬では

なく、ヒトと勘違いしているのか、近所のオスの

芝犬を受け付けない。何しろ性質の大人しい柴犬で、

飼い主バカかもしれないが、子犬が産まれればきっと

可愛いと思うが、未だに子宝には恵まれない。

だが、犬を可愛がるのは何も我が家だけではない。

台風のちょっとした合間に雨も止み風が若干納まった

時を見計らって散歩に出たところ、考えることは

同じらしく犬の散歩が多いこと。いづこでも同じだ。

子供も割に動物が好きで、長女が小学校時代に学校

の飼育委員をしていた時に、沢山の子ウサギが

産まれた。そのうちの三羽を保育の目的で持ち帰り、

一羽は育ったところで学校に戻し、一羽は不慮の

事故で死んだが、残る一羽はピッピと名付け、

今も飼っている。これがまた可愛い。

足下で餌をねだったり、すり寄ってきたりで

踏みつぶしそうで怖いくらいだ。なでていると、

何を思うのか、なでている手をなめ回す。一羽で

飼っているためか、仲間とでも思うのだろう。

 動物は、いや植物も含めて育てるのは楽しい。

ヒトと違って、純粋に生きている。人間社会に

生きていてふとストレスを感じたりしたときなど、

一服の清涼感すら与えてくれる。

今後も、いろんな動植物を育ててゆくものと思う。

1998.6月