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〈昭和時代(5)〉
▼
1946(昭和21)
【昭和】
丙戌(ひのえいぬ)
《総理大臣》
[第44代]幣原喜重郎(→05/22)、[第45代]吉田茂(05/22→)
《知事》
[第36代(官選)]永野若松(→01/25)、[第37代(官選)]杉山宗次郎(01/25→03/14)
[第38代(官選)]高橋一郎(03/14→)
《市長》
[第16代]岡田壽吉(→10/15)
01/01
★
官報により昭和天皇の詔書が発布
天皇裕仁(46)が「新日本建設に関する詔書」によって、自らの神格性を否定
この「天皇の人間宣言」を新聞各紙は一面で報じる
詔書には公用文としての題名が付されておらず、題名に準ずる件名としては2度にわたり付与
「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」(官報目録)
「新年ヲ迎フルニ際シ明治天皇ノ御誓文ノ御趣旨ニ則リ官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、新日本ノ建設方」(法令全書)
01/25
★
永野若松がGHQによる特高追放で長崎県知事を依願免官
01/25
★
全国に先駆け設けていた県地方労働委員会の第1回委員会が開催
労働者が関係する労使紛争を解決するため、各都道府県に設置されている行政委員会
行政委員会は公益委員、労働者委員、使用者委員の3者で構成
01/30
★
(株)長崎土建工業所が本社を長崎市東浜町44番に移転
→
1952(昭和27)05/09
☆
本社を長崎市羽衣町31番に移転
01/
★
長崎電鉄の古町〜小川町〜長崎駅前が復旧
01/
★
壱岐集報社発行の「壱岐日報」が復刊
→
1974(昭和49)05/
☆
資本金100万円をもって設立。有限会社に改める
02/09
★
新興善国民小学校
が長崎医科大学付属病院に校舎を引き渡し晧台寺に移転
→
1947(昭和22)04/01
☆
長崎市立新興善小学校と改称
02/17
★
インフレを加速する浮動資金を封じ込めるため政府が金融緊急措置令、日銀券預入令、財産調査令を発令
預金封鎖による新円発行を行なう
→
03/02
☆
流通している手持ちの日銀券が通用を廃止
市内の各金融機関が旧円を預け入れる人で大混雑に
旧円は全て銀行へ預け入れて新円と交換。新円は10円と100円の2種類
払戻額は1か月につき世帯主300円、家族1人につき100円、
給与の現金支払いは500円まで、それ以上は封鎖預金に
新円の発行が間に合わず旧円に証紙を貼る珍事も出現
02/
★
長崎電鉄の長崎駅前〜浦上駅前が復旧
03/09
★
食料事情がかなり悪化していた長崎市が「都会地転入抑制緊急都市」の抑制都市に
1946(昭和21)03/10〜1948(昭和23)01/09☆市内への転入禁止が続く
→
06/01
☆
市民に食料疎開を呼びかける異常事態が発生
1か月で898人の疎開者が長崎市を去る
→
06/30
☆
食料危機対策として県警察部はが高級料理店の一時休業を決定。県下で24軒が休業
長崎市では「竹馬」「花月」「富貴楼」「新富」「梅美津」「泉屋」「米春」「通天閣」が休業
03/
★
株式会社橋本商会古鉄部が三菱製鋼株式会社の製鋼原料である屑鉄の一手納入者の指定を受ける
戦後の国土復興に尽力する
→
1956(昭和31)11/
☆
株式会社橋本商会古鉄部が鋼材及び新商品の成長につれて取扱品目が多角化
社名を橋本商事株式会社(資本金3千万円)に変更する
株式会社橋本商会も遂年発展して資本金600万円となり営業活動は関西・関東に及ぶ
04/01
★
長崎経済専門学校に併設する長崎工業経営専門学校がその使命を終えて廃止
→
1949(昭和24)05/31
☆
国立大学設置法の公布で長崎大学が設置。新制大学制度に経済学部として組み込まれる
初代学部長に伊藤勇太郎教授が就任
04/10
★
戦後初の衆議院選挙。長崎県では全県1区の定数8に対し婦人3人を含む57人が立候補
選挙者の年令も、それまでの25才以上から20才以上に引き下げられる
県内の投票率は男74.33%、女62.45%
04/
★
長崎軍政府管理の長崎茲惠(慈恵)病院が米国より長崎市民に寄贈
日本医療団経営による長崎県中央病院「長崎慈恵(慈恵)病院」として発足
→
1948(昭和23)11/
☆
日本医療団の解散により長崎市が長崎県中央病院「長崎慈恵病院」を買収
日本医療団の解散は1947(昭和22)01/24
04/
★
三菱重工業株式会社が造船祭を催す。所内を一般市民に初めて公開
04/
★
東山町の北大浦尋常小学校が長崎市立北大浦小学校と校名変更
→
1956(昭和31)02/
☆
児童数増加により4階部分を増築
05/
★
戦後物資統制の中、用紙割当を受けるため対馬朝日新聞の創立者・斉藤隼人が商工省繊維局に出頭陳情
→
05/21
☆
全国離島紙で最初の用紙割当を受け、タブロイド版「対馬新聞」を発刊
→
のち
☆
戦後最も古いローカル紙として創刊号のマイクロフィルムがアメリカ進駐軍によって製作
国会図書館に保管される
05/10
★
「長崎新聞(長崎日報)」従業員組合が西岡取締役会長の辞任を要求し大争議
旧長崎日日系と旧長崎民友系との溝が深まり対立化したのが争議の主な原因
→
1946(昭和21)12/09
☆
統合されていた「長崎新聞(長崎日報)」が元の4紙に分離
「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「佐世保時事新聞(旧軍港新聞)」「新島原新聞(旧島原新聞)」
05/13
★
浜町裏手・自由市場でのヤミ物資一斉摘発、280人の警官隊が禁制品を押収、182人を検挙
中国人、朝鮮人、日本人一部業者が反発、長崎署、東浜町・湊公園両派出所を襲撃、警官12人が死傷
05/14
☆
警官隊、進駐軍、海兵隊が出動し鎮圧
05/16
☆
長崎県警察部は、ヤミ市場の取締で、朝鮮人30人と日本人約100人を長崎警察署に連行
在日朝鮮人連盟の青年自治隊員100人とその他中国人など総勢約200人が同署を襲撃し、破壊活動を行なう
05/
★
新興善国民学校を医科大学附属第一医院として、
元佐世保海軍病院諫早分院(諫早市)を医科大学第二医院として診療開始(第二医院は7月診療開始)
→
1949(昭和24)05/
☆
国立学校設置法に伴い、長崎大学医学部附属病院と改称
05/
★
市営交通船の第9長港丸(39.62瓲)を九州商船に貸与。三角〜天草大浦航路に就航
07/01
★
九州海運局内に不法入国監視部が設置
→
1948(昭和23)05/01
☆
長崎海上保安部と改称
07/15
★
県警察部が初めて婦人警官178人を募集。長崎市は60人を募集
→
07/31
☆
試験結果19人採用
07/15
★
長崎港停泊の機帆船乗組員にコレラ患者が発生
07/21
★
今籠町11番地の料亭「万歳」を市が買収し、市営旅館「万歳」を開設
→
1951(昭和26)09/
☆
所期の目的に達し廃止
07/
★
長崎魚市組合が厳しい食糧難にあえぐ消費者と漁業生産者の要請に応えて魚市場の復旧工事に着手
→
1947(昭和22)06/
☆
尾上町の旧位置に漁港施設が復旧
荷揚場、荷捌場、事務所等、延1160坪の魚市場施設と
浮桟橋2基、鉄道引込線、荷役用コンベア2基等の漁港施設が復旧
→
1947(昭和22)06/
☆
元船町海岸通りに水産倉庫7棟が完成
08/28
★
戦後の食糧対策の一端として建造された捕鯨母船「第1日新丸」(1万1781瓲)が三菱長崎造船所で進水
2か月の突貫工事で貨客船から改装
→
11/
☆
「第1日新丸」を母船とする捕鯨船団が長崎をあとに南極へ出漁
08/
★
三菱造船幸町工場が鉄道当局と折衝し戦災機関車の補修工事に着手
原爆で破壊された工場の棟だけをトタン板で補修し残ったクレーン等を利用
08/
★
野母商船が長崎〜香焼〜高島〜端島航路、博多〜五島航路の維持整備再建に着手
10/01
★
長崎市出島町に性病対策として県立出島病院発足
