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〈明治時代(3)〉

1874(明治07)【明治】 甲戌(きのえいぬ)

  《知事》[第4代(官選)]宮川房之

  01/01第1番向明小学校が勝山小学校と改称
     1901(明治34)03/10勝山尋常小学校と改称
  01/01第2番小学啓蒙校が奮川小学校(のちの磨屋小学校)に改称
     1886(明治19)02/長崎町年寄薬師寺某の邸宅213坪を買収
     中等鶴鳴小学校(尋常鶴鳴小学校?)と改称
  01/01楓川学校が中島小学校に改称
     1875(明治08)旧川小学校が榎津町に移転、榎津小学校と改称
  01/08旧長崎町年寄高木清右衛門の屋敷跡、萬歳町45番地に長崎地方裁判所が開庁【1876(明治09)?】
     1945(昭和20)08/09原爆により焼失
  01/高島町炭坑が官営になる
     1874(明治07)11/後藤象二郎に払い下げられる
  02/15勝山小学校内(向明小学校)に小学校教員養成の目的で小学校教則講習所(長崎県尋常師範学校)を置く
     本県師範学校の創始
     1875(明治08)02/26小学校教則養成所と改め、興善小学校内に移転
     1876(明治09)01/26小学校教師養成所と改められる
     1876(明治09)05/31長崎公立師範学校と改称
     1877(明治10)02/ふたたび勝山小学校内に移る
     1877(明治10)04/12崎陽師範学校と改称。さらに佐賀師範学校を設ける
     1877(明治10)11/11新町の旧小倉藩邸跡に新築移転
     1877(明治10)12/付属小学校を設ける
     1878(明治11)06/16佐賀師範学校が廃止。崎陽師範学校が長崎県立師範学校に改める
     1886(明治19)04/01西浜町の長崎県女子師範学校が合併。長崎県立師範学校女子部と改称
     校舎は西浜町の付属小学校内のまま
     1886(明治19)06/04女子部内に幼稚科が設置(本県の幼稚園のはじめ)
     女子部内幼稚科は全国でも古く、九州では鹿児島幼稚園に次いで2番目
     1886(明治19)06/29長崎県尋常師範学校と改められる
     1889(明治22)馬場郷の長崎村庄屋森田某の跡地に校舎と寄宿舎を新築。男子部・女子部ともに移転
     1898(明治31)長崎県師範学校と改称。長崎県教員養成の基礎が確立
     1908(明治41)04/01長崎県師範学校女子部が立山の県立長崎中学校跡地に移転。長崎県女子師範学校に改められる
     1912(大正01)10/14馬場郷の長崎県師範学校から出火。寄宿舎の一部を残して焼失
     1923(大正12)04/01長崎県師範学校が東彼杵郡大村町の新築校舎に移転
     立山の長崎県女子師範学校が馬場郷の旧長崎県師範学校の校舎に
     1934(昭和09)馬場郷の長崎県女子師範学校が東彼杵郡大村町の長崎県師範学校の地に移転
     東彼杵郡大村町の長崎県師範学校が馬場郷にもどる
     1937(昭和12)10/30西浦上村家野郷に校舎を新築。長崎県師範学校が桜馬場から移転
     1943(昭和18)04/01長崎県師範学校と長崎県女子師範学校が合併
     官立の専門学校となり長崎師範学校と改称。男子部、女子部に
     1945(昭和20)08/09原子爆弾により長崎師範学校男子部の校舎が全壊全焼、学生54人が被爆死
     本部が大村市の女子部に移転。男子部は大村市の旧西部147部隊兵舎に移り授業を再開
     【旧四六連隊の旧兵舎を使用して授業を開始】
     1949(昭和24)05/31国立大学設置法の公布で長崎大学が設置。新制大学制度に学芸学部として組み込まれる
     長崎大学学芸学部(小学校、中学校、幼稚園を附設)が大村市乾馬場の大村連隊跡にて発足
  02/長崎県尋常師範学校が創立
     1889(明治22)馬場郷の長崎村庄屋森田某の跡地に校舎を新築移転
  03/東京日本橋馬喰町に初めて司薬場が開設
     永松東海を場長、ドイツ人マルチン(Georg Martin)を監督として薬品試験業務を開始
     我が国における薬品取締りの発端であり、以後の薬学の発展にもこの司薬場の開設は大きな影響を与える
     1876(明治09)08/12新橋町に長崎司薬場が設立される
     1881(明治14)07/22司薬場の利用価値の漸減により長崎司薬場が廃止となる
     のち長崎県が司薬場の建物および試験設備の使用を引き継ぎ、県民の請願に応じて薬品試験を行なうことに
