室町時代以前
(1)
室町以前(2)
安土桃山(1)
安土桃山時代
(2)
安土桃山時代
(3)
江戸時代(1) 江戸時代(2) 江戸時代(3)
江戸時代(4) 江戸時代(5) 江戸時代(6) 江戸時代(7) 江戸時代(8) 江戸時代(9) 江戸時代(10) 江戸時代(11)
江戸時代(12) 江戸時代(13) 江戸時代(14) 江戸時代(15) 江戸時代(16) 江戸時代(17) 江戸時代(18) 明治時代(1)
明治時代(2) 明治時代(3) 明治時代(4) 明治時代(5) 明治時代(6) 明治時代(7) 明治時代(8) 明治時代(9)
大正時代(1) 大正時代(2) 大正時代(3) 昭和時代(1) 昭和時代(2) 昭和時代(3) 昭和時代(4) 昭和時代(5)
昭和時代(6) 昭和時代(7) 昭和時代(8) 昭和時代(9) 昭和時代(10) 昭和時代(11) 平成時代(1) 平成時代(2)

前のページへ


〈明治時代(4)〉

1879(明治12)【明治】 己卯(つちのとう)

  《知事》[第6代(官選)]内海忠勝

  01/21夕方、英国の帆船「スター・クイーン号」が石炭を積み上海へ向けて出港
     乗員乗客は女性2人、子供2人を含む33人(マレーシア人、中国人の乗組員の他、数人の欧州人の客)
     船長は英人アンガス・F・マッキントッシュ。ジャーディン・マセソン商会がチャーター
     午後8時頃、伊王島灯台を通過
     五島列島南方に差しかった頃、折からの強い南東の風にあおられ船は操舵不能に
     みぞれ混じりの豪雨の中、五島列島南端の黄島沖で座礁、最初の衝撃でトップマストが折れ海中に落下
     救命ボートは荒波に持っていかれ、海水が船内になだれ込む
     マッキントッシュ船長は落下していたマストに当たり即死。夜明けまでに死者は22人に
     五島住民は遭難した乗員乗客を自宅に向かえ援助。生存者は1週間後に長崎へ戻る
     のちマッキントッシュの遺体は大浦国際墓地54番の2に埋葬
  02/15第九十九国立銀行が平戸に創業
     創業の主旨は旧藩士族や藩民の窮乏を救い新時代への順応の道を拓こうとする旧藩士への思いやりから
     1896(明治29)第九十九国立銀行佐世保支店が開業
     1907(明治40)佐世保銀行と改称。本店を佐世保に移転
     1910(明治43)04/佐世保銀行長崎支店を築町に開設
     1922(大正11)08/築町の佐世保銀行長崎支店を本紺屋町に移転
     のち本紺屋町の佐世保銀行長崎支店を●●●町(現賑町)に移転
     1939(昭和14)09/佐世保商業銀行と佐世保銀行が合併
     親和銀行が創立。資本金310万円
     1940(昭和15)05/志佐銀行を合併
     1941(昭和16)04/大村銀行、玖島銀行、九十九銀行を合併
     1943(昭和18)10/佐世保貯蓄銀行を合併
     1969(昭和44)04/佐世保市に本店を完工
     1976(昭和51)03/本店にCD機が設置
     2001(平成13)九州銀行との経営統合を発表
     2002(平成14)九州初の銀行持ち株会社として株式会社九州親和ホールディングスを設立
     両行合わせ預金量約2兆5千億円、業務純益約200億円の県内最大の金融グループが誕生
     2003(平成15)九州銀行との合併。銀行名は親和銀行に
  03/17初の長崎県会臨時会(初代議長松田正久)が桶屋町の光永寺を仮議場にして開会
  03/丸山町の妓楼「引田屋」が町内の大火で類焼
     1880(明治13)花月の名称が引田屋の一部に移転
  03/長崎司薬場のオランダ人のエイクマンが東京司薬場で満期解任となったオランダ人プリュヘ P.C. Pluggy の後任として東京に赴く
     のち長崎司薬場の場長に辻岡精輔、桜井小平太らが就任
  05/21政府の支持を得て長崎造船所に東洋一の立神船渠(現第1ドック)完成
     総長140米、幅入口にて37.17米、内部の幅31米、深さ10.40米、費用総計40万2600余円
     のち500瓲クラスの船舶までは小菅修船場(通称ソロバンドック)で引き受ける
     それ以上の内外国船は立神ドックを使用
  06/21来日中のアメリカ合衆国第18代大統領グラント将軍が長崎へ
     日本初の元首クラス国賓として夫妻で来日
     06/22丸馬場で開催中の博覧会を視察。記念に夫妻でアコウの木を植樹
     福済寺において大歓迎会が開かれる。町芸者30人が音曲歌舞を演じる
     揃いの衣装は特別に京都に注文し新調した紫縮緬にぼかしの模様
     グランド将軍は西洋料理店「福屋」にて西洋料理を準備
  07/09コレラ予防検疫のため西濱町411番地にコレラ予防検疫事務所を開設
  07/10長崎港船舶検按規則を定め検疫実施
  09/20県下のコレラ患者5585、うち死亡2469
  10/「長崎くんち」(1)…寄合町、船津町、本博多町、平戸町、
     樺島町、八幡町、麹屋町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     西浜町の傘鉾の町名をノルデンシェルドがローマ字で書く
  12/01活水女学校が東山手16番地に設立
     教師はエリザベス・ラッセル女史と協力者ジーン・M・キール2人、生徒は官梅能ただ1人
     ギール女史は福音奉仕活動を得意とし、教育活動を主とするラッセル女史を助ける
     「祈りと奉仕」の校風を培う基礎をつくる
     1880(明治13)04/南山手リンガー館(旧オルト邸)に移設
     07/生徒は7人
     1981(昭和56)活水女子大学が開校
  12/27長崎居留外国人の遊歩範囲がかなり拡張される
     1873(明治06)02/にキリスト教が解禁されたことによる
  12/31籠町生まれの杉亨二が人口調査の必要性を説く
     国勢調査の試験調査とも言うべき「甲斐国現在人別調」を実施
     「現在人別調の調査は根本である。国家必要なる事である」として全国総人員の現在調査を計画
     実施の前に、具体的な実施方法、調査の問題点、調査経費等の大体の目途を知るため甲斐国で実施調査
     甲斐国を選んだ理由は
