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〈昭和時代(6)〉

1950(昭和25)【昭和】 庚寅(かのえとら)

  《総理大臣》[第49代]第3次吉田茂内閣
  《知事》[第39代(公選1代)]杉山宗次郎
  《市長》[第17代]大橋博

  01/04長崎県営バスが網場〜小浜〜京泊間に竹島丸の運航を開始
     1951(昭和26)01/01竹島丸運航休止
  01/10戦後の財閥解体により三菱重工業株式会社が解散。3社に分割
     「東日本重工業株式会社」「中日本重工業株式会社」「西日本重工業株式会社として発足
     「西日本重工業株式会社長崎造船所」が発足
     1952(昭和27)05/27「三菱造船株式会社長崎造船所」と改称
  01/11数隻の漁船が済州島南方で国籍不明船から砲撃、拿捕される。怪船は韓国監視船
     1950(昭和25)暮〜1951(昭和26)03/東シナ海で拿捕された漁船は長崎の14隻を含め32隻に
     怪船は中国、韓国、台湾の武装船艇と判明
     1951(昭和26)03/15第3雲仙丸が長崎港に帰国
     台湾軍遊撃隊が乗船した第18雲仙丸に襲撃され甲板長が死亡
     1951(昭和26)06/19漁船12隻が2人の遺骨を抱いて帰国
     無灯火で近づき、いきなり発砲した中国船に拿捕されていた
     1952(昭和27)03/04中国に抑留された漁船員293人を乗せたボロボロの第5次送還船2隻が長崎港に帰国
     1955(昭和30)日中民間漁業協定が締結。時代錯誤の海賊行為がやむ
  01/12仁田小学校が招魂社境内に鉄筋コンクリートの校舎第1期工事を起工
       以降1953(昭和28)02/28の第2期工事(19教室)、
         1955(昭和30)03/の第3期工事(6教室、管理室、玄関)
         1958(昭和33)03/の第4期工事(3教室及び階段)、
         1959(昭和34)03/08の第5期工事(理科室及び便所)まで随時、工事を続行
     1963(昭和38)10/01体育倉庫の改造、陸橋の架設工事に着手。12/21竣工
  01/長崎バス(株)が長崎県営バスとの間に市内線相互乗り入れを開始。●●〜●●線
  02/11県立長崎工業高校が大村市から長崎家野町に移転
     1971(昭和46)岩屋町に移転
  02/20長崎市大黒町に長崎県公共事業部(長崎県営バス)の本部庁舎が落成
     08/12長崎県公共事業部を長崎県交通部と改称
     1961(昭和36)05/10長崎県営バス本局用地一部買収(大黒町588.38平方米)
  03/11煉瓦造り地下1階、地上2階建、延べ630坪の長崎商業会議所が全焼
     1964(昭和39)03/22国道34号拡張のため解体
  03/14活水女子短期大学、長崎外国語短期大学、県立女子短期大学が開校
  03/14長崎純心女子短期大学が開校。社会科学科を開設
     1951(昭和26)全国で唯一のカトリック系の幼稚園教員育成校として保育科を開設
     1975(昭和50)家野町の長崎純心女子短期大学が三ツ山町に移転
     2006(平成18)02/26長崎純心大学短期大学部が4年制大学への完全移行に伴い56年の歴史に幕を閉じる
     閉学式が長崎市三ツ山町の学舎で行なわれる
     短期大学部は1950(昭和25)に社会科、翌年に全国で唯一のカトリック系の幼稚園教員育成校として保育科を開設
     これまでに社会科、保育科など合わせて1万0441人を社会に送りだす
     03/14保育科の最後の卒業生61人が社会に巣立つ
  03/31恵美須町5-100の瓊の浦公園(4088平方米)が、桜町10-1000に桜町公園(2349平方米)が
     岩川町2400に山王公園(2480平方米)が、城山町2400に城山公園(3582.72平方米)が開設
  04/01長崎市の第4次市域拡張により西彼杵郡福田村大浦郷字網場を市域に編入
     90.60平方粁、戸数5万7081、人口24万7248となる[1950(昭和25)12/31現在]
     福田村の一部0.06平方粁25戸106人(男56・女50)[1950(昭和25)01/20現在]
     1955(昭和30)01/01長崎市の第5次市域拡張により西彼杵郡福田村と深堀村を市域に編入
     114.23平方粁、戸数6万4231世帯、人口29万2765となる[1955(昭和30)01/31現在]
     福田村21.47平方粁、992世帯、5431人(男2641・女2790)
     深堀村21.8平方粁、1222世帯、6097人(男3026・女3071)
     [拡張区域は1954(昭和29)03/31現在]
  04/17放浪作家の林芙美子が来崎。東上町の福島旅館に投宿
     世界最小の高級腕時計と現金5万円を盗まれる
  04/21戦後初めてハワイ観光団第1陣24人が来崎
  04/27長崎開港380周年を迎え「ながさきみなとまつり」が復活
     記念式典、のど自慢大会、仮装行列、魚供養など多彩な行事が繰り広げられる
     04/30閉幕
  04/長崎醤油味噌工業組合」が長工醤油味噌有限会社へ商号変更
     1966(昭和41)04/長工醤油株式会社へ組織変更
  04/長崎市街地信用組合が信用組合に
     1951(昭和26)10/20信用金融金庫法に基づく信用金庫に改組
  04/千々石に雲仙食品が創立
     ざぼん漬、ざぼん羊羹、雲仙飴の詰合せを以てみやげ品界に進出
     もともとは戦後に砂糖の統制でつくった雲仙食品株式会社がきっかけ
     1963(昭和38)ヨーグルト、ミルクコーヒー、なまジュースなどの飲料水部門を併営
  05/01長崎大学の大村一般教養部と長崎一般教養部が統合され長崎大学大村分校に
     のち転々とする。大村分校大村教室下久原の元師範校舎大村分校長崎校舎
     1954(昭和29)長崎市大橋町に移転し長崎大学長崎分校と改称
  05/01西彼杵郡福田村の一部が長崎市に編入される
     1951(昭和26)12/01西彼杵郡時津村に町制が敷かれ時津町となる
  05/03北松浦郡小佐々村に町制が敷かれ小佐々町となる
     1951(昭和26)12/01北松浦郡福島村に町制が敷かれ福島町となる。人口は1万1千人を数える
     北松浦郡吉井村に町制が敷かれ吉井町となる
  05/木造2階建て「長崎県立盲学校」復旧校舎の落成祝賀会開催。永井隆博士が祝いの色紙を送る
     1975(昭和50)児童生徒数の増加と復旧浦上校舎の老朽化にともない、時津町に校舎・寄宿舎が新築され移転
  05/長崎大学の水産学部が大村市から佐世保市崎辺に移転
     1961(昭和36)08/佐世保市崎辺から長崎市文教地区に移転
  06/07三光商事が(株)中山洋行へ商号を変更
     1950(昭和25)米進駐軍からの払い下げコーヒーを販売
     1952(昭和27)コーヒー自家焙煎を開始
  06/25朝鮮戦争勃発
  06/佐世保市が市民97%の支持率を得て平和宣言を採択
     「佐世保市を永久に平和港として育成する」
  07/09八学会連合の対馬学術調査に参加した民俗学者の宮本常一が厳原に着く
     宮本の民俗学の軸は、柳田国男が定住型水田稲作農民を対象にしたのに対し、海の民の生き方に視点をあてる
     07/13バスで豆酘村の浅藻に80才を超える梶田富五郎翁に会いに行く
  07/30長崎県営バスが橘湾で納涼遊覧船の営業開始(〜08/27)
     網場〜東望浜〜牧島〜戸石〜網場3Hコース
  08/01市立公園ができる
     長崎公園(上西山町)、湊公園(新地町)中川公園(本河内町)、丸山公園(寄合町)、
     国際平和公園(松山町)、飽ノ浦公園(飽ノ浦町)、立神公園(東立神町)、水ノ浦公園(水ノ浦町)
  08/12長崎県営バスの大村営業所落成
     1970(昭和45)10/25大村営業所女子職員寮が新築落成
  08/13国家警察予備隊の人員受付が長崎の各警察暑ではじまる
     マッカーサーにより国家警察予備隊(7万5千人)の創設が指令されたため
     長崎では定員1470人のところ2500人が志願
  08/長崎県立長崎西高等学校が竹の久保町の新築校舎に移転完了
     創立時[1948(昭和23)11/01]は鳴滝町の旧県立長崎高等学校の校舎を使用
  08/朝鮮動乱により「興安丸」が国連軍に傭船され兵士や傷病兵を輸送。以降、引揚輸送に従事する
     1953(昭和28)03/23中国引揚再開、帰国第1船として舞鶴入港
  09/13唐人屋敷内の土神堂を老朽化のため石殿のみを残し解体
     1978(昭和53)05/10長崎市が復興工事
  09/16長崎電鉄が大橋〜住吉に路線(1550米)を延長
  09/長崎バス(株)の整備工場が松ケ枝町から岩川町に移転
     1955(昭和30)10/05岩川町から茂里町に移転
     新工場の面積4800平方米、1日の整備能力30両
  10/07渡御。「長崎くんち」10/09還御
     (1)…寄合町(本踊)、樺島町(太鼓山)、八幡町(山伏剣舞)、麹屋町(本踊)、
     万屋町(鯨潮吹き)、西浜町(蛇船・本踊)、銀屋町(本踊)、諏訪町(蛇踊)
