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〈明治時代(5)〉
▼
1885(明治18)
【明治】
乙酉(きのととり)
《総理大臣》
[第1代]伊藤博文(12/22→)
《知事》
[第7代(官選)]石田英吉
02/07
★
岩崎彌太郎が52歳で死去
→
のち
☆
弟の彌之助が第2代社長に就任し三菱社を設立
02/25
★
長崎医会第1回通常会を開き会長に吉田健康を選任
→
1890(明治23)02/01
☆
初めて長崎県医会(長崎県医師会の前身)を開く
議長に 吉田健康(長崎病院長)、副議長に 西道仙(開業医)が当選
05/
★
内務省省直轄事業として
港湾第1期改良工事
の工事始まる
一環で中島川の変流と港内浚渫
1885(安政05)の開港以降、維持管理が不充分で河口の土砂堆積が進行し、海上交通の支障が懸念されるため
中島川から流出土砂があり、長崎港に土砂が堆積、港湾機能に支障
多量の土砂を港湾海底に堆積させる中島川を出島背後に変流。五島町、樺島町の海岸線の埋立て
→
1890(明治23)
☆
完成
出島の江戸町側を平均18米削られる
05/
★
東濱町の長崎蓄積銀行が廃業
07/08
★
フランス軍艦「トリオンファン」が修理のため長崎港に到着
将校の中には中尉ルイ・マリ・ジュリアン・ヴィオ(ピエール・ロティ)も乗船
ロティは上陸後、周旋人を通して17才の日本人女性を選び十人町の家を借りて1か月ほど生活を共に
→
のち
☆
日本滞在の経験を小説「マダム・クリサンテール」として書き上げる
→
1929(昭和04)05/
☆
岩波文庫「お菊さん」発行。野上豊一訳
07/
★
三友銀行の本店が平戸から長崎に移る
→
1893(明治26)02/
☆
廃業
07/
★
長崎区内でコレラ流行、盂蘭盆の墓前の暴飲暴食が誘因で患者800余、うち死亡600余
09/21
★
内務省派遣の北里柴三郎が来崎
→
1894(明治27)07/25
☆
政府派遣の北里柴三郎(伝染病研究所長)が香港でのペスト流行実地調査の帰途、長崎に立ち寄る
→
1907(明治40)10/14
☆
北里柴三郎来崎
09/29
★
郵便汽船三菱と共同運輸が合併し日本郵船会社が設立。支店を梅ケ崎町に開設
長崎と中国、フィリピン、北南アメリカとの航路が結ばれ、九州唯一の外国航路の港になる
10/05
★
フリーメーソン長崎支部奉献式が行なわれる。支部は下り松50番地に創設
11/15
★
公立長崎商業学校が大村町11番地の旧商業会議所跡に開校
→
1886(明治19)03/
☆
公立長崎商業学校と長崎外国語学校が合併
長崎外国語学校は付属物所蔵一切を長崎商業学校に移し廃校となる
→
04/08
☆
公立長崎商業学校が長崎県へ移管。県立長崎商業学校となる
岩原郷(のちの県立美術館の地)へ移転
11/19
★
渡御。「長崎くんち」がコレラ流行のため日程変更
→
11/21
☆
還御
(7)…寄合町(本踊)、浦五島町(本踊)、引地町(本踊)、本石灰町(蛇踊)、
桶屋町(本踊)、大井手町(竹の芸)、船大工町(川船)、袋町(川船)、酒屋町(本踊)、
出来大工町(小薩摩)。新町、掘町は辞退
11/24
★
東京医学校(のちの東京大学医学部)お雇い教師エルウィン・ベルツが来崎、長崎医学校を訪問
ベルツは1876(明治09)日本に招かれ1905(明治38)に帰国
→
1892(明治25)09/11
☆
ベルツ再来崎
12/
★
茂木県道(田上の切通し竣工)と時津県道(浦上以北の改修)が開通
12/
★
コレラ流行のため竹の久保に県立長崎伝染病病院を設置
→
1892(明治25)04/
☆
無期限無償で借り受け長崎市避病院へ移管される
→
1937(昭和12)12/
☆
長崎市立長崎病院と改称【09/01】
★
コレラ流行後、下水道の大溝を改築。中小溝・下水路の改修が行なわれる
★
日見街道が1等県道から第4号国道に昇格
外浦町(県庁前)〜日見〜矢上〜古賀〜喜々津〜諌早〜大村〜俵坂(東彼杵郡)に至る延長68.3瓩
★
グラバーの息子、倉場富三郎が稲佐3丁目に製氷会社(通称氷会社)を設立
★
八幡町に菊次五郎が饅頭屋の「
喜久屋
」が創業
→
のち
☆
県庁坂下に移転
★
天本愛命堂が萬屋町に創業
→
1903(明治36)
☆
銅座町に新築移転
初代天本愛次郎は1892(明治25)〜1893(明治26)、上海にて秘法を会得
自家製剤『六神丸』の官許に取り組む
★
三菱社で鉄製の浚渫船を竣工
★
諏訪神社の「皇大神宮御分霊」を万才町の神宮奉祭会へ移し「大村町大神宮」に
→
戦後
☆
「
長崎大神宮神社
」に
→
1953(昭和28)
☆
栄町の現在地に移転、改築
★
木場郷(現三ツ山町)に三ツ山カトリック教会が設立
★
諏訪神社本殿の西側に参拝後の休憩場として
月見茶屋
が創業
★
医師としての西道仙が長崎医会を創設
医会会長に長崎医学校の吉田健康、副会長に漢方医の西道仙
→
1886(明治19)
☆
瓊浦医学会と改称
→
のち
☆
長崎医学会となる
★
ド・ロ神父
が黒崎村出津に診療所を設立、薬局を置く
→
1886(明治19)
☆
聖ヨゼフ修道院と伝導婦養成所(お告げのマリア修道院・女部屋とも)を設ける
貧農の青年には農業の近代化を図る
水車による製粉、農業機具の改良、原野の開墾、イワシ網工場や堤防建設を行なう
★
経営破綻したビール会社スプリング・バレー・ブルワリーをグラバーらが買取る
スプリング・バレー・ブルワリーの土地・建物を取得
スプリング・バレー・ブルワリーはアメリカ人ウイリアム・コープランドにより開設
スプリング・バレー・ブルワリーは1870(明治03)に横浜山手に開設
グラバーらは、ジャパン・ブルワリ・カンパニーを設立(香港法人)。本格的なビール醸造をはじめる
社長は横浜在住の英国人J・ドッズが務める
→
のち
☆
グラバーが社長を務める
当時の日本財界の指導者である岩崎彌之助、渋沢栄一らが出資者となる
→
1897(明治30)
☆
日本人の妻ツルとともに東京へ転居
★
フレノー神父が4年間に渡り再び五島で布教
→
1888(明治21)
☆
浦上教会主任司祭となり典礼の充実と聖歌隊指導に力を入れる
★
中津屋橋本商店が平戸港外で沈没したオランダ船をグラバーの指導のもとに、引揚げに成功
日本に於ける沈没船引揚げ第1号
→
1888(明治21)
☆
台風により五島黄島沖に沈没したフランス汽船スローエン号3千瓲の引揚げ
成功しサルベージ技術を確立
▼
1880年代後半
★
大浦外国人墓地
事実上満杯状態になる
☆
大浦国際墓地の埋葬者数(208)
イギリス(133)、アメリカ(30)、ドイツ(15)、フランス(8)、
ポルトガル(6)、オランダ(5)、イタリア(2)、ノルウェー(2)、
オーストリア(1)、スウェーデン(1)、デンマーク(1)、ベルギー(1)、不明(3)
→
1888(明治21)04/23
☆
付近住民の保健衛生などの面から閉鎖
▼
1886(明治19)
【明治】
丙戌(ひのえいぬ)
《総理大臣》
[第1代]伊藤博文
《知事》
[第7代(官選)]石田英吉(→02/25)、[第8代(官選)]日下義雄(02/25→)
01/14
★
小島小学校が開校
02/
★
奮川小学校(
のちの磨屋小学校
)が長崎町年寄薬師寺某の邸宅213坪を買収
中等鶴鳴小学校(尋常鶴鳴小学校?)と改称
→
1893(明治26)04/01
☆
長崎女児磨屋小学校と改称
03/
★
公立長崎商業学校と長崎外国語学校が合併
長崎外国語学校は付属物所蔵一切を長崎商業学校に移し廃校となる
→
04/08
☆
公立長崎商業学校が長崎県へ移管。県立長崎商業学校となる
岩原郷(のちの県立美術館の地)へ移転
→
1889(明治22)02/02
☆
ふたたび長崎区に移管され長崎商業学校となる
→
04/01
☆
長崎区が長崎市と改まるが市立を冠せず長崎商業学校として校名を残す
04/01
★
西浜町の長崎県女子師範学校が長崎県立師範学校に合併
長崎県立師範学校女子部と改称。校舎は西浜町の付属小学校内のまま
→
1886(明治19)06/04
☆
女子部内に幼稚科が設置(本県の幼稚園のはじめ)
女子部内幼稚科は全国でも古く、九州では鹿児島幼稚園に次いで2番目
05/01
★
合衆国カナダ職能労働組合連盟がシカゴを中心に約35万人の労働者を動員
8時間労働制を要求しゼネストを行なう
→
1890(明治23)05/01
☆
第1回国際メーデーが行なわれる
ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、ラテンアメリカの労働者が8時間労働制を要求
05/
★
市内の水溝整理工事がはじまる
05/
★
萬歳町の長崎上等裁判所が長崎控訴院と改称
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆により焼失
06/04
★
長崎県立師範学校女子部内に幼稚科が設置(本県の幼稚園のはじめ)
女子部内幼稚科は全国でも古く、九州では鹿児島幼稚園に次いで2番目
→
1886(明治19)06/29
☆
長崎県立師範学校が長崎県尋常師範学校と改められる
06/29
★
長崎県立師範学校が長崎県尋常師範学校と改められる
→
1889(明治22)
☆
馬場郷の長崎村庄屋森田某の跡地に校舎と寄宿舎を新築。男子部・女子部ともに移転
06/
★
小学校令改正により公立中等小曾根小学校が尋常小曾根小学校と改称
→
1887(明治20)03/
☆
小曾根・浪平・古河の3町共同して鍋冠山に校舎新築。尋常鎮鼎小学校と改称
08/
★
