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〈昭和時代(2)〉

1935(昭和10)【昭和】 乙亥(きのとい)

  《総理大臣》[第31代]岡田啓介
  《知事》[第29代(官選)]鈴木信太郎(→01/15)、[第30代(官選)]田中広太郎(01/15→)
  《市長》[第12代]笹井幸一郎

  03/02対馬に天然痘患者3人
  03/10旭町4丁目88番地に初めて公益質屋が開業
     1945(昭和20)03/戦局の重大化にともない閉鎖
     1949(昭和24)11/01第1市営公益質屋として復活、営業開始
     1965(昭和40)04/01廃止
  03/17長崎市内小学校児童3万944人中2504人がトラホームと判明
  03/17夜、数え年27才の太宰治が街を見下ろす鎌倉八幡宮の裏山で縊死を図る。紐が切れ未遂に終わる
     1937(昭和12)03/20前後数え年29才のとき、妻初代と水上村谷川温泉に行く
     03/21谷川岳の山麓でカルモチンによる心中自殺を図るが未遂に終わる
  04/01上田町の南大浦小学校に南大浦青年学校が併置される
     1941(昭和16)04/01長崎市大浦国民学校と改称
  04/01壱岐郡香椎村に町制が敷かれ勝本町となる
     1947(昭和22)11/03壱岐郡田河村に町制が敷かれ田河町となる
  04/03本原〜西山の産業道路2200米が完成
  04/西中町に純心女学院が開校
     1936(昭和11)04/長崎純心高等女学校と改称
     1937(昭和12)家野町に移転
     1945(昭和20)08/09原爆により生徒700人のうち209人が死亡、全校舎が焼失
     1945(昭和20)10/大村市の元海軍工廠跡にて授業が再開
     1947(昭和22)新制の純心中学校が開校
     1948(昭和23)純心女子高等学校が開校
     1950(昭和25)純心女子短期大学が開校
     1975(昭和50)純心女子短期大学が三ツ山町に移転
  05/29北原白秋が雲仙に遊び、投宿
  05/稲佐橋〜水の浦橋の稲佐海岸舗装道路、延長1313米、幅員5米が完成
  05/県庁横〜本下町〜江戸町〜長久橋の新坂道が完成
  06/01本五島町と浦五島町が合併、五島町と改称
  06/01雲仙鉄道の営業管理を島原鉄道に委託。期間は1年間
     1938(昭和13)07/22経営不振で第35回定期株主総会において解散が決定
  06/11諫早町に天然痘、腸チフス(06/12)も発生
  06/この月の長崎市内の伝染病患者38人(赤痢9・疫痢14・腸チフス9・ジフテリア1・猖紅熱4・流行性脳脊髄膜炎1)
  06/島原、秩父が浦公園の海に突きでた小高い丘の上に九十九ホテルが開業。22才の大場千年が経営にあたる
     外国人専用ホテルとしてオープンし上海や香港方面の避暑客を主として営業
     明眉な風光と主人自ら先頭に立ったサービスとが外人客にうける
     九十九島を一望できる絶景の地に建てられたことから命名
     また九十九の語源は、百(も)に次ぐということから「次ぐ百(も)」として、たいへんおめでたい名
     1967(昭和42)10/01全館オープン
     本館地上8階、別館5階、客室72室、収容力350人、一度に150人が入浴できる展望風呂
     本館内には自慢のいけ洲料理、天ぷらコーナー、すしこーなーなどを併営
  07/31長崎市片渕町に疑似疫痢患者4人発生
  08/09長崎市西立神町に疫痢患者、飽の浦町に腸チフスが発生
  08/20諫早町には赤痢患者3人
  08/28尾上町の魚市場内にイワシ類専用の第3魚揚場(174坪)が完成、取引が開始される
     昭和初期は、まだイワシは長崎県水産会水産物卸売市場で執り行われていない
     近海物が多く、氷蔵が普及していなかったため、早く弱るイワシは市民の食卓には不向きなため
     1933(昭和08)頃、イワシが大量に獲れ、鮮度保持に氷を使いはじめ、新鮮で安いイワシが食膳に供されるように
     イワシは元船町の波止場で取引。自称仲買人が無許可で流通。扱高の増加に従い金銭面や取扱上のトラブルが発生
     十分な洗浄施設を整たない露天での商売で、魚市場の立場上、場外での市場活動は衛生的にも統制上許されないこと
     長崎県水産会は魚市場関係者の要望に沿い、魚市場内にイワシ類専門売場の必要性から魚揚場建設を長崎県に要請
  08/2909時30分、三菱長崎造船所で建造した巡洋艦「三隈」の軍への引渡し式が挙行
  08/「長崎新聞」が廃刊
  08/この月の長崎市内伝染病147人(赤痢67・疫痢62・腸チフス9・猖紅熱3・ジフテリア3・流行性脳脊髄膜炎3)
  09/13長崎市医師会館の移転新築落成式、袋町23番地から榎津町55番地に移る
     県医師会事務所も同会館内に移転
     1948(昭和23)02/12(県)新制社団法人長崎県医師会の定款が成立する
     1971(昭和46)12/18(市)長崎市医師会が榎津町55番地から新地町に移転新築、落成する
     名称を長崎市医師会医療センターと改める
  10/07「長崎くんち」
     (7)…丸山町(本踊)、五島町(本踊)、引地町(獅子踊)、本石灰町(本踊)、桶屋町(本踊)、
     大井手町(蛇踊・西彼杵郡滑石村)、船大工町(川船)、袋町(本踊)、酒屋町(本踊)、出来大工町(本踊・段尻)
     *新町、堀町は小屋入りのみの参加
  10/10県内はもとより東京、関西方面の知名士を招いて雲仙観光ホテルの落成式が盛大に行なわれる
     10/11営業を開始
     国内不況の打開策の一環として国際観光の推進が提唱されたことによる
     社長の橋本喜造は橋本商会の初代橋本雄造の兄の子供で大分県生まれ
     1875(明治08)頃、橋本商会の佐世保店を経営。船具、金属類の鎮守府御用達として大いに栄える
     1961(昭和36)天皇皇后両陛下の宿泊を記念して館内に「魚苑」を建てる
     「魚苑」では有明海の生き海老を目の前で揚げて天ぷらにし供する
  三菱球場(現川口町)にて読売巨人軍と全三菱軍の野球試合が行なわれる
     結果、25対1で全三菱が敗退
  東中町51番地の松本鼈甲店が廃業
  法人組織に改め、合名会社石丸文行堂設立。石丸忠兵衛(2代目)代表社員に就任
     1959(昭和34)02/万屋町95・96番地の土地を購入裏通りまで拡張
  市営交通船の大波止〜水の浦航路に第1鶴丸、第2鶴丸、他1隻を増強
  フジオカが長崎で初の石油スタンド(石油地下槽)となる給油所を馬町に開設
     1949(昭和24)株式会社藤岡石油店を設立
  本格的な橘神社創建に向けた活動が始まる
     1936(昭和11)02/長崎県知事田中広太郎を会長とし創建奉賀会設立
  沖之島の松村茂氏字乗越に試錐して着炭、有望な石炭層の発見
  西彼杵半島と針尾島の間の針尾瀬戸に橋を架けるよう地元から陳情書が提出される
     のち日中戦争勃発により中止
     1948(昭和23)06/県議会に架橋調査費を上程、承認を受ける
     のち設計は九大の三瀬幸三郎博士に。つり橋型の構想から上路式アーチ型橋梁の有利性が浮上。途中で設計変更
     1950(昭和25)11/23架橋建設は建設省の直営事業とされ、起工式が挙行
     占領軍のシングルトン中佐も参列。両岸から橋桁工事に着手
     1951(昭和26)「対日見返り資金」打ち切りと県の公共事業切り替えのため、国道でない道路が半額県費負担に
     猛運動が繰り広げられる
     1952(昭和27)「道路整備特別措置法」により工事費の15か年償還を期限とした有料道路に指定、工事は続行
     1955(昭和30)10/18針尾瀬戸に架かる橋の完工式が盛大に行なわれる。「西海橋」と命名される
     全長316米、海面からの高さ42米、東洋一の固定網アーチ。総工費5億6千万円
     長崎市、佐世保市、西彼杵郡大串村の3代3組夫婦による渡り初めが行なわれる
     世代に受け継がれ蓄積された英知が橋を完成させたことを感謝し、永遠の幸福を願う日本独特の儀式
     1970(昭和45)橋が無料開放される
  満州国皇帝が訪日
  長崎魚市場に入荷される主な魚の種類
     中国東方海上物のタイ・レンコダイ・アマダイ・エソ・グチ・イカ、沿岸物のブリ・マグロ・カツオ・サバなど…
     この年の水揚量は8千万斤、売上金額は750万円
     市場入荷品のうち2800万斤、金額250万円は魚市場を通過し漁業者が直接、県外消費地へ貸車送りとなる
     残りの5200万斤、金額500万円は魚市場に卸され問屋の手により売買
      更にこの内の8割(400万円)は仲買人を経て県外消費地へ搬送され
      2割(100万円)が小売人によって長崎市内外の消費者に供される
  松尾正が26才のとき台場町に雲仙タクシーをはじめる
     のち戦争で2度召集。北ボルネオで終戦を迎え復員
     1949(昭和24)西浜町で丸二タクシーとして再開
     社長の松尾正は、信義を重んじ公私の区別を明らかにして、常に弱いものの味方になって業界をリード
  関門トンネルの建設話が復活
     1936(昭和11)本州〜九州間に鉄道トンネルの建設を決定
     09/19門司側の工事現場で起工式が行なわれる
  末/田中作太郎が炉粕町の諏訪荘を譲り受けて旅館業を開始
     田中作太郎は1893(明治26)長崎銀屋町生まれ、父子2代にわたって海運業福島屋の支配人をつとめる
     諏訪荘は1920(大正09)に十八銀行4代頭取の永見寛二が金にあかして建てる