     *出場辞退…船津町、本博多町、平戸町
     長崎くんちプログラム」(赤本)を山下誠が創刊
     御旅所は万才町長崎地裁前空地
     くんち振興会が花電車や花バスを走らせ景気を添える
  10/10日本観光地選定会議と毎日新聞が全国民の投票で選ぶ「日本観光地百選」を実施
     長崎が第1位となる。戦災年から立ち直り観光都市に生まれ変わる景気に
     長崎市は都邑の部での百選運動本部を設け市民に協力を呼びかける
     結果95万0532票で、秩父の94万票に大差をつけて首位に
  10/29水の浦町4に水の浦公園(1916平方米)が開設
  11/02長崎・佐世保(早岐)〜東京に客車急行「雲仙」が誕生
     1954(昭和29)10/01長崎本線経由の長崎〜東京のみに
     1961(昭和36)10/01長崎・佐世保〜東京「西海」と併結
     1968(昭和43)10/01長崎〜京都に単独2往復
     1970(昭和45)10/01長崎〜京都に単独3往復
     1975(昭和50)03/10長崎・佐世保〜新大阪「西海」と併結
     1980(昭和55)10/01廃止
  11/23西彼杵半島と針尾島の間の針尾瀬戸を結ぶ橋の起工式が挙行。架橋建設は建設省の直営事業に
     占領軍のシングルトン中佐も参列。両岸から橋桁工事に着手
     1951(昭和26)「対日見返り資金」打ち切りと県の公共事業切り替え
     国道でない道路が半額県費負担となり猛運動が繰り広げられる
  11/25茂里町の西日本重工業長崎造船所幸町工場の一部用地を買収し長崎市営塵芥焼却場ができる
     工費821万余円、1日焼却能力56.2瓲の塵芥焼却炉を建設
  12/合資会社「田中長一商店」が本社を長崎から東京に移す
     1964(昭和39)07/木枠窓に代わるアルミサッシの需要の拡大と相まって、不二サッシ販売(株)の代理店となる
  長崎バス(株)が貸切事業の免許を取得
     事業区域は長崎市と西彼杵郡一円で3台からスタート
  ローマ教皇ピオ12世が西坂の地をカトリック教徒の公式巡礼地と定める
  長崎公園内の呑江(港)茶屋近くに「お菊さん」の記念碑が建立
     呑江(港)茶屋はピエール・ロチ作の「お菊さん」の舞台に
  それまで平地の田んぼばかりだった地域(現チトセピア)にアパート群が建ち並ぶ
     駒場町の競輪事業の収益により建てられ、別名競輪アパートと呼ばれた
     それぞれ4階建アパート9棟には隼、燕、千鳥、鴎、鳩、鴬、孔雀、雲雀、鳳と名前が付けられた
     1991(平成03)地上13階、地下1階、延べ面積6万平方米のチトセピアがオープン
     公営住宅268戸、長崎市役所西浦上支所、ユニード等専門店、銀行が入居
  ラッキー自動車(株)が佐世保でタクシー業務を開業
     1953(昭和28)長崎に進出
  中島川の袋橋のたもとに中華料理店の共楽園が創業
  G.H.Qより医薬分業の勧告あり、賛否両派が対立
     1954(昭和29)07/11長崎市袋町・カトリックセンターにて長崎県医師大会が開催。強制医薬分業に絶対反対など決議
  長崎駅前に木造2階建の県営バスターミナル本部庁舎が落成
  本原郷辻の丘(十字架山、クルス山)が西坂殉教地とともに、ローマ教皇ピオ12世によって公式巡礼地に指定
     1952(昭和27)日本最初の屋外「十字架の道」が設置
  諏訪荘の田中作太郎が国際観光旅館連盟九州支部の結成につくし、初代九州支部長に推される
     国観連は戦後、外人観光客が増え、その宿泊対策のために生まれた
     のち日本観光旅館連盟長崎支部を組織づくる
     のち長崎県環境衛生旅館組合を組織づくる
  雲仙が戦後の観光対策に、それまでの旅館組合とホテル組合とが合併。ひとつになる
     初代組合長は古湯の富貴屋旅館の代表・内田繁光
  清月堂の小松清が唐人せんべいの権利を譲り受け館内町に工場を建て長崎名物として売り出す
     のち名所せんべいを創案して売り出し基盤をつくる
     のち清月食堂を経営し、さらに観光ガイド社をつくる
     1959(昭和34)稲垣屋を借りてカステラ業界に進出。220円のカステラを売り名を知られる
  銭座町で三宅豊之がざぼん漬製造の三宅三七三(ミナミ)堂を創業
     三宅豊之は1913(大正02)生まれ、関西大学をでて満州に渡りハルビンの満州馬事公会経理課長を務める
     1944(昭和19)に召集されフィリピンから復員
     のち小浜にある父親の菓子工場で湯せんべいやざぼん漬の製造に携わる
  深堀健一郎が出島で文化タクシーの営業をはじめる
     車両は三輪車にボディーを取り付けた5人乗りの文化タクシー
  小浜にて1924(大正13)島原生まれの伊藤譲が岩見屋タクシーを経営
     のち岩見屋旅館を併営するが1958(昭和33)旅館を閉じる
     1967(昭和42)経営を旅館一本に切り替え、いとう旅館を建てる
     建物は洋館造り、各部屋は和室。熊本の五つ木から運んだ石でつくった岩風呂が特徴
  雲仙の有明ホテルがアメリカ軍の接収から解かれ従来のホテル経営に復する
     終戦直前には他のホテルとともに佐世保海軍病院の保養施設となり、終戦後はアメリカ軍将校のレストハウスとなっていた
     1956(昭和31)政府登録ホテルとなる
  雲仙新湯の九州ホテルの内部改装工事、一部新築工事に着手
     改装工事は、日本人客に敬遠される洋風ホテルから、和室の旅館へ転換し集客力を上げるため
     1974(昭和49)全館の工事が終了
  南山手の丘の上のイエズス会修道院本部が兵庫県に移転
     女子修道院「マリア園」となり幼稚園、養護学校が併設されて修道女による運営が行なわれる
  戦災復興事業の一環として佐世保市により、旧刑務所後を利用して佐世保競輪場が開設される
     市営佐世保競輪が初開催される
  長崎観光ホテルが開業
  穴見栄七が長崎駅前で営む果物店が、区画整理で駅前別の場所に新築移転。土産品店たちばなやを開業
  原爆で焼失した長崎駅前の太田屋旅館が新築再開。屋号を新成館に変更
     1958(昭和33)樺島町に移転
  栄町の料亭松楽を浜口しづが名義を継いで桶屋町に開業
  中島川畔のカルルス公園に建つ旅館虎屋の、駐留軍の接収が解かれ料亭はし本を新築開業。敷地約1千坪
     部屋は豪華な純和風だがカギ1本で自由に振る舞えるようにホテル洋式を採り入れる
     経営者の理念「外観は鉄筋の建物でも、旅館はあくまで古来のサービスと情緒とに徹しなければならない」
     屋上は長崎の夜の展望所、地階はクラシックな和風レストラン虎茶屋と駐車場
     「虎茶屋」では1品料理から天ぷら、鍋物料理、しっぽく料理、名物の虎鍋桜の葉で巻いたさくら寿司などを提供
     建設は西日本菱重興産(三菱造船一環の事業)第1回の建設として施工
  長崎市内の映画館が9館になる
     1956(昭和31)06/映画ブームで映画館が急造に増え21館を数える
     東宝宝塚、大洋映劇(以上本石灰町)、松竹国際映劇、第1映画、東宝富士館(以上西濱町)、東宝喜楽館(東濱町)、
     中央映劇、長崎大映(以上銅座町)、東映映劇、新世界(以上梅香崎町)、新大映劇、諏訪名画(以上新大工町)、
     榎津東映(榎津町)、千日映劇(出来大工町)、東館(船大工町)、戸町大東映劇(戸町)、みなと映劇(大浦町)、
     大橋平和(大橋町)、住吉公楽映劇(住吉町)、平和劇場(浜口町)、月館(稲佐町)
  戦後の観光ブームで樺島町にある港温泉の2階を改装、旅館業を始める
     浴場と旅館を併営して人気を集める
     のちボーリングを手がけ水脈を掘り当て港温泉と旅館経営がプラスとなる
     のち本格的な旅館経営に取り組み増築を重ねる
     1965(昭和40)港洋館を新築
  袋町橋たもとの地蔵(地蔵菩薩半跏像)に本下町町民より「幔幕」の寄進を受ける
     1982(昭和57)07/23長崎大水害で中島川に架かる石橋群が流失
     地蔵他を西古川町町内で仮安置する
  小松清が清月堂の唐人せんべいの権利を譲り受け、館内町に工場を建て長崎名物として売り出す
     のち名所せんべいを創案して売り出し基盤をつくる
     のち清月食堂を経営し、さらに観光ガイド社をつくる
     1959(昭和34)稲垣屋を借りてカステラ業界に進出。220円のカステラを売り名を知られる
  平坂製薬株式会社が全国に宣伝カーのマイク放送による宣伝活動を開始する
     1970(昭和45)「頭いた〜い・歯いた〜い…」のインディアンをキャラクターとしたテレビCMを開始
  浜屋で開かれた全国みやげ品展示会にて大村の菓子「ばってん」がトップで入賞
     のち政治に干渉し失敗、無一物で長崎に
     のち未経験ながらざぼん漬の製造に成功
     のち蝶々柑、唐ざぼん、輪ざぼん、若ざぼん、切ざぼんなど次々と生み出す
  暮/〜1951(昭和26)03/東シナ海で国籍不明船から砲撃、拿捕された漁船は長崎の14隻を含め32隻に
     怪船は中国、韓国、台湾の武装船艇と判明
     1951(昭和26)03/15第3雲仙丸が長崎港に帰国
     台湾軍遊撃隊が乗船した第18雲仙丸に襲撃され甲板長が死亡
  この年、長崎市の赤痢発生状況43(死亡3)