  04/19台湾への征伐出兵の準備に入るが、英・米の駐日公使が出兵反対の意向を示す
     政府は一旦は派兵の延期を決定
     04/22征伐本部として蕃地事務局が西浜町の薩摩藩邸跡に設けられる
     長崎はその兵站基地となる
     参議大隈重信を台湾蕃地事務局長官、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命。全権が与えられる
     05/04大久保利通、大隈重信、西郷従道が長崎で会見。西郷の強硬意見を入れ征伐実施を決定
     05/17西郷従道は兵3千を率いて長崎を出発
     明治政府が台湾への軍事出兵「征台の役」を断行
     のち台湾南部に上陸。原住民と小競り合いを行なう
     05/22西郷の命令を受けて台湾原住民に対する本格的な制圧を開始
     06/03事件発生地域を制圧して現地の占領を続ける
     風土病に悩まされ戦死者12名に対して病死者561名に及ぶ
     のちイギリス公使ウェードの斡旋で和議が行われ、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉
     結果、清国政府は日本の行動を認めさせるとともに遭難漁民への見舞金など50万両(テール)を支払うことに
     引き換えとして征討軍の撤兵が行なわれる
  04/立山の旧県庁所在地の広運学校が新たに長崎外国語学校として発足
     12/27愛知、大阪、広島、新潟、宮城の外国語学校とともに校名を改称、長崎英語学校となる
     1877(明治10)02/19文部省布達により長崎英語学校が廃止となる
     同時廃止は東京女学校、愛知、広島、新潟の各師範学校と愛知、広島、新潟、宮城の各英語学校
     幕末から維新にかけての外国語熱が峠を越し、その熱は衰微。多くの外国語学校が減少傾向を示す
  05/政府が台湾出兵に踏み切る
     輸送船の備えがなく英国や米国の船会社による兵員の輸送を想定したが、局外中立を理由に協力を拒否
     政府の保護を享受する日本国郵便蒸汽船会社に運航を委託し大型船を購入しようとするが煮え切らない
     長崎に設置された台湾蕃地事務局の大隈重信長官は、やむなく新興の三菱を起用することを決意
     要請を受けることは経営戦略を根底から覆すことになるが岩崎彌太郎は受諾
     政府は計10隻の外国船を購入し運航を三菱に委託。兵員・武器・食糧等の輸送に全力を投入
     のち三菱に更に3隻の大型船が委託
     13隻の大型船を運航することになった三菱は大きく力をつけて沿岸航路の競争に復帰
     10末/三菱は台湾出兵に全面的に協力し、政府の絶大な信頼を得る
  浦上四番崩れ」の旅から戻った浦上の地で、やっと畑からもいくばくかの実りが収穫、生活もようやく一息つき落ち着く
     1874(明治07)夏/赤痢が流行
     07/岩永マキらがド・ロ神父の救護活動を助け、赤痢など患者の身の回りの世話を買ってでる
  07/28旧長崎奉行所西役所跡に洋風木造2階建て新築の長崎県庁庁舎が開庁
     08/21台風による暴風にあい倒壊
     1876(明治09)03/再び新庁舎の建設を起工
     12/2代目の長崎県庁が竣工
     木造2階建、4棟、建坪82坪、総工費1万6130円
     1907(明治40)老朽化のため立て替え
     1911(明治44)04/25山田七五郎の設計で壮麗なルネサンス様式で鉄骨造煉瓦仕上げ本館3階建の3代目の長崎県庁が落成
  07/西彼杵郡浦上村に赤痢が流行(患者200、死者8)
  07/岩永マキらがド・ロ神父の救護活動を助け、赤痢など患者の身の回りの世話を買ってでる
  08/15岩永マキが本原に浦上養育園を設立。孤児らの救済をはじめる
     1877(明治10)浦上十字会(準修道会)を創立
  08/21風速60米級の大台風の中心が長崎を通過
     県庁舎は暴風により全壊
     1876(明治09)03/再び新庁舎の建設を起工
     諏訪神社の青銅製の鳥居が暴風によりわずかに基礎石を残して破壊
     のち市民は憂慮して再建を図るが実現できずに
     1892(明治25)神辺種徳が再建を決意
     肥塚與八郎と議して同志を募り委員15人を挙げ発起人とし市内各界に協力を要請
     浦上四番崩れ」の旅から戻った浦上の地も大被害を受ける
     建てたばかりの浦上のバラック長屋は総倒れに、昔からの家を含めて全戸数の半分は倒壊
     辛苦の中で育てた農作物は風に吹きちぎられ、収穫は皆無
     米価は暴騰し、食べ物にも困った浦上農民に赤痢はますます拡がる