→
1969(昭和44)03/31
☆
廃止となる
10/01
★
旧佐世保海軍工廠の造船施設を借受、資本金600万円をもって「
佐世保船舶工業株式会社(SSK)
」を設立
→
1961(昭和36)07/
☆
「佐世保重工業株式会社」に社名変更
10/09
★
「長崎くんち」。8時奉納踊、10時神輿渡御、市中一巡のち17時還御。御旅所仮宮はなし
(4)…寄合町(本踊)、踊当番町合同(本踊)、連合町(本踊)、東古川町(川船)
☆
神輿順路 馬町〜県庁(仮庁舎・現美術博物館)〜(休憩)〜築町〜
長久橋〜濱町〜鍛冶屋町〜(休憩)〜磨屋町〜中通り〜伊勢宮〜国道〜還御
☆
御旅所がないのは進駐軍モータープールに使用されているため
10/15
★
第16代長崎市長の岡田寿吉が退任
公職追放(パージ)該当者に指定される前に退陣。菅野助役が市長職務代理となる
→
1949(昭和24)03/06
☆
前長崎市長岡田寿吉(63)が本河内の自宅を出てから消息を断つ
→
1949(昭和24)03/08
☆
戦後再婚したトキ夫人(41)から長崎市警に捜査願いが出される
足どり捜査や市役所職員らの協力を得て山狩り捜査を続ける
手掛かりはつかめず、当時“原爆市長ナゾの失踪”として市中で話題に
10/15
★
正式に閉鎖した
長崎三菱兵器製作所
が残存者の強い要請で「長崎精機製作所」として再建
民需品の生産を始める
→
1951(昭和26)07/
☆
三菱関連各社に吸収され工場は閉鎖
10/
★
市営交通船の第9長港丸(39.62瓲)を新興汽船のチャーターとして伊王島〜式見航路に就航
11/15
★
玉浪町の三菱兵器製作所が長崎精機製作所として再出発
11/
★
原爆により全壊した
浦上天主堂
跡に神父と信徒たちの努力で木造の仮聖堂が落成
原子野に再建された最初の公共建造物。聖堂建立の熱意は信者でない長崎の原爆罹災者たちをも勇気づける
中田藤太郎神父を中心に焼跡の瓦礫が整理され西側玄関の一部と南側入口は残されたまま
→
1947(昭和22)
☆
中島万利神父を中心に本聖堂再建計画が立つ
信徒たちが再建資金の積み立てをはじめる
11/18
★
大洋漁業の「第1日新丸」(1万1781瓲)を母船とする捕鯨船団が期待を担って出港
GHQが南氷洋捕鯨を日本水産と大洋漁業に各1船団を許可したことによる
第1日新丸は三菱長崎造船所で建造中止になっていたタンカーを改造。進水は08/28
捕獲総数は1175頭、塩蔵肉1万6560瓲、冷凍肉1822瓲、塩蔵・冷凍肝臓132瓲
日本水産の捕鯨船団は11/07
☆
大阪より出港
11/
★
放射線影響研究所の前身である原爆傷害調査委員会が第406一般医療班として調査を開始
移動には、連合軍特急列車に連結された三つの車両が利用される
→
1947(昭和22)03/
☆
米国原子力委員会の資金により米国学士院(NAS)が原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立
広島赤十字病院の一部を借り受けて「
原爆障害調査委員会(広島BCC)
」が開設。血液学的研究を開始
→
1948(昭和23)07/
☆
長崎医科大学付属第1医院内(新興善小学校)に「
原爆障害調査委員会(長崎ABCC)
」が設立
厚生省国立予防衛生研究所(予研)が参加。米と共同で大規模な被爆者の健康調査に着手する
→
1949(昭和24)11/
☆
長崎医科大学付属病院(新興善小学校)から桜馬場の長崎県教育会館へ移転開始
予算の大部分はアメリカが負担、アメリカのスタッフが多く「長崎の中のアメリカ」といわれる
→
1975(昭和50)04/01
☆
「ABCC(原爆傷害調査委員会)」が再編成のため閉所
新たに「放射線影響研究所(RERF・放影研)」として日米両国が財団法人となり運営経費を分担する形に変更し再発足
日米共同による調査研究を続行する必要性があると考えられ両国政府が共同で管理運営する公益法人とし発足
日本国民法に基づき、日本の外務省および厚生省が所管。運営管理は日米の理事で構成される理事会が行なう
調査研究活動は両国の専門評議員で構成される専門評議員会の勧告を得て進められる
経費は日米両国政府が分担し、資金は日本は厚生労働省を通じて、米国はエネルギー省を通じて交付
変更後の長崎研究所では被爆者の健康診断、調査、研究を行なう
研究所には臨床研究、疫学、放射線生物の3部門がおかれる
放射線生物部は放射線が発がん遺伝子や免疫機能に及ぼす影響などについての基礎的研究を行なう
→
1982(昭和57)09/17
☆
国道34号拡幅工事にともない中川1丁目の新築の教育会−放影研合同ビルへ移転
鉄筋コンクリート造り4階建、総工費約3億5千万円
→
1996(平成08)03/
☆
中川町の放射能影響研究所長崎研究所(放影研)の放射線生物部が閉鎖
12/09
★
統合されていた「長崎新聞(長崎日報)」が元の4紙に分離
「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「佐世保時事新聞(旧軍港新聞)」「新島原新聞(旧島原新聞)」に分離
12/09
☆
渡貫良治が社長の「長崎日日新聞」は船津町で復刊第1号を発行
→
1951(昭和26)06/
☆
桑原用二郎が読売系の持株を譲り受け完全に独立
→
1953(昭和28)
☆
県内紙で初めて高速輪転機、写真電送機などを導入
のち
☆
西岡竹次郎は「長崎民友新聞」を出島で創刊
→
1951(昭和26)
☆
西岡竹次郎が県知事に就任し夫人のハルが経営に携わる
のち
☆
「新島原新聞」が「島原新聞」と改題
1953(昭和28)
☆
「佐世保時事新聞(旧軍港新聞)」が「九州時事新聞」と改題
→
1961(昭和36)09/
☆
「九州時事新聞」が「長崎時事新聞」と改題
1959(昭和34)01/
☆
「長崎日日新聞」と「長崎民友新聞」が合併、「長崎新聞」と改題。夕刊を復刊
→
1968(昭和43)08/01
☆
「長崎時事新聞」と合併
12/09
★
長崎市立商業学校が油木の校舎に復帰。開校式をあげる
西山から油木までの約4キロはリレー式に校具類を移送
それまでは上長崎小学校の校舎の一部や東青年学校(現片淵中学校旧校舎)を併用
→
1948(昭和23)04/
☆
学制改革により長崎市立長崎商業高等学校となる
12/
★
歓楽街が復活。市内の街角に喫茶店が開店。ダンスホールのネオンが目を引く
12/末現在、芸妓41人、貸席121軒、酌婦621人、純料理店36軒、飲食店264軒、
キャバレー1軒、ダンスホール2軒、ダンサー107人
12/
★
長崎県営バスが6年ぶり雲仙観光バスを復活
★
小島町に菓子製造業同和甘味(株)が創設
→
戦後
☆
初の選挙で村木覚一社長が市会議員に
市長の諸政演説で「戦争に負けた長崎は水産も三菱造船もなくなる。長崎は観光都市以外には栄える術はない」
村木覚一は議員を辞めたのちに長崎の観光はどうすべきかを考え風頭山が目につく
戦争時は風頭山から造船所が全望できたために、山の上に建物を建てられず
風頭はハタあげの名所。空しか見ず、眼下に望む長崎の街を見ることはない…風頭が観光の名所になると考える
→
1951(昭和26)
☆
風頭山中の八太郎岳に旅館を築くため自分たちで山を切り開く工事に着手
バスが通る道をつくり、水道を引く
→
1954(昭和29)09/27
☆
木造3階建、客室7室、広間1室の
旅館矢太樓
を造る。バスは木炭車バスだったとか
名前の由来は県下に広く公募。地名(八太郎岳)がつく
→
1959(昭和34)04/
☆
鉄筋コンクリートに増設6階建て、客室15室を増設
→
1960(昭和35)10/
☆
株式会社矢太樓に社名変更
→
1971(昭和46)09/30
☆
増築鉄筋コンクリート造陸屋根7階建て、民営国民宿舎「太郎の家」を増設。客室31室
→
1972(昭和47)02/
☆
木造旧館を解体し鉄筋コンクリート2階建て(矢太樓)洋室を増設。客室洋室18室
→
1986(昭和61)
☆
露天風呂をつくろうと代表取締役村木營介、自らユンボを借り設計無しに掘る