     (1)人口の規模が適当である
     (2)管内の人口の移動が比較的少ない
     (3)東京に近く指導、連絡等が便利である
     戸籍法の戸口調査が戸籍編成のために戸籍上の人を実地に点検調査したのと異なり、実際の住人を調査
     地域こそ甲斐国に限られたが、近代センサスとして我が国の国勢調査の先駆をなすもの
     「我が国における国勢調査の最初の試験調査」と位置づけられる
       調査員=2千人、1人の調査員=1日平均39軒調査
       結果(甲斐国現在人数)=39万7416人
       調査費用=5759円99銭5厘8毛(1人当たりの費用=1銭4厘4毛9絲)
  12/長崎商法会議所(初代会頭松田源五郎)が築町に創立(長崎商工会議所のはじまり)
  12/橘周太が中学校の学期末試験終了、のち陸軍幼年学校入校を父に申し出て単身上京
     叔父本多潤の家に寄寓(15歳)
     【以降、詳しくは1865(慶応01)09/15の項目に】
     1904(明治37)03/06第2軍(司令官:奥大将)動員の際、橘少佐は軍管理部長として出征
  長崎造船所に東洋一の立神船渠(現第1ドック)が完成
  初代稲田沢吉が時計店を浜町に創業
  はじめフランス人のために建てられた大浦天主堂がポワリエ神父の監督のもと施工拡張
     創建時の天主堂が大風により一部損壊し、また切支丹開放令以降に急増する日本人信徒による狭隆を解消するため
     ベルナルド・タデ・プチジャン司教によって祝別
     増改築を担当しのは浦上随一の大工といわれた溝口市蔵、天草の大工棟梁丸山佐吉、伊王島出身の大工棟梁大渡伊勢吉
     初代天主堂を包み込みつつ四方へ拡張し外壁を煉瓦造とする大規模な増改築を行なう。煉瓦造平屋で525平方米
     祭壇部分の奥行きも深くし当初の2倍の大きさに拡張3本の尖塔が1本になる
     クリヤーストーリーを除き、間口を左右に1間ずつと前後もに増築され3廊が5廊に
     バロック、ギリシア様式がなくなり、外壁の木造漆喰塗りが煉瓦構造の純然なゴチック建築様式になる
     内部の木造ゴシック風の洋式は創建当初の洋式を残す
     1933(昭和08)01/23大浦天主堂が日本洋風建築の初期を飾る代表的な建造物として、国宝に指定
  県立缶詰試験場が炉粕町通り沿いにできる。松田雅典は主任に
     外国から缶詰製造機械を買い入れ、伝習生6人を採用し試作
     製品は海外にも送られ好評を得た
     1882(明治15)缶詰試験場が廃止
  浦上四番崩れの「旅」から戻った信徒が浜口の土井に仮教会(聖ヨハネ堂)を建てる
     1880(明治13)キリシタン弾圧の見張所だった山里の庄屋、高谷氏の屋敷を買収、仮教会堂を建築
  八坂神社の本殿、拝殿の改修工事竣工に際し宮司、小西成則(易堂)により扁額を手書き
     人が集まる里の意を込めてコザト偏の「八阪神社」に改める
     明治期現應寺(祇園社)の鐘楼が清水寺に移される
     明治期宮司小西成則の身内・十四世忍達恵等大和尚が清水寺住職として就任
     全国でも稀な神社と寺の境内が結ばれる参道が整備
     1924(大正13)昭和天皇御成婚記念により狛犬が替わる
  長崎公園内に日本の近代化に貢献した施福多(シーボルト)の記念碑が建立される
     隣には賛同者を記す石碑(建施君記念碑題名)が建つ
     中央・地元の顕官や全国医学関係者152人の氏名などが彫り込まれる
     有栖川宮熾仁親王、伏見宮嘉彰親王、三条実美、岩倉具視、吉田健康、金井俊行…
  稲佐お栄(道永エイ)が稲佐の西洋料理店ボルガを営む諸岡まつの紹介で近所のロシア将校クラブの雇い人に
     1881(明治14)ロシア艦隊旗艦の船長に気に入られボーイの名目で乗艦。ウラジオストクに渡る
     1890(明治23)帰国
     1891(明治24)04/27ロシア皇太子ニコライが甥のギリシア親王ジョージとともに極東訪問
     途中、艦隊を率いて長崎へ
     お栄が県当局の依頼で皇太子をもてなす
     05/03夜志賀の波止の将校クラブで丸山の芸妓を呼び遊興
     ロシア語で挨拶をしジョージとダンスを踊る
  伊王島、沖ノ島の信者が自由に祈りができる場所として大明寺集落に大明寺教会が建てられる
     建築は1879(明治12)に大浦天主堂を増改築した中のひとり、伊王島出身の大工棟梁大渡伊勢吉
     1994(平成06)愛知県の明治村に移築完成「大明寺聖パウロ教会堂」として公開
  生月でカトリック布教の効果があらわれ、22人がカトリックに戻る
  五島、玉之浦町に西洋式の大瀬埼灯台が完成。総工費3万円
     1971(昭和46)改築、白い円塔の灯台となる。光力は200万カンデラ、光達距離は50粁に及ぶ日本屈指の灯台となる
     初代の灯台は解体される
     旧大瀬崎灯台の灯ろう部と北海道の稚内灯台の第3等回転レンズおよび回転機械を用いて東京の「船の科学館」に移築
  プチジャン司教は外海地区にも多く信者がいることを知る
     ド・ロ神父をやせたわずかな耕地があるだけの出津・黒崎地区の主任司祭として寒村、黒崎村出津に赴任させる
     復活した貧しい信徒たちを霊的、物質的に救う
     村の貧窮を救うため機織り、染物、パン、マカロニなどの製法を教える
     また多品種栽培の有利さを教え小麦、トマト、イチゴ、茶、綿栽培を指導。授産場を設ける
     1883(明治16)庄屋、代官、足軽等の詰所跡を購入し救助院を設ける
     製粉、機織、裁縫、そうめん、パン、醤油、搾油技術、日記、算術を教える
     1885(明治18)診療所を設立、薬局を置く
     1886(明治19)聖ヨゼフ修道院と伝導婦養成所(お告げのマリア修道院・女部屋とも)を設ける
     貧農の青年には農業の近代化を図る
     水車による製粉、農業機具の改良、原野の開墾、イワシ網工場や堤防建設を行なう
  初の内国博覧会で上野彦馬が鳳紋賞を受賞、名声を決定的なものとする

1879(明治12)頃

  長崎から帰った島原の森川三吉がザボン漬けを発明
     ザボンの果肉が食べられず、その実は捨てて、皮を食べようと厚皮の砂糖漬けを考案
     のち鹿児島などでもこの菓子を作り始める