1951(昭和26)【昭和】 辛卯(かのとう)

  《総理大臣》[第49代]第3次吉田茂内閣
  《知事》[第39代(公選1代)]杉山宗次郎(→05/05)、[第40代(公選2代)]西岡竹次郎(05/06→)
  《市長》[第17代]大橋博(→04/03)、[第18代]田川務(04/27→)

  01/01長崎県営バスが網場〜小浜〜京泊間の竹島丸の運航を休止
     1952(昭和27)10/25網場〜小浜〜京泊定期航路廃止
  01/04長崎県営バス雲仙営業所に2人組ピストル強盗(01/06に逮捕)
  01/長崎大学の水産学部で実習船「朝霧」(初代、水産学部最初の動力船、3.9瓲)が進水
     1952(昭和27)06/練習船「長崎丸」(初代、103総瓲)が竣工
     1956(昭和31)07/練習船「長崎丸」で初の外航遠洋実習を航海(香港及び台湾)
     1964(昭和39)03/2代目「長崎丸」(562.98総瓲)が竣工
     1968(昭和43)03/実習船「鶴水」(19.95瓲〉が新造
     1975(昭和50)06/練習船「鶴洋丸」(1044.38総瓲)が新造
     1982(昭和57)03/2代目実習船「鶴水」(27.8総瓲)が竣工
     1986(昭和61)02/3代目「長崎丸」(842総瓲)が竣工
  02/20外浦町に長崎県庁舎を起工。工費約4億円
     1953(昭和28)03/31鉄筋コンクリート造5階建、総面積1万4500平方米の長崎県庁舎が完成
     1953(昭和28)05/18立山庁舎から移転完
  03/02長崎大学の経済学部の前身、長崎経済専門学校の最後の卒業式が行なわれる
     長崎大学に新たに経済学部が設立されたため
  03/15中国、韓国、台湾の武装船艇に拿捕された第3雲仙丸が長崎港に帰国
     台湾軍遊撃隊が乗船した第18雲仙丸に襲撃され甲板長が死亡
     06/19漁船12隻が2人の遺骨を抱いて帰国
     無灯火で近づき、いきなり発砲した中国船に拿捕されていた
     1952(昭和27)03/04中国に抑留された漁船員293人を乗せたボロボロの第5次送還船2隻が長崎港に帰国
  03/31長崎大学の学芸学部の前身、師範学校最後の卒業式が行なわれ、師範学校が廃止
     1952(昭和27)06/大村市乾馬場から長崎市大橋町200番地への移転を開始1953(昭和28)03/31移転完了
     附属中学校が長崎市昭和町863番地に移転
  03/31平和町2400-1他に天主公園(3765平方米)が、松山町2400-1他に平和公園(15万6700平方米)が
     川口町2400に川口公園(2493平方米)が開設
  03/浜町の東洋美装店がモデル50人による春のファッションショーを開く。長崎初のファッションショー
  03/長崎県営バスによる宣伝カーが登場
  03/長崎大学の薬学部の前身、長崎医科大学附属薬学専門部が廃止となる
     長崎大学に新たに薬学部が設立されたため
  04/03市営大橋球場が完成
  04/11トルーマン米・大統領によりダグラス・マッカーサーがGHQ最高司令官を罷免
     後任にリッジウェイ中将が就任
     マッカーサーは1945(昭和20)08/30専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着
     連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本占領にあたる
     1952(昭和27)04/28午後10時30分、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)・日米安全保障条約が発効
     GHQ、対日理事会、極東委員会が廃止
     敗戦から6年8か月ぶりの主権回復(独立)し、国際社会に復帰(占領時代の終焉
     発効が午後10時30分なのは、時差のためにアメリカが28日をむかえるのを待つ
     独立式典は行われず、5月3日に日本国憲法施行5周年記念式典と抱き合わせで開催
  04/26稲佐町、大浜町、水の浦町、淵町他に稲佐山公園(92万7600平方米)が開設
  05/01長崎医大放射線科前教授の永井隆博士が長崎大学医学部付属病院に入院
     午後09時50分、慢性骨髄性白血病で逝去、享年46歳【43歳?】
     05/14名誉市民・故永井隆の長崎市公葬が浦上天主堂で執行。坂本町国際外人墓地入口付近に妻緑と葬られる
     墓石に、パウロ永井隆、マリナ永井緑と刻まれる
  05/04長崎港外神の島に真性天然痘が発生
  05/12新聞「夕刊長崎タイムス」が廃刊
  05/13「夕刊日日新聞」が創刊
  05/16日本がWHO(世界保健機構)に正式加盟
  05/作家の坂口安吾が「安吾新日本地理」の「長崎チャンポン」の取材で来崎
  06/15長崎県営バスが特急バスの運行を開始
  06/「長崎日日新聞」の桑原用二郎が読売系の持株を譲り受け完全に独立
     1953(昭和28)県内紙で初めて高速輪転機、写真電送機などを導入
  06/島原タクシーが設立
  07/「長崎精機製作所(旧長崎三菱兵器製作所)」が三菱関連各社に吸収され工場は閉鎖
     1956(昭和31)技術を引き継いだ三菱長崎造船所が防衛庁の注文で54式魚雷を生産
     1956(昭和31)01/21西彼杵郡長与町堂崎の施設で航海発車試験を行なう
  08/05長崎駅前道路改修工事が完工
  09/02片淵中学校の校舎が完成。戦後初の鉄筋コンクリート造3階建
  09/03長崎市内でスクールバスの運行を開始
  09/25西坂町2400に西坂公園(7064平方米)が開設
  09/26四海樓が籠町(旧広馬場町)で2代目のもと再び開業
     1973(昭和48)11/14観光業も取入れた営業拡大に伴い、松が枝町4番5号に新築移転
     大宴会場4、小宴会場13、大ホール2の設備で1700人収容の日本の代表的な中華料理店に発展
  09/今籠町の市営旅館「万歳」が所期の目的に達し廃止
  10/07渡御。「長崎くんち」10/09還御
     (2)…丸山町(本踊・段尻)、榎津町(川船)、西古川町(櫓太鼓)、本紙屋町(龍踊)、
     新大工町(曳段尻・剣舞)、磨屋町(本踊)、新橋町(阿蘭陀萬歳)、大波止町(入船祭)
     *元船町と玉江町で大波止町に
     御旅所は大村町長崎地裁前空地
     市民運動場(のち公会堂前広場)に踊り場を開設
     阿蘭陀萬歳は1934(昭和09)の長崎国際産業観光博覧会演芸館で上演されて以来17年ぶりに復活
     くんちの奉納踊では初演
  10/16西中町教会が残った礎石、外郭の壁と尖塔を生かして手作業で聖堂を修復再建