掘ったあとに設計、長崎市内で最初の露天風呂「桃源境」をつくる
→
1992(平成04)
☆
ヤタロウイン1号館を階層して矢太樓南館に屋号変更
★
連合軍総司令部が日本政府に公娼廃止の覚書を渡すが、特殊飲食店(赤線)は存続
★
八幡神社横の「
長崎歌舞伎座
」が火事により焼失
→
のち
☆
教会と幼稚園に
★
稲佐郷に長光寺が創建
★
べっ甲業界にマッカーサー司令部より朗報が舞い込む
「材料は必要なだけ提供する。多量に作って貰いたい」と県へ指令がでる
連合軍将兵への土産として1組2千円の化粧セット、シガレットケース、コンパクト、カフスボタンなどが注文
★
旧海軍の耐氷艦「
宗谷
」が船舶運営会所属、引揚輸送に従事する
台湾、ベトナム等から引揚者を輸送
→
07/
☆
旧満州(大連、樺太、北朝鮮、等)から引揚者を輸送
→
1956(昭和31)11/08
☆
国際地球観測年に伴う南極観測で、耐氷構造を買われ南極観測船に選定
初代南極観測船となり以降1961(昭和36)まで、毎年1回ずつ南極へ向けて計6回にわたり出港
★
門司税関長崎支署として長崎税関が再開
→
1953(昭和28)08/01
☆
長崎税関として門司税関から独立
★
台風被害により市営交通船の第1・第4長港丸(各69.32瓲)が香焼島沖野島岩礁に座礁して使用不能に
第7長港丸(39.35瓲)はスクラップに
★
原爆で大破した
西中町教会
跡地に信徒たちが木造の仮聖堂を建てる
→
1951(昭和26)10/16
☆
残った礎石、外郭の壁と尖塔を生かして手作業で聖堂を修復再建
屋根は単層、堂内は単廊式平面のロマネスク様式の建物に再建
改めて「殉教者の元后」に捧げる献堂式が行われる
★
小浜で料理屋を営んでいた山口亮が戦後配給で思うような料理が作れないことを理由に旅館業に転業
旅館清川荘を創業
→
1967(昭和42)
☆
池田某が営んでいた隣のきらく荘を買収。施設を拡張する
★
アメリカの「少年の町」の創設者フラナガン神父が長崎を来訪
神父は子どもたちの悲惨な様子を見て、「早く戦災孤児に家を」と進言
GHQがそれを受け、戦災孤児の収容施設計画が立つ
→
1947(昭和22)02/04
☆
長崎市岩屋町666番地に長崎県立の孤児収容所「向陽寮」が開設
生活保護法による孤児収容施設として発足
初代寮長の餅田千代は男女2人の子どもを育てながら寮生からお母さんと親しまれる
定員50人、廃材などで建設される
→
04/01
☆
児童福祉法の実施にともない県立の養護施設「向陽寮」と改称
→
1955(昭和30)03/
☆
寮舎基礎沈下腐朽のため基礎工事ならびに腐朽部の改修工事に着手
→
07/
☆
竣工
→
1963(昭和38)
☆
寮長の餅田千代が婦人寮へ転勤。15年にわたる寮児との生活をひとまず終える
→
1968(昭和43)
☆
「光りと緑の園、長崎県立向陽寮」を改称、大村に移転。社会福祉法人として民営化
初代寮長は再任の餅田千代
★
川野福一が森永製菓長崎支店長の矢山清の許可を得て大村でエンゼルマークの飴菓子をはじめる
→
のち
☆
主食統制の緩和とともに菓子製作に踏み切る
「ばってん」や「丸山」を作り大村の名菓舗に数えられる
→
1950(昭和25)☆浜屋で開かれた全国みやげ品展示会にて「ばってん」がトップで入賞
→
のち
☆
政治に干渉し失敗、無一物で長崎に
→
のち
☆
未経験ながらざぼん漬の製造に成功
→
のち
☆
蝶々柑、唐ざぼん、輪ざぼん、若ざぼん、切ざぼんなど次々と生み出す
★
強制疎開をうけ建物が取り毀された島原の住吉旅館の経営を井上籠子が再開
住吉旅館は井上ユキヨが1869(明治02)にはじめた料亭「腰駕楼」で1913(大正02)から旅館となる
井上籠子は井上ユキヨの孫にあたる
★
海産物の卸商をしていた魚住一時が魚住商店としてふぐの製造に取り組む
→
のち
☆
ふぐ味淋ぼし、焼ふぐ、ふぐ茶漬、ふぐの燻製などふぐの珍味で知られるようになる
→
のち
☆
東京、関西、北九州、北海道から沖縄まで販路を伸ばす
→
1967(昭和42)
☆
カステラの製造も経営
★
旅館中央荘として経営を開始
→
1967(昭和42)12/
☆
万才町にニューホテル中央荘を建てる
地下1階、地上7階の和洋折衷、客室36。宴会場、会議場の設備のほか、7階にスカイレストラン、屋上はビアガーデン
貿易港長崎の発祥の地、万才町の高台に長崎の展望所としてタワーの役割を果たす
★
長崎市内に天然痘流行。市衛生課、職域ごとに種痘を実施
★
この年、長崎市の赤痢発生状況215(死亡23)
▼
1947(昭和22)
【昭和】
丁亥(ひのとい)
《総理大臣》
[第45代]吉田茂(→05/24)、[第46代]片山哲(05/24→)
《知事》
[第38代(官選)]高橋一郎(→04/16)、[第39代(公選1代)]杉山宗次郎(04/16→)
《市長》
[第17代]大橋博(04/09→)
01/25
★
長崎県営バスを増発し、中止線を復活してほぼ戦前の状態となる
02/04
★
長崎市岩屋町666番地に長崎県立の孤児収容所「向陽寮」が開設
生活保護法による孤児収容施設として発足
初代寮長の餅田千代は男女2人の子どもを育てながら寮生からお母さんと親しまれる
定員50人、廃材などで建設される
→
04/01
☆
児童福祉法の実施にともない県立の養護施設「向陽寮」と改称
02/06
★
西浜町の長崎最大のヤミ市で違反が目立つため警察が急襲、250人が検挙
02/10
★
山里小学校で脱脂粉乳による副食のみの学校給食が開始
→
のち
☆
順次、学校給食が広がる
02/21
★
長崎市が04/01の町内会制度廃止に伴い関係者を集め感謝大会を開催
→
04/01
☆
町内連合会、町内会、隣組が廃止
02/
★
「
長崎醤油味噌醸造工業組合
」が長崎醤油味噌工業組合へ改称
→
1950(昭和25)04/
☆
長工醤油味噌有限会社へ商号変更
03/30
★
長崎県自動車局が労働組合を結成
→
1948(昭和23)10/
☆
長崎県交通局が従業員組合を結成
→
1953(昭和28)04/04
☆
長崎県交通部労働組合が結成
03/31
★
学校教育法(昭和22年法律第26号)により国民学校令が廃止
03/
★
米国原子力委員会の資金により米国学士院(NAS)が原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立
広島赤十字病院の一部を借り受けて「
原爆障害調査委員会(広島ABCC)
」が開設。血液学的研究を開始
→
1948(昭和23)07/
☆
長崎医科大学付属第1医院内(新興善小学校)に「
原爆障害調査委員会(長崎ABCC)
」が設立
厚生省国立予防衛生研究所(予研)が参加。米と共同で大規模な被爆者の健康調査に着手する
04/01
★
磨屋国民学校が長崎市立
磨屋小学校
と改称
→
1982(昭和57)07/23
☆
長崎大水害で1階全教室が1.2〜1.5米まで水没
04/01
★
勝山国民学校が長崎市立
勝山小学校
と改称
→
1982(昭和57)07/23
☆
運動場が長崎大水害の臨時塵芥集積所となる
04/01
★
新興善国民学校が長崎市立
新興善小学校
と改称
→
1950(昭和25)10/
☆
医科大学付属病院の全科の病室(入院)が坂本町の現在地に移る
新興善小学校に外来診療所を設置
04/01
★
上田町の長崎市大浦国民学校が長崎市立南大浦小学校と改称
→
1954(昭和29)07/16
☆
新校舎落成。及び創立50周年記念式を挙行
04/01
★
長崎市浪平国民学校が長崎市立浪平小学校と改称
→
1954(昭和29)01/24
☆
上部運動場が落成
04/01
★
長崎市岩屋町666番地の長崎県立の孤児収容所「向陽寮」が県立の養護施設「向陽寮」と改称
児童福祉法の実施にともなう措置
→
1955(昭和30)03/
☆
寮舎基礎沈下腐朽のため基礎工事ならびに腐朽部の改修工事に着手
04/24
★
復員輸送のため国鉄が大村線南風崎から早岐経由で東京・上野までの臨時列車を運行
南風崎発15時40分
→
上野着(翌)06時23分
南風崎〃17時30分
→
東京〃(〃)06時28分