1880(明治13)【明治】 庚辰(かのえたつ)

  《知事》[第6代(官選)]内海忠勝

  02/28長崎病院長の吉田健康が初代長崎県衛生課長に任命される
  04/22日本薬学会が創立
  04/活水女学校が南山手リンガー館(旧オルト邸)に移設
     07/生徒は7人
     1882(明治15)10/東山手13番地に新校舎ラッセル館が落成し移転。生徒は43人に
  10/「長崎くんち」(2)…丸山町、榎津町、西古川町、本紙屋町、新大工町、
     磨屋町、新橋町、出来鍛冶屋町、大村町、本五島町、今町、金屋町
     榎津町と磨屋町、祭礼の節行違いあり、世話町が仲裁せし
  12/来航船舶に対する海港検疫の初めとして長崎港口・女神に検疫所を設置
     1899(明治32)04/13女神検疫所が内務省直轄の長崎海港女神検疫所として常置される
  12/小曾根町の私立小曾根小学校が公立となり公立中等小曾根小学校と改称
     1886(明治19)06/小学校令改正により尋常小曾根小学校と改称
  丸山町の妓楼「引田屋」の茶屋「花月」の名称が引田屋の一部に移転
     1926(大正15)引田屋が廃業。料亭となり経営者も替わる。花月の名称と引田屋の庭園・家屋は継承
  宣教師ボアリアの斡旋により旧浦上山里村庄屋の高谷官十郎邸屋敷跡を買い、仮教会堂を建築
     この屋敷では、かつて絵踏みが行なわれていた
     1881(明治14)頃宣教師フレノが新教会堂設計計画を進める
     パリ・ミッション会のフレノ師は1888(明治21)初代主任司祭として着任
     1895(明治28)02/フレノ神父の指揮の下、浦上天主堂が起工
     設計施工のフレノ神父は毎月日を決めて地区毎に積立金を集めてまわる
     資金が集まると石や煉瓦を購入し信徒たちが労働奉仕をする
     のち苦しい生活の中、信徒たちは金を積み立て石や煉瓦を買い労働奉仕で建設を進める
     資金難から工事は大幅に遅れる
     1895(明治28)半分の高さまで出来上がった頃、フレノ神父が過労で死去
     日露戦争工事が一時中断
     1911(明治44)02/急逝したフレノー神父の業を継いでラゲ神父が浦上教会主任司祭に命じられる
     後任のベルギー人のラゲ神父は、天主堂を早く完成させるために、屋根を木造瓦ぶきに設計を変更。資金難は続く
     1913(大正02)宣教師ラゲにより再び竣工
     1914(大正03)03/17中央ドームは造らず、双塔は未完成のまま献堂式(竣工)を挙げる
     床面積1162平方米(352坪)の東洋一の大天主堂となる
     1925(大正14)05/ヒュ−ゼ神父のとき正面双塔が竣工
     フランスから取り寄せた2個のアンゼラスの鐘を取り付ける
     外部正面が西方を向き左右に四角形の双塔を設けドームをおいて縦に3分し双塔の間に切妻屋根を配する
     6千人収容、東洋一の大会堂が完成。請負は鉄川与助
     1945(昭和20)08/09原爆で堂は全壊。ドーム部分は地上に落下
     双塔につく鐘楼のうち小さい方は壊れるが、大きい方はほぼ完全な形で残る
     戦後すぐ木造仮聖堂が建てられ本聖堂建設計画が持ち上がる
     長崎県原爆資料保存会から廃虚を原爆遺構として保存して欲しいという要望がだされる
     12/24永井隆の提案により急ごしらえのアンゼラス鐘が被爆後初めて鳴り響く
     「長崎の鐘」と呼ばれる
     1946(昭和21)11/神父と信徒たちの努力で木造の仮聖堂が落成
     原子野に再建された最初の公共建造物で聖堂建立の熱意は信者でない長崎の原爆罹災者たちをも勇気づける
     中田藤太郎神父を中心に焼跡の瓦礫が整理され西側玄関の一部と南側入口は残されたまま
     1947(昭和22)中島万利神父を中心に本聖堂再建計画が立つ
     信徒たちが再建資金の積み立てをはじめる
     1954(昭和29)浦上天主堂再建委員会が発足。具体的な再建計画が進む
     1958(昭和33)天主堂の再建着工を知った原爆資料保存委員会が廃虚は貴重な資料とし保存を要望
     残すか壊すか世論も揺れ山口愛次郎司教を中心に検討し廃虚の取り壊しはやむを得ないと結論
     のち保存委員会が再度保存を申し入れ、市議会でも取り上げられる
     廃虚全てを移築することは資金的、技術的に困難であるとし側壁一部を原爆中心地に移築保存することで決着
     1958(昭和33)04/14ハンマーによる人力取り壊し作業がはじまる
     1959(昭和34)11/01原爆被災以前の天主堂をモデルに鉄筋コンクリート造りの天主堂が再建
     受難に耐えた信徒の歴史を物語る同じ場所に再建する事が意義あるものとし新聖堂が建立
     床面積1679平方米、塔高29米。献堂式が行なわれる
     双塔にあったフランス製の聖鐘の原爆でも壊れずに残ったひとつが、新天主堂の右側の塔につるされる
     1962(昭和37)特別な聖堂として大浦天主堂に代わり司教座聖堂(Cathedral)に指定される
     1980(昭和55)04/ローマ法王の訪日要請を契機に、今までの不足を補って鉄筋による改装工事が着工
     外装を赤レンガ造りに、窓をすべてステンドグラスに
     1980(昭和55)10/崩壊前と同じ赤煉瓦造りの御堂が蘇る
     1996(平成08)聖堂2階に英国製パイプオルガンを設置
  シーボルトの記念碑が建立
     幹事役に戸塚春山、伊藤圭介などがあたり三条実美、徳川家達、黒田長浄ら知名の士が賛同者となる
  イタリア人の船員カルロ・フィオラヴァンテ・ウルソが来崎
     のち外商の許で働く
     のち大浦36番地に荷役と買弁業の事務所を開設。イタリア、フランスなど南欧諸国の海運業者を客先に
     1918(大正07)03/29南山手26番地Aの自宅で68才で死去
        遺体は新坂本国際墓地43番に埋葬
  フランスから来日したイエズス会の修道士達により、南山手の丘の上に日本に於けるイエズス会修道院本部が創設
     布教や貧者の救済などを目的とする。当初は木造
     1898(明治31)フランス人でマリア会修道士センネツの設計により煉瓦造建物に建て替えられる
     建物は3階建であるが2階までが煉瓦造、3階は小屋裏をうまく利用した木造
     銅板張りのマンサード屋根と白い鎧戸と、煉瓦壁面が静寂な林間にとけ込み美しい風景を醸しだす
     1950(昭和25)同修道会本部が兵庫県に移転
     女子修道院「マリア園」となり幼稚園、養護学校が併設されて修道女による運営が行なわれる
  ドクトル・ジャーランに清涼飲料製法を学んだ天草出身の古田勝次が大村町で「御手引ラムネ」の製造販売を開始
     1971(昭和46)03/製造は中止されるが、後継者の熱意で大阪にて委託製造がはじまる
  パリ外国宣教会のマルマン神父が五島福江島の平蔵郷大泊に養護施設を建てる
     孤児や病弱な子供を救済する養護施設。五島で最初の児童福祉施設
     すぐ堂崎に移転
     1894(明治27)奥浦湾入口近くの丘の上に移転
  三池石炭海外輸出港として栄える口之津港に近代的な灯台として口之津灯台が点灯