1935(昭和10)頃

  本石灰町70番地の「二宮病院」が廃業、のち賃貸アパートに
     1987(昭和62)解体
  大浦に街路樹としてナンキンハゼが植えられる。初めて街路樹にナンキンハゼが使われる

1936(昭和11)【昭和】 丙子(ひのえね)

  《総理大臣》[第31代]岡田啓介(→03/09)、[第32代]廣田弘毅(03/09→)
  《知事》[第30代(官選)]田中広太郎
  《市長》[第12代]笹井幸一郎

  01/01北高来郡湯江生まれの木下竜雄が本石灰町で料亭たつたを創業
     1940(昭和15)丸山町の「千歳」を「錦」と名称を変えふぐ料理をはじめる
     のち大村航空隊専用の待合となる
  01/29腐敗選挙をなくすため諏訪神社など市内18神社で、長崎市選挙粛正会委員による粛正選挙祈願祭が行なわれる
  01/第2次ロンドン海軍軍縮会議で日本案に反対された全権永野修身は脱退を正式に通告
     海軍は米国と対等の海軍兵力を希望しながら対抗することができなくなる
     個艦あたりの威力で補う巨艦主義が採用、世界最大の戦艦大和型4隻の建造を計画
     1番艦「大和」、2番艦「武蔵」、3番艦「信濃」は空母に変更、4番艦はなし
  02/26二・二六事件起こる
     未明。歩兵第1連隊、第3連隊、近衛歩兵第3連隊などの下士官兵1400人に非常呼集。民間人も加わる
     午前05時10分頃。栗原安秀中尉の約280人は麹町区永田町の首相官邸を襲撃
      警官4人を殺害、岡田啓介首相と間違えて秘書官の松尾伝蔵大佐を誤射
      岡田は女中部屋の押入で難を逃れる。翌日弔問客に紛れて脱出
     午前05時05分頃。坂井直中尉の約210人は四谷区仲町の斎藤実内大臣私邸を襲う
      斎藤に機関銃40発を撃ち込み斬撃を加えて殺害
     午前05時05分頃。中島莞爾少尉の約60人は赤坂区表町の高橋是清蔵相私邸に乱入
      「天誅」と叫び高橋をピストルと軍刀で殺害
     午前05時10分頃。安藤輝三大尉の約200人は麹町区三番町の鈴木貫太郎侍従長私邸に侵入
      下士官がピストルで撃ち安藤がとどめを刺そうとするが孝子夫人の懇願にやめる
      鈴木は一命をとりとめる→のち☆戦争受諾内閣の総理となる
     午前06時頃。高橋太郎少尉の約20人は上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸を襲う
      ピストルで応射した渡辺を殺害
     午前05時頃。野中四郎大尉の約450人は警視庁を占領
     午前05時頃。丹生誠中尉の約160人は麹町区永田町の陸相官邸を占領
     午前08時55分頃。田中勝中尉の約60人はトラック、乗用車を動員。各隊の移送に当たり朝日新聞社を襲撃
      〜08時55分頃/日本電報通信社〜09時30分/報知新聞〜09時35分頃/東京日日新聞社
      〜09時40分/国民新聞社〜09時50分頃/時事新報社とすすむ
     午前05時40分〜06時20分頃。河野寿大尉は民間人6人と湯河原の牧野伸顕伯爵を襲撃
      護衛巡査を殺すが牧野は難をまぬがれる
     02/27午前02時40分。戒厳令施行が決定
     02/28午後11時。戒厳司令官が命令
     「叛乱部隊ハ遂ニ大命ニ服セズ、拠ツテ断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」
     02/29朝。鎮圧側は「下士官兵ニ告グ」のビラをまき、
     「勅命下る、軍旗に手向ふな」のアドバルーンをあげ
     中村アナウンサーはラジオを通じて「兵に告ぐ」を繰り返す
     午後01時過ぎ。最後まで残った安藤中隊も安藤大尉の自決失敗により原隊に戻る
     反乱軍将校は陸相官邸に集結。代々木の陸軍刑務所におくられる
     のち軍法会議→判決
     09/25事件の後処理が一切おわる
     1937(昭和12)08/15黒幕として逮捕された北一輝と共鳴者の西田税がともに死刑判決
     1937(昭和12)08/19磯部、村中を加えた4人の死刑が執行
  02/長崎県知事田中広太郎を会長とし橘神社創建奉賀会設立
     1937(昭和12)神社創建の許可がおりる
  03/02観光通りができる。工費8万6千円。本古川町〜萬屋町間は中通り
  03/14勝山尋常小学校に鉄筋コンクリート造3階建ての現校舎が竣工
     昭和08(1933)長崎市建築課に技丁として入庁の丹羽漢吉により昭和10(1935)から改築設計が行なわれる
     当初はモルタル仕上げの明るいクリーム色で建設されるが、戦時中は建物に迷彩が施される
     1941(昭和16)04/01勝山国民学校と改称
  03/14「興安丸」が三菱重工業株式会社長崎造船所で起工
     10/02進水、鉄道省所有
     1937(昭和12)01/31関釜連絡船として就航
     1945(昭和20)08/31引揚船に指定され博多・仙崎〜釜山を往復
     往航は在日韓国人の帰国輸送、復航は日本人の引揚輸送に従事
     1950(昭和25)08/朝鮮動乱により国連軍に傭船され兵士や傷病兵を輸送。以降、引揚輸送に従事する
     1953(昭和28)03/23中国引揚再開、帰国第1船として舞鶴入港
     1953(昭和28)11/30ソ連引揚再開、帰国第1船として舞鶴入港
     1956(昭和31)12/26シベリヤ抑留者の最終梯団を乗せて舞鶴入港
     1957(昭和32)08/東洋郵船に譲渡、東京湾周遊船として人気を博す
     1970(昭和45)10/広島県三原市木原町沖にて解体
  03/28新興善小学校に鉄筋コンクリート3階建校舎が竣工
     普通教室30、特別教室5、管理室6、雨天体操場1
     1941(昭和16)04/01長崎市新興善小学校と校名を変更
  04/17天然痘が長崎市に発生
  04/28長崎〜茂木間でバス事業を営む2社を買収し長崎茂木乗合自動車株式会社が創立
     2社は崎陽自動車商会と金子自動車商会
     創業当時の運行路線は長崎市鍛治屋町〜茂木町本郷間の営業8.1粁。バス6台、従業員20人
     08/15社名を長崎自動車株式会社[以下、長崎バス(株)]と改称。鍛冶屋町に本社をおく
     1938(昭和13)01/本社を元船町の大波止に移転
     1956(昭和31)02/本社を茂里町整備工場敷地内に移転
     1966(昭和41)10/22本社を新地町に移転
     本社事務所を含む長崎バスターミナルビルが完成。資本金7億8千万円に増資
  04/西中町の純心女学院が開校が長崎純心高等女学校と改称