長崎紡績所工場内にて近代的な工場照明の初めとして自家発電の電灯を点灯
08/01
★
清国北洋艦隊4隻が入港
→
08/13
☆
清国水兵が寄合町遊廓で飲酒暴行し逮捕
→
08/15
☆
清国水兵450人が集団上陸し梅香崎警察署襲撃事件に発展
水兵と警官に多数の死傷者(日本側31人、清国側50人)が出る。「清国水兵事件」
10/
★
本石灰町と船大工町の間を流れる仁田川をまたぐように、丸山山ノ口に小橋「思切橋」が架橋
橋長1間8合9勺(約3.42米)、橋幅4間7合5勺(約8.6米)
12/03
★
帝国陸軍が対馬分遣隊を改編して「対馬警備隊」を置く
→
1903(明治36)04/14
☆
「対馬警備隊司令部条例」が制定。司令部が長崎県対馬国下県郡鶏知村に置かれる
12/07
★
渡御。「長崎くんち」がコレラ流行のため日程変更
→
12/09
☆
還御
(1)…丸山町(本踊)、船津町(川船)、本博多町(本踊)、平戸町(本踊)、
樺島町(太鼓山)、八幡町(山伏踊)、麹屋町(本踊)、万屋町(鯨潮吹き)、
西浜町(龍船・アニオー行列)、銀屋町(本踊)、諏訪町(蛇踊)
★
東山手9番地の英国領事館跡に木造2階建のスチイル記念学校が設立
→
1891(明治24)
☆
東山学院と改称
→
1932(昭和07)05/
☆
明治学院に併合され廃校に
→
のち
☆
長崎東陵中学校となる
★
興善小学校
が尋常興善小学校と改称
→
1934(昭和09)03/31
☆
興善小学校と新町小学校が合併、新興善小校が開校
★
西道仙が創設した長崎医会が瓊浦医学会と改称
→
のち
☆
長崎医学会となる
★
公立長崎商業学校が大村町に創立
→
1889(明治32)
☆
伊良林の中島川畔の地に新築移転
→
のち
☆
中川町に移転
→
1933(昭和08)06/11
☆
中川町から西郷(油木町)に校舎を新築移転
→
1945(昭和20)08/09
☆
原爆により校舎が破壊。教職員13人、生徒162人が犠牲に
一時、上長崎小学校の校舎を借りて授業再開
→
1946(昭和21)
☆
市立長崎商業学校が油木町の旧校舎に復帰
→
1986(昭和61)
☆
校舎の老朽化から現在地の泉町に総工費62億円で新校舎を建設移転
★
県下に天然痘患者1087、コレラは1927
★
福江島の南西約70粁にある男女群島の近海で富江の山本弥三郎のフカの延べ縄にアカサンゴがかかる
サンゴ漁場が発見される
→
1900(明治33)
☆
近海でさらに大きな漁場が発見される
地元の船ばかりでなく鹿児島や高知の船まで何100隻もの漁船が出漁
→
1906(明治39)10/
☆
台風でサンゴ船、カツオ船173隻が沈没、死者行方不明者734人に
★
第三海軍区、西海鎮守府が2年余の実地調査の末、佐世保に決定
候補地には平戸島の江袋湾、佐賀県の伊万里湾もあった
佐世保村民は狂喜して、2万数千坪の用地買収に坪当たり10銭〜25銭という破格の安い値段で応じる
→
1887(明治20)
☆
建設工事が始る。全国各地から人夫が集まり、商人が殺到
★
女子としてわが国最初の医籍登録者、荻野吟子が誕生
荻野は東京女子師範学校を卒業したあと私立医学校好寿院を終了
内務省の医術開業試験を受けようとしたが、受験を拒否され、長与専斎の尽力で受験が認めらる
★
黒島教会のラゲ神父が田平の原野1町を買い黒島から3家族を移住させる
→
1887(明治20)
☆
出津教会のド・ロ神父が1町を買い4家族を移住させる
→
のち
☆
次第に移住者が増えキリシタンの集落となる
→
大正時代初期
☆
80戸の信徒が集まる
★
ド・ロ神父
が黒崎村出津に聖ヨゼフ修道院と伝導婦養成所(お告げのマリア修道院・女部屋とも)を設ける
貧農の青年には農業の近代化を図る
水車による製粉、農業機具の改良、原野の開墾、イワシ網工場や堤防建設を行なう
★
この年、県下に天然痘患者1087、コレラは1927発生
▼
1887(明治20)
【明治】
丁亥(ひのとい)
《総理大臣》
[第1代]伊藤博文
《知事》
[第8代(官選)]日下義雄
01/
★
馬町の西洋料理専門店「
自由亭
」が廃業
→
のち
☆
長崎地方裁判所が買収し検事正官舎に
→
1973(昭和48)05/
☆
検事正官舎が閉鎖。検察庁より長崎市が譲り受け
03/
★
小曾根・浪平・古河の3町共同して鍋冠山に校舎新築。尋常小曾根小学校が尋常鎮鼎小学校と改称
→
1893(明治26)04/
☆
学制改正により鎮鼎小学校と改称
04/
★
「内務省地理局長崎測候所」が長崎県へ移管され「
長崎県立長崎測候所
」と改称
→
1897(明治30)08/01
☆
海星高校が新校舎を建設
観測に支障をきたし西彼杵郡戸町村大浦郷字日南平(現大浦元町129番地)に移転
04/
★
三菱社社長岩崎彌之助が大蔵大臣伯爵松方正義に長崎造船局の払下げを申請
→
1887(明治20)06/
☆
代金45万9千円で許可を受け長崎造船局は三菱社の所有に
04/
★
「対馬要塞」が建設を開始。温江砲台・芋崎砲台・大平低砲台を起工
05/26
★
三菱社が日本初の鋼鉄製汽船の「
夕顔丸
」を竣工
三菱炭坑社高島炭坑向け貨客船206瓲、330馬力、8節
→
1962(昭和37)04/01
☆
船齢75年で廃船、解体
05/
★
佐野常民が起こした日本博愛社が
日本赤十字社
と改称
シーボルトの長男、次男、ポンペが支援し万国赤十字社に加入
→
09/29
☆
ドイツで開催された万国赤十字社大会に森鴎外が日本の代表として出席
ポンペと会談し日本での赤十字社設立を喜ぶ
06/20
★
代金45万9千円で許可を受け工部省所管の長崎造船局(長崎製鉄所?)は三菱会社の所有に
→
1893(明治26)
☆
三菱合資会社が設立し「三菱合資会社三菱造船所」と改称
長崎造船所を拡張。神戸、下関に造船所を新設
07/01
★
日本薬局法が施行
1880(明治13)10/衛生局長長与専斎の建議にも基づいて日本薬局方が制定され
1886(明治19)06/内務省令をもって初めて日本薬局方が発布され、この年の施行に
日本薬局方編集総裁および委員は総裁=元老院幹事細川潤次郎、
委員=陸軍軍医総監松本順、同軍医監林紀、海軍軍医総監戸塚文海、一等侍医池田謙斎、内務省衛生局長長与専斎、
東京大学医学部教授三宅秀、海軍中医監高木兼寛、陸軍二等薬剤正兼二等軍医正永松東海、柴田承桂、
東京司薬場教師オランダ人エーキマン、横浜司薬場教師オランダ人ゲールツ、
東京大学医学部教師ドイツ人ベルツおよびランガルト、オランダ人ブッケマン
07/08
★
「國道表」に国道47号「東京より佐世保鎮守府に達する路線」が追加される
この路線は、国道4号(現1号・2号ほか)を経由し、武雄で分岐して佐世保に至るもの
武雄と佐世保とを結ぶ国道35号の起源となる
→
1920(大正09)
☆
旧47号がそのまま国道33号「東京市より佐世保鎮守府所在地に達する路線」となる
施行の旧道路法に基づく路線認定による
→
1952(昭和27)12/04
☆
新道路法に基づく路線指定で、旧33号が一級国道35号(佐賀県杵島郡武雄町 - 長崎県佐世保市)に指定
→
1965(昭和40)04/01
☆
道路法改正によって一級、二級の別がなくなり一般国道35号となる
08/
★
県管轄の長崎病院が医学校の国立移管に伴い、長崎県立長崎病院と改称
→
1902(明治35)04/
☆
浦上山里村(坂本町の現在地)に移転
10/
★
「長崎くんち」(2)…寄合町(本踊)、榎津町(川船・本踊)、西古川町(相撲踊)、
本紙屋町(本踊)、新大工町(川船・本踊)、磨屋町(本踊)、新橋町(本踊)、
出来鍛冶屋町(御座船・本踊)、大村町(本踊)、本五島町(本踊)、今町(本踊)、金屋町(本踊)
11/19
★
アメリカ軍艦オマハ号の乗組員2人が上陸許可を得て街へでたまま行方不明に
アイルランド生まれの大工見習マイケル・マローニ(26)と
ロシア生まれの艦尾掌砲長フランク・ジェイコブズ(40)
→
11/26
☆
居留地近くの海岸にマローニの遺体が打ち上げられる
→
11/27
☆
少しはなれた浅瀬にジェイコブズの遺体を発見
泳げないジェイコブズが海に落ちマローニが助けようと海に入る
ジェイコブズがもがきすぎ、ともに海中に引き込まれたと思われる
2人の遺体はともに大浦国際墓地7番に埋葬
★
手作りオリジナル和菓子の店、白水堂が油屋町に創業
★
大浦上田町に沢山熊右衛門ら有志7人が地区民の娯楽場「娯楽園」を建設。
→
1888(明治21)
☆
合資会社七楽座に
→
1891(明治24)
☆
劇場「七楽座」となる
演芸場となり浪花節芝居や祭文芝居などの節劇、寄席などの大衆演芸を興業
→
第二次世界大戦中
☆
大浦劇場と改称
→
1964(昭和39)
☆
火災により焼失
★
日下義雄知事らが中島川上流中川郷の地に吉野桜数千本を植える
→
1900(明治33)
☆
長崎村の有志により地を開いて
中川カルルス温泉
を開業
★
小菅修船場(通称ソロバンドック)
が三菱の所有になる
★
ルーマニア生まれのジークムント・D・レスナーが妻ソフィ・レヴァーをめとる
→
1892(明治25)
☆
坂本国際墓地内にユダヤ人墓地を作るための資金調達に奔走
★
第三海軍区、西海鎮守府が佐世保で建設工事が始まる
全国各地から人夫が集まり、商人が殺到。
→
1888(明治21)
☆
人口が一挙に倍増。佐世保には新興の活気がみなぎる
80余人に上る犠牲者を出しながら突貫工事が進む
★
出津教会のド・ロ神父が田平に1町を買い4家族を移住させる
→
のち
☆
次第に移住者が増えキリシタンの集落となる
→
大正時代初期
☆
80戸の信徒が集まる
★
大村の竹松にド・ロ神父が移住者用の畑を買い、教会の周辺に本国フランスからトマトの種子を持ち入れ栽培