1881(明治14)【明治】 辛巳(かのとみ)

  《知事》[第6代(官選)]内海忠勝

  02/28ウラジオストク〜長崎の航路が日本郵船の前身・郵便汽船三菱会社により開設
     汽船1隻で3週に1回、両港を出港。朝鮮の釜山や元山に寄港。冬季は元山止り
     長崎で横浜上海線、長崎天津線に連絡
     1889(明治22)神戸まで延長
     1907(明治40)04/敦賀起点の直行便が大阪商船により開設。長崎線が大きく後退
  04/武家の商法で借金漬けの後藤象二郎の高島炭坑を岩崎彌太郎が買収。三菱の経営に移る
     高島は最新技術の導入により、後年三菱のドル箱に
     1892(明治25)南洋井坑が終堀
  07/22司薬場の利用価値の漸減により新橋町の長崎司薬場が廃止となる
     のち長崎県が司薬場の建物および試験設備の使用を引き継ぎ、県民の請願に応じて薬品試験を行なうことに
  09/桜町の長崎監獄が狭くなり、片淵郷乃武館跡に新築移転。未決監を収容(現原爆病院の地)
  09/長崎蓄積銀行が東濱町に開業
     1885(明治18)05/廃業
  09/全国14番目のキリスト教系学校として東山手にカブリュー学校(加伯利英和学校)が開校
     アメリカ人のロングとデビソン新婦の協力によるミッションスクール
     創設当時の生徒数12人、生徒の中には倉場富三郎もいた
     1889(明治22)鎮西学館と改称
     1906(明治39)私立鎮西学院に
     1911(明治44)鎮西学院新校舎落成
     1930(昭和05)竹の久保に移転
  10/「長崎くんち」(3)…寄合町、油屋町、下筑後町、今鍛冶屋町、西中町、
     東中町、豊後町、今籠町、本下町、外浦町、萬歳町(奉納順不明)
  10/上西山町の諏訪公園内に西洋造2階建県議会議事院兼外賓接待所が落成(現県立図書館の地)
     煉瓦造2階建で建坪205坪余、1階・議事院、2階・交親館(外賓接待所)
     1907(明治40)廃止
     1915(大正04)11/28大正天皇大典記念事業として上西山町の跡地に煉瓦造2階建の長崎県立図書館が完成
  浦上の主任司祭ユーゼーヌ・プト神父の発案で浦上信徒仙右衛らが本原郷辻の丘に十字架を建てる
     本原郷辻の丘がエルサレム郊外のカルウァリオの丘に似て、十字架山、クルス山と呼ばれるように
     1923(大正12)木製の十字架が石製に
     1950(昭和25)西坂殉教地とともに、ローマ教皇によって公式巡礼地に指定
     1952(昭和27)日本最初の屋外「十字架の道」が設置
  活水学院の創立者ギール女史が活水女学校音楽科でオルガンピアノの指導を始める
  フレノー神父が長崎に戻り2年間に渡り長崎公教神学校の校長を務める
     のち豊後地方で巡回宣教に従事
     1885(明治18)4年間に渡り再び五島で布教
  宣教師フレノーが浦上の地に新教会堂設計計画を進める
     パリ・ミッション会のフレノ師は1888(明治21)初代主任司祭として着任
     1895(明治28)02/浦上天主堂が起工
  大浦41番地Aの「ゲルマニア・ホテル」が「インペリアル(帝国)ホテル」と改称
     「プロシャ・イーグル・ホテル」の名称で1866(慶応02)に創業
     ドイツ人のヨハネス・M・ウムランドとハインリッヒ・A・ショネック2人の共同経営
  浦上の信者たちが本原郷辻の丘に大きな十字架を建てる
     丘がゴルゴタの丘に似ており「十字架山」と名づける
     1950(昭和25)ローマ教皇ピオ12世により公式巡礼地に指定される
     1952(昭和27)日本最初の屋外「十字架の道」が設置
  出津・黒崎地区の主任司祭ド・ロ神父が私財を投じ活動の拠点として出津に煉瓦造り平屋(436平方米)の小さな聖堂を建てる
     1882(明治15)献堂式を行なう
     1891(明治24)信者が増え祭壇方向に1.5倍広げ、十字架を頂く小塔を建てる
     1909(明治42)正面玄関部を増築。四角の鐘塔を建て鐘を吊るしフランスから取り寄せたマリア像を塔上に据える
     戦時中鐘が供出される
  小曽根町22番に三菱合資会社経営の高島炭鉱の連絡所を置く
     1901(明治34)同じ場所に三菱高島炭鉱長崎駐在員事務所が建つ。通称炭礦舎
     木造2階建で寄棟造り、各階南西北3面にベランダ、1階ベランダは有田焼のタイル張り
     ベランダが周囲を取り巻く建築様式は、植民地風建築物として貴重な存在
     建物裏の桟橋は、高島、端島へ行く夕顔丸の発着場として長いあいだ親しまれる
     1971(昭和46)02/06小曽根町の三菱高島炭坑の長崎駐在員事務所、通称炭礦舎が火災により2階一部が焼失
     1985(昭和60)01/老朽化のため惜しまれながら解体される
  下五島久賀島の田ノ浦に浜脇教会が建つ
     1931(昭和06)潮風に曝され激しく痛み五島で最初の鉄筋コンクリートづくりの教会に建て替えられる
     解体された旧聖堂が久賀島の五輪地区に移設
  神ノ島の仮聖堂がラゲ神父により木造の聖堂として建つ
     1897(明治30)デュラン神父が私財を投じ信者と協力して煉瓦造り平屋(290平方米)の聖堂・神ノ島教会が建つ
     正面に特徴的な八角ドームの大きな鐘塔をもつ
  ド・ロ神父は私財を投じ活動の拠点として出津に煉瓦造り平屋(436平方米)の小さな聖堂を建てる
     1882(明治15)献堂式を行なう
  国道・日見新道会社が日見峠に馬車を通すため日見峠を開削、起工
     1882(明治15)07/30峠の中央を深さ20米、幅4米余り山腹を開削
     我国初の有料道路日見峠一等県道が開通
     08/10工事費1万8千円償却のため道銭の徴収を開始
     1889(明治22)07/道銭の徴収を終了
     通行料・人1人5厘、人力車2銭、荷車3銭、牛馬1銭5厘、乗馬3銭、駕籠2銭、馬車5銭
  初代川口栄蔵が船大工町に川口べっ甲店を創業
     1934(昭和09)商店街の繁栄が本籠町・船大工町から浜町に移行、川口べっ甲店も浜町に移転