     ド・ロ神父と岩永マキら篤志看護婦の献身により浦上だけでも210人の患者と8人の死者にとどまる
     しかし信仰の自由を得た喜びは何ものにも代えられないもの
     迫害後のひどい困窮の中で信徒たちは「神の家」の建設に取り組む
     1876(明治09)たまたま売りに出された、旧浦上村庄屋の高谷官十郎邸屋敷を買い取る
     村の中央の丘で位置もよく、250年間信仰の取り締まりの場であり、迫害の償いの祈りの場所としても最適
     しかし信徒たちの経済力は買い取るだけで精一杯
     1877(明治10)岩永マキらが浦上十字会(準修道会)を創立
     1880(明治13)宣教師ボアリアの斡旋により旧浦上村庄屋の高谷官十郎邸屋敷の地に仮教会堂を建築
  09/15東浜町326番地の合資組織の立誠会社が株式組織となる
     1877(明治10)12/20立誠会社が発展的に解散
     全国で18番目の国立銀行として第十八国立銀行が発展開業。資本金16万円
     頭取・永見伝三郎、支配人・松田源五郎。資本金16万円
  09/22神奈川裁判所の御雇フランス人ブツが金銭には厭わないと東京教部省の踏絵板を買い求める
  09/24岩原郷の長崎外国語学校の敷地内に国立(官立)の長崎師範学校が設立
     10/05開校式。入学生37人
     1875(明治08)02/22岩原郷に新築落成
     1875(明治08)09/14付属小学校の生徒を募集
     1875(明治08)11/西浜町に付属小学校が設立。50人の入学を許可
     1878(明治11)02/14国立(官立)長崎師範学校が廃止
     他に宮城、大阪の官立師範学校も廃止。官立は東京師範、東京女子師範のみとなる
     1878(明治11)03/官立長崎師範学校が廃止され官立長崎師範学校付属小学校が崎陽師範学校第2付属小学校となる
  10/12征台の役に当たり長崎病院を公兵員病院にするため長崎医学校を廃止。学生は東京医学校に転学
     1874(明治07)11/01長崎県病院は蕃地事務局(兵員)病院と改称
  10/15山里小学校が開校
  11/01長崎県病院は蕃地事務局(兵員)病院と改称
     1875(明治08)04/県管轄の長崎病院と改称
     1888(明治21)03/31県立長崎医学校は廃止となり、校舎・敷地を第五高等中学医学部に移管
  11/官営の高島炭坑の北渓井坑、南洋井坑が政府から後藤象二郎に払い下げを受ける
     1876(明治09)北渓井坑が潮水侵入のため廃坑
  12/09金星が太陽の表面を通過するように見える天文現象が107年ぶりに起こる
     太陽と地球との正確な距離を求めようと欧米諸国からアジア、大洋州各地に観測隊が派遣
     日本にはアメリカ、フランス、メキシコから観測隊が訪れ、東京、横浜、神戸、長崎で観測が行われる
     長崎では上野彦馬が大平山にて金星の太陽面通過を100枚以上撮影した。結果的に失敗に終わる大平山
      フランス科学院総裁の天文学者ジャンサン一行6人が金比羅山で、
      アメリカのダビットソン 一行が大平山でそれぞれ観測を行なう
      観測を成功させたジャンサンの通訳の依頼で棟梁・山田与四郎が高さ2米のピラミッド型記念碑を建立
        碑面には「惑星、金星通過を観測したのはこの位置においてである
        1874年12月9日 フランス天文学者ジャンサン科学院総裁」
      山田与四郎はお礼にジャンサンに虎の皮の敷物を贈る。お返しにギヤマン詰のブドウ酒2本を贈る
     以降大平山が星取山と呼ばれるようになる
     金星観測を終えたダビットソン隊は、その後も天文観測を行い、東京と長崎の経緯度差を測定
     日本初の経緯度原点(東京都飯倉:チトマン点)値を決定するための基準点となるダビットソン点の経度を測定
  12/20勝山小学校から生徒79人【75人?】を移して興善小学校が創立
     1882(明治15)興善小学校の校舎を改築落成
     名称を中等興善小学校と改める
     1886(明治19)尋常興善小学校と改称
     1934(昭和09)03/31尋常興善小学校と新町小学校が合併、新興善小校が開校
     1936(昭和11)03/28鉄筋コンクリート3階建校舎が竣工
     普通教室30、特別教室5、管理室6、雨天体操場1
     1941(昭和16)04/01新興善国民学校と校名を変更
     1945(昭和20)08/09爆心地から南3瓩の地点にあり爆風により窓ガラスが飛び散る
     午後、付近一帯火災が発生するが、類焼はまぬがれる