大浦天主堂の宣教師の接待用に用いられる
大村では西洋ナス畑柿と呼ばれ、無支柱、無摘心の放任栽培で果実の直径は4〜5糎から5〜6糎の小実
▼
1887(明治20)頃
★
螢茶屋にあるアーチ式石橋
一の瀬橋
の橋銘に「ICHINOSEBASHI」と刻まれる
【一説に1882(明治15)の日見国道改修の折り】
▼
1888(明治21)
【明治】
戊子(つちのえね)
《総理大臣》
[第1代]伊藤博文(→04/30)、[第2代]黒田清隆(04/30→)
《知事》
[第8代(官選)]日下義雄
03/31
★
県立長崎医学校が廃止となり、校舎・敷地を第五高等中学医学部に移管
→
04/10
☆
第五高等中学医学部に九州各地区の元医学生徒369人を入学させ、仮開校式を挙行
→
1892(明治25)03/07
☆
第五高等中学医学部の新校舎の一部が完成
新校舎の一部は西彼杵群浦上山里村の敷地1万7822坪に完成
04/23
★
大浦外国人墓地
が付近住民の保健衛生などの面から閉鎖
→
1888(明治21)07/01
☆
正式に閉鎖され管理責任は長崎市に委ねられる
07/01
★
大浦外国人墓地
が正式に閉鎖され管理責任は長崎市に委ねられる
07/01
★
県令日下義雄が保険衛生上から長崎区と上長崎村、下長崎村、戸町村の長崎区に近接した地区での土葬を禁止
07/18
★
長崎県私立衛生会臨時会を開き、長与専斎が来崎、講演。女神検疫所・口之津港を巡視
08/
★
古賀祐一、松田源五郎ら数人が長崎電灯(株)を発起
10/
★
コレラ流行のため「長崎くんち」の奉納踊りはなし
(3)…丸山町、油屋町、下筑後町、今籠町、今鍛冶屋町、
西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、萬歳町、小曾根町
10/16
★
フランス海軍の砲艦「ヴァイペル号」の水兵ガブリエール・ブールヒ(23)が仲間と上陸
浪の平の日本人界隈の飲み屋で仲間の1人が日本人労働者と喧嘩。たちまち表に出て取っ組み合いに
双方傷を負い、水兵たちは意識不明のブルーヒを置き去り逃げ出す。まもなく瓶による頭部打撲で死亡
→
のち
☆
1か月の聞き込み捜査の結果、大工の森上豊松が逮捕。有罪となり重労働6年の刑に
ブルーヒの遺体は新設された坂本国際墓地に埋葬者第1号となり339番に葬られる
→
1900(明治33)
☆
フランス人兵士区域の開設と同時に245番に移転
12/01
★
勝山小学校にて長崎縣聯合醫會が開かれる
12/31
★
長崎市
成立直前の長崎区総町90町、総戸数6846戸、人口4万3351人(男2万1517・女2万1843)
上長崎村・下長崎村の各一部の総戸数1477戸、人口7299人
→
1889(明治22)04/01
☆
長崎区と上長崎村、下長崎村の各一部が合併、長崎市が成立(初代市長北原雅長)
推定面積7平方粁(推)、戸数9230【一説に1万0135戸】、人口5万4502
上長崎村の内船津郷、馬場郷の全部、西山郷、岩原郷、片淵郷、夫婦川郷、伊良林郷の一部
下長崎村の高野平郷、小島郷、十善寺郷の各一部を市域に編入。長崎区90町が合併
★
中島川支流一帯の溝渠板石を敷設
→
のち
☆
放置された状態となる
★
大浦国際墓地が閉鎖後、同時に浦上山里(坂本町)と浦上淵(竹の久保)に墓地を開設
浦上村淵(竹の久保)…コレラや天然痘など伝染病による死者が埋葬
遺族や友人が遺体の火葬に同意すれば山里に埋葬
伝染病墓地は166区画の墓が備えられていたが埋葬者数は少ない
→
1920(大正09)
☆
浦上淵の墓地が閉鎖
墓の閉鎖にともない11の墓が淵から山里に移設
その他数人の中国人の墓は悟真寺唐人墓地に移設
→
のち
☆
病院が建設(
→
長崎成人病院)
浦上村山里(坂本)…「
坂本町外人墓地
(4698平方米、墓碑442基)」を設置
【一説に5594平方米、377の区画の墓】
→
1890(明治23)
☆
地元カトリック伝道団の要請により4つの区域がカトリック教徒の墓地に指定
→
1892(明治25)
☆
ユダヤ人商人M・ギンズバーグとN・メスがユダヤ人墓地を購入
背後に石造門や壁、鉄柵が施され整備
→
1900(明治33)
☆
フランスが兵士のための墓地を購入
→
1902(明治35)
☆
中国義和団事件で兵士や船員の遺体でいっぱいに
坂本国際墓地の埋葬者数(325)
イギリス(103)、アメリカ(73)、フランス(56)、ドイツ(29)、イタリア(14)、
ポルトガル(11)、オーストリア(9)、ベトナム(8)、ロシア(7)、日本(3)、
スウェーデン(2)、ノルウェー(2)、デンマーク(1)、ギリシア(1)、不明(6)
→
1903(明治36)
☆
外国人の急激な増加で南側の区画がいっぱいになる
北側の区画に
新坂本町国際墓地
を新設
→
1908(明治41)
☆
新坂本国際墓地で初の埋葬が行なわれる
新坂本国際墓地の埋葬者数(117)
イギリス(31)、アメリカ(20)、日本(16)、イタリア(9)、オランダ(8)、
ドイツ(8)、フランス(5)、ロシア(5)、オーストリア(3)、ポーランド(3)、
ポルトガル(2)、スウェーデン(2)、デンマーク(2)、不明(3)
★
木鉄混合橋の
元川口橋
と木鉄混合橋の
出島橋
が架かる
★
宮地嶽八幡神社に陶製の大鳥居が奉納される
★
土葬禁止令により濱町の島瀬某が伊良林郷四ケ辻に火葬場を設ける
★
大浦上田町の娯楽園が合資会社七楽座に
→
1891(明治24)
☆
演芸場となり浪花節芝居や祭文芝居などの節劇、寄席などの大衆演芸を興業
★
港湾第1期改良工事
の一環で出島と十八銀行本店との間の約450坪が埋め立て
→
1954(昭和29)
☆
出島と十八銀行本店との間, 銅座川を通すため再び開削される
★
九州鉄道株式会社が設立。仮本社を博多におく
→
1891(明治24)04/
☆
門司駅(門司港駅)開業の直後に九州鉄道の赤煉瓦造の豪華な社屋が完成
九州鉄道株式会社本社が博多より移転
→
1907(明治40)07/01
☆
国有鉄道となる
★
佐世保での第三海軍区、西海鎮守府の建設により人口が一挙に倍増
新興の活気がみなぎり、80余人に上る犠牲者を出しながら突貫工事が進む
→
1889(明治22)05/
☆
佐世保鎮守府所轄の第三海軍区の区域が公示
区域は九州沿岸と壱岐・対馬・沖縄諸島の海上
★
フレノー神父が浦上教会主任司祭となり典礼の充実と聖歌隊指導に力を入れる
→
1895(明治28)
☆
自ら浦上天主堂の建築監督に当たるが完成を見ずに死去
★
田平に仮聖堂が建つ
→
1914(大正03)
☆
中田藤吉神父が赴任。煉瓦造りの教会を建てることに
→
のち
☆
資金づくりが困難で中田神父は紐差教会のマタラ神父に相談
フランス人篤志家の匿名の寄付などで着工。途中、崖崩れん惨事が発生
→
1918(大正07)
☆
田平教会(瀬戸山教会)が完成
教会建築の第1人者の鉄川与助の設計では最後の煉瓦造教会
張り出した特徴的な3層の高い塔屋を持つ。平屋で479平方米
第1層が玄関部、第2層に3連アーチの縦長窓、第3層が鉄川与助独特の十字架を頂く八角ドームを載せた鐘塔
★
中津屋橋本商店が台風により五島黄島沖に沈没したフランス汽船スローエン号3千瓲の引揚げ
成功しサルベージ技術を確立
→
1905(明治38)
☆
旅順港内で港湾閉塞のために自沈したロシアの艦船の過半数を軍命により引揚げる
★
(初発〜12/28)県下の伝染病患者5421(腸チフス1472が最も多く、赤痢3892が次ぐ)、うち死亡745
▼
1889(明治22)
【明治】
己丑(つちのとうし)
《総理大臣》
[第2代]黒田清隆(→10/25)
[黒田内閣]黒田清隆の単独辞任により内大臣三條實美が兼任(10/25→12/24)
[第3代]山縣有朋(12/24→)
《知事》
[第8代(官選)]日下義雄(→12/26)、[第9代(官選)]沖守固(12/26→)
《市長》
[第1代]北原雅長(06/08→)
01/22
★
臨時長崎区議会で区立水道敷設案を可決
→
01/25
☆
長崎区長の金井俊行が水道敷設工事を県に委託
02/02
★
岩原郷(のちの県立美術館の地)の県立長崎商業学校がふたたび長崎区に移管され長崎商業学校となる
→
04/01
☆
長崎区が長崎市と改まるが市立を冠せず長崎商業学校として校名を残す
→
1891(明治24)09/
☆
県より無償貸与された新町の尋常師範学校校舎跡地へ移転
02/11
★
大日本帝国憲法が公布される
02/11
★
大日本帝国憲法のなかに「信教の自由」が条文化される
愚昧な農民に過ぎないと思われた人々の信仰に殉ずる無抵抗の抵抗が因縁となり個人の信仰と良心を尊重する近代性をもたらす
憲法制定のときの伊藤博文の意見が大日本帝国憲法第28条の信教の自由条文となって具体化
「その国君或は政府で、その国人民の天有の公権を束縛し、或は奪うなど野蛮の風習は固より禁ずる所」
02/11
★
大日本帝国憲法発布当日。長崎公園で1万余人の祝宴が開かれる
西道仙が発起人総代となり「ケンポウハツプヲシユクシテマンザイ」の電報を宮内大臣に献じる
03/22
★
日刊の新聞「長崎商報」が平戸町で創刊。初代社長は
社主に加悦章平、松尾己代治、加藤重奉。幹部には丹羽末広、笹山光太郎、石川良道ら
→
のち
☆
廃刊
04/01
★
長崎区と上長崎村、下長崎村の各一部が合併、
長崎市
が成立(初代市長北原雅長)
推定面積7平方粁(推)、戸数9230【一説に1万0135戸】、人口5万4502
上長崎村の内船津郷、馬場郷の全部、西山郷、岩原郷、片淵郷、夫婦川郷、伊良林郷の一部
