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▼
1941(昭和16)
【昭和】
辛巳(かのとみ)
《総理大臣》
[第38代]第2次近衞文麿内閣(→07/18)、[第39代]第3次近衞文麿内閣(07/18→10/18)
[第40代]東條英機(10/18→)
《知事》
[第33代(官選)]平敏孝
《市長》
[第14代]井野次郎(→05/23)、[第15代]岡田壽吉(10/22→)
01/01
★
北松浦郡佐々村に町制が敷かれ佐々町となる
北松浦郡星鹿村と御厨村が合併し町制が敷かれ新御厨町となる
→
1942(昭和17)05/27
☆
北松浦郡中里村、皆瀬村、大野町と東彼杵郡早岐町が佐世保市に編入される
01/31
★
輸送船「川工丸」が川南造船所にて進水
長崎と川南造船所を結ぶ輸送船で川南の従業員が通勤
01/
★
長崎バス(株)のタクシー部門を日の丸自動車に譲渡
02/
★
コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)が亡命者を救援したのを理由にドイツ秘密国家警察に再逮捕
→
05/
☆
アウシュビッツに送られる
第17・第12号獄舎を経て農業従事者の第14獄舎へ移される
→
のち
☆
第14獄舎で1人の収容者が逃亡。所長は報復に10人を餓死刑に指名
→
08/14
☆
コルベ神父は10人のうちの1人、若い父親ポーランド人兵士の身代わりを引き受ける
餓死刑室は地下牢、裸で放り込まれ、2週間以上、水や食料を断たれる
コルベ神父は懸命に勇気づけ、祈らせ、歌わせるが、みな息絶える
残ったコルベ神父はフェノール注射を打たれ毒殺が謀られる。47才で死去
03/01
★
長崎県営バスの雲仙出張所が開設、雲仙車庫が落成
→
1959(昭和34)03/20
☆
雲仙営業所改築完成
→
1963(昭和38)05/30
☆
小浜町より雲仙営業所車庫用地として2250.44平方米を買収
→
1968(昭和43)05/30
☆
雲仙女子職員寮が新築落成
→
1973(昭和48)01/31
☆
雲仙営業所職員住宅3戸を新築落成
→
2007(平成19)03/31
☆
雲仙出張所が廃止
03/
★
長崎測候所による風取山(どんの山)山頂での正午を報せる空砲がサイレンに変わる
空砲の前は大砲を撃っていた
→
1941(昭和16)12/31
☆
正午を報せるサイレンが廃止になる
03/
★
長崎バス(株)が個人経営の瀬戸〜時津線を買収
03/
★
国民学校令(昭和16年勅令第148号)が公布され、小学校は国民学校と改称
教科は国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科、体練科(武道・体操)、芸能科に統合
→
1947(昭和22)03/31
☆
学校教育法(昭和22年法律第26号)により廃止
04/01
★
磨屋尋常小学校が
磨屋国民小学校
と改称
→
1947(昭和22)04/01
☆
長崎市立磨屋小学校と改称
04/01
★
勝山尋常高等小学校が
勝山国民小学校
と改称
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆投下ののち臨時救護所となる
04/01
★
新興善小校が
新興善国民小学校
と校名を変更
→
1945(昭和20)08/09
☆
爆心地から南3粁の地点にあり爆風により窓ガラスが飛び散る
午後、付近一帯火災が発生するが、類焼はまぬがれる
負傷者は、戦時災害時に備えて計画された焼け残った救護所へと詰め掛ける。新興善国民学校もそのひとつ
04/01
★
城山尋常小学校が城山国民学校となる
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆により児童、教職員等約1400人が死亡
校舎の損傷も大きく修理しながら授業をすすめられた
04/01
★
上田町の南大浦小学校が長崎市大浦国民学校と改称
→
1947(昭和22)04/01
☆
長崎市立南大浦小学校と改称
04/01
★
浪平尋常高等小学校が長崎市浪平国民学校と改称
→
1947(昭和22)04/01
☆
長崎市立浪平小学校と改称
04/01
★
長崎市が浜屋デパート店内に結婚相談所を開設
「生めよ、増やせよ」の国策に沿い結婚を奨励
04/01
★
南松浦郡青方村(中通島)に町制が敷かれ青方町となる
→
04/03
☆
南松浦郡岐宿村(福江島)に町制が敷かれ岐宿となる
04/03
★
南松浦郡岐宿村(福江島)に町制が敷かれ岐宿となる
→
1943(昭和18)12/08
☆
南松浦郡奈良尾村(中通島)に町制が敷かれ奈良尾町となる
04/11
★
市内全町が結成
町内連合会24、町内会294、隣組4878
町内会は衛生組合の区域ごとに設立、町内会長は衛生組長に
国策遂行の末端機関として位置づけられる
→
1942(昭和17)02/05
☆
長崎市が「町内会は市の下部組織として市長の管轄下に置く」と明示
戦時中の町内会はフルに活用され、戦争遂行の一翼を担う
04/
★
親和銀行
が大村銀行、玖島銀行、九十九銀行を合併
→
1943(昭和18)10/
☆
佐世保貯蓄銀行を合併
04/
★
長崎市鮮魚介出荷統制組合が設立。出荷統制業務を行なう
06/01
★
長崎県営自動車運輸事務所が長崎県自動車局と改称
→
1945(昭和20)05/20
☆
馬町81番地の富国徴兵保険(株)跡に移転
06/
★
戦時下、統制令の企業整備により船蔵町に「
長崎醤油味噌醸造工業組合
」がスタート
長崎県下の味噌・醤油の醸造元28軒が共存共栄と企業の合理化が目的
業界としては全国初の共同施設による共同生産・販売を開始
→
1945(昭和20)08/09
☆
原子爆弾により生産設備の大半を失う
→
1947(昭和22)02/
☆
長崎醤油味噌工業組合へ改称
→
1950(昭和25)04/
☆
長工醤油味噌有限会社へ商号変更
→
1966(昭和41)04/
☆
長工醤油株式会社へ組織変更
→
1973(昭和48)10/
☆
チョーコー醤油株式会社(販売)へ社名変更
→
1983(昭和58)03/
☆
西坂町に本社ビルが完成
07/
★
関門トンネル工事で第1トンネルが貫通
起工は1936(昭和11)09/19
→
1942(昭和17)06/11
☆
急ピッチの工事の末、
関門海底隧道
の第1トンネル(6614米)が開通
世界初の海底トンネル。試運転が開始される
07/
★
対馬・壱岐・下関・旅順・羅津要塞の重砲兵連隊が編成
以後次々と各要塞守備のため、既存の「重砲兵連隊」から「要塞重砲兵連隊」が編成される
07/
★
昨年九月の9月の北部仏印進駐に続いて日本が南部仏印に進駐
08/10
★
市営交通船の元船町〜志賀波止航路の運航を中止
08/14
★
コルベ神父が獄舎10人のうちの1人、若い父親ポーランド人兵士の身代わりを引き受ける
コルベ神父はマキシミリアノ・マリア・コルベという
アウシュビッツ強制収容所の餓死刑室は地下牢、裸で放り込まれ、2週間以上、水や食料を断たれる
コルベ神父は懸命に勇気づけ、祈らせ、歌わせるが、みな息絶える
残ったコルベ神父はフェノール注射を打たれ毒殺が謀られる。47才で死去
08/
★
長崎無尽株式会社が昭和無尽株式会社と新立合併。業務区域が長崎県下一円に
→
1942(昭和17)04/
☆
諫早無尽株式会社を吸収合併
08/
★