     負傷者は、あらかじめ戦時災害時に備えて計画されていた焼け残った救護所へと詰め掛ける
     新興善国民学校もそのひとつ
     1945(昭和20)08/10午後、針尾海兵団の救護隊249人が宿舎に。衛生材料が届く
     救護隊がいるという噂が市民に伝わり治療を受けにぞくぞくと集まる
     4列に寝かせ1教室あたり60人を収容、1階から3階までで数100人が収容
     収容患者は次々に死亡。入院患者はあとをたたない状況
     日を追って佐世保海軍病院の医師や、各地の医科大学の医師が集まる
     1945(昭和20)08/16「新興善救護病院」となる
     1945(昭和20)10/06原爆で壊滅した坂本町の長崎医科大学付属病院の仮施設となる
     1946(昭和21)02/09長崎医科大学付属病院に校舎を引き渡し晧台寺に移転
     1947(昭和22)04/01長崎市立新興善小学校と改称
     1950(昭和25)10/医科大学付属病院の全科の病室(入院)が坂本町の現在地に移る
     新興善小学校に外来診療所を設置
     1951(昭和26)12/24鉄筋の仮校舎が復帰
     1982(昭和57)07/26〜/29長崎大水害のごみ集積場となる
     1997(平成09)03/31磨屋小学校、勝山小学校とともに統廃合
     長崎市立諏訪小学校と長崎市立桜町小学校の2校を新設
     1997(平成09)04/01統合された諏訪小学校の新校舎建設のための仮校舎として使用
      [2000(平成12)03/31]
     2000(平成12)04/01統合された桜町小学校の新校舎建設のための仮校舎として使用
      [2003(平成15)12/31]
     2003(平成15)12/31廃校に
  金星の太陽面通過観測のため、「長崎くんち」の神輿の順路を変更
  旧シーボルト宅が台風で大破
     1894(明治27)解体され跡地だけが残る
  侍石(さぶらし)から石材を切り出して三菱造船船渠の底石とする
  征台の役により丸山花街が俄に好景気となる
     400人くらいの娼妓がいたが不足のため浪の平、稲佐、十善寺、小島の貸座敷も繁盛する
  桜馬場天満宮が村社となる
  内務省公布に基き、安禅寺遺址に公園設置が決まり、長崎公園が誕生。俗に諏訪公園とも
     1889(明治22)05/徳川家歴代将軍を祀る東照宮が丸馬場上の高台に移る
  耶蘇教徒から没収した品々が旧長崎奉行所から東京の教部省へと運ばれる
     耶蘇教徒から没収したロザリオ155連、メダイ278点、スカプラリオ8点、聖人像8点など

1875(明治08)【明治】 乙亥(きのとい)

  《知事》[第4代(官選)]宮川房之

  01/01本博多町の郵便役所と薩摩藩邸跡の外国郵便分室を引き払い、梅香崎町7番地に長崎郵便局が開設
     居留地の外人にとっては便利になったが、本博多町一帯の住民には不自由を来すようになる
     のち本博多町の郵便役所の建物を利用し長崎本博多郵便取扱所が設置
     のち本博多町の郵便役所が駅逓寮から長崎県へ移管
     のち本博多町の郵便役所が再び長崎県から駅逓寮へ移管
     のち長崎本博多郵便局となる
     1963(昭和38)岩川町(現川口町)に移転、長崎北郵便局と改称
  01/18明治政府は三菱蒸汽船会社に上海航路の開始を命じる
  01/山県陸軍卿が砲台築城地として、長崎・鹿児島・下関・豊予海峡・紀淡海峡・石巻・函館を挙げる
     殊にまず帝都に近い東京湾口の観音崎と富津岬等の数箇所に砲台を築くことが必要であると奏上
  02/03悲願であった上海航路(横浜〜上海)を三菱蒸汽船会社が開設
     東京丸、新潟丸、高砂丸、金川丸の4隻で、横浜〜上海の1週1回の定期航路が開始
     横浜〜上海は神戸、下関、長崎経由で、わが国初の海外定期航路となる
     東京日日新聞の広告には
     「…乗組人は練熟せる西洋人にして航海の安心、
       荷物の取扱の厳重なるは申すに及ばず賄方等も至って清潔丁寧なり…」
  02/22岩原郷に国立(官立)長崎師範学校の校舎が新築落成
     1875(明治08)09/14付属小学校の生徒を募集
  02/26勝山小学校内(向明小学校)の小学校教則講習所(長崎県尋常師範学校)を小学校教則養成所と改め、興善小学校内に移転
     1876(明治09)01/26小学校教師養成所と改められる
  02/勝山町でが西道仙を編集主任として「長崎新聞」を再興
     本田実は教科書販売業を営む元島原藩の御用商人
     はじめは新町で創刊。「以文会社」と称する