下長崎村の高野平郷、小島郷、十善寺郷の各一部を市域に編入。長崎区90町が合併
→
1898(明治31)10/01
☆
小松原知事が人口増加にともない村民の反対を押しきり長崎市が市域を拡張(
第1次
)
上長崎村の船津郷、岩原郷、西山郷、馬場郷、中川郷、伊良林郷の各一部
下長崎村の高野平郷、小島郷、十善寺郷の各全域、戸町村の大浦郷、浪之平郷、下郷の各全域
浦上山里村の馬込郷、里郷の各一部、浦上淵村の全域、小榊村木鉢郷の一部を市域に編入
16.00平方粁(推)、戸数1万6559、人口11万3307となる[1898(明治31)12/31現在]
編入された区域の人口は3万9333人[1897(明治30)12/31現在]
→
1920(大正09)10/01
☆
長崎市の
第2次
市域拡張により西彼杵郡上長崎村と浦上山里村を市域に編入
41.10平方粁、戸数3万3240、人口23万2912となる[1920(大正09)12/31現在]
上長崎村・浦上山里村(推)24.00平方粁3226戸1万6830人[1919(大正08)12/31現在]
→
1938(昭和13)04/01
☆
長崎市の
第3次
市域拡張により西彼杵郡小榊村、土井首村、小ケ倉村、西浦上村を市域に編入
90.54平方粁、戸数4万8270、人口26万8945となる[1938(昭和13)12/31現在]
小榊村2.05平方粁、640戸、3741人(男1921・女1820)
土井首村13.93平方粁、657戸、3880人(男1872・女2008)
小ケ倉村9.78平方粁、425戸、2289人(男1135・女1154)
西浦上村23.68平方粁、877戸、4665人(男2255・女2410)
[拡張区域は1937(昭和12)12/31現在]
→
1950(昭和25)04/01
☆
長崎市の
第4次
市域拡張により西彼杵郡福田村大浦郷字網場を市域に編入
90.60平方粁、戸数5万7081、人口24万7248となる[1950(昭和25)12/31現在]
福田村の一部0.06平方粁25戸106人(男56・女50)[1950(昭和25)01/20現在]
→
1955(昭和30)01/01
☆
長崎市の
第5次
市域拡張により西彼杵郡福田村と深堀村を市域に編入
114.23平方粁、戸数6万4231世帯、人口29万2765となる[1955(昭和30)01/31現在]
福田村21.47平方粁、992世帯、5431人(男2641・女2790)
深堀村21.8平方粁、1222世帯、6097人(男3026・女3071)
[拡張区域は1954(昭和29)03/31現在]
→
1955(昭和30)02/01
☆
長崎市の
第6次
市域拡張により西彼杵郡日見村を市域に編入
121.32平方粁、戸数6万4988世帯、人口29万6323となる[1955(昭和30)02/28現在]
日見村7.09平方粁、666世帯、3462人(男1736・女1726)
→
1962(昭和37)01/01
☆
長崎市の
第7次
市域拡張により西彼杵郡茂木町と式見町を市域に編入
165.41平方粁、戸数8万9692世帯、人口37万2027となる[1962(昭和37)01/31現在]
茂木町34.30平方粁、2661世帯、1万4272人(男6983・女7289)
式見村9.79平方粁、1404世帯、8048人(男3949・女4099)
[拡張区域は1960(昭和35)12/31現在]
→
1963(昭和38)04/20
☆
長崎市の
第8次
市域拡張により西彼杵郡東長崎町を市域に編入
206.62平方粁、戸数9万6743世帯、人口39万2072となる[1963(昭和38)04/30現在]
東長崎町41.21平方粁、2919戸、1万5490人(男7546・女7944)[1963(昭和37)07/31現在]
→
1973(昭和48)03/31
☆
長崎市の
第9次
市域拡張により西彼杵郡三重村を市域に編入
238.12平方粁、戸数12万4968世帯、人口43万1181となる[1973(昭和48)03/31現在]
三重村30.02平方粁、1198世帯、5190人[1972(昭和47)12/31現在]
→
1973(昭和48)04/01
☆
長崎市の
第10次
市域拡張により西彼杵郡時津町の横尾・巡り両地区を市域に編入
239.03平方粁、戸数12万5492世帯、人口43万3196となる[1973(昭和48)04/01現在]
時津町の一部0.91平方粁、524世帯、2015人[1972(昭和47)12/31現在]
→
1997(平成09)04/01
☆
長崎市が中核市に指定される
日本の大都市制度のひとつ。ほかには政令指定都市・特例市の別がある
いずれも都市の規模に応じて、市に都道府県の事務権限の一部を移譲する制度
中核市は日本の地方公共団体のうち、地方自治法第252条の22第1項に定める政令による指定を受けた市
指定要件は法定人口が30万人以上であること
所属する都道府県の議会と、その市自身の市議会の議決を経て総務大臣へ指定を申請
九州では1996(平成08)04/01の熊本市、鹿児島市に次いで、大分市と同時指定
→
2005(平成17)01/04
☆
長崎市の
第11次
市域拡張により
338.72平方粁、戸数18万2519世帯、人口44万7103となる[2005(平成17)01/04現在]
香焼町4.51平方粁1674世帯4200人(男1915・女2285)、高島町1.34平方粁432世帯778人(男349・女429)
伊王島町2.26平方粁460世帯879人(男398・女481)、野母崎町20.93平方粁2715世帯7420人(男3422・女3998)
三和町21.74平方粁4213世帯1万1925人(男5530・女6395)、外海町46.62平方粁2459世帯5401人(男2544 2857)
→
2006(平成18)01/04
☆
長崎市の
第12次
市域拡張により
406.35平方粁、戸数18万4119世帯、人口45万4739となる[2006(昭和18)10/01現在]
琴海町67.63平方粁4146世帯1万2457人(男5946・6511)[2006(昭和18)01/04現在]
04/01
★
長崎市
と同時に生まれた市は全国で31市
九州では福岡、久留米、佐賀、熊本、鹿児島の各市
04/01
★
市制・町村制の施行により対馬以外の長崎県に8つの郡ができる
東彼杵郡
に22の村と1つの町ができる、
西彼杵郡
に48の村と1つの市ができる
南高来郡
の島原半島に28の村と2つの町ができる、
北高来郡
に18の村と1つの町ができる
南松浦郡(五島列島)
に20の村ができる、
北松浦郡
に36の村と1つの町ができる
壱岐島に
壱岐郡
(5つの村)、
石田郡
(7つの村)の2郡ができる
→
1908(明治41)04/01
☆
島嶼に町村制が施行され対馬島に
下県郡
と
上県郡
ができる
☆
東彼杵郡
に22の村と1つの町ができる
三浦村、鈴田村、大村、西大村、萱瀬村、竹松村、福重村、松原村、千綿村、彼杵村、川棚村、下波佐見村、
上波佐見村、宮村、広田村、崎針尾村、江上村、早岐村、折尾瀬村、日宇村、佐世保村、大村町
→
1902(明治35)03/18
☆
佐世保村の一部が佐世村として分立
→
1902(明治35)04/01
☆
佐世保村に市制が敷かれ佐世保市となる
→
1904(明治37)04/01
☆
日宇村の一部が佐世保市に編入される
→
1923(大正12)04/01
☆
早岐村に町制が敷かれ早岐町となる
→
1925(大正14)04/01
☆
大村と大村町が合併し大村町となる
→
1927(昭和02)04/01
☆
広田村が早岐町に編入される
佐世村と日宇村が佐世保市に編入される
→
1934(昭和09)11/03
☆
川棚村に町制が敷かれ川棚町となる
上波佐見村に町制が敷かれ上波佐見町となる
→
1939(昭和14)11/03
☆
西大村、竹松村、大村町が合併し大村町となる
→
1940(昭和15)11/03
☆
彼杵村に町制が敷かれ彼杵町となる
→
1942(昭和17)02/11
☆
三浦村、鈴田村、萱瀬村、福重村、松原村と大村町が合併し大村市となる
→
1942(昭和17)05/27
☆
早岐町と北松浦郡中里村、皆瀬村、大野町が佐世保市に編入される
→
1955(昭和30)04/01
☆
折尾瀬村、江上村、崎針尾村が佐世保市に編入される
→
1956(昭和31)06/01
☆
下波佐見村と上波佐見町が合併し波佐見町となる
→
1958(昭和33)08/01
☆
宮村が佐世保市に編入される
→
1959(昭和34)05/01
☆
彼杵町と千綿村が合併し東彼杵町となる
→
1963(昭和38)07/01
☆
東彼杵町一部が大村市に編入される
☆
西彼杵郡
に48の村と1つの市ができる
面高村、瀬川村、七釜村、大串村、多以良村、瀬戸村、雪浦村、亀岳村、長浦村、神浦村、黒崎村、
村松村、三重村、時津村、長与村、伊木力村、大草村、喜々津村、西浦上村、式見村、福田村、
矢上村、日見村、上長崎村、浦上山里村、淵村、下長崎村、戸町村、茂木村、小ケ倉村、土井首村、
深堀村(深堀、大篭、香焼が合併)、蚊焼村、為石村、川原村、高浜村、脇岬村、野母村、樺島村、
高島村、伊王島村(伊王島と沖之島が合併)、松島村、黒瀬村、崎戸村、江島村、平島村、長崎市
→
1898(明治31)07/01
☆
淵村の一部が小榊村に分立する
西彼杵郡深堀村の一部が香焼村に分立する
→
1898(明治31)10/01
☆
淵村の一部が浦上山里村に編入される
西彼杵郡下長崎村、戸町村、淵村の一部、上長崎村の一部が長崎市に編入される
→