アメリカが対日石油輸出を全面禁止。さらにABCD包囲陣を構成して日本の南進阻止をたくらむ
09/01
★
石油の消費規制が強化
09/04
★
大阪商船所属の「ぶら志る丸」が海軍に徴用されて輸送船となる
→
1942(昭和17)08/05
☆
北西洋上にて左舷中央部に魚雷2発を被る
空母に改造のためトラックより横須賀向け単独航行中のこと
フラッグデッキから「帽振れ」で別れの挨拶を告げる大野船長の勇姿とともに太平洋に葬られる。船員57人戦死
姉妹船「あるぜんちな丸」同様、有事に航空母艦に改装することが可能なように設計
09/05
★
日本郵船発注の商船「春日丸」から改装した特設空母「大鷹」が佐世保海軍工廠で竣工
→
1944(昭和19)08/18
☆
フィリピン北方海域で米潜水艦「ラッシャー」の雷撃を受け1本の魚雷が命中し沈没
09/
★
長崎バス(株)が野母〜脇岬間、瀬戸〜大串間のバス路線を長期運休に
09/
★
第3回水道拡張事業の市北部に浦上水源地、市南部に鹿尾水源地が起工される
→
1945(昭和20)02/11
☆
第3回水道拡張事業の浦上水源地濾過池6面のうち3面が完成。1日5千立方米の給水が可能に
10/01
★
三菱造船所の浦上グラウンドで国民徴用令による初の従業員徴用者(2万人)の徴用式が挙行
10/06
★
三菱長崎造船所の副長岡田寿吉が市会で第15代市長に当選
岡田寿吉は1887(明治20)03/
☆
兵庫県生まれ
東大法学部を卒業し1913(大正02)に長崎造船所に入社
→
10/15
☆
造船所を退社(年金1560円)
→
10/22
☆
市長に就任
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆時、岡田寿吉は市役所にいて助かる
平野町の自宅は被災、妻初枝、長女輝子、長男陽太郎をなくす
→
1945(昭和20)10/21
☆
任期満了
→
1945(昭和20)10/22
☆
第16代市長に再任
→
1946(昭和21)10/15
☆
退任。公職追放(パージ)該当者に指定される前に退陣。菅野助役が市長職務代理に
→
1949(昭和24)03/06
☆
前長崎市長岡田寿吉(63)が本河内の自宅を出てから消息を断つ
→
1949(昭和24)03/08
☆
戦後再婚したトキ夫人(41)から長崎市警に捜査願いが出される
足どり捜査や市役所職員らの協力を得て山狩り捜査を続ける
手掛かりはつかめず、当時“原爆市長ナゾの失踪”として市中で話題に
→
1956(昭和31)11/18
☆
唐八景から八郎岳へ向かう山中のお万茶屋付近の山林の中で、白骨死体となって発見
10/07
★
「長崎くんち」
(6)…丸山町(本踊)、興善町(傘鉾のみ)、本籠町(蛇踊囃子)、
今博多町(しゃぎり)、上筑後町(しゃぎり)、江戸町(しゃぎり)
10/12
★
内務大臣の命により全市内で総合防空訓練が実施
10/
★
米の配給が切符制から通帳制に改められる
→
1942(昭和17)01/
☆
塩の通帳制配給が実施される
秋
★
日華連絡第3船、三菱重工長崎造船所で進水した東亜海運貨客船の「
神戸丸
」(約8千瓲)が就航
→
1942(昭和17)11/11
☆
午前05時28分、東シナ海で日本郵船貨物船天山丸と衝突し沈没
乗員乗客875人中、乗客80乗員15人が死亡
11/05頃
★
敵の判断を混乱させる陽動作戦として、連合艦隊の主力が橘湾に集結。小浜町民を驚かせる
→
のち
☆
連合艦隊は大分県の佐伯湾に向かったと推測される
→
11/18
☆
機動部隊が佐伯湾を出港し待機地点の択捉島の単冠湾に向けて移動を開始
→
11/28
☆
機動部隊が単冠湾を出港。無線封鎖を行なって米軍に気づかれることなくハワイへ向かう
11/
★
長崎要塞司令部と長崎要塞重砲兵連隊(人員387)をもって長崎要塞防空隊を編成
稲佐山、星取山に高射砲陣地が構築される
11/
★
長崎中央教会が長崎銀屋町教会と改称。宣教師は全員帰国
12/01
★
長崎県営バスの大村出張所が開設
→
1950(昭和25)08/12
☆
大村営業所落成
→
1970(昭和45)10/25
☆
大村営業所女子職員寮が新築落成
→
1971(昭和46)03/28
☆
大村営業所及び整備工場が新築落成
→
1972(昭和47)10/25
☆
大村営業所職員住宅2戸が新築落成
11/05
★
御前会議で12月初旬の対米開戦を想定
→
12/01
☆
御前会議で対米英開戦が決定される
12/08
★
稲佐警察署が設置される
12/08
★
日本軍がマレー半島に上陸。ハワイ真珠湾に攻撃し米英両国に宣戦布告
12/08
★
午前07時、日本放送協会(NHK)のアナウンサー館野守男が開戦を知らせるニュースを2度繰り返す
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前6時発表…
帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
12/08
★
午前11時50分、戦争勃発により大北電信会社の長崎〜上海が不通となる
12/08
★
英国領事館
が閉鎖
→
1954(昭和29)09/
☆
公売にされる
12/09
★
天気予報を出すことが敵国に利するとして防空対策上、報道禁止に
→
1945(昭和20)08/22
☆
昼のラジオ放送で気象情報の報道が再開
12/20
★
長崎県営バスに大村地区路線の免許が交付
→
12/24運行開始
12/31
★
長崎測候所による風取山(どんの山)山頂での正午を報せるサイレンが廃止になる
12/
★
太平洋戦争勃発に伴い「移民教養所」を「小倉陸軍病院分院」に転用
→
1945(昭和20)10/22
☆
米国が接収、長崎軍政府管理の下、長崎茲惠(慈恵)病院となる
原爆被爆者をはじめ、一般市民の診療にあたる
→
1946(昭和21)04/
☆
米国より長崎市民に寄贈
日本医療団経営による長崎県中央病院「長崎慈恵(慈恵)病院」として発足
→
1948(昭和23)11/
☆
日本医療団の解散により長崎市が長崎県中央病院「長崎慈恵病院」を買収
日本医療団の解散は1947(昭和22)01/24
→
1948(昭和23)12/01
☆
長崎市立市民病院
として開設(内科、外科及び耳鼻咽喉科の3科。病床数96床)
→
1957(昭和32)07/01
☆
総合病院の承認を受ける
→
1962(昭和37)01/
☆
新館増築工事が完成。鉄筋コンクリート造4階建て、工費6035万円
→
1974(昭和49)10/25
☆
新館(地下1階・地上7階建)が完成、診療業務開始
→
1975(昭和50)12/01
☆
増改築工事が完成、落成式。総工費16億7000万円
★
「長崎日日新聞」が東京読売新聞に譲渡
社長は読売本社から小林光政、武藤具三らが後を継ぐ
→
1942(昭和17)04/01
☆
政府の強権により「長崎日報」に統合される
「長崎民友新聞」「軍港新聞」「島原新聞」とともに統合
政府は1940(昭和15)に東郷内閣の国策遂行のため通信、報道の統制、統合を強化
1県1紙の体制がすすめられる
長崎県では「長崎日日」と「長崎民友」が共同で統合に抵抗、全国で最後まで残っていた
合併反対派の「長崎民友新聞」の幹部全員が拘束され、その留守中のこと
社長は「長崎日日新聞」の武藤具三
★
長崎バスが共益自動車(大串線)を買収
★
東山手12番地の旧
プロシア領事館