     初代の「長崎新聞」と記事や体裁が違い西洋紙の四六判
     内容は官報、県達、市井の雑報、投書や広告など
     隔日発行で1冊8頁、定価は1部1銭5厘(1か月15銭)
     1876(明治09)01/ブロック紙への飛躍を目指し「西海新聞」と改題
     発行所は勝山町にあり、隔日発行
     編集長は西道仙、棚谷元善、田中基孝と続く
     1877(明治10)05/11西道仙が辞め「長崎自由新聞」を分離創立
     1882(明治15)10/12「西海新聞」が「鎮西日報」と改題
     元西彼杵郡長の佐々木澄治が経営を引き継ぎ、それまでの隔日刊が日刊に
     佐々木は県令内海忠勝の勧奨に従い現職をなげうち立つ
     近来の急進的な外来思想の動揺を防ぎ、民心の混乱を鎮むることを理念とする保守色彩の強い新聞に
     のち社長は佐々木から井上英雄、高見松太郎と続く
     1910(明治43)「鎮西日報」が廃刊
  03/22小島郷稲荷山に招魂場を設けて台湾征伐の戦病死者547人を祀る
     西日本最初の官設招魂場で「佐古招魂社」と呼ばれる
  03/諏訪神社所在の玉園、玉垣の9864坪【1万4025坪?】が県下初の公園に指定される
     内務省令によるもので、日本でも東京の日比谷公園等と並ぶ古い公園
     明治維新までは長崎奉行所立山役所に隣接
     歴代将軍に位牌を祀る天台宗松嶽山安禅寺(東照宮)と諏訪神社宮司青木家の屋敷があった
     1890(明治23)03/27県営から市営になる
  04/25諏訪神事の日取りが太陽暦の採用により10/07渡御、10/09還御の3日間に変更される
  04/蕃地事務局(兵員)病院が県管轄の長崎病院と改称
     1887(明治20)08/医学校の国立移管に伴い、長崎県立長崎病院と改称
  05/30田町(上田町)に大浦小学校が開校
     0000(●●00)北大浦小学校に改称
  06/09明治政府が九州で唯一の長崎上等裁判所が萬歳町の長崎裁判所を仮庁舎とし開庁
     江戸町から万才町にかけて直線的な官庁街の原形が形づくられる
     1877(明治10)隣の長崎地方裁判所と同型の建物となる
     1886(明治19)05/長崎控訴院と改称
     1945(昭和20)08/09原爆により焼失
  06/19中小島町76番地に木造2階建、西洋料理店「福屋」の洋風増築家屋が上楝
     1879(明治12)06/アメリカからグランド将軍が来訪、西洋料理を準備
     1909(明治42)〜1910(明治43)閉店
     和洋料理屋「凰鳴館」に
     福屋ホテルに
     1979(昭和54)11/解体、現中小島公園
       ビール1本50銭、ポン水(ラムネ)1本10銭、シャンパン1本1円25銭、ブランデ25銭30銭、
       ウイスケ80銭、ジン30銭、シガール(葉巻)1本5銭、シゲレット(紙巻きタバコ)1本2銭、
       ソップ(スープ)1人前25銭など
  07/11出島教会(長崎監督教会)が出島8・9番地(旧オランダ商館内)に建つ
     日本人専用として初めての新教教会で日本聖公会最古の教会
     1889(明治22)教会を解体
     1890(明治23)大村町に移る
     1895(明治28)長崎聖三一教会と改称
  07/鍛冶屋町と本石灰町の間を流れる玉帯川に架かる木の橋の「思案橋」が火災で焼失、石橋に架け替え
     1914(大正03)石橋からコンクリートを塗った鉄橋に架け替え
  08/22樺太千島交換条約が批准され、樺太がロシア領、千島全島が日本領となる
  09/14国立(官立)長崎師範学校付属小学校の生徒を募集
     1875(明治08)11/西浜町に付属小学校が設立。50人の入学を許可
  09/20清国の属国で鎖国中の朝鮮を武力で開国させようと、日本が江華島事件を起こす
     1876(明治09)02/26日朝修好条規が締結される
  10/07渡御。太陽暦が採用となり「長崎くんち」の日程を変更10/09還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、本古川町
  11/橘周太の叔父が長崎の副戸長の役目に就き、長崎の勝山小学校に入学(11歳)
     1877(明治10)10/長崎中学校に進学。このとき西南の役が勃発(13歳)
  本博多町の旧郵便役所の建物を利用し長崎本博多郵便取扱所が設置
     のち本博多町の郵便役所が駅逓寮から長崎県へ移管
     のち本博多町の郵便役所が再び長崎県から駅逓寮へ移管
     のち長崎本博多郵便局となる