1919(大正08)10/01
☆
茂木村に町制が敷かれ茂木町となる
→
1920(大正09)10/01
☆
西彼杵郡上長崎村と浦上山里村が長崎市に編入される
→
1928(昭和03)06/01
☆
瀬戸村に町制が敷かれ瀬戸町となる
→
1931(昭和06)10/01
☆
崎戸村に町制が敷かれ崎戸町となる
→
1938(昭和13)04/01
☆
小榊村、土井首村、小ケ倉村、西浦上村が長崎市に編入される
→
1948(昭和23)10/01
☆
高島村に町制が敷かれ高島町となる
→
1949(昭和24)04/01
☆
黒瀬村に町制が敷かれ大島町となる
→
1950(昭和25)05/01
☆
福田村の一部が長崎市に編入される
→
1951(昭和26)12/01
☆
時津村に町制が敷かれ時津町となる
→
1955(昭和30)01/01
☆
深堀村と福田村が長崎市に編入される
→
1955(昭和30)02/01
☆
日見村が長崎市に編入される
→
1955(昭和30)02/11
☆
矢上村と北高来郡古賀村、戸石村が合併し東長崎町となる
多以良村、瀬戸町、雪浦村、松島村が合併し大瀬戸町となる
神浦村、黒崎村が合併し外海村となる
為石村、川原村、蚊焼村が合併し三和町となる
伊木力村と大草村と喜々津村が合併し多良見村となる
→
1955(昭和30)04/01
☆
面高村、七釜村が合併し西海村となる
高島町と高浜村の一部が合併し高島町となる
野母村、脇岬村、樺島村、高浜村の一部が合併し野母崎町となる
→
1956(昭和31)09/01
☆
江島村と平島村が崎戸町に編入される
→
1957(昭和32)03/31
☆
西海村と瀬川村が合併し西海村となる
→
1959(昭和34)01/15
☆
村松村の一部が時津町に編入される
長浦村と村松村の一部が合併し琴海村となる
→
1960(昭和35)05/03
☆
外海村に町制が敷かれ外海町となる
→
1961(昭和36)06/29
☆
亀岳村と大串村が合併し西彼村となる
→
1961(昭和36)11/03
☆
香焼村に町制が敷かれ香焼町となる
→
1962(昭和37)01/01
☆
西彼杵郡茂木町と式見町が長崎市に編入される
→
1962(昭和37)05/20
☆
伊王島村に町制が敷かれ伊王島町となる
→
1963(昭和38)04/20
☆
東長崎町が長崎市に編入される
市域が206.62平方米、人口が39万2886人となる
→
1965(昭和40)11/23
☆
多良見村に町制が敷かれ多良見町となる
→
1969(昭和44)01/01
☆
西彼村に町制が敷かれ西彼町となる
西海村に町制が敷かれ西海町となる
琴海村に町制が敷かれ琴海町となる
長与村に町制が敷かれ長与町となる
→
1973(昭和48)03/31
☆
三重村が長崎市に編入される
→
2005(平成17)01/04
☆
香焼町、伊王島町、高島町、野母崎町、三和町、外海町と長崎市が合併
→
2005(平成17)03/01
☆
多良見町と北高来郡森山町、飯森町、高来町、小長井町と諫早市が合併し諫早市となる
→
2005(平成17)04/01
☆
西彼町、西海町、大島町、崎戸町、大瀬戸町が合併し西海市となる
→
2006(平成18)01/04
☆
琴海町が長崎市に編入される
☆
南高来郡
の島原半島に28の村と2つの町ができる
愛野村、山田村、守山村、古部村、伊福村、西郷村、神代村、土黒村、多比良村、湯江村、大三東村、
三会村、杉谷村、島原村、安中村、深江村、布津村、堂崎村、東有家村、西有家村、北有馬村、
南有馬村、口之津村、加津佐村、南串山村、北串山村、小浜村、千々石村、島原町、湊町
→
1924(大正13)04/01
☆
島原村と島原町、湊町が合併して島原町となる。南高来郡小浜村に町制が敷かれ小浜町となる
→
1926(昭和01)07/01
☆
古部村と伊福村が合併し大正村となる
→
1927(昭和02)01/01
☆
東有家村に町制が敷かれ有家町となる
→
1927(昭和02)04/01
☆
西有家村に町制が敷かれ西有家町となる
→
1928(昭和03)01/01
☆
加津佐村に町制が敷かれ加津佐町となる
→
1928(昭和03)04/01
☆
口之津村に町制が敷かれ口之津町となる
→
1928(昭和03)11/01
☆
千々石村に町制が敷かれ千々石町となる
→
1932(昭和07)01/01
☆
南有馬村に町制が敷かれ南有馬町となる
→
1937(昭和12)02/11
☆
多比良村に町制が敷かれ多比良町となる
→
1940(昭和15)04/01
☆
島原町、杉谷村、安中村が合併し島原市となる
→
1949(昭和24)08/01
☆
愛野村に町制が敷かれ愛野町となる
→
1954(昭和29)04/01
☆
山田村と守山村が合併し吾妻村となる
→
1955(昭和30)02/11
☆
北串山村と小浜町が合併し小浜町となる
→
1955(昭和30)04/01
☆
大三東村と湯江村が合併し有明村となる
三会村が島原市に編入される
→
1956(昭和31)09/01
☆
土黒村と多良見町が合併し国見町となる
→
1956(昭和31)09/25
☆
大正村、西郷村が合併し瑞穂村となる
→
1956(昭和31)09/30
☆
堂崎村と有家町が合併し有家町となる
→
1957(昭和32)03/22
☆
神代村が国見町に編入される
→
1961(昭和36)11/03
☆
有明村に町制が敷かれ有明町となる
→
1962(昭和37)05/03
☆
深江村に町制が敷かれ深江町となる
→
1963(昭和38)04/01
☆
吾妻村に町制が敷かれ吾妻町となる
→
1969(昭和44)04/01
☆
瑞穂村に町制が敷かれ瑞穂町となる
南串山村に町制が敷かれ南串山町となる
北有馬村に町制が敷かれ北有馬町となる
布津村に町制が敷かれ布津町となる
→
2005(平成17)10/11
☆
国見町、瑞穂町、吾妻町、愛野町、千々石町、小浜町、南串山町が合併し雲仙市となる
→
2006(平成18)01/01
☆
有明町が島原市に編入される
→
2006(平成18)03/31
☆
加津佐町、口之津町、南有馬町、北有馬町、西有家町、有家町、布津町、深江町が合併
南島原市となる
☆
北高来郡
に18の村と1つの町ができる
古賀村、戸石村、田結村、真津山村、小栗村、江ノ浦村、有喜村、小野村、森山村、
諫早村、北諫早村、本野村、長田村、深海村、小江村、湯江村、小長井村、諫早町
藩政時代には北高来郡内に50余りの村があった
→
1923(大正12)04/01
☆
北高来郡北諫早村と諫早村、諫早町が合併して諫早町となる
→
1940(昭和15)09/01
☆
小栗村、小野村、有喜村、真津山村、本野村、長田村、諫早町が合併し諫早市となる
→
1940(昭和15)11/03
☆
湯江村に町制が敷かれ湯江町となる
→
1955(昭和30)02/11
☆
江ノ浦村と田結村が合併し飯森村となる
→
1955(昭和30)02/11
☆
古賀村、戸石村と西彼杵郡矢上村が合併し東長崎町となる
→
1956(昭和31)09/20
☆
深海村、小江村、湯江村が合併し高来町となる
→
1965(昭和40)04/01
☆
飯森村に町制が敷かれ飯森町となる
→
1966(昭和41)11/01
☆
小長井村に町制が敷かれ小長井町となる
→
1969(昭和44)04/01
☆
森山村に町制が敷かれ森山町となる
→
2005(平成17)03/01
☆
森山町、飯森町、高来町、小長井町と西彼杵郡多良見町と諫早市が合併し諫早市となる
☆
南松浦郡(五島列島)
に20の村ができる
玉之浦村、富江村、三井楽村、岐宿村、大浜村、本山村、崎山村、福江村、奥浦村、久賀島村、
樺島村、奈留島村、日島村、若松村、奈良尾村、有川村、浜ノ浦村、青方村、魚目村、北魚目村
→
1919(大正08)10/01
☆
福江村(福江島)に町制が敷かれ福江町となる
→
1922(大正11)09/01
☆
富江村(福江島)に町制が敷かれ富江町となる
→
1933(昭和08)11/03
☆
玉之浦村(福江島)に町制が敷かれ玉之浦町となる
→
1934(昭和09)10/17
☆
有川村(中通島)に町制が敷かれ有川町となる
→
1940(昭和15)11/03
☆
三井楽村(福江島)に町制が敷かれ三井楽町となる
→
1941(昭和16)04/01
☆
青方村(中通島)に町制が敷かれ青方町となる
→
1941(昭和16)04/03
☆
岐宿村(福江島)に町制が敷かれ岐宿となる
→
1943(昭和18)12/08
☆
奈良尾村(中通島)に町制が敷かれ奈良尾町となる
→
1954(昭和29)04/01
☆
奥浦村、崎山村、本山村、大浜村、福江町が合併し福江市となる
→
1956(昭和31)06/01
☆
青方町、浜ノ浦村(中通島)が合併し上五島町となる
→
1956(昭和31)09/25
☆
若松村、日島村(若松島)が合併し若松町となる
→
1956(昭和31)09/30
☆
魚目村、北魚目村(中通島)が合併し新魚目町となる
→
1957(昭和32)03/31
☆
樺島村(樺島)が福江市に編入される
→
1957(昭和32)11/01
☆
久賀島村(久賀島)が福江市に編入される
→
1957(昭和32)11/03
☆
奈留島村(奈留島)に町制が敷かれ奈留町となる
→
2004(平成16)08/01
☆
奈留町(奈留島)、富江町、玉之浦町、三井楽町、岐宿町、福江市(福江島)が合併。福江市となる
樺島、久賀島も福江市に含まれる
若松町(若松島)、上五島町、新魚目町、有川町、奈良尾町(中通島)が合併し新上五島町となる
☆
北松浦郡
に36の村と1つの町ができる