     屋根は単層、堂内は単廊式平面のロマネスク様式の建物に再建
     改めて「殉教者の元后」に捧げる献堂式が行われる
     1987(昭和62)聖トマス西と15人の殉教者が二十六聖人以来、125年ぶりに聖人の列に上げられる
     生月出身の司祭・聖トマス西ほか女性2人を含む16人が1633(寛永10)〜1637(寛永14)に西坂などで殉教
  10/20長崎信用組合が信用金融金庫法に基づく信用金庫に改組
     のち壱岐、対馬を除く長崎一円に営業区域を拡大
     1999(平成11)11/01諌早信用金庫が長崎信用金庫との合併により「たちばな信用金庫」と名称変更
  10/20相互銀行法が公布され長崎無尽株式会社が株式会社長崎相互銀行と社名を変更
     1952(昭和27)04/熊本中央信用組合を吸収合併
  10/20長崎市が機構改革。観光係が観光課に昇格し、なかに企画と宣伝の2係を設ける
  10/銅座町の長崎電鉄軌道上の春雨通り露店の移転先として思案橋以南の銅座川暗渠工事が完成
     2階建木造モルタル塗マーケット街ができる。工費500万円、54世帯収容
     1953(昭和28)03/長崎電鉄が西濱町〜思案橋を工費1200万円で着工
  11/10茂木町田上に米国対日援助見返資金で建設され国立診療所が開所
  11/アメリカの対日援助見返資金で桜木町に国立療養所長崎病院が完成
     工費3千万円、病床数・数100、職員46人
  11/尾上町岸壁の南西海面に突堤(中ノ島)を築造工事中の突堤東側約100米が突如崩壊する事故が発生
     当初の完成時期より若干の遅延に
     1956(昭和31)03/2万平方米を埋立て長さ200米、幅100米の中ノ島突堤がようやく完成
     中ノ島魚市場もほぼ完成し年間25万瓲の水揚可能な市場施設となる
     総工費9億円、うち国庫補助2億円、残りは県・市が折半
  12/01西彼杵郡時津村に町制が敷かれ時津町となる
     1955(昭和30)01/01西彼杵郡深堀村と福田村が長崎市に編入される
  12/01北松浦郡福島村に町制が敷かれ福島町となる。人口は1万1千人を数える
     北松浦郡吉井村に町制が敷かれ吉井町となる
     1954(昭和29)04/01北松浦郡南田平村、田平村が合併し町制が敷かれ田平町となる
     北松浦郡上志佐村、志佐町が合併し志佐町となる
     北松浦郡柚木村、黒島村が佐世保市に編入される
  12/06稲佐町に木造2階建の稲佐保健所が開設される。工費377万円
     1969(昭和44)川口町に移転
  12/24新興善小学校に鉄筋の仮校舎が復帰
     1982(昭和57)07/26〜/29長崎大水害のごみ集積場となる
  市内の公園・道路・河川にバラックが激増3千戸にのぼる。市は不法建築物の退去に手を焼く
     県下の巷には戦災や引揚で肉親を失った孤児が2千人を超える
     飢えの恐怖に追われ住居に困窮する市民に希望の光はない
  「長崎民友新聞」の西岡竹次郎が県知事に就任し夫人のハルが経営に携わる
     1959(昭和34)01/「長崎日日新聞」と合併、「長崎新聞」と改題。夕刊を復刊
  菓子製造業同和甘味(株)の村木覚一社長が自分たちで山を切り開く工事に着手
     風頭山中の八太郎岳に旅館を築くためで、バスが通る道をつくり、水道を引く
     1954(昭和29)09/27木造3階建、客室7室、広間1室の旅館矢太樓を造る。バスは木炭車バス
     名前の由来は県下に広く公募。地名(八太郎岳)がつく
  高島秋帆旧宅の土地が10数筆に分筆販売され旧態を失う
  原爆で被害を受けた大浦天主堂の修理工事が始まる
       1952(昭和27)06/30国庫補助を受け修復工事が完了修復される
  長大付属病院を興善町35番地へ移転。新興善小学校が復帰
  長崎純心女子短期大学に全国で唯一のカトリック系の幼稚園教員育成校として保育科を開設
     1975(昭和50)家野町の長崎純心女子短期大学が三ツ山町に移転
  西彼杵半島と針尾島の間の針尾瀬戸を結ぶ橋の架橋建設が国道でないため半額県費負担に
     「対日見返り資金」打ち切りと県の公共事業切り替えとなり猛運動が繰り広げられる
     1952(昭和27)「道路整備特別措置法」により工事費の15か年償還を期限とした有料道路に指定
     工事は続行されることに
  福田実が雲仙の新湯入口にみやげ品店をかまえる
     戦後の観光ブームで繁昌する
     雲仙観光写真の草分けともなり、絵葉書に目をつける
     のちタバコ、酒、薬、また真知子漬の発売本として土産品店の2軒を経営
     ゴルフ場にレストハウスを併営
     1968(昭和43)ホテル経営に踏み切りホテルニュー雲仙をオープン
  田中秀則が小浜で製塩工場をはじめる
     田中秀則は1918(大正07)生まれ、朝鮮羅南公立中学卒
     戦後、シベリアで4年間にわたり捕虜になるが1948(昭和23)無事生還
     1960(昭和35)旅館田中荘を創業
     1968(昭和43)鉄川工務店の施工で鉄筋3階建、大浴場をもつ新館を増設
  1912(明治45)に島原で料亭一冨士をはじめた本多キリが63才で他界。次の女将が旅館に切り替える
  島原の藤田チェリー豆が会社組織を変更。合資会社藤田チェリー豆本舗となる
     1959(昭和34)藤田安市が死去。藤田チェリー豆が2つに割れる
     安市の長男昌之が突然、藤田チェリー豆本舗と称して高島町に独立
     藤田貞行と貞行の長男実は藤田チェリー豆総本店に社名を変える
      もともとは藤田貞行が大正時代半ばに藤田チェリー豆を創業、のち弟の藤田安市を呼び寄せ兄弟が協力して経営
  築町市場内で蒲鉾の製造販売をする石橋蒲鉾店が新地町に移転
  本多新次郎が雲仙ことぶき旅館の経営を引き継ぐ。本多は1906(明治39)愛野生まれ
     ことぶき旅館は松永東が1934(昭和09)10月に創業。のち、県の教職員組合が経営
     のち先妻が死去、後添いを迎える
     1960(昭和35)本多が死去。夫人が経営を引き継ぐ
  長崎駅の輸送人員は709万4千人、貨物輸送は72万瓲
     1955(昭和30)輸送人員が589万7千人、貨物輸送はトラック輸送が急激に発達し57万9千瓲に減少
     1964(昭和39)輸送人員が271万4千人と半減
  この年、長崎市の赤痢発生状況188(死亡7)

1952(昭和27)【昭和】 壬辰(みずのえたつ)

  《総理大臣》[第49代]第3次吉田茂内閣(→10/30)、[第50代]第4次吉田茂内閣(10/30→)
  《知事》[第40代(公選2代)]西岡竹次郎
  《市長》[第18代]田川務