     1963(昭和38)岩川町(現川口町)に移転、長崎北郵便局と改称
  11/西浜町に国立(官立)長崎師範学校付属小学校が設立。50人の入学を許可
     1878(明治11)02/14国立(官立)長崎師範学校が廃止
     他に宮城、大阪の官立師範学校も廃止。官立は東京師範、東京女子師範のみとなる
  長崎病院付長崎医学所小助教の吉田健康が長崎病院長に
     1876(明治09)長崎医学校が設立し校長を兼任
  淵村字飽浦の大日神社を校舎として飽浦小学校が発足
     1878(明治11)淵小学校と改称
     1895(明治28)飽浦尋常小学校と改称
     1896(明治29)新築校舎が落成
     1898(明治31)淵村が長崎市に編入。長崎市立の学校となる
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
     「西海新聞」が手踊りあり、獅子踊りあり、薩摩踊りありと伝える
     長坂で梅園の岩田組が勢力を持つ
  奮川小学校が榎津町に移転、榎津小学校と改称
  西彼杵郡戸町村大浦に大浦小学校(北大浦小学校)が創立
     1890(明治23)05/東山町に校舎を新築。05/30開校式を行なう
     1892(明治25)05/高等科を加設し大浦尋常高等小学校と改称
     1899(明治32)04/高等科を廃止し大浦尋常小学校と改称
     1904(明治37)04/大浦実業補修学校を付設
     1908(明治41)04/01北大浦尋常小学校と改称
     1927(昭和02)03/校舎コンクリート3階建て竣工
     1946(昭和21)04/長崎市立北大浦小学校と校名変更
     1956(昭和31)02/児童数増加により4階部分を増築
     1961(昭和36)02/上部運動場(上大浦小学校跡)整地
     1967(昭和42)03/体育館を竣工
     1974(昭和49)07/上部運動場にプールを新設(25m5コース)
     2007(平成19)03/南大浦小学校、浪の平小学校とともに3校統廃合のため閉校
     2007(平成19)04/北大浦小学校の校舎を利用して大浦小学校が開校
  プチジャン神父により大浦天主堂の横の南山手町1番Bに羅典神学校兼宿舎が完成
     羅典神学校兼宿舎は木骨レンガ造り3階建、一部地階、切妻造、桟瓦葺。設計・監督はド・ロ神父
     1926(大正15)羅典神学校兼宿舎が浦上神学校に移り、司祭館や集会所として使用
     1972(昭和47)05/15国の重要文化財に指定される

1875(明治08)頃

  社会福祉法人十善会病院の源となる十善寺病院が開業
     高木内科外科病院
     医療法人十善会
     1958(昭和33)社会福祉法人十善会病院に

1876(明治09)【明治】 丙子(ひのえね)

  《知事》[第4代(官選)]宮川房之(→05/15)、[第5代(官選)]北島秀朝(05/22→)

  01/26興善小学校内の小学校教則養成所が小学校教師養成所と改められる
     1876(明治09)05/31長崎公立師範学校と改称
  01/「長崎新聞」が地方紙からブロック紙への飛躍を目指し「西海新聞」と改題
     発行所は勝山町にあり、隔日発行
     編集長は西道仙、棚谷元善、田中基孝と続く
     1877(明治10)05/11西道仙が辞め「長崎自由新聞」を分離創立
     1882(明治15)10/12「西海新聞」が「鎮西日報」と改題
     元西彼杵郡長の佐々木澄治が経営を引き継ぎ、それまでの隔日刊が日刊に
     佐々木は県令内海忠勝の勧奨に従い現職をなげうち立つ
     近来の急進的な外来思想の動揺を防ぎ、民心の混乱を鎮むることを理念とする保守色彩の強い新聞に
  02/26日朝修好条規が締結される
  03/暴風にあい倒壊した長崎県庁庁舎跡地に再び新庁舎の建設を起工
     12/2代目の長崎県庁庁舎が完成
     木造2階建、4棟、建坪82坪、総工費1万6130円
  04/18第2次府県統合(第1回)が実施される
     佐賀県が三潴県(現福岡県の一部)と統合し[新]三潴県となる
     1876(明治09)08/21第2次府県統合(第2回)により三潴県と統合する前の旧佐賀県が三潴県から分離し長崎県と統合
     長崎県が旧佐賀藩全域を合併する
     1883(明治16)05/09長崎県が旧佐賀県を分割。現在の長崎県域となる
  04/諏訪公園が開設される
  後藤象二郎の高島炭坑の北渓井坑が潮水侵入のため廃坑
     1876(明治09)06/尾浜に横坑を開さく
  05/31興善小学校内の小学校教師養成所が長崎公立師範学校と改称