の建物が活水学院に譲渡
→
1976(昭和51)
☆
建物が活水学院から長崎市に寄贈
★
古町の日本基督教会聖ケ丘伝導教会が日本キリスト教団長崎古町教会と改称
★
炉粕町の長崎商品陳列所が長崎市立博物館として活用される
★
大政翼賛会のすすめで「みそぎ」による「明魂運動」が盛んに行なわれる
★
長崎市立博物館が創立
★
伊王島炭鉱を開抗
★
伊王島に初めて電灯がともる
★
平坂製薬の「ヘデクパウダー」の原料のひとつ、アスピリンの入手が困難となり、一時休業を余儀なくされる
→
1947(昭和22)
☆
前年の創設者平坂茂市の死去にともない、長女平坂米子が会社復興
社名を平坂製薬株式会社とし、本社を金屋町に置く
→
同年
☆
全国に宣伝カーのマイク放送による宣伝活動を開始する
★
ドロップス、キャラメル、ビスケットが子供用菓子として切符制に
★
小林重守が長崎市内でに池月旅館を創業
招集を受けて中支、北支に転戦し召集解除となって帰還したのちのこと
→
1942(昭和17)
☆
小林重守が三菱造船に徴用される
→
1947(昭和22)
☆
池月旅館が原爆で焼かれたため木材商を営む
→
1954(昭和29)
☆
木材商を廃し恵美須町で旅館えび屋をはじめる
→
1964(昭和39)
☆
船山某が営む上町の迎陽荘を譲り受けて経営。えび屋支店迎陽荘に
★
雲仙でみやげ品店を営んでいた松本某が旅館松本屋を開業
→
1949(昭和24)
☆
合資会社に機構を変え、旅館の創業年とする
▼
1941(昭和16)頃
★
鍛冶屋町の古書店大正堂が自転車で注文図書を会員宅に貸し出していた移動雑誌回読会を終える
▼
開戦後
★
開戦の詔勅が下された8日を毎月「大詔奉戴日」と定める。それまでは毎月朔日が「興亜奉公日」
▼
第二次世界大戦中
★
三菱造船所の
グラバー邸
が大浦クラブとして使用
→
1945(昭和20)から約4年間
☆
米進駐軍の司令官公舎として接収
★
大浦上田町の七楽座が大浦劇場と改称
→
1964(昭和39)
☆
火災により焼失
★
西古川町の上田神仏具店が三菱長崎造船所で建造される艦船に祭られる神棚を製作
→
昭和30年代
☆
三菱社員の福利厚生事業のひとつに、家族の葬儀を受ける
→
のち
☆
葬祭業に進出。(株)上田葬儀社(のち長崎新生活センター)を設立。さらに婚礼部門にも参入
→
のち
☆
油屋町に移転
★
福富町3丁目の国光紡績が企業整備のため倉敷紡績会社に吸収
→
1943(昭和18)01/
☆
三菱長崎造船所幸町工場内の紡績工場跡地に福岡県俘虜収容所台14分所が開設
★
多くの梵鐘が供出されるなか
大浦天主堂
の朝顔型の青銅製聖鐘は国宝のため供出が免れる
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆により屋根、正面大門扉、ステンドグラス、その他の部分に甚大な被害
★
ド・ロ神父が建てた出津の聖堂の四角の鐘塔に吊るされた鐘が供出される
★
上五島中道島の鯛之浦港に特攻基地が設けられ鯛ノ浦教会聖堂が基地司令部となる
→
1949(昭和24)
☆
煉瓦造りの鐘塔が増築
旧浦上天主堂の被爆煉瓦が使われる
★
日本初のコンクリート造りの小曽根邸
が建物の強制疎開となり取り壊される
★
外浦町の長崎県庁庁舎に黒いまだらな迷彩が施される
→
1945(昭和20)08/09
☆
12時過ぎに原爆による火災が発生
青銅の屋根から白煙が生じ職員が手押ポンプで消火にあたるが、火の勢いが大きくなり手に負えない状態に
★
長崎市役所庁舎望楼の塔上に据えられる4面のサイレンが、独特な音色で不気味に警報を吹き鳴らすようになる
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆でも焼け残る
→
1958(昭和33)03/29
☆
夜、市議会事務局付近より出火。2階の大半を焼失
→
のち
☆
全館が建て替えられる
★
運転士の召集、ガソリンの配給制限などにより長崎県営バスの事業が圧迫される厳しい状況に
★
野母商船の中国揚子江航路、フィリピン航路で10隻の優秀船舶を被爆等で喪失
中国揚子江航路[上海〜新港〜南京(霍橋)]、フィリピン航路[マニラ〜イロイロ〜セブ〜ダバオ]
★
田主丸から長崎へ来て貿易を営んでいた菊池某が貿易の停止を理由に家業を廃止
→
1952(昭和27)
☆
初代が建てた家が原爆の被害をまぬがれ改築し旅館業をはじめる
屋号は母の名菊池春代から旅館菊春に
★
新地の砂糖やメリケン粉などの卸問屋「萬順号」が輸入の中断により廃業
→
1954(昭和29)
☆
林昭夫が祖父からの屋号「萬順」を継ぎ中華菓子をはじめる
祖父が菓子を作った新地に店舗を構え金銭餅を看板に売り出す
★
島原の藤田チェリー豆が名称を共栄製菓に変え備える
→
戦後
☆
本来のチェリー豆の製造もどる
★
榎津町の卸小売店、西坂食料品店が企業統合で肥塚酒店食料品部と合併
株式会社菊屋食料品店に機構をかえ食料品の配給業務を行なう
→
1947(昭和22)
☆
西坂食料品店が浜町に移り再スタート
和洋酒、食料品のほか土産品部を新たに設け、観光みやげ品の販売に力を入れる
県内の特産品がならび、壱岐のうに、壱岐の焼酎「山の守」、長崎のからすみなど、珍味を集める
★
シーボルト宅跡の竹林のなかに設置されていたシーボルトの胸像が金属供出のため失われる
胸像は東京美術学校の水谷鐡也教授により製作
→
1963(昭和38)
☆
シーボルト史跡保存会により長崎県立長崎図書館に残っていた石膏型を使って復元される
★
島原の吉田正八商店が企業統制で島原食品有限会社を作る
吉田正八商店の創業者、吉田正八が代表取締役に
→
1955(昭和30)頃
☆
観光客の増加で、長年の経験からナスの三楽漬け、ナスの一口辛子漬けを発売
有明海のわかめをもみわかめにして土産品に進出
▼
1942(昭和17)
【昭和】
壬午(みずのえうま)
《総理大臣》
[第40代]東條英機
《知事》
[第33代(官選)]平敏孝(→06/15)、[第34代(官選)]山内義文(06/15→)
《市長》
[第15代]岡田壽吉
01/
★
日本郵船発注の商船「八幡丸」が大鷹型の2番艦として呉海軍工廠で特設空母「雲鷹」への改装に着手
→
05/31
☆
竣工
→
のち
☆
南方方面への輸送業務に従事。何度も魚雷攻撃を受ける
→
1944(昭和19)09/17
☆
シンガポールから日本に向かう途中、
南支那海で米潜水艦「バーブ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
01/
★
長崎バス(株)が戸町〜西彼杵郡為石村と蚊焼村の路線を運営する野母自動車を買収
野母自動車戸町社屋が長崎バスの出張所に
→
1956(昭和31)08/
☆
戸町出張所が営業所に昇格
→
1964(昭和39)
☆
戸町営業所が廃止、小ケ倉営業所を開設
→
1971(昭和46)
☆
小ケ倉営業所が廃止
01/
★
塩の通帳制配給が実施される
→
02/
☆
味噌、醤油の通帳制配給、衣料の点数切符制が実施される
02/01
★
衣料切符制が実施される
都市部の居住者は1年に100点、郡部の居住者は80点の点数切符をもらい、点数内で衣料品の購入が認められる
主な衣料品の点数…背広1着50点、男オーバー50点、袷着物48点、単衣24点、ツーピース27点、レインコート30点、
学生オーバー40点、女オーバー40点、袴24点、ブラウス8点、ワイシャツ12点、ズロース4点、靴下2点、敷布団24点、