  01/27NHK長崎放送局のテレビカーが本大工町の市民グラウンドで初公開。35万人参加
  01/長崎バス(株)井樋の口車庫が完成。鉄筋コンクリートの2階建、1階にバス11台を収容
  02/15新春以来、長崎市内に赤痢が流行
     06/20患者310人に達する
  03/04中国に抑留されていた漁船員293人を乗せたボロボロの第5次送還船2隻が長崎港に帰国
     1955(昭和30)日中民間漁業協定が締結。時代錯誤の海賊行為がやむ
  03/15大波止〜県庁前〜思案橋を通じる間の中央橋工事に着工
     12/05完成
  03/31梁川町2400に梁川公園(7687平方米)が開設
  04/06大村湾の玖島崎で日本最初の公営モーターボートレースが開催
     県内の競艇場候補地として初め5市町、次いで3市町、そして大村と時津が最後まで争う
     大村側は時津のあら探しとして、市議会誘致委の正副委員長らが釣りを装い時津の海に潜り海底の状況を調査
     出走用大時計やターンマークなど施設やボート、競技ルールなど全て関係機関や職員が試行錯誤を重ねて手作り
  04/10長崎民友新聞社が松山町で「長崎復興平和博覧会」を開催
     06/08閉幕
  04/20長崎駅前に鉄筋コンクリート造り2階建の長崎市観光案内所が完成
     05/01業務開始
  04/28日本・中華民国平和条約が調印
  04/28午後10時30分、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)・日米安全保障条約が発効
     GHQ、対日理事会、極東委員会が廃止
     敗戦から6年8か月ぶりの主権回復(独立)し、国際社会に復帰(占領時代の終焉
     発効が午後10時30分なのは、時差のためにアメリカが28日をむかえるのを待つ
     独立式典は行われず、5月3日に日本国憲法施行5周年記念式典と抱き合わせで開催
  04/28講和発効までの7年間で占領軍による人身事故は届けがあっただけで191件、補償総額2300万円
     うち交通事故93件、死亡48人
  04/28NHKが放送終了時に「君が代」の放送を開始
  04/28戦後講和記念として橋本和太八ら6人の奉納により鎮西大社諏訪神社に一の鳥居が建立
  04/28平和公園の一角に長崎国際文化会館が着工
     1955(昭和30)02/11地下1階、地上6階鉄筋コンクリート建、長崎国際文化会館の落成式が挙行
     1955(昭和30)04/01開館
  04/市営交通船の園丸を一部改造。市営観光船として就航
     1953(昭和28)07/11納涼観光船として運行を開始
     1963(昭和38)05/老朽化のため引退。観光船「ながさき」と交替
  04/株式会社長崎相互銀行が熊本中央信用組合を吸収合併
     1989(平成01)02/長崎銀行と改称
  05/01講和発効後、長崎市内で初の第23回メーデーが開かれる
     長崎地区では約1万3千人の組合員が本大工町の市民グラウンドに参集
     「再軍備反対」「反動内閣打倒」などのプラカードを掲げ市中をデモ行進する
  05/09(株)長崎土建工業所が本社を長崎市羽衣町31番に移転
     1976(昭和51)05/10本社を長崎市出島町4番2号に移転
  05/27「西日本重工業株式会社長崎造船所」が「三菱造船株式会社長崎造船所」と改称
     1964(昭和39)06/01三菱日本重工業(株)、新三菱重工業(株)、三菱造船(株)が合併
     「三菱重工業株式会社長崎造船所」と改称。
  06/01国鉄長崎本線の大草〜長与に本川内駅が開業
  06/12中村諭が大進建設を創設
  06/30大浦天主堂が国庫補助を受け修復工事が完了
     1953(昭和28)03/31改めて国宝に再指定される
  06/長崎大学の学芸学部が大村市乾馬場から長崎市大橋町200番地への移転を開始
     1953(昭和28)03/31移転完了
     附属中学校が長崎市昭和町863番地に移転
  06/長崎造船株式会社が発足
     既設造船所の譲渡を受けて以西底曳網漁船、旋網漁船、その他中小小型船舶の修繕を主体とした造船所
     1957(昭和32以西底曳網漁船、旋網漁船を主体に船舶の建造に着手
  06/長崎大学の水産学部で練習船「長崎丸」(初代、103総瓲)が竣工
     1956(昭和31)07/練習船「長崎丸」で初の外航遠洋実習を航海(香港及び台湾)
  06/長崎バス(株)が面高〜板の浦間の運行を再開
  07/20山里中学校校舎が完成。それまでは山里小学校で授業をしていた
  07/駒場町約2千坪に市営駒場庭球場が完成
  08/01公共企業体・日本電信電話公社(初代総裁:●●●●)発足(3公社のうち、1985(昭和60)04/01)
  08/13長崎市の盆祭りを従来の7月から8月13〜15日に改める
     盆の8月については、去年から話題になっていたが、賛否両論があって結論が出ず
     市・商工会議所・仏教連盟・青年団・婦人会の各代表が協議した結果……
     (1)7月は例年、天気がい
     (2)7月は期末学期試験中で、盆祭りのため子供が落ち着いて勉強できない
     (3)全国的に盆祭りは8月が多い
     (4)祖先に供える季節物は8月がよい―などの理由で8月に改めたもの
  08/23長崎平和放送(株)創立総会
     本社は桜町の長崎商工会議所内2階全部を借りてスタート。新入社員は10/から順次出社
     ガランとした室内には机5、6個が置かれ放送局らしい機材といえばテープレコーダー1台があるだけ
     12/08ラジオ長崎と改称
     1953(昭和28)03/01ラジオ局「(株)ラジオ長崎」が開局、本放送を開始
     全国で19番目、九州では福岡のラジオ九州(現RKB毎日放送)に次ぐ2番目の民放
     1954(昭和29)10/18ラジオ長崎とラジオ佐世保が合併し「長崎放送(NBC)」に
     1959(昭和34)01/01テレビの本放送を開始
     1962(昭和37)10/23新放送会館が落成。桜町の旧長崎商工会議所から移転
     新長崎放送会館は小川町28番地(現上町1番35号)
     総工費4億8千万円、敷地面積1648平方米、鉄骨建て地下1階、地上8階、塔屋2階、総延べ面積6610平方米
     1966(昭和41)12/21テレビのカラー放送を開始
  09/01長崎県営バスが仁田峠線の運行を開始
  10/01長崎市が水道局を設置し公共下水道事業に着手
  10/07渡御。「長崎くんち」10/09還御
     (3)…寄合町(本踊)、油屋町(剣舞)、下筑後町(獅子舞踊)、今籠町(本踊)、
     鍛冶屋町(宝船・七福神)、東中町(剣舞)、本下町(本踊)、[特別参加]諏訪町(蛇踊)
     御旅所が江戸町公園に変更
  10/25長崎県営バスが網場〜小浜〜京泊間の定期航路を廃止
  10/27職業安定所が元船町から銭座町に移転
     1968(昭和43)03/31小曽根町に移転
  12/04新道路法に基づく路線指定で、旧33号が一級国道35号(佐賀県杵島郡武雄町 - 長崎県佐世保市)に指定
     1965(昭和40)04/01道路法改正によって一級、二級の別がなくなり一般国道35号となる
  12/05橋長20.3米、幅員25.8米の中央橋が架設。大波止〜県庁前〜思案橋の幹線道路が開通
  浜屋百貨店地階の地下劇場・浜屋地下映画劇場が閉館
  長崎大山地区の教会が改築される
     1994(平成06)新聖堂を建立
  株)中山洋行がコーヒー自家焙煎を開始
     1970(昭和45)08/店舗を●●町から新地町へ移転
  上野町の県立長崎工業学校跡地に東山手の東陵高校が移転
     名古屋ローマ神言会経営・南山大学の姉妹校に、南山高等学校と改称
  本原郷辻の丘(十字架山、クルス山)に日本最初の屋外「十字架の道」が設置
  西日本重工業株式会社長崎造船所構内の縦横の線路の上を走る構内汽車が廃止
     汽車は重要な運搬の手段だったが、自動車の普及により廃止
  県立長崎工業学校の新校舎が岩川町に完成し落ち着く
     上野町の校舎原爆被害の後大村の元海軍空廠工員養成所の施設
     市立商業学校の一部長大医学部の病床など転々
  西彼杵半島と針尾島の間の針尾瀬戸を結ぶ橋の工事が続行することに
     「道路整備特別措置法」により工事費の15か年償還を期限とした有料道路に指定されたことによる
     1955(昭和30)10/18針尾瀬戸に架かる橋の完工式が盛大に行なわれる。「西海橋」と命名される
     全長316米、海面からの高さ42米、東洋一の固定網アーチ。総工費5億6千万円
     長崎市、佐世保市、西彼杵郡大串村の3代3組夫婦による渡り初めが行なわれる
     世代に受け継がれ蓄積された英知が橋を完成させたことを感謝し、永遠の幸福を願う日本独特の儀式
  佐賀嬉野生まれの宮崎和夫が、林田作之進と長崎電鉄の脇山勘助社長を取締役として有限会社中央タクシーを創業
     西坂町にて5台の車で営業を開始
  佐世保のキングタクシーが長崎で稲佐タクシーを発足
     1956(昭和31)稲佐タクシーの社名をキングタクシーに改称
     のち浜町の双葉タクシーを買収
  諫早駅前の長崎県営バス諫早営業所が焼失
     1953(昭和28)09/17諫早営業所が落成
  初代菊池喜三郎が建てた家が原爆の被害をまぬがれ改築し旅館業をはじめる
     初代菊池喜三郎は1871(明治04)、田主丸から長崎へ。●●●町で貿易を営む
     屋号は母の名菊池春代から旅館菊春に
  島原港湾の大手入海の旅館有明館を塚島宇平治が譲り受ける
     1965(昭和40)06/観光客の増加にともない増築
  島原、霊南町の料亭待月が割烹旅館に転業
     料亭待月は、もともと1926(昭和01)、霊南橋際に創業した料亭伊万里家
     屋号の由来は座敷から見る海の月の出が美しいため。ふぐ料理、鯛茶漬、茶碗蒸しを名物として評判に
     1966(昭和41)新築する
  宮崎亀千代の経営する宮崎旅館が別館を落成。県下屈指の旅館として、ゆるがぬ地歩を築く
     宮崎亀千代の実兄豊田浄次は新湯ホテルを経営
     兄弟の父豊田無着は西有家龍泉寺の第17代住職
  西日本各県対抗九州一周駅伝競走大会がはじまる
     のち数多くの五輪マラソン選手を生みだす
  戦争により一時休止していた関門国道トンネルの工事が再開
     1958(昭和33)03/09関門国道トンネルが開通
     長さ3461.4米 (うち海底部780米)、地底最深部はマイナス約56米
     建設従事者延べ450万人、殉職者53人、総工費57億円
     2層になっており上段は対向2車線の車道、下段は780米の人道
     人道のある海底トンネルは世界初
  この年、長崎市の赤痢発生状況607(死亡7)