1881(明治14)頃

  グラバーが高島炭坑で洋式採炭法の採炭を始めた際、南山手の居宅から高島の寓居まで日本で初めて電話線を架設
  宣教師フレノが旧浦上村庄屋の地に新教会堂設計計画を進める
     パリ・ミッション会のフレノ師は1888(明治21)初代主任司祭として着任
     1895(明治28)02/浦上天主堂が起工
     設計施工のフレノ神父は毎月日を決めて地区毎に積立金を集めてまわる
     資金が集まると石や煉瓦を購入し信徒たちが労働奉仕をする

1882(明治15)【明治】 壬午(みずのえうま)

  《知事》[第6代(官選)]内海忠勝

  04/18樽井藤吉らが十善寺郷で日本初の社会主義政党「東洋社会党」を結成
     07/07長崎警察署長が内務卿命により結社を禁止、解散を命じられる
  07/07日本初の社会主義政党「東洋社会党」が長崎警察署長が内務卿命により結社を禁止、解散を命じられる
  07/09長崎区会が開かれ初代の長崎区会議長に開業医の西道仙が選任
  07/30日見峠の中央を深さ110尺(33米)、幅4米余り山腹を開削。我国初の有料道路日見峠一等県道が開通
     08/10工事費1万8千円償却のため日見と本河内の2か所で道銭の徴収を開始
     1889(明治22)07/道銭の徴収を終了
     通行料・人1人5厘、人力車2銭、荷車3銭、牛馬1銭5厘、乗馬3銭、駕籠2銭、馬車5銭
  07/中学校として再出発した長崎県立長崎中学校が長崎外国語学校と改称
     1884(明治17)04/学校を分割。長崎中学校を再設
     同一校舎に2つの学校が廊下続きで存在することに。教師は掛け持ちで教授
  09/16県下にコレラ流行、患者48、うち死亡28(初発〜09/14)
  09/新聞「西海日報」が創刊。発行所は新町
     創立者は松田正久、西道仙、松田源五郎、渡辺元、牛島秀次郎ら。社長は伊藤欽亮
     「西海新聞」から改題した「鎮西日報」が政治的に保守的色彩を鮮明になったことに対応して創刊
     1884(明治17)廃刊
  10/12「西海新聞」が本博多町で「鎮西日報」と改題
     元西彼杵郡長の佐々木澄治が経営を引き継ぎ、それまでの隔日刊が日刊に
     佐々木は県令内海忠勝の勧奨に従い現職をなげうち立つ
     近来の急進的な外来思想の動揺を防ぎ、民心の混乱を鎮むることを理念とする保守色彩の強い新聞に
     のち社長は佐々木から井上英雄、高見松太郎と続く
     1910(明治43)廃刊
  10/「長崎くんち」(4)…丸山町(本踊)、東浜町(本踊)、築町(御座船)、
     東古川町(御座船)、本古川町(川船)、八坂町(小薩摩人形)、興善町(小薩摩四季花)、
     今下町(本踊)、大黒町(唐人船)、馬町(獅子踊)、東上町(唐人船・本踊)
  10/活水女学校の新校舎ラッセル館が東山手13番地に落成し移転。生徒は43人に
  11/大浦7番館にベルギー領事館を設置。のちリンガー商会のエフ・リンガーが代理領事を務める
     1905(明治38)11/ノルウェー
     1919(大正8)スウェーデンの代理領事を兼ねる
  12/07西彼杵郡淵村の淵神社社務所に淵小学校の分校として稲佐小学校が創立
     生徒11人。民家や神社のお堂が校舎代わりに
     1896(明治29)09/立派な新校舎が落成。校長は坂本国五郎
     1898(明治31)長崎市に編入し長崎市立小学校に
  それまで通称・俗称で一定していなかった100余の橋名が統一され正式な橋名が決定
     長崎区常置委員会の委嘱によって常置委員で漢学者の西道仙が命名。橋柱の橋名は能筆家でもある道仙の書
  第1期長崎港湾改良工事が起工
     港内の海底が河川より流入した土砂で浅くなり、船舶に出入りに支障をきたしていたため
     大規模な浚渫・砂防・中島川変流工事
     中島川は江戸町と出島の間に迂回させ、西浜町と築町、築町と出島が陸続きに
     長崎港沿岸を浚渫した土砂で大波止から大黒町にかけての沿岸を埋立てる
     1893(明治26)落成
     膨大な支出のため工事は中止という形での落成。工事費は31万1261円
     中島川筋3642坪、江戸町岸傍715坪、出島新橋傍1050坪、大波止沿岸643坪、突堤傍1906坪の計7956坪を埋立て
  興善小学校の校舎が改築落成
     名称を中等興善小学校と改める
     1886(明治19)尋常興善小学校と改称
  西道仙が県内の進歩主義政党として同志会(改進党)を結成。会長となる
  炉粕町通り沿いの缶詰試験場が廃止
     のち松田雅典は缶詰製造に専念しようと官職を去る
     試験場を支払い下げてもらい松田缶詰工場として自営
     のち清国へ輸出し、ロシア東洋艦隊へ納入
  ド・ロ神父が出津に建てた煉瓦造り平屋(436平方米)の小さな聖堂の献堂式を行なわれる
     1891(明治24)信者が増え祭壇方向に1.5倍広げ、十字架を頂く小塔を建てる
  上五島中道島の江袋地区に江袋教会が建つ。五島に残る現役木造教会の最古のもの
     木造の変形寄棟造平家建てで、中は横に幾分張り出した四角形の三廊式、
     中央祭壇には尖頭アーチの縦長窓と丸窓、側面にも尖頭アーチ形の鎧戸付きの窓、
     入口の上には楽廊もあり主廊側廊とも板張りのリブ・ヴォールト天井
     1996(平成08)秋/老朽化が進み修復工事が行なわれる。窓とステンドグラスが取り替えられる
     それまでの内部は築当時のもの。天井はコウモリ天井、窓は洋式のアーチ型。外に鎧戸、内にフランス製の色ガラスをはめた扉など
     内陣中央の上部に設置されている3つの窓と色ガラスは比較的保存状態が良く、当時を偲ばせるものとして保存
     2007(平成19)02/12火災により大部分を焼失
     2007(平成19)04/26新上五島町の有形文化財に指定される
     未指定の建造物が火災後に文化財指定を受けるのは、全国にも例がなく初めて