     1937(昭和12)家野町に移転
  05/コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)が、管区会議出席のためポーランドへ帰国
     ポーランド・ニエポカラヌフの院長に再選
     1939(昭和14)第2次世界大戦がはじまる。ドイツ軍がポーランドに侵入しニエポカラヌフが占領される
     コルベ神父は逮捕されアムティツに入れられるが、のち解放される
  06/28県立五島高女寄宿舎内にパラチフス患者30人
  08/08西彼杵郡式見村に腸チフス患者21人
  08/15北松浦郡生月村に腸チフス発生、他に10人の疑い
  08/15長崎茂木乗合自動車(株)が長崎バス(株)と改称。鍛冶屋町に本社をおく
     1938(昭和13)01/本社を元船町の大波止に移転
  08/22北松浦郡生月村の腸チフス患者36人、佐世保海軍の赤痢患者は相次いで死亡
  08/「佐世保要塞」が「長崎要塞」に吸収合併される
  09/30五島崎山村長手郷で腸チフス患者が死亡、戸口調査で10数人の患者がいることが判明
  10/01春洋丸(日本郵船・旧東洋汽船)が解体のため東京の甘粕産業に売却
     1938(昭和13)02/18春洋丸が大阪で解体
  10/08渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更10/10還御
     (1)…寄合町(本踊)、船津町(川船)、平戸町(本踊)、本博多町(本踊)、
     樺島町(太鼓山)、八幡町(剣舞)、麹屋町(剣舞)、万屋町(鯨潮吹き)、
     西浜町(本踊・龍船)、銀屋町(大名行列)、諏訪町(蛇踊)
     7年1巡制の最後の年となる
  10/31ソビエト連邦からの発注による耐氷型貨物船を川南工業株式会社香焼島造船所で起工
     1937(昭和12)02/16第2次世界大戦直前の情勢に対処しソ連への引き渡されず商船「地領丸」として竣工
     1940(昭和15)06/04耐氷能力に目をつけた海軍が徴用。特務艦(運送艦)「宗谷」として配備される
     のちミッドウェー海戦に動員される
     1945(昭和20)10/01船舶運営会所属、引揚輸送に従事する
     1945(昭和20)10/ヤップ島→浦賀(1280人引揚)
     1945(昭和20)11/グアム島、トラック島→呉(1520人引揚)
     1946(昭和21)台湾、ベトナム等から引揚者を輸送
     1946(昭和21)07/旧満州(大連、樺太、北朝鮮、等)から引揚者を輸送
     1956(昭和31)11/08国際地球観測年に伴う南極観測で、耐氷構造を買われ南極観測船に選定
     初代南極観測船となる
     以降1961(昭和36)まで、毎年1回ずつ南極へ向けて計6回にわたり出港
     1978(昭和53)10/02退役
     1979(昭和54)05/船の科学館前に係留され永久保存展示
  10/長崎バス(株)がタクシー部門を新設(市内料金は50銭均一)
     のちバスは鍛治屋町、タクシーは大浦町、八坂町、船大工町で営業
     1941(昭和16)01/タクシー部門を日の丸自動車に譲渡
  11/16雲仙〜仁田峠(仁田自動車有料道路)が開通
  11/25日独防共協定が成立
  川南豊作が川南工業(株)を設立。港外香焼島の元松尾鉄工所跡を買収。資本金500万円
  長崎の豪商永見寛二が建て諏訪荘が「諏訪荘」の商号により、和式旅館として営業
     日本三指に数えられ、皇族をはじめ内外の著名人が多数利用
     1984(昭和59)廃業にあたり取り壊されることになる
     しかしながら保存を望む市民の熱意により諏訪神社に移築奉納される
  新大工町の「舞鶴座」が廃館
  興福寺内の長崎女子商業学校が新町に移転
     1947(昭和22)栄町の現在地に移転
  橋本覚一が中島川畔のカルルス公園を買う
     橋本覚一は17才で諫早から長崎にで、衣料品の行商から1代で財を築き、多額納税者として長崎の財界に名を連ねる
     のちこの地に旅館虎屋を創業
     戦後アメリカ軍に接収され、旅館を本石灰町に移す
     1950(昭和25)駐留軍の接収が解かれ料亭はし本を新築開業。敷地約1千坪
     1967(昭和42)02/01本石灰町の旅館虎屋の建物が古くなり、魚の町に鉄筋地下2階、地上5階の大旅館を完成オープン
     部屋は豪華な純和風だがカギ1本で自由に振る舞えるようにホテル洋式を採り入れる
     経営者の理念「外観は鉄筋の建物でも、旅館はあくまで古来のサービスと情緒とに徹しなければならない」
     屋上は長崎の夜の展望所、地階はクラシックな和風レストラン虎茶屋と駐車場
     「虎茶屋」では1品料理から天ぷら、鍋物料理、しっぽく料理、名物の虎鍋桜の葉で巻いたさくら寿司などを提供
     建設は西日本菱重興産(三菱造船一環の事業)第1回の建設として施工
  田浦数男、金子修二が経営していた長崎〜茂木の乗合自動車を南国モータースの上野喜左衛門、本坊豊吉が引き受ける
     長崎茂木乗合自動車を創業。社長本坊豊吉、監査役白男川恒夫。幌の乗用車6台で営業を開始
  樺島町の港温泉を譲り受けた森崎正人が経営を開始
     それまでの港温泉にボイラーを取り付け、近代経営に切り替える
     のち長崎市内120の浴場のうち港温泉は長崎一と繁昌する
     戦争末期〜終戦後燃料がなく苦労し一家総動員で営業を続ける
     1950(昭和25)戦後の観光ブームで2階を改装、旅館業を始める
     浴場と旅館を併営して人気を集める
     のちボーリングを手がけ水脈を掘り当て港温泉と旅館経営がプラスとなる
     のち本格的な旅館経営に取り組み増築を重ねる
     1965(昭和40)港洋館を新築
  本州〜九州間に鉄道トンネルの建設を決定
     09/19門司側の工事現場で関門海底隧道の起工式が行なわれる
     1939(昭和14)04/19先通導坑(工事促進のため先に掘削した小トンネル)が貫通
     戦時体制下での輸送増強を目的に突貫工事で建設
     最先端のシールド工法(三菱重工業製のシールド)を駆使し、多量の湧水に対抗する難工事
     トンネルと海底との土被り(距離)が小さく、超小型潜水艇による調査が行なわれる
      坑内で頭上を通過する船舶のスクリュー音が聞こえる。海底に坑内の空気が漏れ出す
  雲仙の有明ホテルが早くも合名会社の組織として経営の合理化を図る
     終戦直前他のホテルとともに佐世保海軍病院の保養施設となる
     終戦後アメリカ軍将校のレストハウスに接収
     1950(昭和25)接収が解かれ従来のホテル経営に復する