1953(昭和28)【昭和】 癸巳(みずのとみ)

  《総理大臣》[第50代]第4次吉田茂内閣(→05/21)、[第51代]第5次吉田茂内閣(05/21→)
  《知事》[第40代(公選2代)]西岡竹次郎
  《市長》[第18代]田川務

  01/01市警察局が春雨通り十字路に初めて自動交通信号機を設置
  01/16特急「かもめ」の運転に先立ち客車の方向転換のための試運転を香椎線、勝田線で実施
     蒸気機関車C11形とオヤ、オハフの編成
     01/24、25博多〜大阪間、特別急行列車の10時間運転にともなう速度、線路状況調査のため臨時試運転列車を運行
     02/05「かもめ」への女子乗務員の募集がはじまる
     03/03「かもめ」用客車、特別2等車、食堂車の引き慣らし試運転を実施
     03/06「かもめ」用客車27両が門司港〜竹下間で臨時試運転を実施
     07/01神戸〜東京に客車特急「鴎」が誕生
  02/02桜町立体交差「櫻橋」が起工
     1954(昭和29)03/26桜町立体交差「櫻橋」完成
  02/10長崎バス(株)が市内観光バスの試乗会を催す
     03/長崎バスが定期観光バスの運行を開始
     長崎市初の観光バスでバスガイドも登場
  03/01全国で19番目のラジオ局「(株)ラジオ長崎」が開局、本放送を開始
     1954(昭和29)10/18ラジオ長崎とラジオ佐世保が合併し「長崎放送(NBC)」に
  03/10佐世保にハンバーガーショップ「ブルースカイ」が創業
     素材は特注のパンに淡路島さんの玉ねぎ、「製法が企業秘密」のハンバーグ、トマト、レタス
     調味は塩こしょうにケチャップ、マヨネーズとシンプルなもの
  03/15客車特急「かもめ」が博多〜京都に復活。列車番号6レ、5レ
     初日の編成(7)〜(9)は招待客用車両
     (機)EF10、C57+(1)スハニ35+(2)スハ44+(3)スハ44+(増)スロ54+
     (4)スロ54+(5)スロ54+(6)スシ47+(7)スロ54+(8)スロ54+(9)スハフ43
     1957(昭和32)06/06客車を10系客車に置き換え。香椎線、勝田線での客車の方向転換が廃止となる
     蒸気機関車をC57形からC59形に変更
  03/23中国引揚再開、「興安丸」が帰国第1船として舞鶴入港
     11/30ソ連引揚再開、帰国第1船として舞鶴入港
     1956(昭和31)12/26シベリヤ抑留者の最終梯団を乗せて舞鶴入港
  03/2703/23に舞鶴に入港した中国引揚第1舟「興安丸」で帰国した長崎市関係者18世帯45人が列車で長崎に返る
     第2次(04/21)7世帯14人、第3次(05/19)12世帯18人、
     第4次(07/14)8世帯13人、第5次(08/15)6世帯14人、
     第6次(09/10)4世帯7人、第7次(10/28)2世帯6人の計57世帯117人が長崎に帰る
  03/31大橋町2400-1に西郷橋公園(1224平方米)が、中園町2400に中園公園(1931平方米)が
     稲佐町2400に稲佐児童公園(2196平方米)が開設
  03/31大浦天主堂が改めて国宝に再指定される
     あわせて崇福寺大雄宝殿と崇福寺第一峰門も国宝に指定される
     1966(昭和41)02/01国宝大浦天主堂礼拝堂が拝観料を取り一般に公開される
     大人20円、中高校生15円、小学生と子供10円、30人以上の団体は各5円引き
  03/31外浦町に鉄筋コンクリート造5階建、総面積1万4500平方米の長崎県庁舎が完成。工費約4億円
     1953(昭和28)05/18立山庁舎から移転完了
  03/31長崎大学の学芸学部が大村市乾馬場から長崎市大橋町200番地への移転を完了
     附属中学校が長崎市昭和町863番地に移転
     1954(昭和29)04/01附属小学校と附属幼稚園が長崎市大橋町200番地に移転
  03/長崎電鉄が西濱町〜思案橋を工費1200万円で着工
     1953(昭和28)07/01西濱町〜思案橋が開通
  03/長崎バス(株)が長崎旅行社(のち長崎バス観光と改称)を設立
     1963(昭和38)長崎バスに観光業務をひとつに。常盤町の煉瓦造りの観光センターに統合
     1966(昭和41)10/22観光センターを廃止し茂里町の旧本社跡に貸切営業所を設立
     1972(昭和47)07/貸切営業所を滑石に新築移転
     2000(平成12)02/貸切部門を分社化。長崎観光自動車が設立
     2004(平成16)07/営業部門の長崎バス観光と長崎観光自動車が合併
     新生の長崎バス観光が誕生し貸切バスを運行
     もとの長崎バス観光は長崎バスグループの旅行・貸切バス営業部門を担当
  03/社会保険喜々津病院が開設
  04/01厚生省組織規程の一部改正により国立療養所川棚病院が誕生
  04/01長崎電鉄(株)が車両7台で螢茶屋〜住吉8366米を皮切りに一般乗合バス事業を開始
     いすゞBX91型48人乗りの小型バス7両ではじまる
     1955(昭和30)03/01一般貸切バスの営業を開始
     1971(昭和46)02/28バス91台、土地・建物・路線営業権一切を長崎バス(株)に譲渡
  04/01玉木女子短期大学が開学
     2007(平成19)04/05玉木女子短期大学が男女共学となり校名を長崎玉成短大と改称
     新たに県内各地から46名が入学(服飾デザイン学科10人、幼児教育学科36人。うち男子学生は計10人)
     運営母体の玉木女子学園は玉木学園に改称。系列の玉木女子高も共学の長崎玉成高に移行
  04/04長崎県交通部労働組合が結成
  04/観光通り、稲佐町中央商店街にスズラン灯が完成
  05/01風頭山自動車道路の延長815米、道幅6米が開通
  05/03「長崎バプテスト教会」が市内の片淵町1丁目に新教会堂を建て献堂式を挙行
     1994(平成06)09/24教育館と牧師館の新築並びに礼拝堂の修改築が完成。献堂式を挙行
  05/04長崎公園丸馬場に長崎唯一の野外演劇場・音楽堂が完成
  05/14長崎市原爆障害者治療対策協議会(原対協)が発足
     06/原爆障害者の無料診療を開始
     08/01原対協が原爆障害者の実態把握のため長大医学部北講堂で障害者の総合診療を開始(〜09/30 受診者数1874人)
  05/18二級国道としてそれぞれ指定される
     214号島原諌早線(島原市 - 諫早市)、215号島原宇土線(島原市 - 宇土郡宇土町) 、216号熊本大分線(熊本市 - 大分市)
     1963(昭和38)04/01二級国道214号、215号、216号を統合し一級国道57号(大分県大分市 - 長崎県長崎市)に昇格
     214号、215号・216号は欠番に
     1965(昭和40)04/01道路法改正により一級、二級の別はなくなり一般国道57号(大分県大分市 - 長崎県長崎市)となる
  06/25〜29長崎県北で豪雨
        日雨量359.5粍を記録。死者25人、負傷者92人
  07/01長崎電鉄の西濱町〜思案橋が開通。戦前の路線が全て復旧
  07/11市営観光船「園丸」が納涼観光船として運行を開始
     1963(昭和38)05/老朽化のため引退。観光船「ながさき」と交替
  07/長崎市がし尿の収集に初めてバキューム車を使用し、能率の向上を図る
  07/市内に残った唯一の無灯火集落・大山町57戸に電灯がともる
  07/長崎電鉄、柳通り停留場の名称が観光通り停留場に改称
  08/01長崎税関として門司税関から独立
  08/26原爆で全壊しバラックで営業していた国鉄浦上駅の駅舎落成式
  09/17長崎県営バスの諫早営業所が落成
     1968(昭和43)05/23諫早営業所用地として東厚生町に8067.32平方米を買収
  秋/去来250回忌にあたり、去来顕彰会の発起により丸山寄合花街が碑を建立
      いなつまやとのけいせいとかりまくら  去来
      (後ノ賦原句 いなづまやどの傾城とかりまくら)
     句は1698(元禄11)07/09来崎した芭蕉の高弟各務支考が、翌日、高野平郷の清水寺へ参詣、
     観音様の縁日を楽しむ丸山遊女の供、童女の禿を見て行く末を哀れみ、次の句で終る俳文「禿ノ賦」を作り去来に読ませる
      草花の名にたびねせんかぶろども  支考
     これを承けて去来が寺参りする遊女をあわれむ俳文「後の賦」を作る。初めの句はその結びの句
  10/01長崎市が観光客へのサービス向上と市内の美化を図るため観光週間を制定。行事を繰り広げる
     10/03観光地めぐりマラソン、10/04長崎撮影会・観光映画の夕べ、
     10/05九州民謡民芸大会、10/06九州地区無形文化財発表会など多彩な行事を繰り広げる
  10/04長崎青年会議所が市の都市美化運動に協力し市内50か所にチリ箱を設置
  10/08渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更10/10還御
     (4)…丸山町(本踊・壇尻)、築町(御座船・剣舞)、東上町(本踊)、駅前町(唐人船)、馬町(本踊)、
     八坂町(川船)、東浜町(本踊)、東古川町(川船)、銅座町(本踊・段尻)、出島町(阿蘭陀船・本踊)
     *出場辞退…今下町
     *大黒町と台場町で駅前町に
     出島町が阿蘭陀船を新調し加入
  11/07初の観光物産展「長崎祭」を京都の丸物デパートで開催
     11/12会場にはオランダ、唐貿易、キリシタン資料をはじめ、原爆資料や故永井博士の遺品も展示
     チャンポン、皿うどんの実演即売が人気を呼ぶ
  12/05長崎県・長崎市主催の長崎観光物産展が12日間にわたり東京の白木屋デパートで開催
  「長崎日日新聞」が県内紙で初めて高速輪転機、写真電送機などを導入
     1959(昭和34)01/「長崎民友新聞」と合併、「長崎新聞」と改題。夕刊を復刊
  松早石油が長崎駅前に第1号の三菱マークのサービスステーションを建設し陸上部門に進出
  ラッキー自動車(株)が佐世保より長崎に進出
  浜屋百貨店、第1期増改築工事の地下1階、地上4階、塔屋4階、新館9階が完成
  万才町の「長崎大神宮神社」が栄町の現在地に移転、改築
  出島地区の土地区画整理事業が始まり、銅座川の切り替え工事等が行なわれる
     1967(昭和42)土地区画整理が終了
  水産業から転向した田崎竹松が金屋町に旅館白竜荘を開業
     田崎竹松はまったくの素人で観光旅館の経営が不十分にすすむ
     1966(昭和41)別館増築と同時に経営が2代目田崎清竹に移る
     田崎清竹は高校卒業後、料亭千石で料理の修業をし、熊本のつかさ本店、尼崎の料亭辰巳で腕を磨く
     旅館、料亭の経営を実地に学び、基礎を身に付けて白竜荘の経営を継ぐ
  小浜温泉街後方の高台に旅館不知火姫が創業
     1968(昭和43)02/4回目の増築のとき山口県の秋芳洞から運んだ石と朝鮮の雲母石を使った浴場が完成
  長崎駅前、カフェー鶴精軒の横の坂井商店が駅前の別の場所に移り果物店から土産品店に転業
     観光ブームの到来で経営が順調に伸びる
  島原の料亭あつみが旅館に転業
     広い庭園の池には平たい大きな金洗石がある。島原藩主松平が休息所とした景萃園にあった石
     石は植木元太郎が自邸の庭石にする考えで馬2頭に引かせて運ぶが、
     あまりにも大きく自宅まで運べず、あつみの主人、渥美元が譲り受ける
      もともとの料亭あつみは、1927(昭和02)に渥美が薪炭商から経営を転向
      島鉄の創立者植木元太郎の「芸者さんたちのために一肌脱いでくださらんか」という言葉に触発
      芸者は借金が増え、いくら稼いでも追いつけない状況
  池田喜四郎が材木業の池田木材店を廃業し旅館経営に転業。五島町に池田屋旅館として創業
     のち屋号を池田荘に変更
  小村良治により1947(昭和22)に発足した恵美須町の太平水産加工が山口吉太郎が社長となり社名を太平蒲鉾に
     山口吉太郎は1909(明治42)茂木生まれ
     1955(昭和30)社名を山吉水産と改称
     電化焼蒲鉾が独特で、ちくわ、板付けなどを作り長崎有数の店として知られる
  「佐世保時事新聞(旧軍港新聞)」が「九州時事新聞」と改題
     1961(昭和36)09/「長崎時事新聞」と改題
  長崎市美化清掃運動がはじまる
     全市挙げてゴミひとつないきれいな街づくりにのりだす
  イワシの大不漁期が訪れる
     隆盛を誇ったイワシ缶詰製造がサバ・アジ、ミカン・ビワ等、他品種の製造に転換せざるを得なくなる
     長崎の輸出産業の主力であったイワシ缶詰は、後退を余儀なくされる
  この年、長崎市の赤痢発生状況922(死亡10)