1883(明治16)【明治】 癸未(みずのとひつじ)

  《知事》[第6代(官選)]内海忠勝(→03/08)、[第7代(官選)]石田英吉(03/08→)

  01/旧「長崎新聞」「西海新聞」が日刊の「鎮西日報」(本社本博多町)となる
     1910(明治43)廃刊
  02/三友銀行が平戸に開業。長崎に支店をおく
     1885(明治18)07/本店が長崎に移る
  03/01福岡の石丸國吉が勝山町に筆、墨の製造販売を中心とした文具店の店舗を開店
     国吉は長崎に憧れ筆、墨、大福帳、巻紙などを加工し小売り、官公庁や学校へ納品
     1904(明治37)09/東浜町16番地の土地を購入し移転
     1909(明治42)忠兵衛を養子に迎え、三菱造船所にも出入りが許され、舶来の事務用品を多量に扱う
     1933(昭和08)03/2代目石丸忠兵衛が清水建設株式会社に店舗建築を依頼
     清水建設株式会社の長崎進出第1号工事として鉄筋3階建の店舗が東浜町に完成
     1階が店舗、2階が倉庫、3階が応接室など。入口両側のショーウインドに施されたステンドグラスが好評
     長崎でも2番目の鉄筋コンクリート造り3階建店舗を新築。話題を呼ぶ
     当時、浜市商店街の中で3階建は林田洋傘店と二枝鼈甲店(ともに木造)だけ
     1935(昭和10)法人組織に改め、合名会社石丸文行堂設立。石丸忠兵衛(2代目)代表社員に就任
     1959(昭和34)02/万屋町95・96番地の土地を購入裏通りまで拡張
     1959(昭和34)09/合名組織を株式会社に変更
  05/09長崎県が旧佐賀県を分割。現在の長崎県域となる
  10/「長崎くんち」(5)…寄合町、桜町、小川町、内中町、西上町、
     矢幹町、八百屋町、勝山町、恵美須町、紺屋町、炉粕町、伊勢町
  12/桜町に長崎商法会議所を改組した長崎商工会が設立
     1893(明治26)長崎商工会議所と改称
  銀屋町に糸岐千代蔵が糸岐商店を開店
     のち船大工町にも支店をだす
     1924(大正13)糸岐千代蔵が死去。2人の息子が後を継ぐ
     のち店は三菱長崎造船所から記念品などの注文を受けるなど順調に
     1933(昭和08)昭和恐慌を境に状況は一変、船大工店が閉店
     1943(昭和18)銀屋町の本店が閉鎖に追い込まれる
  南山手にロシア正教会が建立。俗に「ロシア寺」「森の教会」と呼ばれる
     ウラジオ港が氷結のため越冬が出来ず、毎年、来崎するロシア艦隊のため
     1942(昭和17)長崎要塞司令部が、外浪町からこの地に移転。教会は撤去
  10才の松尾サダ(愛八)が丸山の芸者置屋・島田屋に預けられる
     1933(昭和08)12/23座敷の帰りに倒れる
     1933(昭和08)12/30意識不明のまま眠り続け60才で死去
     古賀十二郎が葬儀の一切の面倒をみる
     葬儀には多くの知名士が参列、新聞も詳報をするほど盛大に行なわれる
  ナタネ油、ツバキ油、ゴマ油の商いとして松早石油が創業
  正覚寺境内の廣済寺が独立、現在の中新町に移転
  松尾孫八が稲佐に松尾鉄工所を設置
     1904(明治37)香焼に進出
  中国から工匠を招き興福寺の本堂の大雄宝殿が再建
     中国清朝の華南系の建築様式をよく伝える
  出島教会隣の英学校が出島聖公会神学校となる
     西側(左側)部分に鐘塔を有する木造2階切妻造りの優雅な洋風建築
     1889(明治22)隣接の教会が解体
  第三海軍区、軍港選定のため、東郷平八郎少佐を艦長とする軍艦第二丁卯が 大村湾測量班を乗せて佐世保に
     佐世保村はわずか戸数800、人口3700ほどの農漁村
     1886(明治19)第三海軍区、西海鎮守府が2年余の実地調査の末、佐世保に決定
     候補地には平戸島の江袋湾、佐賀県の伊万里湾もあった
     佐世保村民は狂喜して、2万数千坪の用地買収に坪当たり10銭〜25銭という破格の安い値段で応じる
     1887(明治20)建設工事が始る。全国各地から人夫が集まり、商人が殺到。
     1888(明治21)人口が一挙に倍増。佐世保には新興の活気がみなぎる
     80余人に上る犠牲者を出しながらも突貫工事が進む
     1889(明治22)05/佐世保鎮守府所轄の第三海軍区の区域が公示
     区域は九州沿岸と壱岐・対馬・沖縄諸島の海上
     1889(明治22)07/佐世保鎮守府が開庁。初代鎮守府司令長官には赤松則村中将が任命
     のち鎮守府司令長官には連合艦隊司令長官となる東郷平八郎中将や第1級の海軍指導者が歴任
     佐世保市民は、県知事の名を知らなくても鎮守府司令長官の 名は知っていた
     1889(明治22)12/海兵団の第1回新兵入団をみる
     1890(明治23)はじめて所轄の軍艦が湾内に姿を浮かべる
  ド・ロ神父が黒崎村出津で庄屋、代官、足軽等の詰所跡を購入し救助院を設ける
     製粉、機織、裁縫、そうめん、パン、醤油、搾油技術、日記、算術を教える
     1885(明治18)診療所を設立、薬局を置く
  長与専斎らが大日本私立衛生会を興す
  坂本屋が本博多町に開業。土佐屋とならんで野口某が営む
     1926(昭和01)金屋町に新築移転。旅館は野口の妹坂本さだが引き継いで経営
     坂本さだは1920(大正09)福岡県宇美町生まれ
     先祖は黒田藩52万石の家老、粕屋郡宇美の城主。その末久野直隆の二女に生まれる
     学生時代は水泳で福岡県のレコードを持つ。また長崎の女性で初めて車の免許を取得
     県立香椎高女を卒業し専攻科をでて20才で長崎に嫁ぐ