南風崎〃00時45分
→
東京〃(当)18時40分
04/30
★
長崎市南山手町5番地に「
長崎海洋気象台
」が創立
場所は南山手の旧長崎要塞司令部跡地(ロシア領事館跡)
→
07/19
☆
開庁式が執り行なわれる
→
1949(昭和24)06/01
☆
「長崎測候所」が廃止
業務は1947(昭和22)04/30創立の長崎海洋気象台が受け継ぎ統合される
05/09
★
買い出し客130人を乗せた渡海船「幸丸」(13瓲)が亀岳村に向け時津港を出港
途中、村松村沖合い100米で激浪により傾き沈没
定員60人の「幸丸」に乗っていたのは、ほとんどが長崎市内からの買い出し客
身動きできぬほどに詰め込まれ船底の人は脱出できず、溺死21人、行方不明50人の犠牲者をだす
05/
★
西浜町のレストラン「精洋亭」を継承
→
1959(昭和34)06/
☆
原爆による補修修理と共に県側の要請により「精洋亭」を改装
階下をレストラン、2階を18室25人収容の洋式ホテル「
精洋亭ホテル
」として業務開始
06/
★
尾上町の旧位置に漁港施設が復旧
荷揚場、荷捌場、事務所等、延1160坪の魚市場施設と
浮桟橋2基、鉄道引込線、荷役用コンベア2基等の漁港施設が復旧
06/
★
元船町海岸通りに水産倉庫7棟が完成
06/
★
長崎魚市組合が出資金300万円で設立
07/12
★
森伊土建が●●町にて設立
→
1948(昭和23)02/16
☆
三光商事へ商号を変更。主に食用添加物を販売する
→
1950(昭和25)06/07
☆
(株)中山洋行へ商号を変更
→
1950(昭和25)
☆
米進駐軍からの払い下げコーヒーを販売
→
1952(昭和27)
☆
コーヒー自家焙煎を開始
→
1970(昭和45)08/
☆
店舗を●●町から新地町へ移転
07/23
★
長崎市立長崎病院に隔離中の伝染病患者は41人と発表される
07/29
★
長崎県自動車局が長崎県交通局と改称
→
1948(昭和23)05/11
☆
長崎県交通局を長崎県公共事業部と改称
09/01
★
午前08時、長崎バス(株)の大瀬戸発長崎行きバスが30人の乗客を乗せ時津の打坂峠を登る
バスは車体の後ろに大きな釜をつけ木炭を焚いて走る木炭バス
打坂峠は未舗装で勾配が20度もある急な坂道。バスの運転手から「地獄坂」と呼ばれる
打坂峠頂上まで少しのところでバスのギアシャフトが外れる
運転手はサイドブレーキを引くがブレーキは効かず、バスは急な坂をズルズルと後ろ向きに下がりはじめる
運転手はバスを停めようと必死になるがバスはドンドン下がる
運転手は車掌に「鬼塚!すぐ降りろ!石ころを車の下に敷け!」と絶叫
鬼塚車掌はバスから飛び降り、手近にあった石を車輪の前に置きバスを停めようと必死
バスは急な加速度的に勢いをつけて下り、車輪は石を乗り越えて輪止めの役を果たさず
バスは高さ20米の険しい崖に迫る。もし崖からバスが落ちたら…。乗客はなすすべもなくパニックに
「こいは、おしまいばい!」乗客皆が、そう思ったとき、バスは崖っぷちギリギリで停止
運転手と乗客はホッと胸をなで下ろす
運転手はバスから降り「鬼塚!」と叫ぶ。乗客の1人が「バスん後ん車輪に、人のはさまっとる」
車輪の下を見ると鬼塚車掌が車輪の下に横たわったまま
鬼塚車掌は自分の体を輪止めにしてバスを停め、崖からの転落を防ぐ
鬼塚道男車掌は、病院での必死の手当てのかいもなく21才の若い生涯を閉じる
09/15
★
長崎県営バスの長崎〜雲仙直行便が復活
09/
★
西浜町新地通り西浜町42番地の常設活動写真館「
電気館
」の跡地に松竹配給洋画系の「松竹国際映劇」が設立
→
1966(昭和41)10/01
☆
東洋美装店が長崎松竹映画劇場跡に完成した地下1階から地上8階建の6階までを
S東美
と改称し開店
7、8階は長崎松竹映画劇場
10/08
★
「長崎くんち」。8時奉納踊、13時神輿渡御、市中一巡のち還御。御旅所はなし
(5)…丸山町(本踊)
☆
丸山町を除き踊町辞退。立方6人、地方6人で、芸妓衆は芸名でなく本名で出演
☆
踊りの外題は「国栄祝舞衣(くにのさかえいおうまいぎぬ)」で焦土日本の繁栄を祈念
☆
桟敷はないが長坂その他周囲は黒山の人だかりで熱狂
☆
踊りは伊勢宮、八坂神社のあと商工会議所、県庁、長崎軍政府(新大工町・旧長崎会館)前でも踊る
10/10
★
北松浦郡鹿町村に町制が敷かれ鹿町(ししまち)町となる
→
1949(昭和24)01/01
☆
北松浦郡調川村に町制が敷かれ調川町となる
11/03
★
壱岐郡田河村に町制が敷かれ田河町となる
→
1955(昭和30)02/11
☆
壱岐郡鯨伏村と勝本町が合併し勝本町となる
壱岐郡初山村、柳田村、志原村、渡良村、沼津村、武生水町が合併し郷ノ浦町となる
12/
★
戦争の激化によって中断していた長崎県のイワシ缶詰製造が復活
原料のイワシが全国的に不漁のなか本県がイワシの豊漁に恵まれ原料入手が容易であったため
以降、日本食品製造所、大興食品(株)(のち長崎漁業)など缶詰業界に新しい企業が続々と誕生
★
米軍長崎軍政府が出島の三菱会館から桜馬場へ移転
★
日本通運株式会社の日通元船町倉庫7棟のうち1〜5号棟が建替えられる
★
新町の長崎女子商業学校が栄町に移転
★
純心中学校が現在の地に新制の開校
→
1948(昭和23)
☆
純心女子高等学校が開校
★
浦上刑務所の仮庁舎が西郷字塚原(現白鳥町)の三菱精機寮跡にできる
→
1949(昭和24)03/
☆
庁舎1楝、房舎1楝、付属建物が竣工
→
1949(昭和24)04/
☆
諫早から被告人を移し開庁
→
その後
☆
長崎刑務所長崎拘置所と改称
→
1971(昭和46)
☆
規模を縮小、鉄筋コンクリート2階建の庁舎と5階建の房舎を建設
未決囚のみの収監を行なうようになる
★
立神に浄正寺が創建
★
聖フランシスコ診療所が木造建病舎(25床)を建設
→
1949(昭和24)10/
☆
聖フランシスコ第三会病院童貞会が男子フランシスコ会より移管
聖フランシスコ病院(結核療養所)を開設
診療科目は内科、呼吸器科。病床数75床
★
中島万利神父を中心に
浦上天主堂
本聖堂再建計画が立ち、信徒たちが再建資金の積み立てをはじめる
→
1954(昭和29)
☆
浦上天主堂再建委員会が発足。具体的な再建計画が進む
★
市営交通船の園丸が平戸口運輸のチャーターとして田平〜平戸口航路に就航
★
久米保が中町にみふね旅館を新築開業
→
1961(昭和36)
☆
設備を増築
「旅にでて心からの接待を受けるほど旅の印象を深めるものはない」と家族的なサービスに徹底
★
前年の創設者平坂茂市の死去にともない、長女平坂米子が会社復興
社名を平坂製薬株式会社とし、本社を金屋町に置く
同年、鎮痛解熱剤「ヘデクパウダー」の全国での発売を再開
→
1950(昭和25)
☆
全国に宣伝カーのマイク放送による宣伝活動を開始する
★
進駐軍の影響でチューインガムが流行。代用原料を使ったチューインガムが市場に出回る
★
山水荘が母峰政子の名義で恵美須町に創業
父峰今朝吉は喜々津の古い地主の家に生まれ、米屋の経営で財を作る
→
1956(昭和31)
☆
中央大学をでた峰今朝吉の長男峰敏昭が旅館の経営を引き継ぐ
→
1967(昭和42)10/
☆
それまでの木造建築を解き鉄筋8階建の旅館を落成。新時代の経営に切り替える
→
のち
☆
さらに別館8階、地下1階の建設に踏み切る
→
のち
☆
ホテル山水荘を完成
長崎国体を控え大浴場、大広間、本格的な売店、バー、新婚旅行客向けのデラックスな部屋、8階の展望所などを備える
★
社長小村良治により恵美須町で太平水産加工が発足
→
1953(昭和28)
☆
1909(明治42)茂木生まれの山口吉太郎が社長となり社名を太平蒲鉾に
→
1955(昭和30)
☆
社名を山吉水産と改称
電化焼蒲鉾が独特で、ちくわ、板付けなどを作り長崎有数の店として知られる
★
島原、広馬場の3階建の料亭氷家を創業者、岩本一男が7・5制令により廃業
氷家の由来は貨車のない時代、岩本の祖父が雲仙普賢岳の氷を熊本、佐賀方面まで船で運んでいたことから
料亭屋号の氷家から名前をとり南島原駅前に旅館幸利屋を開業