毛布40点、スカート12点、エプロン2点、ズボン下12点、セーター20点、パジャマ40点、タオル手拭い3点など
02/05
★
長崎市が「町内会は市の下部組織として市長の管轄下に置く」と明示
戦時中の町内会はフルに活用され、戦争遂行の一翼を担う
→
1947(昭和22)02/21
☆
長崎市が04/01の町内会制度廃止に伴い関係者を集め感謝大会を開催
02/11
★
東彼杵郡三浦村、鈴田村、萱瀬村、福重村、松原村と大村町が合併し
大村市
となる
長崎県下で5番目に市政を施行
→
05/27
☆
東彼杵郡早岐町と北松浦郡中里村、皆瀬村、大野町が佐世保市に編入される
03/16
★
長崎県営バスに島原市内線の免許が交付
→
03/19運行開始
03/29
★
陸相と内務相を兼任する
東条英機
が民情と軍需産業施設視察のため立川飛行場から西下
→
03/30
☆
夕方、大村を経て県差しまわしの車で県庁に到着
知事より県政報告を聞いた後、中庭で戦争完遂の訓辞をする
職員の不真面目さを大声で叱り、平敏孝知事は06/
☆
免官
→
03/31
☆
早朝より香焼島川南造船所を視察。川南豊作から将来計画を詳しく聞き従業員に訓辞
午前10時、三菱造船所でマイクにより全従業員に激励と感謝の訓辞を、各工場を視察
帰り、民衆を見て下車。挙手で答礼し旭橋付近まで歩く
03/
★
東条内閣の命令のもと全国の新聞は1県1紙となり島唯一の対馬朝日新聞が廃刊
→
1946(昭和21)05/
☆
戦後物資統制の中、用紙割当を受けるため創立者の斉藤隼人が商工省繊維局に出頭陳情
04/01
★
「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「軍港新聞」「島原新聞」が政府の強権により「長崎日報」に統合
政府は1940(昭和15)に東郷内閣の国策遂行のため通信、報道の統制、統合を強化
1県1紙の体制がすすめられる
長崎県では「長崎日日」と「長崎民友」が共同で統合に抵抗、全国で最後まで残っていた
合併反対派の「長崎民友新聞」の幹部全員が拘束され、その留守中のこと
社長は「長崎日日新聞」の武藤具三
→
1945(昭和20)07/
☆
「長崎新聞」と改題
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆により大村町の社屋が灰燼に帰す
→
のち
☆
社屋は出島町の旧長崎民友新聞社に移転
→
1946(昭和21)05/10
☆
「長崎新聞(長崎日報)」従業員組合が西岡取締役会長の辞任を要求し大争議
旧長崎日日系と旧長崎民友系との溝が深まり対立化したのが争議の主な原因
→
1946(昭和21)12/09
☆
統合されていた「長崎新聞(長崎日報)」が元の4紙に分離
「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「佐世保時事新聞(旧軍港新聞)」「新島原新聞(旧島原新聞)」に分離
04/
★
日本通運株式会社の日通元船町倉庫7棟が完成。建物は鉄筋コンクリート造平屋建
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆により6、7号棟の鉄扉の中央が屈曲して内側に吹き飛ばされる
→
戦後
☆
すぐに一部を補修して使用
→
1947(昭和22)
☆
1〜5号棟が建替えられる
04/
★
長崎無尽株式会社が諫早無尽株式会社を吸収合併
→
1951(昭和26)10/20
☆
相互銀行法が公布され株式会社長崎相互銀行と社名を変更
05/17
★
長崎〜上海の日華連絡船「
長崎丸
」(東亜海運)が伊王島北沖で日本軍布設の機雷に触れ沈没
船長が割腹自決
→
1943(昭和18)10/30
☆
揚子江口で南方兵員輸送船「崎戸丸」と衝突し「上海丸」が沈没
05/20
★
戦艦「
武蔵
」が長崎を出港し呉軍港へ向かう。第1艦隊第1戦隊に編入、「大和」と交替し連合艦隊旗艦に
→
1943(昭和18)
☆
連合艦隊旗艦となり大平洋各海域に転戦
05/27
★
東彼杵郡早岐町と北松浦郡中里村、皆瀬村、大野町が佐世保市に編入される
→
1955(昭和30)04/01
☆
東彼杵郡折尾瀬村、江上村、崎針尾村が佐世保市に編入される
05/27
★
北松浦郡中里村、皆瀬村、大野町と東彼杵郡早岐町が佐世保市に編入される
→
1947(昭和22)10/10
☆
北松浦郡鹿町村に町制が敷かれ鹿町(ししまち)町となる
05/
★
日本郵船発注の商船「新田丸」が大鷹型3番艦として呉海軍工廠で特設空母「冲鷹」への改装に着手
→
11/25
☆
竣工。それまでの戦訓を踏まえ、より大がかりな改装が加わる
→
のち
☆
空母としての生涯のほとんどを横須賀〜トラックの飛行機輸送として従事
→
1943(昭和18)12/03
☆
トラック島から日本に向かう途中、
八丈島沖で米潜水艦「セイルフィッシュ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
06/11
★
急ピッチの工事の末、世界初の海底トンネルとして
関門海底隧道
の第1トンネル(6614米)が開通
試運転が開始される
→
06/12
☆
「見よ世紀の処女列車は今ぞ行く(略)米英よ聞けこの建設の凱歌を、
重慶よ見よこの凄まじい鉄輪の回転を」(福岡日日新聞)
→
06/13
☆
旅客列車よりも先に試運転の名目で貨物列車が走る
→
07/01
☆
第1トンネルで貨物列車を正式に運転開始。この日をもって開業となる
06/
★
ミッドウェー海戦で日本海軍が大敗。以後戦局はアメリカ軍が優勢に
夏/
★
長崎市内にデング熱が流行
08/05
★
「ぶら志る丸」が北西洋上にて左舷中央部に魚雷2発を被る
空母に改造のためトラックより横須賀向け単独航行中
フラッグデッキから「帽振れ」で別れの挨拶を告げる大野船長の勇姿とともに太平洋に葬られる。船員57人戦死
姉妹船「あるぜんちな丸」同様、有事に航空母艦に改装することが可能なように設計
08/19
★
「長崎県仮設住宅建設部隊」が編成され大工組合員によって組織される
企画、資材供給等は県、市があたり木材商組合、金物商組合で木材、釘などを備蓄
→
戦後
☆
資材は復旧に放出
08/
★
市役所の下あたり、船津町の煉瓦造3階建の三菱病院船津町支局が船津町分院と改称
→
1945(昭和20)08/09
☆
夕刻、金屋町方面より燃え下ってきた火により延焼。夜にかけて炎上
09/12
★
鉄道局長崎管理部が発足。第20代門司駅長の前田重作が初代長崎管理部長に就任
→
1945(昭和20)08/13
☆
伊能門司鉄道管理局長が視察と慰問のため来崎。長崎管理部を訪れる
前田重作は、これまで常に「従事員の士気は益々旺盛」の旨を報告してきたが
今回は「遺憾ながら職員の意気阻喪の感がある」と報告。これは将に偽りのない処
10/07
★
「長崎くんち」渡御
(7)…寄合町(本踊)、五島町(本踊)、新引地町(本踊)、本石灰町(本踊)、船大工町(川船囃子)、
大井手町(傘鉾のみ)、眼鏡橋町(傘鉾のみ)、出来大工町(傘鉾のみ)、桶屋町(傘鉾のみ)
*新町と引地町で新引地町、袋町と酒屋町で眼鏡橋町に
10/17
★
本石灰町34番地の「南座」が大阪梅田映画劇場直営の演劇興行「
長崎宝塚劇場
」となる
→
のち
☆
洋画常設館となる
→
2005(平成17)02/18
☆
閉館となる