1884(明治17)【明治】 甲申(きのえさる)

  《知事》[第7代(官選)]石田英吉

  01/01南高来郡加津佐村に天然痘流行、死者40
  01/江戸町に石油会社が開業。石油ランプの普及が始まる
  03/17早朝、ホワイトと日本人乗組員5人が上海からの米国船「ワトソン号」を誘導するため小型帆船で出港
     夜明け、「ワトソン号」の船影を認めるが、海は荒れ狂いホワイトと部下を乗せた船が転覆
     海は凍てついており、日本人1人が荒海の藻くずに
     「ワトソン号」の救助ボートは2往復し日本人4人を救助
     3往復目にホワイトを救助するときには転覆から3時間が経過、ホワイトは生きているが精神錯乱状態に
     「ワトソン号」に引き揚げられると寒さと極度の疲労から42才で息を引き取る
     英国領事館で審問ののち遺体は大浦国際墓地29番に埋葬される
      アイルランド出身のジョン・ホワイトは1874(明治07)頃に来崎。長崎港の水先案内人となる
      のちに日本人女性と結婚、南山手の洋館に居を構え4人の子供をもうけた
     数日後ホワイトの妻が居留地住民の弔意に感謝する小記事を英字新聞に掲載
  04/01長崎外国語学校内(立山屋敷の一部)に県内唯一の長崎県中学校が設立
     06/04生徒59人にて授業開始
     1901(明治34)06/30長崎県中学校を長崎県立長崎中学校と改称
     1908(明治41)03/長崎市福富町に移転
     1913(大正02)07/22鳴滝校舎が新築落成し移転
     1948(昭和23)04/県立長崎高等学校と改称
     1948(昭和23)11/01県立瓊浦高等学校、県立長崎女子高等学校、市立女子高等学校とともに統廃合
     長崎県立長崎西高等学校長崎県立長崎東高等学校となる
     鳴滝町の旧県立長崎高等学校の校舎に長崎県立長崎西高等学校
     西山町の旧県立長崎女子高等学校の校舎に長崎県立長崎東高等学校
  04/13大浦お慶が56才で没する
  04/長崎外国語学校が学校を分割。長崎中学校を再設
     同一校舎に2つの学校が廊下続きで存在することに。教師は掛け持ちで教授
     1885(明治18)11/15公立長崎商業学校が大村町11番地の旧商業会議所跡に開校
  06/中旬長崎で第1回医術開業試験を施行
  06/28西浜町の付属小学校の一部に長崎県女子師範学校が新設
     1886(明治19)04/01長崎県師範学校に合併
     長崎県立師範学校女子部と改称。校舎は西浜町の付属小学校内のまま
  07/07「郵便汽船三菱会社」社長の岩崎弥太郎が政府共同運輸会社との戦いの真最中
     基幹産業として着目していた官営長崎造船所を政府から25年間借り受けることにけ
     政府共同運輸会社との戦いの真最中に基幹産業として着目
     工部省長崎造船局(官営長崎造船所)廃止、郵便汽船三菱会社に貸し下げ長崎造船所と改称
     岩崎彌太郎が所有する37隻の修理と造船所経営の必要に迫られて官が設立し民に移譲
     急速な近代化を図るパターン。背景には官営事業の失敗もある
     1887(明治20)04/三菱社社長岩崎彌之助が大蔵大臣伯爵松方正義に長崎造船局の払下げを申請
  07/17本石灰町70番地の金剛院如意輪寺跡地に木造2階建、寄棟造の「二宮病院」が建つ
     屋根下の欄間には唐草模様の彫刻があり、和洋折衷様式の構造
     シーボルトの娘、楠本イネが開業していたという噂も
     1935(昭和10)頃廃業、のち賃貸アパートに
     1987(昭和62)解体
  08/19県令石田英吉が開業医組合設置法を布達
  10/07渡御。「長崎くんち」が日程変更10/11還御となる
     (6)…丸山町、本大工町、今博多町、本紺屋町、今魚町、
     本籠町、材木町、古町、上筑後町、江戸町、本興善町
     今魚町は上の切、下の切と2つの傘鉾をだす
  10/31長崎医会が結成される
     1885(明治18)02/25長崎医会第1回通常会を開き会長に吉田健康を選任
     1890(明治23)02/01初めて長崎県医会(長崎県医師会の前身)を開く
     議長に 吉田健康(長崎病院長)、副議長に 西道仙(開業医)が当選
     1890(明治23)03/長崎医会が東京で開催の第1回日本医学会に出席する長崎県医会総代として吉田健康、西道仙を選出
     長崎県医会が組織される
     1892(明治25)06/02長崎医会が開かれる
     1898(明治31)08/15医会事務所を東中町60番戸に置く
     1903(明治36)09/長崎県医会(市医会)事務所が東中町60番戸から金屋町2番戸に移転
     1909(明治42)02/20長崎県医師会総会が開催。県医師会設立の件を建議し可決。長崎県医師会が設立される
     1912(明治45)05/18長崎県医師会(市医師会)事務所が金屋町2番戸から袋町39番地へ移転
     1925(大正14)05/30長崎県医師会(市医師会)事務所が中島川端の袋町23番地に移転
     1935(昭和10)09/13長崎市医師会館の移転新築落成式、袋町23番地から榎津町55番地に移る
     県医師会事務所も同会館内に移転
     1948(昭和23)02/12新制社団法人長崎県医師会の定款が成立する
     1961(昭和36)12/07長崎県医師会の事務所が長崎市榎津55番地の市医師会館から袋町の元町村会館跡へ独立移転
     1980(昭和55)07/17長崎県医師会館の新築工事起工式が行なわれる
     1981(昭和56)04/25長崎県医師会館の新築落成式が行なわれる
     旧三菱長崎製鋼跡地に鉄筋コンクリート造4階建て、総事業費約11億5000万円
  12/旅回り演奏家の一座が来崎。オペレッタや演奏による余興を大浦31番地の公会堂で披露
     リードテナーはイタリア出身の欧州では名のあるオペラ歌手アゴスティノ・パンニョニ(66)