→
1963(昭和38)
☆
経営をユースホステルのシステムにかえる
★
西坂食料品店が浜町に移り再スタート
和洋酒、食料品のほか土産品部を新たに設け、観光みやげ品の販売に力を入れる
県内の特産品がならび、壱岐のうに、壱岐の焼酎「山の守」、長崎のからすみなど、珍味を集める
もともと西坂食料品店は1919(大正08)、榎津町に食料品、乾物、洋酒、ビールの卸小売店として創業
第2次世界大戦中には企業統合で肥塚酒店食料品部と合併、株式会社菊屋食料品店に機構をかえ食料品の配給業務を行なう
★
池月旅館が原爆で焼かれたため小林重守は木材商を営む
→
1954(昭和29)
☆
木材商を廃し恵美須町で旅館えび屋をはじめる
★
この年、長崎市の赤痢発生状況113(死亡20)
▼
1948(昭和23)
【昭和】
戊子(つちのえね)
《総理大臣》
[第46代]片山哲(→03/10)、[第47代]芦田均(03/10→10/15)
[第48代]第2次吉田茂内閣(10/15→)
《知事》
[第39代(公選1代)]杉山宗次郎
《市長》
[第17代]大橋博
01/09
★
運休中の南側の西浜町電停から思案橋までの電車軌道上に、一夜にしてヤミ市場が出現
ヤミ市は背中あわせ2階建ボックス式の露店が230軒など約400戸が出現、長崎最大の闇市となる
ここは戦時中の建物疎開で幅45米道路と化した空地
市が27米道路に縮小し歩道に露店を並べる計画を知ったヤミ商人たちが先を争い一夜にして占領
米や麦、外国製たばこなど、どんな物でも手にはいる
→
1951(昭和26)10/
☆
春雨通り露店の移転先として思案橋以南の銅座川暗渠工事が完成
2階建木造モルタル塗マーケット街ができる。工費500万円、54世帯収容
→
1953(昭和28)03/
☆
長崎電鉄が西濱町〜思案橋を工費1200万円で着工
→
1953(昭和28)07/01
☆
長崎電鉄の西濱町〜思案橋が開通。戦前の路線が全て復旧
02/12
★
新制社団法人長崎県医師会の定款が成立する
→
1961(昭和36)12/07
☆
長崎県医師会の事務所が長崎市榎津55番地の市医師会館から袋町の元町村会館跡へ独立移転
02/15
★
長崎市鳴滝町のシーボルト宅跡、史跡地として保存することに決定
シーボルトの孫楠本チエの陳情により農地としての強制買い上げは中止に
→
1961(昭和36)10/16
☆
シーボルト宅跡保存会が発足。会長は北村精一長大学長・副会長は田川務長崎市長
シーボルト宅跡の整備と胸像の復元に乗りだす
02/16
★
佐世保船舶工業株式会社がヤミ物資の不正流失の隠退蔵として摘発される
佐世保船舶工業株式会社は旧佐世保海軍工廠の民需転換工場で現SSK
旧日本海軍佐世保鎮守府の軍需物資の隠退蔵事件(佐鎮事件)は最大規模の摘発事件として関心を集める
大阪、長崎、島原、大村、東彼、南高など550か所が捜索
〜
12/24
☆
130人余が起訴される大事件に
02/16
★
森伊土建が三光商事へ商号を変更。主に食用添加物を販売する
→
1950(昭和25)06/07
☆
「(株)中山洋行」へ商号を変更
03/01
★
長崎市に発疹チフス流行、患者14人
03/07
★
消防組織法の施行により消防が警察から分離。自治体消防に改められる
市消防本部を桜町36番地に、市消防署と消防訓練所を本興善町9番地に設置
03/31
★
東立神町226-1他に立神公園(1199平方米)が開設
03/
★
館内に公設市場を開設
03/
★
永井隆博士
のために浦上の隣人たちが2畳一間の家を贈る
この地は長いキリシタン弾圧に耐えた、浦上地区のキリスト教徒の惣頭の家「帳方屋敷」跡
家を建てた人の心を忘れず、自分もこの愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」から「如己堂」に
生涯を閉じるまで、書斎兼病室として2人の子供とともに住む
04/01
★
岩川町に市営浴場が開設
→
1954(昭和29)10/
☆
閉鎖
04/
★
長崎県立長崎中学校が県立長崎高等学校と改称
旧長崎県中学校は1884(明治17)04/01創立
★
下西山町の県立長崎高等女学校が県立長崎女子高等学校と改称
県立長崎高等女学校は1902(明治35)05/01創立
★
県立瓊浦中学校が県立瓊浦高等学校と改称
県立瓊浦中学校は1922(大正11)04/創立
★
長崎市立女学校が市立女子高等学校と改称
長崎市立女学校は1922(大正11)04/創立
→
1948(昭和23)11/01
☆
県立長崎高等学校、県立瓊浦高等学校、県立長崎女子高等学校、市立女子高等学校が統廃合
長崎県立長崎西高等学校
と
長崎県立長崎東高等学校
となる
鳴滝町の旧県立長崎高等学校の校舎に長崎県立長崎西高等学校
西山町の旧県立長崎女子高等学校の校舎に長崎県立長崎東高等学校
04/
★
旧城山国民学校が城山小学校として復興
→
1980(昭和55)
☆
原爆校舎の階段塔屋部分は教室として使われる
新校舎建設の際、一部が遺構として残される
04/
★
長崎市立商業学校が学制改革により長崎市立長崎商業高等学校となる
→
1970(昭和45)04/
☆
男子生徒の長髪が全面許可される
経済の高度成長期が爛熟期に入り全国的にも高校生の長髪が一般化している中での解禁
04/
★
合資会社「田中長一商店」が長崎地区を始め、東京、福岡に営業拠点開設
東京出張所は日本橋の三井村のそば(現・千疋屋)に構える
→
のち
☆
東京出張所では特約店の看板がなかなかもらえず、卸業としての営業ができなかったためガラスの工事部門に進出
→
1950(昭和25)12/
☆
本社を長崎から東京に移す
05/01
★
九州海運局内の不法入国監視部が海上保安庁の発足と同時に長崎海上保安部と改称
新地町の3階建洋館に庁旗を掲げる
→
1962(昭和37)02/
☆
庁舎を松ケ枝町の長崎合同庁舎3階に移転
05/11
★
長崎県交通局が長崎県公共事業部と改称
→
1950(昭和25)02/20
☆
長崎市大黒町に長崎県営バスの本部庁舎が落成
05/
★
海上保安庁が発足
海軍が建てた佐世保、針尾の鉄塔が第7管区・佐世保海上保安部の管轄に
海難通信等の海上保安業務に供される
→
1997(平成09)
☆
新送信所局舎、新鉄塔など代替施設が整備され役目を終える
05/
★
「長崎県立盲学校」の長与村の仮校舎が手狭になり大村市に移転し再び盲聾学校併設となる
→
1949(昭和24)08/
☆
原爆で損壊した旧浦上校舎跡に寄宿舎並びに外来治療室が完成
聾学校と再び分離、仮校舎で授業再開
06/19
★
朝6時50分頃、東京・三鷹の玉川上水に入水した数え年40才の太宰治と30才の山崎富栄の情死体が発見される
06/21
★
長崎港が長崎市から長崎県に移管
06/30
★
長崎魚市組合が解散。新たに長崎魚市場内に
長崎魚市株式会社
(資本金1千万円)が設立
06/
★
漁港施設の整備拡充として尾上町岸壁の南西海面に突堤(中ノ島)を築造に着工
農林省の補助を受けた長崎県が工事主管者に
中ノ島突堤は長さ200米、巾100米、水深マイナス3米岸壁300米、水深マイナス5米岸壁200米
トロール船ほか漁船、運搬船は全て係船が可能。突堤の両側と先端部に魚舎、中央部に道路、鉄道引込線を配置
→
1951(昭和26)11/
☆
工事中の突堤東側約100米が突如崩壊する事故が発生。当初の完成より若干遅延に
→
1956(昭和31)03/
☆
2万平方米を埋立て長さ200米、幅100米の中ノ島突堤がようやく完成
中ノ島魚市場もほぼ完成し年間25万瓲の水揚可能な市場施設となる
総工費9億円、うち国庫補助2億円、残りは県・市が折半
06/
★
株式会社ロッテが誕生、チューインガムの製造販売を開始
06/
★
大洋漁業株式会社長崎支社が戸町冷凍工場を竣工
→
1956(昭和31)08/
☆
漁港冷凍工場を竣工
06/
★
県議会に戦争で中止していた西彼杵半島と針尾島の間の針尾瀬戸を結ぶ橋の架橋調査費を上程、承認を受ける
→
のち
☆
設計は九大の三瀬幸三郎博士に
つり橋型の構想から上路式アーチ型橋梁の有利性が浮上し、途中で設計を変更
