新聞への投稿文への反響文が時に掲載される。自分の文が載るのは
むろんうれしいものだが、その文への反響が掲載されるのはさらに嬉しい。
人は人に評価されて嬉しい生き物である。学生のレポート、あるいは
我が子の言動など、ちょっとしたことでも、大したことなくても
評価してあげなくちゃ!と思う。
学生が教員を評価する。学生には期待できない、という意見もあるが、、
稚拙な表現力でも十分!とは言わないが、それでも今まで評価対象外の
大学の先生には教育効果がかなり期待できるのではないか。
会社には「人事評定」がある。これはかなり嫌な言葉・制度と、かつて
感じていたが「必要悪」に近いかもしれない。
主任の今、論文数が増えないのが目下の最大の悩みだ*〜*
会社は実力だけじゃあないし、運不運もかなりある。石の上にも三年
なんて簡単に言うが、当人には耐えられない三年だろう。
大学という業界にもいろいろある。
慣らされてはいけない、と常に自戒しないといけない。
水が低きに流れるように、易きにつくのは誠に楽だから。
先日も、昨年卒業して社会人となり、二年目になろうとする
卒業生が8人訪ねてきた。こういったことは教師冥利である。
すでに利害関係はないのだから、純然と自分を慕ってのことと信ずる。
わざわざ大分から二人、鹿児島からも一人!
子供に言わせると「お父さんの要求水準は高い、そんなにはできない!」
ってなもんだけど、何もそんな高いことを要求してる訳じゃあない。
ただ「身の回りをきれいにしなさい、自分の目指す高校があるならば
そこを目指すにはどうしたらいいか自分で考えなさい」と言っている。
義務教育でも十分きついと思うし、ゆとりの教育と文部省は言うが(?_?)
どんな高校がいい?と聞かれれば「今現在進路が決定できていなければ
先の苦労を少なくするために、とりあえずは進学校」と答え、「そして、、」
と続く。 しかし、いわゆるいい大学からいい会社にはいった筈の
親の私は転職してしまった^〜^
困ったもんだが、結論的には、大学へ行くのは、、、
仕事や人生の選択肢を多く持つため、ということが大きいように思う。
中学や高校を出て職人になる、などとよく言うが、その方がはるかに
難しいのだ。要は、自分の人生なのだと思わなければだめだろう。
竹や笹などは数十年に一回花を咲かせる。
これは、種の保存の法則というか、環境が劣悪になる、あるいは自らの
生命体が傷んでくると、種子を作るために花を咲かせたりする訳だ。
花を咲かせるためには、水を控える、あるいは栄養を与えない、と
いうことに通じる。種子というのは、劣悪な環境下でも生きて行けるから。
こういったことが遺伝子レベルで解明される日も近いだろう。
でも、ヒトと植物では根本的に違うから、クローンは当分無理だし、
やってはいけないと思う。でも、遺伝子は同一だから、また細胞膜構造も
同一だから、理論的には植物の遺伝子をヒトに導入することも可能なのだ。
考えると、何やら怖い。
ヒトは、やっぱりホモサピエンスなのだ。