1937(昭和12)【昭和】 丁丑(ひのとうし)

  《総理大臣》[第32代]廣田弘毅(→02/02)、[第33代]林銑十郎(02/02→06/04)、[第34代]近衞文麿(06/04→)
  《知事》[第30代(官選)]田中広太郎(→02/10)、[第31代(官選)]岡田文秀(02/10→)
  《市長》[第12代]笹井幸一郎

  01/20長崎電鉄が第11・第12電鉄丸(各128瓲、定員309)を三菱長崎造船所で建造
     従来の第11電鉄丸は第9電鉄丸に
  01/31「興安丸」が関釜連絡船として就航
     1945(昭和20)08/31引揚船に指定され博多・仙崎〜釜山を往復
     往航は在日韓国人の帰国輸送、復航は日本人の引揚輸送に従事
  02/01日華連絡船「長崎丸」の乗客に天然痘患者
  02/05長崎電鉄は西泊汽船(梅丸の深沢シゲヨ)の営業権を200円で譲り受け大波止〜浪の平〜西泊航路を開設
  02/11南高来郡多比良村に町制が敷かれ多比良町となる
     1940(昭和15)04/01南高来郡島原町、杉谷村、安中村が合併し島原市となる
  02/16ソビエト連邦からの発注の耐氷型貨物船が商船「地領丸」として竣工
     第2次世界大戦直前の情勢に鑑みソ連への引き渡しはなされず
     1940(昭和15)06/04耐氷能力に目をつけた海軍が徴用。特務艦(運送艦)「宗谷」として配備される
  03/04壱岐東部地方に麻疹流行
  03/20前後数え年29才の太宰治が妻初代と水上村谷川温泉に行く
     03/21谷川岳の山麓でカルモチンによる心中自殺を図るが未遂に終わる
     1948(昭和23)06/19朝6時50分頃、東京・三鷹の玉川上水に入水した太宰治と山崎富栄の情死体が発見される
     太宰治は数え年40才、山崎富栄は30才
  04/01柳通りに続く市内縦貫道路として銅座〜新地の道路が開通
  04/01県立長崎工業学校が丸尾町の県水産講習所跡を仮校舎として開校
     1940(昭和15)04/上野町(現南山高校)に移転
     1945(昭和20)08/09原爆で全校舎が焼失
     のち大村の元海軍空廠工員養成所の施設を仮校舎に
     のち市立商業学校の一部を使用、長大医学部の病床を借りるなど転々とする
     1952(昭和27)岩川町に新校舎が完成し落ち着く
  04/17大波止〜出島に玉江橋が架かる
  05/28来日中の三重苦のヘレン・ケラーが来崎。勝山小学校で講演会を行ない聴衆2千人が集まる
     05/29「長崎県立盲学校」浦上校舎にヘレン・ケラー女史が来校、記念として月桂樹を手植
     1948(昭和23)10/16戦後の混乱期のまっただ中、日本最後の訪問地として再び来崎
  05/長崎電鉄の螢茶屋車庫の竣工により茂里町車庫が解体、廃止に
  06/26長崎港外端島炭坑に腸チフスが猖獗、患者16人
  07/01神戸〜東京に客車特急「鴎」が誕生
     1943(昭和18)02/15廃止
     1953(昭和28)03/15博多〜京都に復活。列車番号6レ、5レ
     初日の編成(7)〜(9)は招待客用車両
     (機)EF10、C57+(1)スハニ35+(2)スハ44+(3)スハ44+(増)スロ54+
     (4)スロ54+(5)スロ54+(6)スシ47+(7)スロ54+(8)スロ54+(9)スハフ43
     →1957(昭和32)06/06☆客車を10系客車に置き換え。香椎線、勝田線での客車の方向転換が廃止となる
     蒸気機関車をC57形からC59形に変更
     1958(昭和33)10/01列車番号を202レ、201レに変更
     1961(昭和36)09/30客車特急「かもめ」が廃止。最後の牽引蒸気機関車はC59形7号機
     1961(昭和36)10/01長崎・宮崎〜京都に82系気動車特急「かもめ」の運転が開始
     1963(昭和38)10/0114両編成での運転を開始
     1964(昭和39)10/01運転区間を長崎・西鹿児島〜京都に変更
     1968(昭和43)10/01運転区間を長崎(博多経由)・佐世保(筑豊本線経由)〜京都に変更
     1975(昭和50)03/10新幹線の博多開業にともない廃止
     1976(昭和51)07/01長崎本線、佐世保線の電化完成。長崎・佐世保〜博多・小倉に電車特急が登場
     長崎・佐世保〜博多・小倉に485系電車特急「かもめ」7往復、電車特急「みどり」6往復が新設
     長崎〜博多が20分短縮
     長崎〜博多の「かもめ」と博多〜東京の新幹線「ひかり」で最短9時間46分。10時間を割る
     2000(平成12)03/11日蘭交流400周年を記念し長崎〜博多に885系振子式電車特急「白いかもめ」がデビュー
     それまでの赤色の「Red Express かもめ」の後継車両として登場
     JR九州としては883系の特急「ソニック」に次いでの高速運転できる制御付き振子電車
     カモメをイメージした白い車体に黄色と黒のアクセント、先頭部は流線形
     車内は革張りの座席やオープンスペースデッキなど、高級感あふれる内装
      最大寸法(長さ×幅×高さ)=2万1650×2910×3825粍
      最高運転速度=時速130粁
      出力=1両760キロワット(6両編成のうち電動車M車は、3両、主電動機MT402K、1両190キロワット×4個)
  07/07盧溝橋付近で演習中の日本軍に向けて数発の銃声が轟く
     07/08午前3時30分頃、銃声を3発聞く。現地の一木大隊長が北京の連隊長に聞く
     「戦闘を開始して可なり」との返事
     午前5時30分、一木大隊は盧溝橋付近を警護する中国第29軍へ攻撃を開始
     07/11一方的に中国側が事件の責任を認める形で現地協定が結ばれる
  07/07いわゆる盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発
  07/27長崎県営バスの小浜営業所が開設
     1938(昭和13)05/15小浜営業所車庫が落成
     1961(昭和36)10/11小浜営業所が開所、新築落成
     1969(昭和44)08/07小浜営業所女子職員寮及び所長公舎が新築落成
     1994(平成06)06/03小浜営業所が完成
     2007(平成19)03/31雲仙市小浜町大字南木指字合屋1760番地の長崎県営バス小浜営業所が廃止となる
     2007(平成19)04/01小浜ターミナルが島鉄バスのターミナルとなる
  08/15二二六事件の黒幕として逮捕された北一輝と共鳴者の西田税がともに死刑判決
     08/19磯部、村中を加えた4人の死刑が執行
  08/岩川町に国防婦人会が誕生。長崎では初めて
     のち各町に続々と誕生する
     「国防婦人会」「愛国婦人会」と書いたタスキをかけた婦人が出征軍人の送迎に、銃後の援護活動に献身的に活躍
  09/01長崎市伝染病病院が長崎市長崎病院と改称【12/?】
  09/09県下の伝染病患者1350人(腸チフス445・赤痢363・疫痢298)と発表される
  09/11昭和自動車(株)の経営権を力武エイより青木洋鉄商店が譲り受ける
  09/19戦火の拡大とともに華商が大打撃を被る
     長崎在住の華僑のうち320人が2次にわたって門司出帆の英国船で香港へ引き揚げ
  09/25華北戦場での戦勝を祝し3日間にわたり市民による提灯行列や女学生の旗行列が行なわれる
  10/07「長崎くんち」
     (2)は御神幸のみ。奉納踊は自粛
     くんち3日間は防空演習にあてられる
  10/26南松浦郡三井楽小学校に腸チフス発生
  10/30長崎県師範学校が西浦上村家野郷に校舎を新築。桜馬場から移転
     1943(昭和18)04/01長崎県師範学校と長崎県女子師範学校が合併
  11/15銅座町〜新地町に鉄筋コンクリート造の銅座橋が完成
  11/18長崎県営自動車運輸事務所(長崎県営自動車)が大波止の玉江町3-4に移転
     1940(昭和15)07/10大波止の玉江町3-5に移転
  11/18支那事変(日中戦争)は公式には「戦争ではない」とされたため
     大本営設置を戦時に限定していた大本営条例は勅令第658号によって廃止に
     新たに戦時以外に事変でも設置可能にした「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定
     11/20大本営が設置されそのまま大東亜戦争に移行
     1945(昭和20)09/13大本営が廃止となる
  12/19日本人経営の大浦町25番地「ジャパン・ホテル」が全焼
     大浦居留地に最後まで残った唯一のホテルだった
  12/竹の久保の長崎市避病院が長崎市立長崎病院と改称
  12/林兼長崎支店が土井の首冷蔵所を新設
     1943(昭和18)04/水産統制令により西大洋漁業統制(株)長崎支社を設置
  松本兼松がアメリカのホームメイドのアイスクリーム・スイーツの店「ニューヨーク堂」を創業
     松本は23年間にわたりアメリカの大手自動車メーカー「ゼネラルモータース」の会長専属シェフを勤め上げる
  西中町の長崎純心高等女学校が家野町に移転
     1945(昭和20)08/09原爆により生徒700人のうち209人が死亡、全校舎が焼失
  橘神社創建の許可がおりる
     1940(昭和15)05/15鎮座祭が執り行なわれる
  諫早の池田喜四郎が独力で土木建築業を興し池田木材店を経営
     1953(昭和28)材木業を廃業し旅館経営に転業。五島町に池田屋旅館として創業
     のち屋号を池田荘に変更
  1894(明治27)に五島岐宿で生まれた松本甚十郎が雲仙に移り精肉、食堂を営む
     のちみやげ品店に転じる
     1941(昭和16)旅館松本屋を開業
     1949(昭和24)合資会社に機構を変え、旅館の創業年とする
     1968(昭和43)拡張に踏み切り、雲仙ニューグランドホテルをオープン
  長崎駅頭や浦上駅頭で出征兵士を見送りする市民で埋まり、熱狂的歓呼と旗の波でどよめく
  吾妻村の地主の跡継ぎとして生まれた馬渡謙蔵が小浜で旅館・春陽館を創業
  島原で漬物、味噌、醤油などの製造をする吉田正八商店を営む吉田正八が島原漬物組合の組合長に推される
  雲仙小浜自動車が県営バスに合併される
  合名会社「田中長一本店」の田中正行が29歳で長崎県板硝子卸商協同組合理事長に就任

1937(昭和12)頃

  欧州〜日本の定期航路は、欧州8か国の船会社と日本郵船を合わせて14社の船が就航
     旅客と貨物の輸送に活況を呈する
     世界14社の就航隻数は187隻(貨客船94隻・貨物船93隻)162万瓲
     うち日本郵船は27隻(貨客船10隻・貨物船17隻)
  平坂製薬が日本全国の営業の為、フォード3台を購入。マイク放送による宣伝活動を開始する
     1941(昭和16)「ヘデクパウダー」の原料のひとつであるアスピリンの入手が困難となり、一時休業を余儀なくされる

1938(昭和13)【昭和】 戊寅(つちのえとら)

  《総理大臣》[第34代]近衞文麿
  《知事》[第31代(官選)]岡田文秀(→04/18)、[第32代(官選)]川西実三(04/18→)
  《市長》[第12代]笹井幸一郎(→05/20)、[第13代]青木善祐(08/29→)