山口村、中里村、皆瀬村、大野村、柚木村、世知原村、吉井村、佐々村、小佐々村、鹿町村、江迎村、南田平村、
田平村、御厨村、星鹿村、志佐村、上志佐村、調川村、今福村、福島村、鷹島村、大島村、平戸村、生月村、中野村、
紐差村、獅子村、中津良村、津吉村、志々伎村、黒島村、平村、神浦村、笛吹村、前方村、柳村、平戸町
→
1921(大正10)11/01
☆
志佐村に町制が敷かれ志佐町となる
→
1925(大正14)04/01
☆
平戸村と平戸町が合併し平戸町となる
→
1926(昭和01)04/01
☆
笛吹村、前方村、柳村が合併し小値賀村となる
→
1929(昭和04)04/01
☆
今福村に町制が敷かれ今福町となる
→
1930(昭和05)04/03
☆
山口村に町制が敷かれ相浦町となる
→
1938(昭和13)04/01
☆
相浦町が佐世保市に編入される
→
1940(昭和15)02/11
☆
小値賀村に町制が敷かれ小値賀町となる
→
1940(昭和15)04/01
☆
江迎村に町制が敷かれ江迎町となる
→
1940(昭和15)04/17
☆
大野村に町制が敷かれ大野町となる
生月村に町制が敷かれ生月町となる
→
1940(昭和15)11/03
☆
世知原村に町制が敷かれ世知原町となる
→
1941(昭和16)01/01
☆
佐々村に町制が敷かれ佐々町となる
星鹿村と御厨村が合併し町制が敷かれ新御厨町となる
→
1942(昭和17)05/27
☆
中里村、皆瀬村、大野町と東彼杵郡早岐町が佐世保市に編入される
→
1947(昭和22)10/10
☆
鹿町村に町制が敷かれ鹿町(ししまち)町となる
→
1949(昭和24)01/01
☆
調川村に町制が敷かれ調川町となる
→
1949(昭和24)08/01
☆
平村に町制が敷かれ平町となる
→
1950(昭和25)05/03
☆
小佐々村に町制が敷かれ小佐々町となる
→
1951(昭和26)12/01
☆
福島村に町制が敷かれ福島町となる。人口は1万1千人を数える
吉井村に町制が敷かれ吉井町となる
→
1954(昭和29)04/01
☆
南田平村、田平村が合併し町制が敷かれ田平町となる
上志佐村、志佐町が合併し志佐町となる
柚木村、黒島村が佐世保市に編入される
→
1955(昭和30)01/01
☆
中野村、獅子村、紐差村、中津良村、津吉村、志々伎村と平戸町が合併し平戸市となる
→
1955(昭和30)03/31
☆
新御厨町、志佐町、調川町が合併し松浦市となる
→
1955(昭和30)04/01
☆
神浦村と平町が合併し宇久町となる
→
1955(昭和30)04/15
☆
今福町が松浦市に編入される
→
1958(昭和33)10/01
☆
鹿町(ししまち)町を鹿町(しかまち)町に改称
→
1975(昭和50)01/01
☆
鷹島村に町制が敷かれ鷹島町となる
→
2001(平成13)04/01
☆
佐世保市が特例市指定となる
→
2005(平成17)04/01
☆
吉井町、世知原町が佐世保市に編入される
→
2005(平成17)10/01
☆
大島村、生月町、田平町と平戸市が合併する
→
2006(平成18)01/01
☆
福島町、鷹島町、松浦市が合併し松浦市となる
→
2006(平成18)03/31
☆
宇久町、小佐々町が佐世保市に編入される
☆
壱岐郡
と
石田郡
の2郡ができる
壱岐郡に香椎村、箱崎村、鯨伏村、那賀村、田河村の5つの村ができる
石田郡に石田村、志原村、初山村、武生水村、渡良村、柳田村、沼津村7つの村ができる
→
1896(明治29)04/01
☆
壱岐郡と石田郡が統合され壱岐郡となる
→
1925(大正14)04/01
☆
武生水村に町制が敷かれ武生水町となる
→
1935(昭和10)04/01
☆
香椎村に町制が敷かれ勝本町となる
→
1947(昭和22)11/03
☆
田河村に町制が敷かれ田河町となる
→
1955(昭和30)02/11
☆
鯨伏村と勝本町が合併し勝本町となる
初山村、柳田村、志原村、渡良村、沼津村、武生水町が合併し郷ノ浦町となる
→
1955(昭和30)04/01
☆
田河町と那賀村が合併し芦辺町となる
→
1956(昭和31)09/30
☆
箱崎村が芦辺町に編入される
→
1958(昭和33)04/01
☆
郷ノ浦町の一部が石田村に編入される
→
1961(昭和36)04/01
☆
芦辺町の一部が石田村に編入される
→
1970(昭和45)08/01
☆
石田村に町制が敷かれ石田町となる
→
2004(平成16)03/01
☆
壱岐郡の郷ノ浦町、勝本町、芦辺町、石田町が合併し壱岐市となる
04/22
★
ダム工事反対派が多い中、工事に着手
長崎は飲料水に適した川がなく井戸水に依存
下水道の不備でコレラなど伝染病が発生すると汚染され大量の死者をだす
知事は伝染病予防の衛生面から水道設備の必要性を力説
また外人商社による「長崎の不衛生を改善しなければ引き揚げる」との外圧が決定的に
反対派の理由は莫大な費用の負担
第1回市議会では反対派の議長、副議長が選出
→
1891(明治24)03/
☆
ダム式の
本河内高部水源地
が完成
予算以下で完成したのは、工事に従った多数の囚人の手抜きのない堅実な仕事にある
賛否両派の抗争はダム完成後も続く
→
1891(明治24)05/16
☆
市民への水道共用栓の無料給水が始まる
→
のち
☆
水道初使用による消火で類焼を免れた、反対派の旗頭上野屋旅館主が賛成派に転じ、流れを変える
→
1893(明治26)
☆
賛成反対が5年ぶりに和解
05/
★
佐世保鎮守府所轄の第三海軍区の区域が九州沿岸と壱岐・対馬・沖縄諸島の海上と公示
→
1889(明治22)07/
☆
佐世保鎮守府が開庁。初代鎮守府司令長官には赤松則村中将が任命
05/
★
徳川家歴代将軍を祀る
東照宮
が丸馬場上の高台に移る
→
1897(明治30)05/
☆
社殿が建立される
06/08
★
天皇の裁可を得て北原雅長が
初代長崎市長
に就任
06/11
★
西彼杵郡内に赤痢が流行、患者3137人
07/
★
佐世保鎮守府が開庁。初代鎮守府司令長官には赤松則村中将が任命
→
のち
☆
鎮守府司令長官には連合艦隊司令長官となる東郷平八郎中将や第1級の海軍指導者が歴任
佐世保市民は、県知事の名を知らなくても鎮守府司令長官の名は知っていた
→
1889(明治22)12/
☆
海兵団の第1回新兵入団をみる
07/
★
我国初の
有料道路
日見峠一等県道の道銭徴収を終了
07/
★
婦人矯風会が一夫一婦制確立の建白書を政府に提出
08/09
★
長崎市役所が開庁し6課8係53人の職員で発足
08/
★
西道仙が「
長崎水道論
」を発行。水道の必要性を訴える
09/23
★
自由民権を旗印に日刊の新聞「長崎新報」(現
長崎新聞
)が西浜町で創刊
志波三九郎、家永芳彦らが同士と計り政治思想の普及を目指して創刊
志波三九郎、家永芳彦らは民権拡張を唱えて長崎県改進党を組織していた
長崎で唯一日刊新聞として発行の保守系「鎮西日報」に対抗して盛んに筆戦を試みる
発行者・社長は改進党の家永芳彦
→
1910(明治43)夏/
☆
編集上のミスで「長崎新報」が不敬事件に問われる
連載ものの「昔の女」「今の女」に不敬罪に触れる内容のものがあり発行責任者は懲役6か月の刑を受ける
長期発行停止の処分を受け更生策が立てられる
→
1911(明治44)03/11
☆
「長崎日日新聞」と改題
【03/18?】
10/
★
「長崎くんち」(4)…寄合町(本踊)、興善町(小薩摩)、今下町(本踊)、
築町(川船)、馬町(本踊)、大黒町(唐人船)、東上町(獅子踊)、八坂町(本踊)、
東浜町(本踊・段尻)、東古川町(本踊)、本古川町(本踊・龍船)、銅座町(本踊)
10/12
★
築町の俵物役所跡にルネサンス様式で洋風煉瓦造2階建のモダンな
第十八国立銀行本店
の新社屋が完成
→
1889(明治22)12/01
☆
東濱町より移転。営業を開始
12/01
★
第十八国立銀行が東濱町より築町の俵物役所跡のルネサンス様式で洋風煉瓦造2階建のモダンな新社屋に移転。営業を開始
→
1890(明治23)
☆
国内外初の第1号支店として、朝鮮国仁川に支店開設
12/
★
佐世保鎮守府への海兵団の第1回新兵入団をみる
→
1890(明治23)
☆
はじめて所轄の軍艦が湾内に姿を浮かべる
★
木鉄混合橋の
長久橋
が架かる
★
平戸町にて「長崎商報」が発刊
★
中心部のエゴばたに柳などを植えて
柳通り
と呼ぶようになる
★
南山手25番館に香港上海銀行長崎支店長社宅が建つ
→
1966(昭和41)06/
☆
愛知県犬山市の明治村に移築のため解体。約37万3千円で売却
→
1967(昭和42)02/14
☆
明治村で復元。九州から明治村入りした第1号の建物
★
馬場郷の長崎村庄屋森田某の跡地に長崎県尋常師範学校の校舎と寄宿舎を新築。男子部・女子部ともに移転
→
1898(明治31)
☆
長崎県師範学校と改称。長崎県教員養成の基礎が確立
★
松田源五郎、香坂留彦が長崎製氷会社を発足
5瓲の製氷機械とラムネ製造機を九州で初めて設置
→
のち
☆
幾度かの変遷を減る
→
1928(昭和03)
☆
大日本製氷会社と合併
冷凍能力10瓲、冷蔵能力10瓲の設備は九州随一
★
カブリュー学校(加伯利英和学校)が鎮西学館と改称
→
1906(明治39)
☆
私立鎮西学院に
★
出島聖公会神学校隣接の出島教会(長崎監督教会、出島8・9番地)が解体
→
1890(明治23)
☆
出島教会(長崎監督教会)が大村町に移る
→
1893(明治26)
☆
出島聖公会神学校は教会跡地を含めて東側に宣教師宿舎を増築
→
のち
☆
出島聖公会神学校は増改築や模様替えがされる