10/
★
川南工業香焼島造船所に「福岡俘虜収容所第2分所」を設け1227人を収容
南方戦線で捕虜になった英、米、蘭、豪等7か国の将兵が収容
将校27人は労働を免除、下士官と兵は川南造船所で労働に服す
11/11
★
午前5時28分、日華連絡第3船「
神戸丸
」が東シナ海で日本郵船貨物船天山丸と衝突し沈没
乗員乗客875人中、乗客80乗員15人が死亡
11/15
★
関門海底隧道
の第1トンネル(3614米)で旅客列車の運行を開始
午前11時、新築・移転した下関駅で八田慶明鉄道大臣ら2千人が集まり開通式が挙行
鉄道省などが公募した「海の底さへ汽車はゆく」を東海林太郎が披露
→
1944(昭和19)09/09
☆
上り線(3604米)も開通。これまでの単線は下り線となる
11/15
★
長崎〜東京間に九州最初のネームド・トレイン客車特急「
富士
」が運転開始。所要時間23時間30分
それまでは下関〜東京間を走る。上海航路の入港日には長崎港駅発着に
→
1943(昭和18)10/01
☆
博多〜東京間に短縮
→
1944(昭和19)04/01
☆
廃止
11/15
★
巡洋戦艦「霧島」が第3次ソロモン海戦でガダルカナル沖に戦没
11/20
★
雲仙ホテルが休業となり海軍病院となる
★
株式会社十八銀行が(株)諫早銀行を買収する
→
1944(昭和19)
☆
(株)長崎貯蓄銀行を合併する
★
ロシア教会が撤去、長崎要塞司令部が外浪町から港内、砲台陣地の島々を望む南山手の地に移る
★
株式会社十八銀行
の預金が1億円を突破
→
1967(昭和42)
☆
預金が1千億円を突破
★
十七銀行の地階の地下食堂十七食堂(個人経営)が太平洋食堂と改称
★
明治維新前後から第二次世界大戦までの戦没者を祀る長崎県護国神社が創建
梅香崎招魂社と佐古招魂社を合併
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆で本殿をはじめことごとく灰になる
→
1963(昭和38)10/
☆
再建される
★
スズラン灯が金属回収命令により供出
→
1949(昭和24)05/24
☆
復活
★
長崎要塞司令部が外浪町から港内他、砲台陣地の島々を望む南山手町へ移転
★
家野町の約6万坪を買収、1万6106坪の三菱兵器長崎製作所ができる
→
海軍の生産増強要請により1944(昭和19)まで工場の拡張工事が続く
★
市営交通船の松が枝〜旭町航路を休止
★
香港に「ホンコン玉屋」が開業
★
物価統制令に基づき惣菜類最高販売価格が定められる
★
国鉄伊佐線の潜竜ヶ滝〜吉井駅間にコンクリートアーチ橋の福井川橋梁が架かる
単線鉄道橋でアーチ部全長67m6cm、アーチ半径10m×3
戦時中の物資不足のため鉄筋の代用として竹筋が使われているとも
→
1944(昭和19)04/13
☆
潜竜(現潜竜ヶ滝)〜肥前吉井(現吉井)間の開業に伴い供用開始
→
2004(平成16)
☆
製造過程で鉄筋の代用として竹筋が使われているかどうか電磁波調査が行なわれる
鉄筋が使われていない可能性が高いことが確認される
→
2006(平成18)02/
☆
竹筋が使われているかどうか福井川橋梁で行われたコア抜き検査が行なわれる
竹は確認されず。地元では竹が使われていたのを見たとの証言もあり信憑性は高い
→
2006(平成18)09/
☆
同駅間にある吉田橋梁、吉井川橋梁とともに国の登録有形文化財となる
長崎県のまちづくり景観資産にも指定
統制は魚を使った寿司、天ぷら類の値段まで事細かに定められる
長崎蒲鉾組合では長崎市発行の購入切符で1人当たり25匁を配給
蒲鉾など練り製品にも最高販売価格が適用される
★
池月旅館を営んでいた小林重守が三菱造船に徴用される
→
1947(昭和22)
☆
池月旅館が原爆で焼かれたため木材商を営む
▼
1943(昭和18)
【昭和】
癸未(みずのとひつじ)
《総理大臣》
[第40代]東條英機
《知事》
[第34代(官選)]山内義文
《市長》
[第15代]岡田壽吉
01/15
★
警察での常備消防部を廃し、本興善町9番地(瓊林会館を買収)に市・長崎消防署を設置
01/
★
福富町3丁目の三菱長崎造船所幸町工場内の紡績工場跡地に福岡県俘虜収容所第14分所が開設
元長崎紡績(株)、国光紡績(株)のち倉敷紡績の跡地
建物は全部で7楝と付属施設。7楝のうち1楝が煉瓦造りで、他6楝は木造平屋建
インドネシア人480人を収容
収容所の日課は毎日引率され飽の浦の三菱造船所にいき、鋳物、木工、鋲打ちなどの作業をする
一部は幸町工場でも働く
→
1943(昭和18)春/
☆
収容所でクルプ性肺炎が流行し、死者が続出
作業中の事故死を含め原爆前に110人が長崎の土となり、遺骨は浦上天主堂に安置
→
1944(昭和19)05頃/
☆
オーストラリア、アメリカ人約40人が新たに入所
→
1645(昭和20)08/01
☆
5次空襲で造船所と幸町工場が攻撃を受け、収容所の俘虜3人が死亡
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆落下日は造船所の就労はなく、全員が幸町工場、収容所の修理などをする
幸町工場は瞬時にして全施設が全壊、猛火に包まれる
収容所は煉瓦塀が崩れ落ち建物は全焼し、60〜80人が即死、200人余りが重軽傷を負う
→
08/09
☆
夜、俘虜は金比羅山や浦上川川岸の空地などで一夜を過ごす
→
08/10
☆
朝、どこからともなく幸町工場に集まり、仲間の遺体を発掘
→
のち
☆
俘虜は造船所の小が倉寮(現戸町中学校)に移る
→
09/
☆
それぞれ本国に送還
01/
★
内務省と情報局が米英音楽約1000曲の演奏禁止リストを示し追放を指示
「軽佻浮薄、物質至上、抹消感覚万能」に毒され「国民の士気の昂揚」のために一掃すると説明
さらに国民生活に溶け込んでいる「敵性語」も使用禁止に
02/15
★
神戸〜東京の客車特急「鴎」が廃止となる
→
1953(昭和28)03/15
☆
博多〜京都に復活。列車番号6レ、5レ
初日の編成(7)〜(9)は招待客用車両
(機)EF10、C57+(1)スハニ35+(2)スハ44+(3)スハ44+(増)スロ54+
(4)スロ54+(5)スロ54+(6)スシ47+(7)スロ54+(8)スロ54+(9)スハフ43
02/26
★
長崎市内で戦争遂行に必要な金属類が不足し、金属類の回収を開始
神社、寺院、教会、墓地等の金属類が対象となり、各寺院の由緒ある梵鐘などが姿を消す
茂木町田上寺の232年の歴史を持つ梵鐘も軍需品に姿を変える
→
07/01
☆
長崎県金属類非常回収工作隊が結成され、組織的な推進が活発化
→
1944(昭和19)05/01
☆
長崎県金属類決戦回収工作隊と改称
橋の欄干、神社の鳥居、寺の梵鐘さえも回収の対象に
橋の欄干は木製に換わり危険防止に「サワルナ」の張り札がつく
03/01
★
国民体力法に基づき長崎市が乳幼児の体力検査を実施
03/31
★
長崎市療養所を廃止、これを長崎医療団に移管
03/
★
男子フランシスコ会が聖フランシスコ神学校を結核療養所とし浦上第1病院開設
軍に摂取される前の苦肉の策として、難を逃れるため結核病院に
→
1945(昭和20)08/09
☆
原子爆弾により壊滅
→
1945(昭和20)11/
☆
焼け跡に聖フランシスコ診療所が開かれる
→
1947(昭和22)
☆
木造建病舎(25床)を建設
→
1949(昭和24)10/
☆