→
1950(昭和25)11/23
☆
架橋建設は建設省の直営事業とされ、起工式が挙行
占領軍のシングルトン中佐も参列。両岸から橋桁工事に着手
07/20
★
長崎県営バスがトレーラーバスにより長崎〜矢上間を運行
07/
★
長崎医科大学付属第1医院内(新興善小学校)に「
原爆障害調査委員会(長崎ABCC)
」が設立
厚生省国立予防衛生研究所(予研)が参加。米と共同で大規模な被爆者の健康調査に着手する
→
1949(昭和24)11/
☆
長崎医科大学付属病院(新興善小学校)から桜馬場の長崎県教育会館へ移転開始
予算の大部分はアメリカが負担、アメリカのスタッフが多く「長崎の中のアメリカ」といわれる
09/10〜11
★
長崎県北で豪雨
死者行方不明108人、負傷者17人、家屋全半壊99戸、家屋流出64戸、家屋浸水5973戸
10/01
★
今魚町の長崎県中央保健所が長崎市に移管され、長崎市保健所として発足
→
1949(昭和24)10/01
☆
中央保健所の新庁舎が酒屋町に完成し、今魚町から移転する
10/01
★
西彼杵郡高島村に町制が敷かれ高島町となる
→
1949(昭和24)04/01
☆
西彼杵郡黒瀬村に町制が敷かれ大島町となる
10/07
★
渡御。「長崎くんち」
→
10/09
☆
還御
(6)…寄合町(本踊)、本籠町(蛇踊)、今魚町(傘鉾のみ)、今博多町(本踊)、西浜町(蛇船はやし)、
銅座(本踊)、鍛冶屋町(木槌みこし)、本大工町(川船はやし)、上筑後町(獅子踊)、東浜町(本踊・段尻)
☆
長崎くんちと市役所主催の市民祭が併催
☆
市民祭のため御旅所の仮宮が浜屋の裏に
☆
知事公舎前の特設踊り場では長崎軍政府デルノア司令官夫妻、その他米軍関係者が招待され観覧
10/08
☆
ミス長崎が選出。初代ミス長崎には勧業銀行長崎市店勤務の田部静子(24)が選ばれる
10/16
★
三重苦の聖女
ヘレン・ケラー
が戦後の混乱期のまっただ中、日本最後の訪問地として再び来崎
→
10/18
☆
永井隆博士
の如己堂を訪れ見舞う
10/
★
長崎県交通局が従業員組合を結成
→
1953(昭和28)04/04
☆
長崎県交通部労働組合が結成
11/01
★
県立瓊浦高等学校、県立長崎高等学校、県立瓊浦高等学校、県立長崎女子高等学校が統廃合
☆
鳴滝町の旧県立長崎高等学校の校舎に
長崎県立長崎西高等学校
が開校
→
1950(昭和25)08/
☆
竹の久保町の新築校舎に移転完了
☆
西山町の旧県立長崎女子高等学校の校舎に
長崎県立長崎東高等学校
が開校
→
1949(昭和24)03/31
☆
市立女子高等学校の定時制課程が県立長崎東高等学校の定時制課程(夜間)となる
→
1976(昭和51)09/01
☆
全日制課程が立山町556番地(現立山5丁目)の新校舎で始業
定時制課程は旧西山校舎を引き続き使用
→
1977(昭和52)03/31
☆
定時制課程の募集を停止
→
2004(平成16)04/08
☆
県立長崎東中学校が開校し、併設型中高一貫教育校としてスタート
11/
★
日本医療団の解散により長崎市が長崎県中央病院「長崎慈恵病院」を買収
日本医療団の解散は1947(昭和22)01/24
→
12/01
☆
長崎市立市民病院として開設(内科、外科及び耳鼻咽喉科の3科。病床数96床)
→
1957(昭和32)07/01
☆
総合病院の承認を受ける
12/01
★
上県郡豊崎村に町制が敷かれ豊崎町となる
→
1955(昭和30)01/01
☆
上県郡豊崎町と琴村が合併し上対馬町となる
12/
★
水の浦に公設市場を開設
12/
★
永井隆博士
が浦上を「花咲く丘」にしようと桜の苗木1千本を贈る
贈り先は浦上天主堂、山里小学校、城山小学校をはじめ民家など
12/
★
県庁から大波止の途中にあった醤油会社の建物の跡地に村上明が旅館秀明館を創業
→
1960(昭和35)
☆
筑後町の駅前高台に新築移転
戦後の混乱から安定するにつれ急増する車の騒音を気にしての決断
また外人客を受け入れる旅館が少なく、打開策として閑静眺望の地を選んでの移転
外人客を受け入れる旅館としては常に先駆的な役割を果たす
会議室、大広間、スカイグリル、特産品売場、駐車場などを完備し、結婚式場を備える
村上明は西彼杵郡亀岳の生まれ。肥前彼杵に名を成した村上氏の末となる
★
西浜町の叺(かます)横丁角に公衆浴場・浜の湯が開業
★
県立瓊浦中学校跡地に県立長崎西高等学校が開校
★
海星学園が学制改革により新制の中学校、高等学校に
★
前年の純心中学校に続いて純心女子高等学校が開校
→
1950(昭和25)
☆
純心女子短期大学が開校
★
大正時代半ばに建てられた馬町の洋館風建物が事業家から市に寄贈。炉粕町から移転し市立博物館がとして利用
→
1955(昭和30)
☆
市立博物館移転後、市長公舎となる
→
1988(昭和63)
☆
市長公舎が玉園町に移転
★
市営交通船の園丸が九州商船のチャーターとして博多〜雁の巣航路に就航
★
長崎バス(株)がいすゞのディーゼル車を導入。またトヨタや三菱ふそうのガソリン車を購入
★
イワシ缶詰25万函の注文が入り製造各社で割当生産が行なわれる
長崎合同缶詰…10万函、日本食品工業…5万函、佐世保合同缶詰…5万函、深堀食品工業…5万函
★
麹屋町の長崎逓信講習所が閉所
長崎逓信講習所は逓信省が電報通信事業に従事する技術者を養成するために開所
★
高島のグラバー洋式邸宅が老朽のため取り壊し
★
口之津町の古野電気商会が世界で始めて音響測探機を改良した
魚群探知器
の販売を開始
→
1955(昭和30)
☆
古野電気株式会社が設立。(株)古野電気工業所の事業一切を継承
★
鮮魚商から身を起こした中村吉衛がかまぼこの製造に移り「
中村蒲鉾店(マル中蒲鉾)
」を興す
中村吉衛は1896(明治29)鹿児島生まれ
→
のち
☆
研究に苦労し包装蒲鉾の製造に成功
★
山崎パンが操業
★
長崎県立口加高等女学校が長崎県立口加高等学校に改称
→
2008(平成20)02/29
☆
家政科の閉科にともない式典が催される
式典には在校生、OB・OG、地元住民ら約750人が出席。最後の家政科生27人は長着とはかま姿で入場
式典後、手芸を象徴する針山をイメージした記念碑を除幕。針に見立てた支柱は最初の被服科に在席した68人にちなんで68本
創立は1902(明治35)の私立口之津女子手芸高校
★
福江島から南西約80粁に位置する男女群島の女島にある女島灯台が復旧
→
2006(平成18)11/12
☆
女島灯台(
日本最後の有人灯台
)が海上保安庁による自動化整備が完了。新システムが稼働する
約80年間、東シナ海の船の安全を見守ってきた灯台は、年度内に滞在勤務職員の残務を終え、完全に無人化
海上保安庁交通部が進めてきた全国の灯台3337基の自動化がすべて完了。灯台守が灯台から姿を消すことに
これまでは長崎海保航行援助センター五島地区事務所から原則4人の職員が、ほぼ半月交代で住み込み勤務
自動化によりディーゼル発電機から太陽光発電装置に移行。発電装置や光を放つ灯器などの点検は3か月に一度、職員が赴く
約47粁先まで届いていた灯器の光は、約38粁先までに短縮
第七管区海上保安本部交通部は「航路上、船舶は灯台からそれほど離れた海域を通っていないため支障はない」とする
★
初代船津竜次が万才町に船津蒲鉾店を創業
土産品としての包装蒲鉾に力を入れる
★
島原市の推薦を受け村中茂夫は、旅館有明館の経営から
南風楼
の経営を引き継ぐことに
旅館南風楼は島原市の払い下げを受けていた
→
1952(昭和27)
☆
有明館を塚島宇平治が譲り受ける
★
この年、長崎市の赤痢発生状況24(死亡1)
▼
1949(昭和24)
【昭和】
己丑(つちのとうし)
《総理大臣》
[第48代]第2次吉田茂内閣(→02/16)、[第49代]第3次吉田茂内閣(02/16→)
《知事》
[第39代(公選1代)]杉山宗次郎
《市長》
[第17代]大橋博
01/01
★
北松浦郡調川村に町制が敷かれ調川町となる
→
08/01
☆
北松浦郡平村に町制が敷かれ平町となる
03/01
★
日本銀行長崎支店