     12/15パンニョニは一座とともに「ベル・ヴュー・ホテル」滞在中に急病のため死去
     遺体は大浦国際墓地25番に埋葬
  12/24新地警察署が梅ケ崎に新庁舎が完成し移転する。梅香崎警察署と改称
     1940(昭和15)06/25松ケ枝町42番地の旧香港上海銀行社屋に移る
     1954(昭和29)07/大浦警察署と改称
     1974(昭和49)03/08松ケ枝町7番2号の新庁舎に移る
  大浦外国人墓地が諸外国領事からの要請で墓地の左手に新しい区画(1〜15番)を増設
     1880年代後半事実上満杯状態になる
     大浦国際墓地の埋葬者数(208)
       イギリス(133)、アメリカ(30)、ドイツ(15)、フランス(8)、
       ポルトガル(6)、オランダ(5)、イタリア(2)、ノルウェー(2)、
       オーストリア(1)、スウェーデン(1)、デンマーク(1)、ベルギー(1)、不明(3)
  山浦治吉が西浜町68番地(現在ユニード所在)に個人経営の西洋レストラン「清洋亭」を開業
     他に市内の西洋料理店は福屋(小島郷)、外国亭(外浦町)、自由亭(馬町)
     1907(明治40)金子謙三郎が西洋料理店「清洋亭」を譲り受け「精洋亭」に改称
     のち相場に失敗し倒産
     1930(昭和05)06/代表藤木喜平が株式会社「精洋亭」を設立
     1947(昭和22)05/レストラン「精洋亭」を継承
     1959(昭和34)06/原爆による補修修理と共に県側の要請により「精洋亭」を改装
     階下をレストラン、2階を18室25人収容の洋式ホテル「精洋亭ホテル」として業務開始
     1960(昭和35)08/外浦町の長崎観光ホテル(七條達夫経営)を買収。新ホテル建設決定
     1962(昭和37)11/長崎グランドホテル」と改称し外浦町にて営業開始
     地下2階、地上7階の全60室。社名は(株)精洋亭のまま
     ホテル専用のビルとしては九州熊本のキャッスルホテルに次いで2番目
     1963(昭和38)04/03商号を長崎グランドホテルへ変更
     1975(昭和50)10/客室126室でリニューアルオープン
     1993(平成05)03/立体駐車場・客室改装[客室105室(洋室97、和室8室)]が竣工
  諏訪町に中華菓子店「萬順製菓」が創業
     のち螺旋状の揚げ菓子マファールに「よりより」の名称をつける
  林昭夫の祖父が新地にて菓子業「萬順」をはじめる
     のち林昭夫の父は継がず貿易をし砂糖やメリケン粉などの卸問屋「萬順号」を経営
     第2次世界大戦中輸入が中断され「萬順号」は廃業
     1954(昭和29)林昭夫が祖父からの屋号「萬順」を継ぎ中華菓子をはじめる
     祖父が菓子を作った新地に店舗を構え金銭餅を看板に売り出す
  (株)諫早銀行が創業
     1929(昭和04)03/(株)諫早商業銀行と(株)喜真銀行を合併する
     1942(昭和17)株式会社十八銀行に買収される
  ルーマニア生まれのジークムント・D・レスナーが父リオ、母ハンナとともに来崎
     家族で梅香崎9、10番地に食料品の小売と卸売の店を開店
     のち梅香崎6番地に大店舗を構える
     1887(明治20)妻ソフィ・レヴァーをめとる
     1892(明治25)坂本国際墓地内にユダヤ人墓地を作るための資金調達に奔走
     1893(明治26)09/03梅香崎11番地にユダヤ教会を建立
     1894(明治27)02/11母ハンナが心臓病のため66才で死去
     遺体は坂本国際墓地27番に埋葬
     のち南山手15番地に私邸を建設
     1904(明治37)10/04ジークムント・D・レスナーの父リオが88才で死去
     父は長崎ユダヤ教博愛協会の名誉会員、ユダヤ教会ラビの(宗教的指導者)だった
     遺体は坂本国際墓地26番に埋葬
     1914(大正03)07/28第一次世界大戦勃発
     オーストリア市民権を持つレスナーが敵国民と見なされ営業停止処分に
     1919(大正08)末営業再開を許される
     1920(大正09)02/24南山手の自邸から梅香崎の事務所に着いたレスナー(61)が急死
     原因は心臓発作。葬儀はユダヤ協会で行なわれ遺体は坂本国際墓地内ユダヤ人墓地IVに埋葬
     新聞「ナガサキ・プレス」に記事
     「知名度、人望共に余人の追随を許さない故人のために、
     あらゆる国籍、業種、宗教の外国人たちが葬儀に参列した…」
     のち墓石の上にはレスナーの胸像(国際墓地で唯一)がすえられる
  御船蔵町3番地に長崎紡績所が設立
     1886(明治19)08/工場内にて近代的な工場照明の初めとして自家発電の電灯を点灯
  「西海日報」が廃刊
  プチジャン神父が長崎で死去。大浦天主堂に埋葬

1885(明治18)【明治】 乙酉(きのととり)


次のページへ


室町時代以前
(1)
室町以前(2)
安土桃山(1)
安土桃山時代
(2)
安土桃山時代
(3)
江戸時代(1) 江戸時代(2) 江戸時代(3)
江戸時代(4) 江戸時代(5) 江戸時代(6) 江戸時代(7) 江戸時代(8) 江戸時代(9) 江戸時代(10) 江戸時代(11)
江戸時代(12) 江戸時代(13) 江戸時代(14) 江戸時代(15) 江戸時代(16) 江戸時代(17) 江戸時代(18) 明治時代(1)
明治時代(2) 明治時代(3) 明治時代(4) 明治時代(5) 明治時代(6) 明治時代(7) 明治時代(8) 明治時代(9)
大正時代(1) 大正時代(2) 大正時代(3) 昭和時代(1) 昭和時代(2) 昭和時代(3) 昭和時代(4) 昭和時代(5)
昭和時代(6) 昭和時代(7) 昭和時代(8) 昭和時代(9) 昭和時代(10) 昭和時代(11) 平成時代(1) 平成時代(2)