聖フランシスコ第三会病院童貞会が男子フランシスコ会より移管
聖フランシスコ病院(結核療養所)を開設
診療科目は内科、呼吸器科。病床数75床
→
1963(昭和38)
☆
聖フランシスコ結核療養所が聖フランシスコ病院に改名
→
1968(昭和43)10/
☆
宗教法人聖フランシスコ病院会として改組
→
1970(昭和45)02/
☆
新病院竣工。近代的な病院に改築。鉄筋4階、地下1階となる
→
1980(昭和55)06/
☆
結核病床が廃止となる。病床数が228床となる[一般病床228床]
→
1996(平成08)04/
☆
救急病院の告示認定がされる
→
2000(平成12)04/
☆
居宅介護支援事業所のフランシスコ ケアプランセンターが開設
04/01
★
長崎県師範学校と長崎県女子師範学校が合併
官立の専門学校となり長崎師範学校と改称。男子部、女子部に
→
1945(昭和20)08/09
☆
原子爆弾により長崎師範学校男子部の校舎が全壊全焼、学生54人が被爆死
本部が大村市の女子部に移転。男子部は大村市の旧西部147部隊兵舎に移り授業を再開
【旧四六連隊の旧兵舎を使用して授業を開始】
04/10
★
門司鉄道管理局長崎管理部の新庁舎が出島長崎港駅前に落成
起工は1942(昭和17)07/17
敷地1151坪、建坪430坪、建設費27万円、
招待 部外170人、局33人、元在勤者6人、現場長76人、部員217人で計503人
それまでの第1庁舎は出島町7番地のホーム・リンガーの建物、
第2庁舎は出島町10、11番地の朝永病院の一部
→
1945(昭和20)04/12
☆
夜、施設課員の電熱器の不始末により失火。管理部建物の約2/3を焼失
敵機の来襲が次第に烈しく港湾地帯であり、比較的攻撃目標になりやすいため修復を断念
また出島近辺では、防空壕の施設が非常に困難等々の理由で長与駅前の適地を物色、管理部の施設を仮設することに
→
05/06
☆
長与村大字吉無田郷字内園101番地にて地鎮祭
突貫工事は地方村民各位の奉仕作業などをあわせて早期に完成。防空壕は裏山に掘鑿
→
06/20頃
☆
長与村大字吉無田郷字内園101番地にて仮庁舎が落成
→
06/23
☆
管理部が移転
官舎は管理部裏の谷間に10数のバラックを建設、浦上村付近にある鉄道官舎の強制疎開となっているものを移転
幹部級はおおよそこれに居住する
→
08/09
☆
門司鉄道管理局長崎管理部は原爆の大きな被害から逃れ、鉄道の早期復旧の原動力になる
04/
★
有限責任長崎信用組が市街地信用組合に
→
1950(昭和25)04/
☆
信用組合に
04/
★
水産統制令により林兼長崎支店が西大洋漁業統制(株)長崎支社を設置
→
1945(昭和20)12/
☆
大洋漁業株式会社と社名を変更
04/
★
上大浦小学校廃止により仁田小学校が児童約300人を収容。同時に高等科の児童を大浦国民学校に収容
→
1945(昭和20)08/09
☆
原子爆弾により校舎の屋根が大破、降雨期は授業を中止。校舎の至る所に損害を受け使用禁止
春/
★
福岡県俘虜収容所第14分所でクルプ性肺炎が流行し、死者が続出
福岡県俘虜収容所第14分所は福富町3丁目の三菱長崎造船所幸町工場内に所在
作業中の事故死を含め原爆前に110人が長崎の土となり、遺骨は浦上天主堂に安置
→
1944(昭和19)05/頃
☆
オーストラリア、アメリカ人約40人が新たに入所
05/04
★
倉場富三郎の妻ワカが69才で死去
遺体は新坂本国際墓地5番の1に埋葬
→
1945(昭和20)08/26
☆
富三郎が自殺
遺体は新坂本国際墓地5番の1に埋葬
06/10
★
長崎市が米英蓄音器音盤の回収をはじめる
→
07/01
☆
739枚を回収し長崎署へ送付
06/15
★
長崎市が毎月15日を防空訓練日と定め、各町内ごとに隣組単位で実施することを決める
06/20
★
飛行機「長崎市民号」の献納準備協議会が開かれ町内会、会社、工場単位に募集がはじまる
寄付金募集には翼賛壮年会、大日本婦人会支部、青年団も積極的に協力
→
年末
☆
約58万円が集まる
→
1944(昭和19)03/08、19
☆
献納式が海軍と陸軍に分けて行なわれる
三菱長崎造船所従業員の醵金で艦上戦闘機「三菱長崎造船号」を海軍省に献納。正式名は「報国第1373号」
06/30
★
長崎県営バスが西肥バスの5路線とを共栄自動車の2路線買収
06/
★
野母商船がマニラ〜イロイロ〜セブ〜ダバオのフィリピン航路を開設
07/01
★
島原鉄道
が
口之津鉄道
を吸収合併し諫早〜加津佐78.5粁となる
07/01
★
戦時統制により
島原鉄道
が
口之津鉄道
を吸収合併。諫早〜加津佐間78.5粁となる
島原鉄道…諫早〜島原湊、口之津鉄道…島原湊〜加津佐
同じく島原鉄道が口之津〜鬼池間航路を兼営
07/
★
大学や高専の学生たちが三菱の各工場や川南造船所などに貴重な労働力として動員されるようになる
08/09
★
八幡神社横の常設芝居小屋「八幡座」が「
長崎歌舞伎座
」と改称
→
1946(昭和21)
☆
火事により焼失
→
のち
☆
教会と幼稚園に
08/
★
防空指導員会議が袋町の公会堂で開かれる
軍、県、各警察署、市役所、警防団、報道機関、地区の指導者など防空の指導層を網羅
08/
★
三菱長崎造船所が「必勝」「報國」(各430瓲)2隻を建造。水の浦・立神に配置し直営で運航
→
戦後
☆
「女神丸」「新生丸」と改称
10/01
★
長崎〜東京間の客車特急「
富士
」が戦況を鑑みて博多〜東京間に短縮
→
1944(昭和19)04/01
☆
廃止となる
10/07
★
「長崎くんち」渡御
(1)は御神幸のみ。奉納踊は自粛。東検番が奉納踊と称し三菱会館で舞い納める
10/30
★
日華連絡船「
上海丸
」が揚子江の東方40哩の沖合で南方兵員輸送船「崎戸丸」(1万瓲)と衝突しが沈没
10/30
★
日華連絡船の航路が途絶え臨港鉄道、
長崎港駅
の役目が終わる
→
1949(昭和24)10/15
☆
長崎港駅から、さらに大浦川まで692米の臨港線延長敷設工事が完成
長崎港駅で開通式を挙行
10/
★
親和銀行
が佐世保貯蓄銀行を合併
→
1969(昭和44)04/
☆
佐世保市に本店を完工
11/01
★
第二次世界大戦により税関事務を海運局に統合
長崎税関は門司海運局長崎支局に併合
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆投下、旧長崎税関庁舎甚大な被害を受ける
11/13
★
勅令第八百六十八号により「
要塞地帯法戦時特例
」が公布される
→
1945(昭和20)10/13
☆
勅令第五百七十六号によって「要塞地帯法」「要塞地帯法戦時特例」等が廃止となる
11/20
★
寄合町1番地より出火。俗に丸山の火事。原因はお燈明
貸座敷大吉楼、梅月楼、三日月楼などが焼け全焼11棟、半焼1棟
焼失面積1万1022平方米、被災者22世帯128人、死者6人、負傷者2人
12/03
★
日本郵船発注の商船「新田丸」から改装した特設空母「冲鷹」が沈没
トラック島から日本に向かう途中、
八丈島沖で米潜水艦「セイルフィッシュ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
12/08
★
南松浦郡奈良尾村(中通島)に町制が敷かれ奈良尾町となる
→
1954(昭和29)04/01
☆