1954(昭和29)【昭和】 甲午(きのえうま)

  《総理大臣》[第51代]第5次吉田茂内閣(→12/10)、[第52代]鳩山一郎(12/10→)
  《知事》[第40代(公選2代)]西岡竹次郎
  《市長》[第18代]田川務

  01/24長崎市立浪平小学校の上部運動場が落成
     1965(昭和40)05/05旧校舎が解体、整地作業着工。08/24完了
  01/長崎市消防局新庁舎の建設を起工。総工費3440万円
     1954(昭和29)11/16鉄筋コンクリート3階建、望楼高33米の長崎市消防局新庁舎が完成
  02/榎津町の観光通りに十八銀行観光通り支店が開店
  03/01ミクロネシア、マーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行なう
     160粁東方海上で操業中のマグロ漁船「第5福竜丸」が「死の灰」を浴びて静岡県焼津に帰港
     乗組員23人は急性放射能症と診断される
  03/03映画「君の名は」第3部のロケが雲仙で行なわれる
     当初、普賢岳の霧氷と仁田峠が予定されたが、霧氷がつかず、急遽、雲仙地獄に変更
     仁田峠には早朝から数百人のファンが待つ
     雲仙地獄でロケが開始されたころには5千人もの見物客で大混雑に
     雲仙消防団員や国警小浜地区署員までが、岸恵子をカメラで写しながら警備
     のち大叫喚地獄には真知子が立ち寄った記念に「真知子岩」が建立
     のち長いショールを頭と首に巻いて端を肩にかけた「真知子巻」が、またたくまに全国に流行
  03/26桜町立体交差「櫻橋」完成
  03/26桜町立体交差の完成により長崎電鉄の桜町(小川町)〜古町が廃止
     桜町〜桶屋町(公会堂前)が新設される。酒屋町、古町電停が廃止、桶屋町電停が新設
  03/31大橋町2400-2に大橋公園(955平方米)が開設
  04/01長崎大学の学芸学部の附属小学校と附属幼稚園が大村市乾馬場から長崎市大橋町200番地に移転
     1966(昭和41)04/01学芸学部を教育学部に、学芸専攻科を教育専攻科に改称
  04/01南高来郡山田村と守山村が合併し吾妻村となる
     1955(昭和30)02/11南高来郡北串山村と小浜町が合併し小浜町となる
  04/01南松浦郡奥浦村、崎山村、本山村、大浜村、福江町が合併し福江市となる。長崎県下で6番目に市政を施行