が炉粕町の長崎市商品陳列所跡に開店
→
1978(昭和53)12/14
☆
旧店舗が老朽化したため新店舗が完成
03/05
★
野母商船が長崎〜高島〜端島〜野母の航路を就航
03/06
★
前長崎市長岡田寿吉(63)が本河内の自宅を出てから消息を断つ
→
03/08
☆
戦後再婚したトキ夫人(41)から長崎市警に捜査願いが出される
足どり捜査や市役所職員らの協力を得て山狩り捜査を続ける
手掛かりはつかめず、当時“原爆市長ナゾの失踪”として市中で話題に
→
1956(昭和31)11/18
☆
唐八景から八郎岳へ向かう山中のお万茶屋付近の山林の中で、白骨死体で発見
03/09
★
3代目の長崎駅舎、通称・「
三角屋根
」(高さ約15米)が完成
教会風の駅舎と十字架をかたどったステンドグラス
異国情緒を漂わせ、長崎の玄関口のシンボルとして、市民や観光客に親しまれる
→
1999(平成11)03/04
☆
再開発にともなう新駅ビルの建設により解体撤去工事に着手
約10日で、その雄姿がなくなる
『三角屋根』ができて、ちょうど50年後のこと
03/31
★
中町2-100他に中町公園(5074平方米)が、魚の町4-100に公会堂前公園(3578平方米)が
築町6-100他に中島川公園(4352平方米)が開設
03/31
★
大井手町38他に大井手公園(1447平方米)が開設
→
1968(昭和43)09/28
☆
大井手公園が宮の下公園と改称
03/31
★
市立女子高等学校の定時制課程が
長崎県立長崎東高等学校
の定時制課程(夜間)となる
→
1976(昭和51)09/01
☆
全日制課程が立山町556番地(現立山5丁目)の新校舎で始業
定時制課程は旧西山校舎を引き続き使用
03/
★
ごみ収集の作業能率を上げるため、大八車に代わり貨物自動車の使用を開始
03/
★
浦上刑務所仮庁舎の庁舎1楝、房舎1楝、付属建物が竣工
→
1949(昭和24)04/
☆
諫早から被告人を移し開庁
04/01
★
西彼杵郡黒瀬村に町制が敷かれ大島町となる
→
1950(昭和25)05/01
☆
西彼杵郡福田村の一部が長崎市に編入される
04/
★
浦上刑務所仮庁舎に諫早から被告人を移し開庁
→
のち
☆
長崎刑務所長崎拘置所と改称
04/
★
市の肝いりで「長崎原爆資料保存委員会」が設置。本格的に原爆資料の収集、保存に乗り出す
→
1949(昭和24)05/
☆
平和公園爆心地付近に六角形の
原爆資料館
が開設
→
1955(昭和30)02/11
☆
国際文化会館の竣工に伴い原爆資料が移される
05/19
★
長崎県営バスが雲仙観光にオープンカーを配置
05/24
★
九州巡幸の天皇陛下が長崎県入り。北松、佐世保を経て雲仙に2泊
→
05/27
☆
雲仙から長崎市内へ。魚市、西坂公園、長崎医大、三菱造船所、三菱精機製作所を視察
長崎医大附属医院内科病棟屋上で大橋博長崎市長の原爆被害及び復興状況の説明を受ける
浦上三菱球場での奉迎場に臨席。集まった数万人の市民は、天皇の「です・ます」の肉声を初めて耳にする
三菱造船所の占勝閣に宿泊
→
05/28
☆
長崎駅から宮廷列車で帰京
05/25
★
島原鉄道
の諫早〜島原に戦後私鉄初のお召列車運転
05/29
★
聖フランシスコ・ザビエル渡来400年祭。市中はザビエル祭一色に
ローマ法王特使ギルロイ枢機卿、スペイン・インドなど8か国から70余人の国際巡礼団が来訪
聖地保存会とイエズス会により、西坂の殉教地に記念碑を立てる計画が高まる
→
1962(昭和37)
☆
二十六聖人列聖100周年祭にあたり、記念碑と資料館が建つ
二十六聖人記念碑は横17米、高さ5.58米の花崗岩の台座に等身大の二十六聖人のブロンズ像がはめ込まれる
制作は彫刻家の舟越保武
→
1962(昭和37)
☆
キリスト教の歴史を紹介する日本二十六聖人記念館が建つ。設計は建築家の今井兼次
→
1962(昭和37)
☆
聖フィリッポ西坂教会が建つ。設計は建築家の今井兼次
05/31
★
国立学校設置法の公布により新制
長崎大学
を設置
従前からあった長崎師範学校、青年師範学校の他
長崎経済専門学校[長崎高等商業学校(第3高商)]が
経済学部
、長崎医科大学が
医学部
、師範学校が
学芸学部
青年師範学校内の水産科が
水産学部
、医科大学附属薬学専門部が
薬学部
の5学部をもって開校
→
1949(昭和24)08/
☆
大村一般教養部と長崎一般教養部が設置
→
1950(昭和25)05/01
☆
統合され長崎大学大村分校に
のち
☆
転々とする。大村分校大村教室
→
下久原の元師範校舎
→
大村分校長崎校舎
→
1954(昭和29)
☆
長崎市大橋町に移転し長崎大学長崎分校と改称
→
1964(昭和39)04/
☆
長崎大学
教養部
となる
☆
経済学部
初代学部長に伊藤勇太郎教授が就任
→
1951(昭和26)03/02
☆
長崎経済専門学校の最後の卒業式が行なわれる
☆
学芸学部
大村市乾馬場で発足。小学校、中学校、幼稚園を附設
→
1951(昭和26)03/31
☆
師範学校最後の卒業式が行なわれ、師範学校が廃止
→
1952(昭和27)06/
☆
長崎市大橋町200番地への移転を開始
→
1953(昭和28)03/31
☆
移転完了
附属中学校が長崎市昭和町863番地に移転
→
1954(昭和29)04/01
☆
附属小学校と附属幼稚園が長崎市大橋町200番地に移転
→
1966(昭和41)04/01
☆
学芸学部を教育学部に、学芸専攻科を教育専攻科に改称
☆
水産学部
水産学部は、その1学部として、漁業学科・水産製造学科・水産増殖学科の3学科で発足
→
1949(昭和24)07/
☆
大村市の長崎青年師範学校で長崎大学水産学部の事務を開始
→
1950(昭和25)05/
☆
大村市から佐世保市崎辺に移転
→
1961(昭和36)08/
☆
佐世保市崎辺から長崎市文教地区に移転
☆
長崎大学新設学部
→
1966(昭和41)04/01
☆
国立学校設置法の一部を改正する法律(昭和40年法律第15号)により長崎大学
工学部
が設置
機械工学科、電気工学科(入学定員各40人)が新設
→
1979(昭和54)10/
☆
長崎大学に
歯学部
が設置される
→
1997(平成09)10/
☆
長崎大学で国立大学最初の文理融合学部として
環境科学部
が発足
05/
★
柳通りの通称を観光通りと改める
→
1967(昭和42)06/16
☆
岡政前〜勧銀長崎支店270米の片屋根の観光通り商店街アーケードが完成
総工費約5500万円
→
1982(昭和57)10/01
☆
浜市観光通りが従来の片屋根式から全覆い開閉式のアーケードが完成
全長280米、幅10米、高10.5米、総工費約5億3千万円
05/
★
平和公園爆心地付近に六角形の
原爆資料館
が開設
→
1955(昭和30)02/11
☆
国際文化会館の竣工に伴い原爆資料が移される
06/01
★
「
長崎測候所
」が廃止される
業務は1947(昭和22)04/30、南山手に創立された「
長崎海洋気象台
」が受け継ぎ統合
06/01
★
公共企業体・日本国有鉄道(初代総裁:下山定則)発足(3公社のうち、
→
1987(昭和62)04/01)
06/01
★
公共企業体・日本専売公社(初代総裁:秋山孝之輔)発足(3公社のうち、
→
1985(昭和60)04/01)
06/21
★
長崎県立口加高等学校の小浜分校(定時制)が第1回入学式を小浜中学校内仮校舎にて挙行
→
1958(昭和33)08/26
☆
小浜中学校内仮校舎から新校舎(北野)へ移転
→
1960(昭和35)04/01
☆
長崎県立小浜高等学校に校名を変更。定時制独立校として発足
→
1962(昭和37)04/01
☆
全日制課程となる(普通科2学級、商業科1学級)
06/
★
長崎市中央消防署に救急車が配置
→
1963(昭和38)
☆
救急業務が消防の管轄任務となる
06/
★
長崎県営バスの諫早営業所が諫早駅前に落成
→
1952(昭和27)
☆
諫早駅前の長崎県営バス諫早営業所が焼失
07/01
★
市立勝山中学校が
市立長崎中学校