  01/11厚生省が設置される
  01/12未明、尾上町の集散場付近の倉庫からの出火
      人身の事故はなかったものの、集散場、魚市場、あわせての損害は8万2800円に
  01/長崎バス(株)が本社を鍛治屋町から元船町に移転。本社事務所(2階)と大波止営業所(1階)を開設
     隣にタクシー車庫を設け事業を1本化
     1956(昭和31)02/茂里町整備工場敷地内に本社を建設。大波止から移転
     1966(昭和41)10/22大波止営業所が廃止
  02/18春洋丸(日本郵船・旧東洋汽船)が大阪で解体
  02/合名会社「田中長一本店」が合資会社「田中長一商店」に改組、改称
     1938(昭和13)頃三輪車“ニューエラ”を購入
     長崎市内で三輪車を備えた商店は10店もなかった時代
     1948(昭和23)04/長崎地区を始め、東京、福岡に営業拠点開設
     東京出張所は日本橋の三井村のそば(現・千疋屋)に構える
  03/03長崎県営バスの大波止(玉江町)車庫が完成
  03/08佐世保市比良町にコレラ発生
  03/29戦艦武蔵が三菱長崎造船所にて起工
     主力艦の数の不足を個艦の優秀性で補おうと極秘のうちに第2船台で建造
     1940(昭和15)11/01三菱長崎造船所にて進水
     全長236.3米、幅36.9米、排水量6万9100瓲、15万馬力、速力27節、乗員2500人
     世界最大の主砲46糎3連装3基。射程距離41粁、30粁先の厚さ43糎の装甲板が貫通するほど
     3連装砲塔の旋回部だけで2200瓲に
     建造費として1937(昭和12)の見積書に6253万8550円と記される
     1942(昭和17)05/20長崎を出港し呉軍港へ向かう
     第1艦隊第1戦隊に編入、「大和」と交替し連合艦隊旗艦に
     1943(昭和18)連合艦隊旗艦となり大平洋各海域に転戦
     1944(昭和19)10/米軍のフィリピン上陸作戦を阻止する捷1号作戦に参加
     レイテへ向けてブルネイを出撃。他機動部隊を生かすために囮として目立つようペンキを塗り直す
     1944(昭和19)10/2419時35分、フィリピン群島シブヤン海にて米艦載機の6次にわたる猛襲を受け沈没
     猛襲は魚雷20発、爆弾17発の他、至近爆弾多数
  03/31長崎県営バスの矢上車庫が落成
  04/01長崎市の第3次市域拡張により西彼杵郡小榊村、土井首村、小ケ倉村、西浦上村を市域に編入
     90.54平方粁、戸数4万8270、人口26万8945となる[1938(昭和13)12/31現在]
     小榊村2.05平方粁、640戸、3741人(男1921・女1820)
     土井首村13.93平方粁、657戸、3880人(男1872・女2008)
     小ケ倉村9.78平方粁、425戸、2289人(男1135・女1154)
     西浦上村23.68平方粁、877戸、4665人(男2255・女2410)
     [拡張区域は1937(昭和12)12/31現在]
     1950(昭和25)04/01長崎市の第4次市域拡張により西彼杵郡福田村大浦郷字網場を市域に編入
     90.60平方粁、戸数5万7081、人口24万7248となる[1950(昭和25)12/31現在]
     福田村の一部0.06平方粁25戸106人(男56・女50)[1950(昭和25)01/20現在]
  04/01西彼杵郡小榊村、土井首村、小ケ倉村、西浦上村が長崎市に編入される
     1948(昭和23)10/01西彼杵郡高島村に町制が敷かれ高島町となる
  04/01北松浦郡相浦町が佐世保市に編入される
     1940(昭和15)02/11北松浦郡小値賀村に町制が敷かれ小値賀町となる
  04/駒場町に三菱グラウンドができる
  05/01ガソリン切符制が実施
  05/15長崎県営バスの小浜営業所車庫が落成
     1961(昭和36)10/11小浜営業所が開所、新築落成
  05/22出島町の電車線路カーブ近くに三菱会館が映画・演劇場として開館
  06/07長崎医大看護婦寄宿舎に疑似赤痢・北松潜龍炭坑にも7人発症
  07/22雲仙鉄道(小濱〜千々石〜愛野村)経営不振で第35回定期株主総会において解散決定
  08/01県下初の県立大村保健所が開設
  09/10長崎市常磐町に恩賜財団済生会病院完成・開所式
     1982(昭和57)11/18長崎市は新地町の済生会病院が移転することで合意
     茂里町に新築移転する原爆病院の跡地(片渕1丁目)に進出
     1983(昭和58)08/23新地町の長崎県済生会病院が片渕町の旧原爆病院跡地へ移転オープン
     診療科目7科、病床数230床
  09/市立高等女学校が西山から桜馬場の長崎県師範学校跡地に移転
  10/01石炭配給統制が実施
  10/07「長崎くんち」
     (3)は御神幸のみ。奉納踊は自粛
     くんち3日間は防空演習にあてられる
  10/31ナチス・ドイツの青少年団、ヒトラー・ユーゲント1行30人が来崎
     午後4時、大牟田より船で島原に着き、県連合青年団長、県学務部長が出迎える
     バスで雲仙観光ホテルに着き川西知事が晩餐会に出席
     11/01自由行動で乗馬、散歩、弓、普賢岳登山など各々楽しむ
     11/02沿道で歓送迎を受けながら長崎市内に到着。富貴楼で県・市・商工会議所共催の歓迎会
     のち諏訪神社参拝、シーボルト記念碑献花、蘭館跡、大浦天主堂見学、シーボルト宅跡に記念植樹などをする
     11/03深堀村のペーロンを参観、唐八景でハタ揚げを参観ののち、急行列車で福岡へ
       08/16横浜に上陸→宮城遙拝、明治神宮参拝→富士山→軽井沢→日光→鎌倉
       →横浜→箱根→奈良→京都→大阪→瀬戸内海→九州を巡遊→11/12☆神戸から帰国
  10/長崎高商(長崎市片渕町)にパラチフス患者48人
  10/長崎バス(株)が小浜〜茂木間を結ぶ長崎雲仙連絡汽船を吸収。海運部を設置
     1943(昭和18)戦時合理化により海運部は長期休業に入る
  11/01新地町〜梅ケ崎町に773坪余りの湊公園を開設し一般に開放
     戦後一時不法建物により占拠
     1956(昭和31)10/26警官34人が出動し湊公園内の不法建物40戸を撤去
     1957(昭和32)公園として再整備
  12/07長崎市内にコレラ患者3人天然痘患者も発生
  12/16上海から入港の「長崎丸」の船客に天然痘患者、直ちに女神検疫所に収容
  12/23三菱長崎造船所が自社用として諏訪丸、金比羅丸(各128瓲)2隻を建造
     長崎電鉄が無料で借り受け運航開始
  西浜町62番地の映画館「崎陽館」が長崎初の洋画封切館「富士館」となる
     1977(昭和52)06/10長崎ステラ座がオープン(1スクリーン、374席)
     イタリア語で「星」を意味する館名のステラ座は一般公募
     最初の上映作品は「サスペリア」
     同時にファッションショップがオープン
  外浦町の県庁前に七条達馬が新長崎ホテルを開業
     戦後長崎観光ホテルと改称
     1959(昭和34)七条達馬の死去により息子の七条達夫が雲仙の九州ホテルとかけ持ちで経営
     1960(昭和35)08/西浜町の精洋亭ホテルと合併。外浦町にて長崎グランドホテルとなる
  口之津町にて古野電気商会が発足
     1948(昭和23)世界で始めて音響測探機を改良した魚群探知器の販売を開始
     1955(昭和30)古野電気株式会社が設立。(株)古野電気工業所の事業一切を継承
     1959(昭和34)我が国で初めて超小型レーダーを開発
     水中翼船や各種小型船へのレーダー装備を可能にしレーダーの普及と安全航行に貢献
     1961(昭和36)資本金を1億2千万円に増資。兵庫県西宮市に本社が移転
     のち独自のアイデアを盛り込んだ漁業計器、航行計器、無線通信機などを開発
     船舶用電子機器の総合メーカーとしての基礎を築く
  西道仙の孫西仁寿が長崎医科大学を卒業
     のち台北帝大医学部副手に
     のち終戦まで中国大陸広東博愛病院医長として勤務。皮膚病の糸状菌研究を始める
     のち戦後引揚後は県立出島病院に勤務
     1949(昭和24)大学病院下で医院を開業
     戦後引揚者の多かった浦上地区で診察料を払えない人をも良く往診
  原料ゴム統制で、チューインガムの製造が禁止に
  漢口攻略戦直後、小松清が野母商船の第8太古丸を借り切り、船に菓子を満載し12日かかって揚子江をのぼり漢口へ向かう
     小松清は1912(明治45)北有馬の生まれ
     1950(昭和25)小松清は清月堂の唐人せんべいの権利を譲り受け、館内町に工場を建て長崎名物として売り出す
     のち名所せんべいを創案して売り出し基盤をつくる
     のち清月食堂を経営し、さらに観光ガイド社をつくる
     1959(昭和34)稲垣屋を借りてカステラ業界に進出。220円のカステラを売り名を知られる

1938(昭和13)頃

  丸山町の「花月」が株式会社となり本田寅之助が支配人として経営
     「花月」は、もともと丸山町の妓楼「引田屋」にあった茶屋のこと

1939(昭和14)【昭和】 己卯(つちのとう)