南松浦郡奥浦村、崎山村、本山村、大浜村、福江町が合併し福江市となる
12/17
★
作家の丹羽文雄が海軍報道班員として戦意高揚のため長崎に派遣される
12/18
★
並行航路統合の国策に基づく燃料統制が施行
長崎電鉄が所有する船舶・施設・航路権など関係の設備一切を73万円で長崎市へ譲渡、港内航路の統合を図る
譲渡航路は大波止〜立神〜戸町、大波止〜浪の平〜西泊、大波止〜向島
既存の市営航路は大波止〜水の浦、大波止〜旭町、旭町〜松が枝
譲渡船舶は第1〜第4電鉄丸(69.32瓲)、第5・第6電鉄丸(55.82瓲)
第7・第8電鉄丸(39.35瓲)、第10電鉄丸(39.62瓲)、第11電鉄丸(128.48瓲)
第12電鉄丸(のちの第3鶴丸128.48瓲)、のちの第4鶴丸。市営交通船は合計16隻となる
第1〜第9電鉄丸は第1〜第9長港丸と改名
船車連絡料金は電鉄が収納
年末
★
飛行機「長崎市民号」の献納準備協議会が開かれ町内会、会社、工場単位に募集
寄付金募集には翼賛壮年会、大日本婦人会支部、青年団の積極的な協力の結果、約58万円が集まる
→
1944(昭和19)03/08、19
☆
献納式が海軍と陸軍に分けて行なわれる
三菱長崎造船所従業員の醵金で艦上戦闘機「三菱長崎造船号」を海軍省に献納。正式名は「報国第1373号」
★
長崎バス(株)が戸町〜梅ケ崎間の崎陽バスと運休状態の城山〜福田〜式見間の山一バスを買収
長崎バスは目標通り野母半島と西彼杵半島全域にバス路線を結ぶことに
★
長崎バス(株)が長崎雲仙連絡汽船を吸収し設立した海運部が戦時合理化により長期休業に入る
★
諏訪神社の青銅製鳥居が金属類特別回収のため撤去
→
1952(昭和27)04/28
☆
鎮西大社諏訪神社に一の鳥居が建立
戦後講和記念として橋本和太八ら6人の奉納による
★
長崎駅裏の中之島で興行中のサーカスが終了後、軍命令でライオンを薬殺すると噂される
★
西部瓦斯が北九州を営業区域とする九州瓦斯を合併、資本金1400万円となる。顧客戸数6万3700戸
★
銀屋町にある糸岐商店本店が閉鎖に追い込まれる
糸岐商店は1883(明治16)、銀屋町に糸岐千代蔵が開店
★
東山手教会、長崎聖教会、救世軍長崎小隊が国家による解散を命ぜられる
長崎銀屋町教会がそれらの信徒・牧師数10人を受け入れる
★
矢上〜江の浦に県営バスが運行を開始
★
上町の長崎孤児院が実質的に閉鎖
★
1911(明治44)生まれの山賀誠二が長崎市内でに旅館油屋を創業
山賀誠二の父は築町で山賀石油店を経営。松早石油や藤岡石油と並んで集まりの席では常に上座につく
→
1967(昭和42)
☆
岡町の住宅地に旅館を建て屋号をまこととして新発足
閑静、高台の都心から離れた場所で純旅館としての経営は長崎観光旅館業界の注目を集める
★
雲仙新湯の九州ホテルが日本海軍の保養施設として接収さる
→
戦後
☆
日本軍の接収が終わる
★
戦艦「
武蔵
」が呉軍港から連合艦隊旗艦となり大平洋各海域に転戦
→
1944(昭和19)10/
☆
米軍のフィリピン上陸作戦を阻止する捷1号作戦に参加
レイテへ向けてブルネイを出撃。他機動部隊を生かすために囮として目立つようペンキを塗り直す
▼
1944(昭和19)
【昭和】
甲申(きのえさる)
《総理大臣》
[第40代]東條英機(→07/22)、[第41代]小磯國昭(07/22→)
《知事》
[第34代(官選)]山内義文(→08/01)、[第35代(官選)]田中重之(08/01→)
《市長》
[第15代]岡田壽吉
03/08、19
★
飛行機「長崎市民号」の献納式が海軍と陸軍に分けて行なわれる
海軍省への献納は三菱長崎造船所従業員の醵金による艦上戦闘機「三菱長崎造船号」
正式名は「報国第1373号」
03/29
★
長崎高等商業学校(第3高商)が勅令第165号により長崎経済専門学校と改称
長崎工業経営専門学校が併設
→
1946(昭和21)04/01
☆
長崎工業経営専門学校がその使命を終えて廃止
04/01
★
博多〜東京間の客車特急「
富士
」が廃止となる
04/06
★
資本金10万円(2千株)で土木建築請負業を目的に(株)長崎土建工業所が発足
本店は長崎市茂里町91番地に。代表取締役に溝越繁義が就任
→
1946(昭和21)01/30
☆
本社を長崎市東浜町44番に移転
→
1952(昭和27)05/09
☆
本社を長崎市羽衣町31番に移転
→
1976(昭和51)05/10
☆
本社を長崎市出島町4番2号に移転
★
国鉄伊佐線の潜竜ヶ滝〜吉井駅間にコンクリートアーチ橋の吉井川橋梁が架かる
単線鉄道橋でアーチ部全長45m88cm、アーチ半径5m×4
戦時中の物資不足のため鉄筋の代用として竹筋が使われているとも
→
1944(昭和19)04/13
☆
潜竜(現潜竜ヶ滝)〜肥前吉井(現吉井)間の開業に伴い供用開始
→
2004(平成16)
☆
製造過程で鉄筋の代用として竹筋が使われているかどうか電磁波調査が行なわれる
鉄筋が使われていない可能性が高いことが確認される
→
2006(平成18)02/
☆
竹筋が使われているかどうか福井川橋梁で行われたコア抜き検査が行なわれる
竹は確認されず。地元では竹が使われていたのを見たとの証言もあり信憑性は高い
→
2006(平成18)09/
☆
同駅間にある吉田橋梁、福井川橋梁とともに国の登録有形文化財となる
長崎県のまちづくり景観資産にも指定
04/13
★
国鉄伊佐線の潜竜(現潜竜ヶ滝)〜肥前吉井(現吉井)間が開業
コンクリートアーチ橋の吉田橋梁、福井川橋梁、吉井川橋梁の3橋がそれぞれ供用開始
→
2004(平成16)
☆
鉄筋の代用として竹筋が使われているかどうか電磁波調査が行なわれる
鉄筋が使われていない可能性が高いことが確認される
04/15
★
長崎県が県下の中等学校に初めて学徒動員を指令
第1陣として長崎市立商業学校、県立長崎工業学校の3、4年生と市内の全女学校の4年生
三菱造船、川南造船、三菱兵器、三菱電機の主要生産部門に6か月配置
→
1945(昭和20)
☆
学業が1年間中止に
男子中学2年生以上は工場労働に専念、1年生は土木作業の合間に授業を受ける
04/
★
「決戦非常措置要綱」により6大都市の国民学校児童200万人へのおにぎり1個の給食が開始
→
09/
☆
パンに変更
05/01
★
金属類の回収をする長崎県金属類非常回収工作隊が長崎県金属類決戦回収工作隊と改称
橋の欄干、神社の鳥居、寺の梵鐘さえも回収の対象に
橋の欄干は木製に換わり危険防止に「サワルナ」の張り札がつく
05/01
★
警察官による「長崎県警備隊」の結成式が挙行。隊長以下74人
警備隊は激化する空襲に対処するために設けられ、ひたすら非常事態発生に備えての訓練に徹底
本部は立山町に(現ユースホステルの場所)
05/27
★
長崎三菱造船所で特攻艇「震洋(○に四で[マルヨン]とも呼ばれる)」の試作第1号艇が完成
→
06/30
☆
約200隻が完成
ベニヤ製の1人乗りモーターボートで艇首に250瓩爆弾を搭載。重量1.4瓲、全長1.5米、速力23節
本土決戦に備えた水上特攻部隊の主力となり、全国の整備隊25と済州島に配備
攻撃目標は輸送船と大型上陸用舟艇
05/
★
長崎製鉄所が諏訪神社に奉納した
青銅の神馬
が長崎県金属類決戦回収工作隊に回収される
→
1985(昭和60)10/01
☆
新しい青銅の神馬が奉納される
北村西望が前年に制作した第16回日展出品作品で、天皇在位60年を奉祝して復元
05/
★
