研究余滴「私の履歴書」

 研究を始めた、といえば一応大学時代ということになるだろうが、今思うと非常に不真面目というか、ノ

ンポリとでもいおうか、のんびりとした学生だった。とりあえず修士課程を終えて、某企業の研究所に入っ

た。食品会社だったので、最初に覚えた仕事は包丁の使い方だった。それまで、自炊の経験はあったものの、

全くの我流であり包丁の使い方など知りはしない。こうやるのだと年下の先輩の女性に習うのだが、結構

恥ずかしく感じた。大した勉強はしなかったくせに「大学院まで行った俺がなぜこんなことを、年下の女

の子に習うのか」という訳である。プライドだけは一人前。食品会社の研究所の仕事は、食品を開発する

ことである。試験管を振るばかりではないのだ。しかし、青白きインテリ気取りの新卒生は、そうは思わな

かった。十年も経つと、後輩の新卒生に同じことをやって、まずプライドを打ち砕くのが仕事となるがそれは

後のこと。商品開発というのは、これでなかなか難しい。売れてなんぼだから、売れなければただのゴミを

作っているのに等しい。研究余滴には遠いことを書いているようだが、研究(仕事)の進め方の基

礎を学んだのは、今思ってもこの時期と思っている。(この時の上司は、現在常務取締役である)

 そうこうするうちに、世の中ではバイオというものが脚光を浴びるようになり、修士論文に「プ

ロトプラスト」とあるのを担当者が見つけて、内地留学で某有名大学に通うこととなった。命題は「植

物を用いてもうかる仕事を見つけて来い」であったが、大学時代の研究テーマは細菌。植物のこと

など知らない。似たようなものだろう、と会社は思ったというお粗末。しかし、その大学の先生は

世界でも名の通る著名な方で、なぜこんな生徒を受け入れたか聞くと、「ちょっと面白かった」

よくわからない返事だった。しかし、そこでの研修は大変だった。すでに大学を出て六年たってい

たので、英語の文献を読むのも久しぶり。まして植物の世界。漠たる会社の命題を含め暗中模索と

はまさにこのこと。見つけたテーマはサフラン香辛料で最も高価という短絡的根拠ではあったが

とりあえずこれでゆくこととした。ただ、大学の先生にはしばらくこのテーマについては伏せてい

た。あとはその目的達成へ向けてまっしぐら、と言いたいが、なかなか道は平坦ではない。何しろ

企業での研究だから、毎月のように報告の義務(目標管理)がある。しかし、ただでも時間のか

かる植物組織培養、ましてまだまだ不慣れ。そう簡単に結果が出る訳がない。目標管理のいばらを

くぐりぬけながら、研究を続けることが大きな関門だった。研究上では、食品開発の同僚からヒン

トを得ることも多々あった。細胞工学的な手法として基本的なプロトプラスト培養においては、人

工イクラを開発していた同僚のアルギン酸ゲル包埋法が大きなヒントとなり、どうしてもできなか

った培養に成功した。寒暖差のある地域での商品開発においての温度差保管から、低温培養に目を

つけて効率的な培養にも成功した。伏せていた先生にも、このあたりになると学会発表や論文から

知られることとなり、貴重な意見をいただきつつある程度の評価は得られたものと思う。ただ学位

については、やはり出身大学が良いと思われたので、九州大学に申請して得ることができた。

 次に、活水への転身以降について触れてみる経緯は割愛するが、熊本出身であり家内も同郷だ

ったことなどから、14年間住み慣れた東京を離れることとなり、5年前に生活学科に赴任した。

当初は、その環境差に、大げさにいえば愕然とした。会社時代には平然と並んでいた精密機器が皆

無に近い。加えて共同研究者はいない。研究費の少なさ等々。しかし物理的自由時間の多さと、研

究課題では稟議不要という意味での自由度は会社時代には考えられないことであった(今は主任に

なってしまい自由時間が限りなくなくなってしまった)。こういった環境でできることは、地場産

業に注目することだと思い、今はビワ植物の研究も行っており学生諸子にも大いに期待している。

 最後に言いたいのは、まだまだ発展途上だが優先順位が大事だということだ。不要不急なこと

に拘泥しては先には進めない。取捨選択が、やはり平凡でも重要ではなかろうか。今後もこれを心

がけて行きたい。                    1997.12.20.活水学院報より抜粋    

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