  《総理大臣》[第34代]近衞文麿(→01/05)、[第35代]平沼騏一郎(01/05→08/30)、[第36代]阿部信行(08/30→)
  《知事》[第32代(官選)]川西実三
  《市長》[第13代]青木善祐

  02/02町内会第1号の銅座町町内会が設立
     のち長崎市は町内会、十戸組の設立を促進
     1941(昭和16)04/11市内全町が結成
     町内連合会24、町内会294、隣組4878
     町内会は衛生組合の区域ごとに設立、町内会長は衛生組長に
     国策遂行の末端機関として位置づけられる
     1942(昭和17)02/05長崎市が「町内会は市の下部組織として市長の管轄下に置く」と明示
     戦時中の町内会はフルに活用され、戦争遂行の一翼を担う
     1947(昭和22)02/21長崎市が04/01の町内会制度廃止に伴い関係者を集め感謝大会を開催
     1947(昭和22)04/01町内連合会、町内会、隣組が廃止
  03/13佐世保市で県医療組合総合病院の地鎮祭・県産聯が設立
  03/31日立製作所笠戸工場(下松)にて蒸気機関車C57形100号機が完成。車両番号はNo.1075
     1954(昭和29)デフレクターが門デフに改造される
     門デフ=門司鉄道管理局式デフレクター=小倉工場式デフの略称
     小倉工場で除煙板の上半分を残して切除、車体にパイプで取り付ける方式を採用
     1957(昭和32)10/01特急「さちかぜ」の開設初日、長崎発上り第1号列車の先頭を飾る
     1961(昭和36)04/19基山→佐賀でお召し列車を牽引
     04/23大村→長崎で、04/26長洲→博多で、それぞれお召し列車を牽引
     1973(昭和48)04/02人吉にて廃車となる。走行距離は164万5千粁
     1973(昭和48)09/29北九州市小倉区で分解。トラックとトレーラーに積み込まれる
     09/30展示会場である長崎の賑町の中央公園に到着
     10/01展示がはじまる
     はじめ長崎市は、展示する蒸気機関車としてC51形を所望
     C51形蒸気機関車は、1945年(昭和20)8月9日の原爆投下後、廃虚のなか救援列車を牽引。数多くの被災者を救出
     しかし、当時、C51形蒸気機関車は東京の青梅児童公園、新潟の鉄道学園などに3両残っているだけ
     そこで「ではC51によく似たSLを」ということで門司鉄道管理局では長崎にゆかりの深いC57形100号機を贈ることに
     C57形100号機は、特急「かもめ」「さちかぜ」「さくら」をはじめ、戦前には「富士」など、たくさんの列車を牽引
     10/14中央公園にて国鉄と長崎市の間で譲渡式が行なわれる。蒸気機関車は国鉄から長崎市への無償貸与
     原子野に乗り入れ被災者の救援にあたった国鉄職員7人も出席、功労を讃え市長から記念品が贈られる
  03/日本郵船発注の豪華客船「橿原丸」(2万7700総瓲【2万6500瓲?】)が三菱長崎造船所で起工
     1940(昭和15)10/時局緊迫のなか政府より空母所有の劣勢を挽回するため特設航空母艦に改装命令が下る
     豪華客船「橿原丸」としては未完成のままで特設航空母艦「隼鷹」に
     1942(昭和17)05/03完成し、戦争に駆り出される
     1944(昭和19)12/長崎港外で雷撃を受け中破
     戦後解体される
  04/10長崎県営バスの諫早営業所車庫が落成
     1949(昭和24)06/諫早駅前に諫早営業所落成
     1952(昭和27)諫早駅前の長崎県営バス諫早営業所が焼失
     1953(昭和28)09/17諫早営業所が落成
     1968(昭和43)05/23諫早営業所用地として東厚生町に8067.32平方米を買収
     1969(昭和44)01/24東厚生町に諫早営業所及び整備工場が新築落成
     1969(昭和44)06/30諫早営業所女子職員寮及び所長公舎が新築落成
     1977(昭和52)05/06西諫早営業所が発足
     1977(昭和52)09/04西諌早営業所が新築落成
     1983(昭和58)04/01諫早営業所が西諌早営業所に統合
     1983(昭和58)06/06諫早営業所(西諌早)が営業開始
  04/19関門トンネル工事で先通導坑(工事促進のため先に掘削した小トンネル)が貫通
     戦時体制下での輸送増強を目的に突貫工事で建設
     最先端のシールド工法(三菱重工業製のシールド)を駆使し、多量の湧水に対抗する難工事
     トンネルと海底との土被り(距離)が小さく、超小型潜水艇による調査が行なわれる
      坑内で頭上を通過する船舶のスクリュー音が聞こえる。海底に坑内の空気が漏れ出す
     1941(昭和16)07/第1トンネルが貫通
  05/01旧来の消防組と防護団に替わって警防団が組織される
     警察の指揮下に消防、灯火管制、避難、救護、警報の伝達、その他防空の任務を受け持つ
     家庭防空群の指導にもあたる代表的な民間自衛組織
  05/12ノモンハン事件が起こる
  05/桜町の弦洋会楽器店が浜町本通りに進出
  05/大阪商船向け豪華貨客船「あるぜんちな丸」が竣工
     1万2755瓲、1万6500馬力、21.5節
  05/野母商船が上海〜新港〜南京(霍橋)の中国・揚子江航路を開設
  05/対馬日日新聞が対馬時事新報と合併。対馬新聞の前身となる対馬朝日新聞が誕生
     1942(昭和17)03/東条内閣の命令のもと全国の新聞は1県1紙となり島唯一の対馬朝日新聞が廃刊
  06/16佐世保市の伝染病患者96人と発表
     (赤痢32・腸チフス37・パラチフス4・ジフテリア14・猖紅熱5・流行性脳脊髄膜炎4)
  06/30三菱造船所がグラバー邸を倉場富三郎から買収
     戦時中三菱造船所の大浦クラブとして使用
     1945(昭和20)から約4年間米進駐軍の司令官公舎として接収
  07/06大村西小路に赤痢2人
  07/16北高来郡戸石村に腸チフス患者8人発生
  09/01ドイツがポーランド侵攻
     09/03英仏が対独宣戦布告をし第二次世界大戦が始まる
  09/01長崎市が毎月朔日を「興亜奉公日」と定め6項目の実践事項を全市民に実行することを奨める
     この日の正午には黙祷、武運長久祈願
     実践項目としては国旗掲揚、神社参拝、登山、ラジオ体操、一汁一菜生活、禁酒、禁煙、日の丸弁当を奨励
     開戦後開戦の詔勅が下された8日を毎月「大詔奉戴日」と定められる
  09/13長崎市内に流行性脳脊髄膜炎6人発生、うち3人は死亡
  09/佐世保商業銀行と佐世保銀行が合併。親和銀行が創立。資本金310万円
     1940(昭和15)05/志佐銀行を合併
  10/07「長崎くんち」
     (4)は御神幸のみ。奉納踊は自粛
     くんち3日間は防空演習にあてられる
  10/07日華連絡船「長崎丸」の船客に疑似コレラ患者発生
  11/02佐世保の腸チフスで市内は大恐慌、患者数は87人(10/27現在)
  11/03東彼杵郡西大村、竹松村、大村町が合併し大村町となる
     1940(昭和15)11/03東彼杵郡彼杵村に町制が敷かれ彼杵町となる
  11/04長崎港外端島、10月中だけで腸チフス患者は58人に
  11/12南高来郡山田村に赤痢患者35人
  11/県立の長崎測候所が国へ移管され「長崎測候所」と改称
     1947(昭和22)04/30現在地の長崎市南山手町5番地に「長崎海洋気象台」が創立
     場所は南山手の旧長崎要塞司令部跡地(ロシア領事館跡)
     07/19開庁式が執り行なわれる
     1949(昭和24)06/01「長崎測候所」が廃止
     業務は1947(昭和22)04/30創立の長崎海洋気象台が受け継ぎ統合される
  11/立山町に長崎公園内市民運動場が出来る。面積1万0681坪
     1970(昭和45)09/01本大工町の長崎中学校の新校舎が立山の長崎公園内市民運動場に完成
  11/国際情勢の緊迫化にともない海軍の要請で大橋町に長崎三菱兵器製作所の新工場を着工
     1944(昭和19)規模を次第に拡張し、大橋工場がほぼ完成
     工場敷地約19万8千平方米(6万坪)に配置された建物施設は7万5900平方米(2万3千坪)
  11/株式会社橋本商会が古鉄部門が業務拡張。株式会社橋本商会古鉄部(資本金19万5千円 社長/橋 本和太八)として発足
     朝鮮・台湾方面よりの屑鉄輸入等にともない同部門を株式会社橋本商会から、別会社として分離独立
     1945(昭和20)01/販売部門のほかに鉄材の鍛造機械部品の加工・製造部門として鉄工部を新設
  12/10傷庚年人小浜温泉療養開所式
  12/15地下1階、地上2階の木造建築による浜屋百貨店が一部開業
     建築用鋼材の使用統制があったが地階は防空用待避所となり鉄筋コンクリート造
     1940(昭和15)02/第2期工事が完成
     04/21落成式が行なわれる。店員数370余人
  第2次世界大戦がはじまる。ドイツ軍がポーランドに侵入しニエポカラヌフが占領される
     コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)は逮捕されアムティツに入れられるが、のち解放される
     1941(昭和16)02/亡命者を救援したのを理由にドイツ秘密国家警察に再逮捕
  大阪商船所属の「ぶら志る丸」(1万2752総瓲)が竣工
     1940(昭和15)02/21処女航海の後、リオデジャネイロに入港
     歓迎式典には市長、ブラジル農林大臣、日本大使が臨席
     大阪商船からリオデジャネイロ市に大和桜の苗1020本が、リオデジャネイロ市からは船名表示板が寄贈
     のち南米航路の航海はたった3回で中止、日本海航路に短期間従事
     1941(昭和16)09/04海軍に徴用されて輸送船となる
     1942(昭和17)08/05北西洋上にて左舷中央部に魚雷2発を被る
     空母に改造のためトラックより横須賀向け単独航行中のこと
     フラッグデッキから「帽振れ」で別れの挨拶を告げる大野船長の勇姿とともに太平洋に葬られる。船員57人戦死
     姉妹船「あるぜんちな丸」同様、有事に航空母艦に改装することが可能なように設計
  長崎市内の映画館が7館になる
     1950(昭和25)9館になる
  三菱重工業株式会社長崎造船所の第1〜第8の全ての船台にガントリークレーンが竣工
     1967(昭和42)ガントリークレーンの解体が始まる
  バスの代燃化が通達され木炭や薪などの代用燃料への転換が指示
  県立長崎測候所温泉岳観測所が国立となり、雲仙岳測候所と改名
     1977(昭和52)03/庁舎の老朽化とアメダスの実現により廃止
  熊本の魚住一時が長崎へ。岩瀬浦の月川某の工場を買って手付けを打つ
     のち企業整備が強化され食料魚粉の製造をする
     戦後海産物の卸商に
     1946(昭和21)魚住商店としてふぐの製造に取り組む
     のちふぐ味淋ぼし、焼ふぐ、ふぐ茶漬、ふぐの燻製などふぐの珍味で知られるようになる
     のち東京、関西、北九州、北海道から沖縄まで販路を伸ばす
     1967(昭和42)カステラの製造も経営
  島原のミクリヤ商店自動車部のタクシー部門が、戦争の燃料不足を理由に営業を中止
     戦後営業を再開
  諫早小野村に飛行場が新設される。その代替地として県営による干拓計画が発表
  関門海底隧道開通後の長崎市の産業と貿易振興に備えるため「大長崎振興会」が結成
     関門隧道は九州の鉄道輸送体系に大変革をもたらすものとして早期完成を目指す
  国鉄伊佐線の潜竜ヶ滝〜吉井駅間にコンクリートアーチ橋の吉田橋梁が架かる
     単線鉄道橋でアーチ部全長58m0cm、アーチ半径5m×5
     戦時中の物資不足のため鉄筋の代用として竹筋が使われているとも
     1944(昭和19)04/13潜竜(現潜竜ヶ滝)〜肥前吉井(現吉井)間の開業に伴い供用開始
     2004(平成16)製造過程で鉄筋の代用として竹筋が使われているかどうか電磁波調査が行なわれる
     鉄筋が使われていない可能性が高いことが確認される
     2006(平成18)02/竹筋が使われているかどうか福井川橋梁で行われたコア抜き検査が行なわれる
     竹は確認されず。地元では竹が使われていたのを見たとの証言もあり信憑性は高い
     2006(平成18)09/同駅間にある福井川橋梁、吉井川橋梁とともに国の登録有形文化財となる
     長崎県のまちづくり景観資産にも指定