と改称。本大工町に新校舎が完成
→
1970(昭和45)09/01
☆
本大工町から移転した
市立長崎中学校
の新校舎が立山の長崎公園内市民運動場に完成
07/20
★
NHKラジオ第2がスタート。地域番組を1日に2時間放送
07/
★
イワシの缶詰販売が自由販売となる
07/
★
大村市の長崎青年師範学校水産科で長崎大学水産学部の事務を開始
→
1950(昭和25)05/
☆
大村市から佐世保市崎辺に移転
08/01
★
戦後初めて濱町、浦上駅前、水ノ浦に公衆電話ボックスが復活
08/01
★
南高来郡愛野村に町制が敷かれ愛野町となる
→
1954(昭和29)04/01
☆
南高来郡山田村と守山村が合併し吾妻村となる
08/01
★
北松浦郡平村に町制が敷かれ平町となる
→
1950(昭和25)05/03
☆
北松浦郡小佐々村に町制が敷かれ小佐々町となる
08/09
★
長崎国際文化都市建設法が公布
平和公園で祈念式典が挙行。大橋博長崎市長が初めて平和宣言を行なう
08/
★
原爆で損壊した「長崎県立盲学校」旧浦上校舎跡に寄宿舎並びに外来治療室が完成
聾学校と再び分離、仮校舎で授業再開
→
1950(昭和25)05/
☆
木造2階建て復旧校舎の落成祝賀会開催。永井隆博士が祝いの色紙を送る
08/
★
長崎県営バスが小浜商船(株)所有の“竹島丸”と網場〜小浜〜京泊航路を買収
→
1950(昭和25)01/04
☆
網場〜小浜〜京泊間に竹島丸の運航を開始
→
1951(昭和26)01/01
☆
竹島丸運航休止
→
1952(昭和27)10/25
☆
網場〜小浜〜京泊定期航路廃止
08/
★
新設された長崎大学に大村一般教養部と長崎一般教養部が設置
→
1950(昭和25)05/01
☆
統合され長崎大学大村分校に
09/15
★
長崎県営バスが観光バスにラジオ設置(島原営業所)
10/01
★
長崎市中央保健所の新庁舎が酒屋町に完成し、今魚町から移転する
10/07
★
渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更
→
10/11
☆
還御
(7)…丸山町(本踊・段尻)、五島町(唐人船)、本石灰町(本踊・樽神輿)、桶屋町(本踊)、
大井手町(獅子踊)、船大工町(川船)、出来大工町(本踊)、[特別参加]本籠町(蛇踊)
☆
庭見せ、諏訪踊馬場桟敷が復活。御旅所が外浦町長崎地裁前に変更
☆
お下りのあと北高来郡田結村の浮立と西彼杵郡大草村の浮立が披露される
10/15
★
出島岸壁の
長崎港駅
から、さらに大浦川まで692米の臨港線延長敷設工事が完成
長崎港駅で開通式を挙行
→
1982(昭和57)11/14
☆
連絡船の復活を期待し駅名は残っていたが廃止
貨物列車が魚類運搬などのために、ときたま臨港線を走る程度
10/
★
聖フランシスコ第三会病院童貞会が男子フランシスコ会より移管
聖フランシスコ病院(結核療養所)を開設
診療科目は内科、呼吸器科。病床数75床
→
1963(昭和38)
☆
聖フランシスコ結核療養所が聖フランシスコ病院に改名
11/01
★
1945(昭和20)に閉鎖した旭町の公益質屋が第1市営公益質屋として復活、営業開始
→
1965(昭和40)04/01
☆
廃止
11/01
★
長崎大学の開学式が片渕町の経済学部講堂で挙行
11/02
★
浦上駒場町の総合運動場建設予定地内に
長崎市営競輪場
が完成。総工費1300万円
原爆後の膨大な都市復旧建設費の調達に悩み、戦災都市小倉市の例に倣い資金調達のための競輪事業
→
11/05
☆
第1回市営競輪開催
→
1966(昭和41)12/13
☆
諸般の事情からレースが休止に
11/04
★
新聞「夕刊長崎タイムス」が創刊
→
1951(昭和26)05/12
☆
「夕刊長崎タイムス」が廃刊
11/05
★
長崎少年鑑別所が諫早市から長崎市橋口町に移転
11/05
★
長崎市営競輪場
で第1回市営競輪が開催
→
1966(昭和41)12/13
☆
諸般の事情からレースが休止に
11/
★
「
原爆障害調査委員会(長崎ABCC)
」が長崎医科大学付属病院(新興善小学校)から桜馬場の長崎県教育会館へ移転開始
予算の大部分はアメリカが負担、アメリカのスタッフが多く「長崎の中のアメリカ」といわれる
→
1975(昭和50)04/01
☆
「ABCC(原爆傷害調査委員会)」が再編成のため閉所
新たに「放射線影響研究所(RERF・放影研)」として日米両国が財団法人となり運営経費を分担する形に変更し再発足
日米共同による調査研究を続行する必要性があると考えられ両国政府が共同で管理運営する公益法人とし発足
日本国民法に基づき、日本の外務省および厚生省が所管。運営管理は日米の理事で構成される理事会が行なう
調査研究活動は両国の専門評議員で構成される専門評議員会の勧告を得て進められる
経費は日米両国政府が分担し、資金は日本は厚生労働省を通じて、米国はエネルギー省を通じて交付
変更後の長崎研究所では被爆者の健康診断、調査、研究を行なう
研究所には臨床研究、疫学、放射線生物の3部門がおかれる
放射線生物部は放射線が発がん遺伝子や免疫機能に及ぼす影響などについての基礎的研究を行なう
12/03
★
永井隆博士
に長崎市名誉市民の称号が贈られる
12/27
★
楢林宗建種痘実施百周年記念講演会を長崎市榎津町の市医師会館3階講堂で開催
郷土史家古賀十二郎が「楢林宗建の牛痘接法に就いて」講演
続いて長崎大学医学部細菌学教授青木義勇が「種痘の変遷とこれを巡る人工免疫の進歩」を講演
12/29
★
長崎県営バスが長崎市内線の運行を開始(料金5円均一)
12/
★
浜屋百貨店地階に長崎初の地下劇場・
浜屋地下映画劇場
が開館
柱があり、見づらい席があった
→
1952(昭和27)
☆
閉館
★
一口香総本家榎純正堂が浜町電車通りに支店を出す
→
1957(昭和32)
☆
本店が浜町商店街内に移転
★
長崎市大浦の小さな食堂「京華」が長崎市新地町に移転
木造2階建一部3階で屋号を「中華料理京華園」に改名
営業内容はレストラン・出前及び宴会
→
1960(昭和35)
☆
鉄筋コンクリート4階建に増築
★
ザビエル渡来400年、天皇巡幸の記念事業としてスズラン灯が1942(昭和17)以来の復活
浜町(35基)、観光通り(35基)、かじや町(43基)、銅座町(21基)、中通り(3基)等
★
家野郷の一部の町名が昭和町となる
★
水産庁が南氷洋鯨肉の缶詰製造を提唱。大洋漁業(株)と日本水産(株)で20万ケースの鯨大和煮がはじめて製造
★
神の島ドンク岩にマリア像が建立
★
市営交通船の第5つる丸が川南造船所で建造
★
株式会社藤岡石油店を設立
★
上五島中道島の鯛ノ浦教会聖堂に煉瓦造りの鐘塔が増築
旧浦上天主堂の被爆煉瓦が使われる
→
1979(昭和54)
☆
新聖堂が造られる
潮風のため建物の破損が著しく不漁続きの不況の最中ながら信徒たちは巨額を拠出
旧聖堂は図書館などのほか信仰教育の「けいこ場」として残される
★
ツシマヤマネコが非狩猟鳥獣に指定され狩猟が禁止となる
→
1971(昭和46)
☆
国の天然記念物に指定される
★
西道仙の孫西仁寿が大学病院下で医院を開業
戦後引揚者の多かった浦上地区で診察料を払えない人をも良く往診
★
松尾正が西浜町で
丸二タクシー
として再開
社長の松尾は信義を重んじ公私の区別を明らかにして、常に弱いものの味方になって業界をリード
松尾は26才のとき、1935(昭和10)に台場町にて雲仙タクシーをはじめる
★
雲仙の旅館松本屋が合資会社に機構を変え、旅館の創業年とする
→
1968(昭和43)
☆
拡張に踏み切り、雲仙ニューグランドホテルをオープン
★
サトウハチロー作詞、古関裕司作曲、藤山一郎の歌で「長崎の鐘」が発表
永井隆のベストセラー「長崎の鐘」に取材した歌謡曲
→
のち
☆
大ヒットし舞台劇や映画となる
★
この年、長崎市の赤痢発生状況25(死亡2)
▼
1950(昭和25)
【昭和】
庚寅(かのえとら)
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