     1877(明治10)02/ふたたび勝山小学校内に移る
  06/高島炭坑の尾浜に横坑を開さく
     のち経営困難となり福沢諭吉が仲裁になり武家の商法で借金漬けの後藤象二郎から岩崎彌太郎に譲渡
     1881(明治14)04/岩崎彌太郎が買収。三菱の経営に移る
     高島は最新技術の導入により、後年三菱のドル箱に
  07/西浜町の旧薩摩屋敷に日本最初の私立銀行「三井銀行」が長崎支店を開業
  07/西中町の新燧(建)社が長崎で最初のマッチ製造を始める
  08/12新橋町に長崎司薬場が設立される
     1881(明治14)07/22司薬場の利用価値の漸減により長崎司薬場が廃止となる
     のち長崎県が司薬場の建物および試験設備の使用を引き継ぎ、県民の請願に応じて薬品試験を行なうことに
  08/21第2次府県統合(第2回)が実施される
     三潴県と統合する前の旧佐賀県が三潴県から分離し長崎県と統合。長崎県が旧佐賀藩全域を合併する
     1883(明治16)05/09長崎県が旧佐賀県を分割。現在の長崎県域となる
  10/13上長崎小学校が開校
  12/東濱町の田辺屋程十郎邸跡に長崎警察所を開設。第4課の事務を取り扱う
  12/三井物産長崎支店が大浦海岸通り3番地に開店
  12/2代目の長崎県庁庁舎が完成
     木造2階建、4棟、建坪82坪、総工費1万6130円
     1907(明治40)老朽化のため立て替え
     1911(明治44)04/25山田七五郎の設計で本館3階建の3代目の長崎県庁庁舎が落成
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
     「西海新聞」が手踊りあり、獅子踊りあり、薩摩踊りありと伝える
     長坂で梅園の岩田組が勢力を持つ
  浦上の信徒が「神の家」の建設のため、たまたま売りに出された、旧浦上村庄屋の高谷官十郎邸屋敷を買い取る
     村の中央の丘で位置もよく、250年間信仰の取り締まりの場所であり、迫害の償いの祈りの場所としても最適
     しかし信徒たちの経済力は買い取るだけで精一杯
     1877(明治10)岩永マキらが浦上十字会(準修道会)を創立
  英人イライザ・グッドオールがインドから英国への帰途、日本経由の船に乗船
     長崎に寄港、ハーバード・モンドレルに出会う
     モンドレルを手助けをして出島教会に勤務、英和学校では英語教育に従事、名誉宣教師となる
     1878(明治11)東山手3番地の自宅に女子塾「ガールズ・トレーニング・ホーム」を開校
     10人ほどの女学生に英語と裁縫を指導
     1892(明治25)「ガールズ・トレーニング・ホーム」を長崎女学校と改称
     1893(明治26)03/22長い闘病生活ののち75才で死去
     遺体は坂本国際墓地123番に埋葬される
  長崎県博覧会会社が設立。松田源五郎が名誉社長に、西道仙が副社長兼物品鑑定掛に
  出雲天満宮が創建
  神ノ島に仮聖堂が建つ
     1881(明治14)ラゲ神父により木造の聖堂が建つ
     1897(明治30)デュラン神父が私財を投じ信者と協力して煉瓦造り平屋(290平方米)の聖堂・神ノ島教会が建つ
     正面に特徴的な八角ドームの大きな鐘塔をもつ
  西南戦争のため小菅修船場(通称ソロバンドック)での修理船が11隻を数える。新船も建造
     1879(明治12)05/21政府の支持を得て立神ドックが完成
  長崎病院長の吉田健康が設立したばかりの長崎医学校校長を兼任
     1877(明治10)西南の役に際し軍医として軍団病院付となる
  福江島に堂崎天主堂が完成
  五島、玉之浦町にて大瀬埼灯台の建設に着工する
     イギリスのR・プラントの設計。10米あまり屹立していた岩石を切り落とし灯台を築く
     1879(明治12)五島、玉之浦町に西洋式の大瀬埼灯台が完成。総工費3万円
     1971(昭和46)改築、白い円塔の灯台となる。光力は200万カンデラ、光達距離は50粁に及ぶ日本屈指の灯台となる
     初代の灯台は解体される
     旧大瀬崎灯台の灯ろう部と北海道の稚内灯台の第3等回転レンズおよび回転機械を用いて東京の「船の科学館」に移築
  木村安兵衛、餡パンを発売

1877(明治10)【明治】 丁丑(ひのとうし)

  《知事》[第5代(官選)]北島秀朝(→10/11)、[第6代(官選)]内海忠勝(10/11→)

  01/31英人ジャールズ・サットンが英字新聞「ライジング・サン&ナガサキ・エクスプレス」社の経営者に