長崎駅前の文明堂支店の前の建物を中川安五郎から戸野本得蔵が月300円で借り受け旅館を始める
→
戦後
☆
樺島町に移る
→
1946(昭和21)
☆
旅館中央荘として経営を開始
→
1967(昭和42)12/
☆
万才町にニューホテル中央荘を建てる
地下1階、地上7階の和洋折衷、客室36。宴会場、会議場の設備のほか、7階にスカイレストラン、屋上はビアガーデン
貿易港長崎の発祥の地、万才町の高台に長崎の展望所としてタワーの役割を果たす
春/
★
福富町3丁目の福岡県俘虜収容所第14分所にオーストラリア、アメリカ人約40人が新たに入所
→
1645(昭和20)08/01
☆
5次空襲で造船所と幸町工場が攻撃を受け、収容所の俘虜3人が死亡
07/
★
沖縄戦に備え内閣は沖縄県民のうち老幼婦女子と学童の集団疎開を決定。8万人を本土へ、2万人を台湾へ
08/10
★
29機のB-29が中国の成都基地を発進、長崎に初空襲を行なう
第1次空襲
(目標:市街地)
午後11時20分、警戒警報発令。1分間のサイレンが鳴り響く
午後11時30分、空襲警報発令。警報の短い断続10回のサイレンが響く
→
08/11
☆
午前03時12分、空襲警報解除
各機3瓲の焼夷弾、爆弾は三菱の工場地帯を攻撃目標としたが外れ三菱造船所に被害はなくすむ
平戸小屋町、稲佐町と古河町の一部が焼け、焼夷弾のほとんどは大山、彦山を含む山中に落下
家屋被害は全半焼9戸、全壊1戸。死者13人、重傷26人で空襲による長崎初の犠牲者に
08/18
★
日本郵船発注の商船「春日丸」から改装した特設空母「大鷹」が沈没
フィリピン北方海域で米潜水艦「ラッシャー」の雷撃を受け、1本の魚雷が命中
08/22
★
学童疎開船「対馬丸(6754瓲)」が那覇から長崎へ向けて出港
すでに九州南海は米潜水艦が出没する危険地帯で、護衛なしの航行は無謀
→
夜
☆
鹿児島県トカラ列島、悪石島の北西10粁で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、わずか10分で沈没
児童、教師、付添人ら1661人が乗船。1484人(うち児童738人)が死亡。救助されたのは177人のみ
08/23
★
学徒動員令が発令
08/
★
長崎バス(株)が時津〜長与間、栄上〜蚊焼間、面高〜板の浦間、城山〜福田〜式見間などを運休に
08/
★
1〜2人乗り特攻兵器「回天(○に六で[マルロク]とも呼ばれる)」の建造が長崎三菱造船所で着手
93式魚雷に人が乗り込み操作できるよう改造した特攻兵器。魚雷の頭部に爆弾を装填し敵艦に体当たりする
全長14.75米、直径1.0米、全重量8.3瓲、速力30節、航続距離23粁、爆弾1550瓩
脱出装置はなく、後進もできず、旋回圏が大きく、耐圧深度80米で航行中の艦船攻撃は無理
09/09
★
関門海底隧道
の上り線(3604米)が開通。上下2本が開通する。これまでの単線は下り線となる
09/17
★
日本郵船発注の商船「八幡丸」から改装した特設空母「雲鷹」が沈没
シンガポールから日本に向かう途中、南支那海で米潜水艦「バーブ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
09/
★
長崎市は午後10時以降、電燈に黒い筒カバーを降ろし、カーテンを閉めるなどの厳重な灯火管制を敷く
10/01
★
県立諫早、島原、小浜、平戸、武生水各保健所設置
10/07
★
「長崎くんち」
(2)は御神幸のみ。奉納踊は自粛
10/
★
戦艦「
武蔵
」が米軍のフィリピン上陸作戦を阻止する捷1号作戦に参加
レイテへ向けてブルネイを出撃。他機動部隊を生かすために囮として目立つようペンキを塗り直す
→
10/24
☆
19時35分、フィリピン群島シブヤン海にて米艦載機の6次にわたる猛襲を受け沈没
猛襲は魚雷20発以上、爆弾17発の他、至近爆弾多数
10/24
★
19時35分、戦艦「
武蔵
」がフィリピン群島シブヤン海にて米艦載機の6次にわたる猛襲を受け沈没
猛襲は魚雷20発以上、爆弾17発の他、至近爆弾多数
10/
★
長崎医大第2病理学教授 吉田富三が“吉田肉腫”の作成実験に成功
11/01
★
日本郵船向け豪華貨客船「
浅間丸
」が南支那海のバシー海峡にて雷撃により沈没
12/17
★
長崎市、空襲時の医療救護機関を設置
救護本部1、救護所28、救護病院16、助産救護所8、特設救護病院5、移動班2、計60か所
構成人員、医師165人・歯科医師96人・薬剤師114人・看護婦118人・助産婦92人・保健婦25人、計610人
12/27
★
決戦体制に呼応し「1億火の玉」となって、軍官民連合による大規模防空演習が行なわれる
消火、防火、救護に重点を置く
12/
★
特設航空母艦「隼鷹」が長崎港外で雷撃を受け中破
特設航空母艦「隼鷹」は時局緊迫のため日本郵船の豪華客船「
橿原丸
」(2万7700総瓲)を改装
後半
★
特殊兵器が三菱長崎造船所で盛んに建造
「○四(まるよん・実際は一文字)」は合板製で自動車のエンジンで滑走
「蚊龍」は排水量わずか59瓲の潜航艇で魚雷2本を搭載し水中16節で敵に接近する
★
赤迫にトンネルを掘削し三菱兵器工場の一部を移す
★
株式会社十八銀行が(株)長崎貯蓄銀行を合併する
★
大橋の屠畜場が赤迫に移転
→
1975(昭和50)
☆
市営屠畜場を食肉センターと改称
★
長崎市大浦にて戦中の混乱の中、借家にて小さな食堂「京華」が創業
→
1949(昭和24)
☆
長崎市新地町に移転
木造2階建一部3階で屋号を「中華料理京華園」に改名
営業内容はレストラン・出前及び宴会
→
1960(昭和35)
☆
鉄筋コンクリート4階建に増築
→
1972(昭和47)
☆
角地を買収し、鉄筋コンクリート6階建一部4階神前式場を増設
営業内容はレストラン・宴会及び婚礼
→
1977(昭和52)
☆
全館鉄筋コンクリート建て6階で厨房を2階に移設
長崎中華街で初の洋室を増設し婚礼を充実
→
1982(昭和57)
☆
中国海鮮料理始める
→
1988(昭和63)
☆
外装及び1・2階を改装
→
1995(平成07)
☆
時代のニーズに合わせ全面改装
★
朝鮮の青年徴用工が三菱長崎造船所に約2400人、川南香焼島造船所に約300人、三菱長崎製鋼所に110人入所
日本人男性の多くが徴兵され、不足を「学徒勤労令」で生徒を各工場に配置しても足りず
長崎刑務所から540人の囚人を動員し長崎造船護国隊を編成し三菱長崎造船所に出動させたが不足
★
規模を次第に拡張し、
長崎三菱兵器製作所
大橋工場がほぼ完成
工場敷地約19万8千平方米(6万坪)に配置された建物施設は7万5900平方米(2万3千坪)
→
1945(昭和20)
☆
長崎三菱兵器製作所の拡張工事が完成
土地7万5千坪、建物4万1794坪、機械設備3435台、従業員1万5千人に
一部鉄筋コンクリート造の他は大部分が鉄骨、鉄板張りの建物
本部事務所と食堂は木造建築。全部で20楝余り
大橋工場では飛行機用91式魚雷、茂里工場では艦船用95式魚雷の制作が主
91式魚雷は太平洋戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃、マレー沖海戦で使用
91式魚雷7343個、95式魚雷2699個を海軍に納める
▼
1945(昭和20)
【昭和】
乙酉(きのととり)
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