→
明治末
☆
出島聖公会神学校は病院として使われる
★
近代的水道の本河内水源地、高部水道が起工
→
1891(明治24)03/
☆
近代的水道の本河内水源地、高部水道が落成
日本全国で、1887(明治20)10/の横浜、1889(明治22)12/の函館に次いで三番目
横浜、函館は河川取水式、長崎はダム築造の貯水池式で日本初
→
1891(明治24)05/16
☆
市民への水道共用栓の無料給水が始まる
★
ウラジオストク〜長崎の航路が神戸まで延長
→
1907(明治40)04/
☆
敦賀起点の直行便が大阪商船により開設。長崎線が大きく後退
★
西彼杵郡内に赤痢流行、患者3137
★
東海道本線が全通
★
上海のノースチヤイナー・デイリーニユースが雲仙を紹介
上海、香港、南洋方面外人の避暑客を誘致する
★
小浜、光泉寺へののぼりぐち角に旅館一角楼が創業
→
1900(明治33)
☆
増加する外人客を対象に北本町に移転。小浜唯一のホテルとして発足
→
1901(明治34)
☆
中国に北津事件が起こり、北京、天津方面から避難してきた外人で、ホテルは半年以上満員に
→
1911(明治44)
☆
新館を増設
→
1917(大正06)
☆
ロシア革命が起こる
シベリア鉄道拡張のための資材を満載したアメリカの貨物船が長崎での待機を命じられる
乗組員は雲仙、小浜に逗留。一角楼にも70余人が滞在
まったく予定外の滞在客をうけて創業期における経営の基礎をつくる
→
1934(昭和09)
☆
自家温泉のボーリングを開始
2年半あまりの間に10本を掘り、うち2本から温泉が吹き上げる
→
1964(昭和39)
☆
鉄筋6階建の一角楼観光ホテルを竣工
→
1968(昭和43)08/
☆
旧館を解いて8階建800坪の建設を完成。「小浜観光ホテル」と改名
★
市内の赤痢患者350余。死亡は100余
▼
1890(明治23)
【明治】
庚寅(かのえとら)
《総理大臣》
[第3代]山縣有朋
《知事》
[第9代(官選)]沖守固(→01/07)、[第10代(官選)]中野健明(01/07→)
《市長》
[第1代]北原雅長
02/01
★
初めて長崎県医会(長崎県医師会の前身)を開く
議長に 吉田健康(長崎病院長)、副議長に 西道仙(開業医)が当選
→
03/
☆
長崎医会が東京で開催の第1回日本医学会に出席する長崎県医会総代として吉田健康、西道仙を選出
長崎県医会が組織される
→
1892(明治25)06/02
☆
長崎医会が開かれる
03/08
★
新大工の地に九州一の大劇場「舞鶴座」が起工
→
11/02
☆
「舞鶴座」が落成開場
03/27
★
長崎公園(諏訪公園)が県営から市営になる
05/01
★
第1回国際メーデーが行なわれる
ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、ラテンアメリカの労働者が8時間労働制を要求
05/
★
西彼杵郡戸町村大浦の大浦小学校が東山町に校舎を新築。05/30開校式を行なう
→
1892(明治25)05/
☆
高等科を加設し大浦尋常高等小学校と改称
06/01
★
県から05/09付の衛生組合準則が公布。町ごとに衛生組合を設けることになる。この年に50か町が結成
主として清掃・消毒・伝染病予防など衛生行政の協力を目的として活動
→
1933(昭和08)
☆
257組合に達する
06/
★
長崎にコレラが発生。全国に流行
この年の長崎の患者858人、全国の患者4万6019人、死亡3万5227人
内務省が長崎市をコレラの流行地に指定
08/08
★
(初発〜)県下のコレラ患者1641人、うち死亡943人。赤痢も郡市で猖獗
08/
★
アメリカ改革派教会から教師として米人キャリー・B・ランターマンが派遣され来日
直ちに長崎の梅香崎スタージーズ女学校で英語と体操の指導を担当
→
1892(明治25)
☆
梅香崎スタージーズ女学校の校長に就任
→
1892(明治25)09/10
☆
急病のため東山手14番地Aの自宅で30才で死去
坂本国際墓地202番に埋葬され墓石は改革派教会婦人伝道局によって建立、日本初の宣教師の墓石
11/02
★
新大工の地に九州一の「舞鶴座」が落成開場
瓊浦劇場株式会社を経営する本古川町の帯谷宗七が設立
敷地1700坪、建坪600坪、総檜造り釣天井、二重廻り舞台、せり上げ、花道長13間半、3800人収容
回り舞台が2面(蛇の目)あり、入口から座席までの下足扱いの廊下が工夫されている
照明設備が不充分で午前8時開幕、午後6時終演
→
1915(大正04)10/16
☆
「長崎劇場」と改称
→
1917(大正06)06/29
☆
三菱合資会社所有の「中島会館」と改称
→
1936(昭和11)
☆
廃館
→
1989(平成01)
☆
中島会館が「トレディアホテル中島」に名称を変更
11/07
★
渡御。「長崎くんち」(5)が日程変更
→
11/09
☆
還御となる
★
港湾第1期改良工事
の一環、中島川の変流工事が完成
★
アメリカから輸入された、錬鉄のピン結合のプラットトラス橋の
新川口橋
が架かる
→
1910(明治43)06/
☆
玉江橋に接近し交通上存置の要が少なく撤去
また木鉄混交橋の旧出島橋が老朽化したために、この新川口橋が出島橋に移設された
★
ボールデンハウス貿易商会が竣工。木造2階建でヴェランダコロニアル建築
★
松翁軒
8代貞次郎はパリの大博覧会にカステラを出品。金牌を受賞
→
のち
☆
セントルイス万国大博覧会にカステラを出品。名誉大金牌を受賞
★
坂本町外人墓地
が地元カトリック伝道団の要請により4つの区域がカトリック教徒の墓地に指定
→
1892(明治25)
☆
ユダヤ人商人M・ギンズバーグとN・メスがユダヤ人墓地を購入
背後に石造門や壁、鉄柵が施され整備
★
長崎最初の海水浴場として鼡(ねずみ)島海水浴場会社が設立
鼡島の名称は江戸時代に深堀の真北(十二支の子)の方角にあたるため子角(ねずみ)島
あるいは作物ができないほど鼠が多かったため
→
1903(明治36)07/
☆
「東洋日の出新聞」を創刊した鈴木天眼、西郷四郎が記念事業として「瓊浦遊泳協会」を設立
市民皆泳武道鍛練の目的で長崎港口鼠島に遊泳場を設ける
東洋日之出新聞の鈴木天眼が主唱し浜町の田中直三郎の援助による
西郷四郎は協会師範となり青少年の心身の鍛練を行なう
→
1903(明治36)
☆
新聞社内に協会事務所を置いて鼡島海水浴場で青少年の水泳指導を行なう
発足当時の小中学生の正会員は810余人、そのほかあわせて1日平均1000人以上の参加があり盛況に
→
1913(大正02)
☆
「瓊浦」が分かりづらく「長崎遊泳協会」と改称
→
1972(昭和47)08/20
☆
第2次長崎外港埋立計画によりねずみ島が閉鎖されることになる
最後の大名行列が行なわれる
協会は松山町の市民プールに活動の場を移す
★
第十八国立銀行本店の国内外初の第1号支店として、朝鮮国仁川に支店を開設
→
1897(明治30)07/01
☆
国立銀行制度改革で株式会社十八銀行に転換。営業を継続
★
長崎〜阿久根に汽船航路が開設
★
端島砿が三菱合資会社として操業を開始
→
1974(昭和49)01/15
☆
「
軍艦島
」と呼ばれた三菱石炭鉱業高島砿業所端島砿で閉山式が挙行
閉山の理由…1965(昭和40)10/
☆
から採炭中の三ツ瀬地区の坑道が海面下340米あり、埋蔵量が尽きたこと
その他の地区も採掘が期待できず、これ以上の操業継続が不可能と判断
★
倉場富三郎がペンシルヴェニア大学の自然科学部に入学。生物学を学ぶ
→
1894(明治27)
☆
外国系商社ホーム・リンガー商会に入社
★
出島教会宣教師(鎮西学院兼務)のH・B・ジョンソンが東浜町に講義所を創設
★
日本人専用の出島教会(長崎監督教会)が大村町に移る
→
1895(明治28)
☆
長崎聖三一教会と改称
★
佐世保鎮守府へのはじめて所轄の軍艦が湾内に姿を浮かべる
★
上野彦馬がウラジオストクに支店を開設
★
木造白亜漆喰のゴシック様式沖之島天主堂が建立
★
第1回衆議院議員総選挙実施
★
第1回帝国議会開く
★
長崎にコレラが発生し、全国に流行、死亡3万5227。内務省は長崎市をコレラ流行地に指定
▼
1891(明治24)
【明治】
辛卯(かのとう)
《総理大臣》
[第3代]山縣有朋(→05/06)、[第4代]松方正義(05/06→)
《知事》
[第10代(官選)]中野健明
《市長》
[第1代]北原雅長
03/
★
近代的水道の
本河内高部水源地
、高部水道が予算以下で落成。土堰堤の長さ128米
受刑者も動員し念入りにつき固め16.76米の高さに盛り上げる
中心を岩盤に達する粘土、そのまわりを精選土で固める
予算以下で完成したのは、工事に従った多数の囚人の手抜きのない堅実な仕事にある
賛否両派の抗争はダム完成後も続く
日本全国で、1887(明治20)10/の横浜、1889(明治22)12/の函館に次いで三番目
横浜、函館は河川取水式、長崎はダム築造の貯水池式で日本初
→
05/16
☆
市民への水道共用栓の無料給水が始まる
04/27
★
ロシアのアレクサンドル3世の長子
ニコライ2世
が軍艦で東方諸国旅行の最終訪問地として来日
ニコラス2世の甥ギリシャのジョージ親王とともに長崎に入港
稲佐のお栄が県当局の依頼で皇太子をもてなす
→
04/28
☆
人力車で大浦8番館、今魚町の江崎べっ甲店、麹屋町の池島骨董店、
出島町の香蘭社支店、本籠町の白山写真店、大波止の勧工場に立ち寄り買い物をする
→
のち
☆
本籠町の本田漆器店、新大工町の上野彦馬写真屋にも寄る
買い物は女性的な嗜好で愛する妻へのプレゼント?