     1956(昭和31)06/01南松浦郡青方町、浜ノ浦村(中通島)が合併し上五島町となる
  04/01北松浦郡南田平村、田平村が合併し町制が敷かれ田平町となる
     北松浦郡上志佐村、志佐町が合併し志佐町となる
     北松浦郡柚木村、黒島村が佐世保市に編入される
     1955(昭和30)01/01北松浦郡中野村、獅子村、紐差村、中津良村、津吉村、志々伎村と平戸町が合併し平戸市となる
  04/26福岡銀行長崎支店が落成
  04/長崎バス(株)飽の浦出張所が大波止営業所の管理のもと開設
     1956(昭和31)08/飽の浦営業所として大波止営業所の管理下から独立
     1979(昭和54)06/木鉢トンネル開通により神の島に仮営業所を開設。飽の浦営業所を廃止
     1982(昭和57)04/神の島営業所が隣接地に新築移転
  05/01長崎県営バスによる長崎〜雲仙間定期遊覧バスが運行を開始
  06/08長崎市観光協会創立総会が開かれ任意団体として設立される
     1967(昭和42)12/20社団法人長崎市観光協会が設立発足
     1988(昭和63)10/24長崎コンベンションビューローが任意団体として発足
     1995(平成07)10/02(社)長崎市観光協会と長崎コンベンションビューローが一本化
     (社)長崎国際観光コンベンション協会が発足
  06/30長崎市警の廃庁式が行われる
  07/01警察法の全面改正に伴い、国家地方警察長崎県本部を長崎県警察本部に改める
     7自治体警察署と17地区警察署を統合、27警察署を置く
     (長崎市内は長崎、大浦、稲佐、浦上の4警察署)
  07/01梅香崎警察署(香港上海銀行長崎支店)が大浦警察署と改称
     1974(昭和49)03/08松ケ枝町7番2号の新庁舎に移る
  07/11長崎市袋町・カトリックセンターにて長崎県医師大会が開催。強制医薬分業に絶対反対など決議
  07/16上田町の長崎市立南大浦小学校に新校舎が落成。及び創立50周年記念式を挙行
     1960(昭和35)05/25旧木造校舎が解体
  07/31富士見町2400に富士見公園(6939平方米)が開設
  07/県下各地に赤痢が流行、長崎市でも29人発生
  08/長崎バス(株)が常盤町に車庫を新設
     1階は車庫、2〜3階は従業員アパートに
     1966(昭和41)10/22それまでの常盤町観光センターを常盤町営業所に昇格開設
  09/06西洋医術伝来史の著者古賀十二郎が死去、享年76歳
  09/27木造3階建、客室7室、広間1室の旅館矢太樓ができる。バスは木炭車バスだったとか
     名前の由来は県下に広く公募。地名(八太郎岳)がつく
     1959(昭和34)04/鉄筋コンクリートに増設6階建て、客室15室を増設
  09/大浦6番館の旧英国領事館が公売にされる
     1955(昭和30)07/長崎市が1千万円で買収
  10/07渡御。「長崎くんち」10/09還御
     (5)…寄合町(本踊)、西上町(本踊)、本古川町(本古川船)、
     紺屋町(本踊)、伊勢町(本踊)、[特別参加]本籠町(蛇踊)
     *出場辞退…桜町、小川町、内中町、八百屋町、勝山町、恵美須町、炉粕町
     神輿見下ろし事件が起きる。わび証文がだされる
  10/18ラジオ長崎とラジオ佐世保が合併し「長崎放送(NBC)」に
     1959(昭和34)01/01テレビの本放送を開始
  11/01県立整肢療育園が諫早市に開設
  11/08世界連盟第2回アジア会議長崎大会での夜の講演のため原子物理学者湯川秀樹が来崎
     翌日非公式に如己堂と爆心地を訪ねる
  11/16鉄筋コンクリート3階建、望楼高33米の長崎市消防局新庁舎が完成。総工費3440万円
  12/大浦川埋立て工事が完成
     埋立地813坪のうち約600坪は撤去家屋の換地として払い下げ
  浦上天主堂再建委員会が発足。具体的な再建計画が進む
     1958(昭和33)天主堂の再建着工を知った原爆資料保存委員会が廃虚は貴重な資料とし保存を要望
     残すか壊すか世論も揺れ山口愛次郎司教を中心に検討し廃虚の取り壊しはやむを得ないと結論
  銅座川の変流工事十八銀行本店の際から再び出島との間を開析、中島川に合流させ下流を埋立てる
  砂田三次郎の経営する茂木ビーチホテルが増築
     1961(昭和36)経営不振で大長崎建設が経営
  大橋児童公園が開設
  恵美須市場が開設
  三芳町に西郷橋が架かる
  「夕刊日日新聞」が廃刊
  1952(昭和27)に長崎へ移住してきた久保田馨が愛宕山中腹に「とんちん館」を構える
     愛宕山から粘土を採り頓珍漢人形を1日に100〜200体つくる
  城栄町商店街の両側歩道に85本のナンキンハゼが植えられる
  市営交通船の第6つる丸を下関造船所で450万円で建造
  銅座川変流工事完工式を着工
     1955(昭和30)08/27銅座川変流工事完工式を挙行
        新川筋は十八銀行本店横から急折して中島川へ
  伊王島灯台が白色四角形コンクリート造りの灯台に改造
     1971(昭和46)長崎航路標識事務所が発足し灯台は無人化
  浜口三郎が愛宕町に長崎御苑を建てる
     のち長崎御苑を売却
     1966(昭和41)長崎御苑の資金をもとに日昇観光株式会社を設立。観光事業に乗りだす
     1967(昭和42)04/筑後町に鉄筋地下1階、地上6階、7階に庭園展望台を持つホテル日昇館が落成
  筑後町高台に旅館鶴荘がオープン
  出来大工町に米津ゆきが旅館辰巳を創業
     1961(昭和36)長崎駅正面の高台の筑後町に新築開業
     気安く肩がこらずにグループや家族連れ向き、中華料理が特色で、駅に近く環境がいいと地の利を得ている
  長崎大学大村分校が長崎市大橋町に移転し長崎大学長崎分校と改称
     1964(昭和39)04/長崎大学教養部となる
  前年の秋、花月の門前に向井去来の碑を建てたとき、石碑の歌をとって手拭いに染める
     諸谷義武や野崎比古らに薦められ美術振興会の後援を得て「長崎染の会」が発足
     近藤染物店を経営する近藤豊吉が技術面を担当
     ペナント、座布団カバー、テーブル掛け、暖簾、壁掛けなど、長崎にちなんだ模様や歌を染める
     「いなつまやとのけいせいとかりまくら 去来」(後ノ賦原句いなづまやどの傾城とかりまくら)
     碑は去来250回忌にあたり、去来顕彰会の発起により、丸山寄合花街が建立
  大浦町に有限会社三松食品が創業。社名は創業者の松本、松永、松下3人による
     のち松永が宮崎にざぼん漬、ひえつき餅の店をだし、また松下は熊本でざぼん漬を製造
     残った松本善満が長崎で三松食品を経営、ざぼん漬の基礎を固める
     1955(昭和30)浜口町に工場を建て本格的な生産体制を整え、社名を三松謝文(ざぼん)堂に改める
     ざぼん漬のほか、ざぼん羊かん、ばってん餅の詰め合わせや、ざぼん饅頭を生産し県内土産品界に知られる
     同時に和洋菓子の直売、喫茶、レストラン部を併営
     のち住吉に新工場を建て多良見町にざぼんの大果樹園を設ける
  雲仙新湯の九州ホテルの支配人、七條達夫が雲仙観光協会会長に就任
  蒸気機関車C57形100号機のデフレクターが門デフに改造される
     門デフ=門司鉄道管理局式デフレクター=小倉工場式デフの略称
     小倉工場で除煙板の上半分を残して切除、車体にパイプで取り付ける方式を採用
     1957(昭和32)10/01特急「さちかぜ」の開設初日、長崎発上り第1号列車の先頭を飾る
  林昭夫が祖父からの屋号「萬順」を継ぎ中華菓子をはじめる
     祖父が菓子を作った新地に店舗を構え金銭餅を看板に売り出す
     「萬順」は1884(明治17)、林昭夫の祖父が新地ではじめた菓子業の名称
     のち、林昭夫の父は継がず貿易をし砂糖やメリケン粉などの卸問屋「萬順号」を経営していたが、戦時中、輸入が中断し廃業していた
  小林重守は木材商を廃し恵美須町で旅館えび屋をはじめる
     1964(昭和39)船山某が営む上町の迎陽荘を譲り受けて経営。えび屋支店迎陽荘に
  この年、長崎市の赤痢発生状況395(死亡2)

1955(昭和30)【昭和】 乙未(きのとひつじ)


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