1940(昭和15)【昭和】 庚辰(かのえたつ)

  《総理大臣》[第36代]阿部信行(→01/16)、[第37代]米内光政(01/16→07/22)
        [第38代]第2次近衞文麿内閣(07/22→)
  《知事》[第32代(官選)]川西実三(→04/09)、[第33代(官選)]平敏孝(04/09→)
  《市長》[第13代]青木善祐(→03/11)、[第14代]井野次郎(07/06→)

  01/東山手の長崎公教神学校が東陵中学校に改称
     のち東陵高校に
     1952(昭和27)名古屋ローマ神言会経営・南山大学の姉妹校に、南山高等学校と改称、上野町に移転
  02/11北松浦郡小値賀村に町制が敷かれ小値賀町となる
     04/01北松浦郡江迎村に町制が敷かれ江迎町となる
  02/15北松浦郡小値賀村に天然痘患者発生
  02/21大阪商船所属の「ぶら志る丸」が処女航海の後、リオデジャネイロに入港
     歓迎式典には市長、ブラジル農林大臣、日本大使が臨席
     大阪商船からリオデジャネイロ市に大和桜の苗1020本が、リオデジャネイロ市からは船名表示板が寄贈
     のち南米航路の航海はたった3回で中止、日本海航路に短期間従事
     1941(昭和16)09/04海軍に徴用されて輸送船となる
  02/浜屋百貨店の第2期工事が完成
     04/21落成式が行なわれる。店員数370余人
     1953(昭和28)第1期増改築工事の地下1階、地上4階、塔屋4階、新館9階が完成
  03/05三菱長崎造船所が海軍管理工場に指定。確実に戦時体制に移行
  03/11長崎市長崎病院長の中山貞次郎が診療中に腸チフスに感染し殉職
     03/14東小島町正覚寺にて葬儀
  03/23日本郵船発注の3隻のうち日本最大の商船「新田丸(750番船)」(1万7150瓲)が三菱長崎造船所で完成
     政府の優秀船建造助成施設によって、船令20年を超える貨客船の代船3隻として建造を計画
     ドイツの新鋭豪華貨客船シャルンホルスト級3隻(1万8千瓲)が他を圧し、対抗する優秀貨客船の出現が急務に
     欧米航路に就航するが、「新田丸」は海軍徴用の命令を受けるまでに勤めた航海はわずか7回に過ぎず
     07/姉妹船「八幡丸(751番船)」が完成
     09/同じく「春日丸(752番船)」が進水
     「新田丸」「八幡丸」「春日丸」のイニシャルN、Y、Kは、日本郵船の略称NYKとなるように命名される
     3隻ともに1万7150瓲、三菱ツェリータービン2万5200馬力、速力22.474節、旅客定員283人
     1、2等公室全部に冷暖房設備を施し、艤装品には国産の優秀製品を採用
     全般にわたり統一のとれた、瀟洒な装飾・設備は…
     大西洋に君臨する「クイーンメリー」「ノルマンディー」にも劣らない豪華客船として海運界、造船界から注目
     のち春日丸」は商船として就航することなく、進水直後に特設空母に改造と決定
     船殻工事の大部分と艤装工事の30%を三菱長崎造船所で行なう
       「春日丸」
       1940(昭和15)11/佐世保海軍工廠で特設空母「大鷹」への改装に着手
       「大鷹」は改造空母の中で唯一開戦前に就役した空母
       1941(昭和16)09/05竣工
       1944(昭和19)08/18フィリピン北方海域で米潜水艦「ラッシャー」の雷撃を受け1本の魚雷が命中し沈没
       「八幡丸」
       1942(昭和17)01/大鷹型の2番艦として呉海軍工廠で特設空母「雲鷹」への改装に着手
       1942(昭和17)05/31竣工
       のち南方方面への輸送業務に従事。何度も魚雷攻撃を受ける
       1944(昭和19)09/17シンガポールから日本に向かう途中、
       南支那海で米潜水艦「バーブ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
       [新田丸]
       1942(昭和17)05/大鷹型3番艦として呉海軍工廠で特設空母「冲鷹」への改装に着手
       1942(昭和17)11/25竣工
       それまでの戦訓を踏まえ、より大がかりな改装が加わる
       のち空母としての生涯のほとんどを横須賀〜トラックの飛行機輸送として従事
       1943(昭和18)12/03トラック島から日本に向かう途中、
       八丈島沖で米潜水艦「セイルフィッシュ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
     3隻ともに速力が21節の鈍足で、機動部隊と共に行動はできず、もっぱら航空機や兵員の輸送、船団護衛等に従事
     また、その速力の遅さが原因で全て潜水艦の雷撃により沈没
  03/企業整備により問屋制を廃止し、長崎鮮魚介集荷組合を組織
     魚類の配給機構は日華事変の進展とともに国家統制が加えられる
     1941(昭和16)04/長崎市鮮魚介出荷統制組合が設立。出荷統制業務を行なう
  03/長崎バス(株)の整備工場が大浦町から松ケ枝に移転
     1950(昭和25)09/松ケ枝町から岩川町に移転
     1955(昭和30)10/05岩川町から茂里町に移転
     新工場の面積4800平方米、1日の整備能力30両
     1990(平成02)茂里町営業所の隣接地から神の島工業団地内に移転
     神の島工業団地内は敷地面積約1万0800平方米の地
  04/01南高来郡島原町、杉谷村、安中村が合併し島原市となる。長崎県下で3番目に市政を施行
     1949(昭和24)08/01南高来郡愛野村に町制が敷かれ愛野町となる
  04/01北松浦郡江迎村に町制が敷かれ江迎町となる
     04/17北松浦郡大野村に町制が敷かれ大野町となる
     北松浦郡生月村に町制が敷かれ生月町となる
  04/021899(明治32)07/14に公布された「要塞地帯法」が法律第九十号として改正。1915(大正04)に続くもの
     新たに(1)爆発物の使用や貯蔵、(2)山林や原野での焚火、
     (3)運動場・競馬場・飛行場・高周波電流を発する設備の新設又は変更、等を規制する条文が加えられる
     注目すべき点は「要塞地帯」の幅員が拡大されたこと
     それまで要塞の「防御営造物ノ各突出部ヲ連結スル線」より「二千二百五十間(約4km)以内」だったのが
     「一萬五千メートル(15km)以内」と改められる
     要塞地帯が拡大されたことにより、12月2日、陸海軍省告示によって要塞地帯が指定され直される
     1943(昭和18)11/13勅令第八百六十八号により「要塞地帯法戦時特例」が公布される
  04/17北松浦郡大野村に町制が敷かれ大野町となる
     北松浦郡生月村に町制が敷かれ生月町となる