→
04/30
☆
稲佐悟真寺内のロシア人墓地を訪れる
丸山芸者と遊び、両腕に龍の刺青を刻印させる
→
05/03
☆
夜、志賀の波止の将校クラブで丸山の芸妓を呼び遊興
ロシア語で挨拶をしジョージとダンスを踊る
→
05/05
☆
長崎を出港。のち、鹿児島、神戸に入港し、列車で京都へ
→
05/11
☆
大津で警備の巡査に切りつけられ負傷。
大津事件
→
05/13
☆
ロシアの報復をおそれた日本は明治天皇自ら見舞い、ロシア艦内にもおもむく
→
のち
☆
首相の松方正義は司法部に極刑を申し入れる
外相の青木周蔵は駐日ロシア当局に死刑にすることを明言
大審院長の児島惟謙は刑法では謀殺未遂罪に死刑の適用はできないとして、被告に無期懲役を宣告
児島惟謙は政府の干渉を排除し、法規に従い司法権の独立を守る
04/
★
門司駅(門司港駅)開業の直後に九州鉄道の赤煉瓦造の豪華な社屋が完成。本社を博多より移転
→
1907(明治40)07/01
☆
国有鉄道となる
05/16
★
市民への水道共用栓の無料給水が始まる(〜06/末)
水道料金の市民負担が過大になるとして反対運動が起き完成した共用栓に悪評をあおる
対して長崎市は市民に水道に慣れてもらおうと無料にした
物珍しさと好奇心が手伝い共用栓には長蛇の列ができる。おかみさんたちの新しい井戸端会議場に
共用栓は砲弾型共用栓
シナ日本貿易商会が請け負い、工事費26万4357円59銭、専用申し込みはわずかに80戸
05/29
★
築町から出火、初めて水道水を利用して消火に努める
焼失2戸、焼死2人に留める
07/05
★
清国の北洋水師(艦隊)が戦艦「鎮遠」「定遠」と軍艦他4隻で、示威(名目上は親善)活動のため東京湾へ来航
夏
★
長崎公園園内3か所に石油ランプによる夜間照明灯が設置される
夏になると夕涼みがてら公園を散歩する市民が多く、暗闇の公園では風紀上からもよくないため
08/23から10/31まで。ただし陰暦九日から十八日までの月夜の明るい期間を除く50日間。毎日夜12時まで点灯
→
1893(明治26)04/
☆
長崎電灯会社の開設により園内の照明が石油ランプから電燈に切り替えられる
08/18
★
長崎・伊良林郷にコレラ発生
→
のち
☆
十善寺郷、築町、浪之平、丸山町に流行
→
11/
☆
終息
08/
★
フランスの富豪の未亡人が喜捨した8万フランを基金に旧大村藩蔵屋敷跡を購入
外国人用の大浦天主堂以外に教会がなく増加する日本人信徒のため
教会堂建設に着手。設計は仏人宣教師パピノー
→
1896(明治29)09/08
☆
煉瓦造り瓦葺きロマネスク洋式の
西中町天主堂
が竣工
08/
★
清国北洋艦隊丁汝昌が来航
09/21
★
上海「ホプキンズ・ダン商会」所有、鉄製肋材使用3本マストの帆船「ケープ・シティ号」が長崎へ入港
乗員は船長R・H・ウェザラルと船員13人
他2人の乗客(ウェザラルの妻レベッカ・E・ウェザラル(28)と中国人召使い)
積荷のバラスト200瓲を長崎で石炭に積み替える予定になっていた
飽の浦投錨後、バラストを積み上げし、船長と夫人は石炭の到着までくつろいでいた
と、突風を受けた船は右舷へ約15度傾き、船長はバラストを積み戻すよう命じるが、数分後には転覆
沈没し乗組員全員が海に投げ出される
泳いだり漂流物につかまったりしたが船長の妻と二等航海士フィリッツ・ハンセン(独)が行方不明に
数時間後、沈没船から2人の溺死体が発見
レベッカは坂本国際墓地31番にフィリッツ・ハンセンは同318番にそれぞれ埋葬される
→
のち
☆
ウェザラル船長はバラスト全てを下ろし船を危険な状態にしたとして過失罪容疑で法廷に召喚
自己弁護をしたが有罪となり海技免状が取り消しに
09/
★
長崎商業学校が県より無償貸与された新町の尋常師範学校校舎跡地へ移転
→
1899(明治32)09/
☆
馬場郷徳蓮田の新築校舎に移転
敷地面積2800坪、建築総坪4029坪、総工費支出額6万648円13銭
09/
★
「海岸要地防備ノ位置選定ノ件」が裁可される
「海岸防御計画大要」に沿って砲台築城地として、着工中の東京湾口・対馬浅茅湾・関門海峡・紀淡海峡の他、17箇所が選定
芸予海峡・鳴門海峡・広島湾・佐世保・舞鶴・長崎・函館・室蘭・七尾・敦賀・鳥羽・和歌浦・小樽・女川・清水・宇和島・鹿児島
→
のち
☆
これらの地域に砲台を整備するには莫大な予算を必要とするため、着工されないうちに日清戦争を迎える
10/17
★
渡御。「長崎くんち」がコレラのため日程変更
→
10/19
☆
還御
(6)…寄合町(本踊)、本大工町(本踊・曳段尻)、今博多町(本踊)、本紺屋町(本踊)、
今魚町(小薩摩)、本籠町(蛇踊)、材木町(川船)、古町(本踊)、上筑後町(本踊)、
江戸町(振遠隊凱旋踊)、本興善町(本踊)
10/26
★
(初発〜05/29)長崎市内の赤痢110、うち死亡33
11/
★
浪之平の遊廓が
出雲町
の新指定地に移転
川をはさんで二筋の平行した石畳の道路沿いに、最盛期には遊廓16軒、女性340人を数えた
市内の遊廓は丸山・寄合町、稲佐、戸町、出雲町の4か所に
浪之平の遊廓は和船の停泊地で自然に発生。この頃は貸座席14軒、遊女6〜70人
12/10
★
時事新報に福沢諭吉の医薬分業論の記事が掲載。医師と薬舗の癒着を憂える
★
梅香崎町の長崎税関の建物が煉瓦造2階建の官庁建築として新築される
→
1928(昭和03)
☆
梅香崎町の建物が出島岸壁に移り鉄筋コンクリート2階建として完成
時勢に順応して港湾機能を充分に発揮するため
★
相生町の諏訪神社で神社再興200年祭の祭礼に「俄(にわか)踊り」の奉納がある
★
浜町に林田傘店が開業
★
大浦上田町の七楽座が演芸場となり劇場「七楽座」が誕生
浪花節芝居や祭文芝居などの節劇、寄席などの大衆演芸を興業
→
第二次世界大戦中
☆
大浦劇場に改称
★
東山手9番地のスチイル記念学校が東山学院と改称
→
1932(昭和07)05/
☆
明治学院に併合され廃校に
→
のち
☆
長崎東陵中学校となる
★
喜真(株)が創業
→
1922(大正11)
☆
(株)喜真銀行に改名
→
1929(昭和04)03/
☆
(株)諫早商業銀行とともに(株)諫早銀行に合併される
★
ウラジオストクでシベリア鉄道が起工。長崎近辺から鉄道工事への出稼ぎ労働者が増える
並行して大工、洗濯業などの職人層の移住が増大
★
高島の信徒の献金により最初の聖堂が建つ
フランスから鐘を取り寄せる
★
出津に信者が増えド・ロ神父が建てた聖堂の祭壇方向に1.5倍広げ、十字架を頂く小塔を建てる
→
1909(明治42)
☆
正面玄関部を増築。四角の鐘塔を建て鐘を吊るしフランスから取り寄せたマリア像を塔上に据える
★
上野彦馬が上海、香港に支店を開設
★
小浜の本多西男が小高竹三郎に命じて小浜湯せんべいを作らせる
▼
1891(明治24)頃
★
雲仙の湯元旅館9代目の加藤小左衛門が湯浴みする女の裸体のさし絵を載せた奇抜な観光案内書をつくる
長崎における観光パンフレットの最初のもの
→
1968(昭和43)09/
☆
湯元旅館が新館を完成。湯元ホテルとなる
▼
1892(明治25)
【明治】
壬辰(みずのえたつ)
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