     11/03北松浦郡世知原村に町制が敷かれ世知原町となる
  04県立長崎工業学校が丸尾町から上野町(現南山高校)に移転
     1945(昭和20)08/09原爆で全校舎が焼失
  05/01長崎市営交通船が松が枝町〜旭町の航路を新設し運行開始
  05/15橘神社鎮座祭が執り行なわれる
     1976(昭和51)05/25橘中佐顕彰奉賀会が結成
  05/31石田昇がアメリカでかかっていた肺結核が悪化したため松沢病院内(旧巣鴨病院)で死亡。享年64才
     石田は長崎医学専門学校精神病学教室の初代教授。留学先のアメリカの病院で同僚の医師ウォルフを射殺
     事件当時、石田は心神耗弱、心神喪失など被害妄想からくる犯行で精神異常
     裁判では無期懲役刑(終身刑)の判決を受けてメリーランド刑務所に収容、服役していた
  05/島原半島にシービューホテルが開業
  05/親和銀行が志佐銀行を合併
     1941(昭和16)04/大村銀行、玖島銀行、九十九銀行を合併
  06/04ソビエト連邦からの発注の耐氷型貨物船が引き渡されず商船として竣工した「地領丸」を海軍が徴用
     耐氷能力に目をつけ特務艦(運送艦)「宗谷」として配備される
     のちミッドウェー海戦に動員される
     1945(昭和20)10/01船舶運営会所属、引揚輸送に従事する
  06/21北松浦郡各地に腸チフス患者が続出
  06/25香港上海銀行長崎支店の建物を長崎県が買収し梅香崎警察署が移る
     1954(昭和29)07/大浦警察署と改称
  07/10長崎県営自動車運輸事務所(長崎県営自動車)が大波止の玉江町3-5に移転
     1941(昭和16)06/01長崎県営自動車運輸事務所を長崎県自動車局と改称
  07/15東彼杵郡福重村に腸チフス26人
  07/25佐世保市赤崎方面に赤痢患者25人
  07/30佐世保市内の赤痢すでに40人
  07/30米、麦が配給切符制となる。大人1日2合3勺、砂糖は1か月半斤に
     12/木炭と酒の配給制が追加される
     1941(昭和16)10/米の配給が切符制から通帳制に改められる
     1942(昭和17)01/塩の通帳制配給が実施される
     1942(昭和17)02/味噌、醤油の通帳制配給、衣料の点数切符制が実施される
  08/16佐世保市に真性コレラ患者
  08/28壱岐全島に腸チフス蔓延、すでに36人
  09/01北高来郡小栗村、小野村、有喜村、真津山村、本野村、長田村、諫早町が合併し諫早市となる
     人口4万3987人、長崎県下で4番目に市制を施行
     1940(昭和15)11/03北高来郡湯江村に町制が敷かれ湯江町となる
  09/22国民健康保険組合、8組合が新たに誕生、総員5万8000人になる
  09/23欧州にてフランスが敗戦。日本が北部仏印に進駐
     1941(昭和16)07/南部仏印に進駐
  09/27日・独・伊の三国軍事同盟が締結
  10/07「長崎くんち」
     (5)…寄合町、勝山町、紺屋町、台場町の4町のみ奉納。踊り内容は不明
     *小屋入りの参加…寄合町、桜町、小川町、内中町、西上町、八百屋町、勝山町、
     恵美須町、紺屋町、炉粕町、伊勢町、台場町、八千代町、御船町、瀬崎町、浪ノ平町
     非常時下1937(昭和12)以来、奉納踊は遠慮
     戦意高揚戦勝記念の意味をこめ奉納踊復活の機運が高まり、この年16町が参加
  10/17下県郡鶏知村に町制が敷かれ鶏知町となる
     1955(昭和30)03/01下県郡鶏知町と船越村が合併し美津島町となる
  10/26大浦海岸通りイギリス、アメリカ領事館前の埋立地に長さ100米の木造2階建倉庫、通称「目かくし倉庫」が建つ
     倉庫内に荷物は入れず憲兵や特高警察が陣取って領事館を監視するなど機密保持の対策が講じられる
  10/日本郵船の豪華客船「橿原丸」(2万7700総瓲)が時局緊迫のため三菱長崎造船所で特設航空母艦「隼鷹」に改装
     戦争に駆り出される
     1944(昭和19)12/長崎港外で雷撃を受け中破
  10/ホーム・リンガー商会が閉鎖
  11/01三菱長崎造船所第2船台にて戦艦「武蔵」進水
     全長263米、幅36.9米、排水量6万9100瓲、15万馬力、速力27節、乗員2500人
     世界最大の主砲46糎3連装3基。射程距離41粁、30粁先の厚さ43糎の装甲板が貫通
     3連装砲塔の旋回部だけで2200瓲に
     建造費として1937(昭和12)の見積書に6253万8550円と記される
     1942(昭和17)05/20長崎を出港し呉軍港へ向かう
     第1艦隊第1戦隊に編入、「大和」と交替し連合艦隊旗艦に
  11/02長崎電鉄が向島航路を休止。第3ドック辷りへ運航
  11/03東彼杵郡彼杵村に町制が敷かれ彼杵町となる
     1942(昭和17)02/11東彼杵郡三浦村、鈴田村、萱瀬村、福重村、松原村と大村町が合併し大村市となる
  11/03北高来郡湯江村に町制が敷かれ湯江町となる
     1955(昭和30)02/11北高来郡江ノ浦村と田結村が合併し飯森村となる
  11/03南松浦郡三井楽村(福江島)に町制が敷かれ三井楽町となる
     1941(昭和16)04/01南松浦郡青方村(中通島)に町制が敷かれ青方町となる
  11/03北松浦郡世知原村に町制が敷かれ世知原町となる
     1941(昭和16)01/01北松浦郡佐々村に町制が敷かれ佐々町となる
     北松浦郡星鹿村と御厨村が合併し町制が敷かれ新御厨町となる
  11/長崎バス(株)が西彼杵半島一円の乗合自動車を運営する長彼自動車を買収
     長彼自動車社屋が長崎バス時津営業所に
  11/日本郵船発注の商船「春日丸」が佐世保海軍工廠で特設空母「大鷹」への改装に着手
     「大鷹」は改造空母の中で唯一開戦前に就役した空母
     1941(昭和16)09/05竣工
     1944(昭和19)08/18フィリピン北方海域で米潜水艦「ラッシャー」の雷撃を受け1本の魚雷が命中し沈没
  12/10長崎医大高南病棟(35床)は結核患者で満床状態に
  丸尾町の県立長崎工業学校が上野町に移転
  梁橋が架け替えられる
  島鉄バスが島原〜雲仙の運行を開始
  松浦信太郎が丸山町の遊廓角海老を譲り受けて経営を開始
     角海老は遊廓・角油屋として明治の初めに創業。
     1958(昭和33)01/売春禁止法施行前に女性従業員の身の振り方を決め、旅館に転業
     過去の未練を断ち明るい経営に切り替える
  丸山町の「千歳」が「錦」と名称を変えふぐ料理をはじめる
     のち大村航空隊専用の待合となる

1941(昭和16)【昭和】 辛巳(かのとみ)


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