     ジャールズ・サットンは大浦4番地の裏通りを通行中、侍に背後から刀で襲われ左腕と頚椎後部に深傷を負う
     左腕の切断手術を受け九死に一生を得る。攘夷論が生んだ最初の犠牲者の1人
     1892(明治25)04/18乗馬中、頭痛に襲われ帰宅。脳出血と判明
     04/19朝、意識不明に。英、米、露、独、各国出身の混成医師団による治療が開始
     04/2852才で死去。遺体は坂本国際墓地208、209番に埋葬される
  02/15西郷隆盛が私学校の生徒1万5千人を率いて熊本鎮台を目指して鹿児島を発つ
     九州各地の不平士族も合流し総勢は4万余
     西南の役はじまる
     政府は有栖川宮を征討総督に任命し、陸軍は山縣有朋中将、海軍は川村純義中将に指揮を執らせる
     政府の兵員、弾薬、食糧の円滑な輸送のため助成を受けている三菱に対して社船の徴用が命じられる
     三菱は定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込む
     西郷軍は熊本鎮台を攻めあぐみ田原坂で敗走、宮崎県の各地を転戦
     戦中明治天皇が京都に赴き戦況の報告を受ける
     07/末政府軍の勝利が決定的になり、明治天皇は神戸から三菱社船広島丸に乗り東京に戻る
     09/24西郷隆盛が鹿児島の城山で自刀
  02/19文部省布達により長崎英語学校が廃止となる
     同時廃止は東京女学校、愛知、広島、新潟の各師範学校と愛知、広島、新潟、宮城の各英語学校
     幕末から維新にかけての外国語熱が峠を越し、その熱は衰微。多くの外国語学校が減少傾向を示す
     のち県令の北島は県が英語学校の土地、建物と書籍、器具頭を文部省より譲受けることで存続を図ろうとする
     1878(明治11)03/03文部省より長崎県に移管。長崎英語学校は県の所轄として存続
     03/22長崎県立長崎中学校と改称、中学校として再出発
  02/長崎公立師範学校がふたたび勝山小学校内に移る
     1877(明治10)04/12崎陽師範学校と改称。さらに佐賀師範学校を設ける
  02/上旬、オランダ人のエイクマンは日本政府の内務省衛生局の招きに応じて来日
     エイクマン Johann Frederik Eijkmann (エーキマンとも呼ばれる)
     任地は長崎司薬場
     11/エイクマンは嘱託監督し、彼の指揮のもと薬品試験に必要な機器類、薬品、図書類のすべてが輸入品で整えられ開場
     のちエイクマンは長崎司薬場で薬品試験の実務および指導を行なう
     1879(明治12)03/東京司薬場で満期解任となったオランダ人プリュヘ P.C. Pluggy の後任として東京に赴く
     のち長崎司薬場の場長に辻岡精輔、桜井小平太らが就任
  03/15諏訪公園にて、東京、横浜に次いで九州初の第3回内国勧業博覧会を開催
     出店地域は長崎県、佐賀県。出品点数は1360点。会期100日の予定が西南戦争のため06/22で中止
     第1会場・公園入口の建物(のち長崎商品陳列所)。第2会場・公園丸馬場テント張り
  03/15大浦外人居留地に海軍仮病院を設立
  03/29大音寺に第1分遣長崎軍団病院が置かれる
     のち18の寺院と83の民家にも軍団病院宿舎が置かれる
  03/西南の役が起きると臨時海軍事務局が神戸から長崎に移る
     兵員、軍需品輸送のため長崎輸送局が置かれる
     (のち陸軍運輸局と海軍運輸局に分かれる)
     軍団病院や海軍仮病院が市内に置かれ、騒然となる
  03/楠本イネが東京より長崎に帰り銅座町55番地に病院を開業
     楠本イネはシーボルトの娘であり日本初の産婦人科女医でもある
     1882(明治15)宮内庁に呼び戻される
  04/12勝山小学校内の長崎公立師範学校が崎陽師範学校と改称。さらに佐賀師範学校を設ける
     1877(明治10)11/11新町の旧小倉藩邸跡に新築移転
  05/西道仙が「西海新聞」(旧「長崎新聞」)を辞める
     1883(明治16)01/日刊の「鎮西日報」(本博多町)となる
  05/11「西海新聞」主筆の西道仙が独立し自ら社長に。酒屋町に新たに西海社を創立
     「長崎自由新聞」を発刊。1部1銭5厘(1か月40銭)
     九州初の日刊新聞で全面ルビ付き西洋紙菊判2倍大4頁の新聞として体裁を整う
     西南の役の報道では西郷隆盛を支援。西南の役のニュースを売り物に
     1877(明治10)12/西郷隆盛が城山の露と消えるとともに廃刊
     あたかも西西南の役応援のために発刊されたようなもの
  05/永野万蔵が横浜から英国船でブリティッシュ・コロンビア州のニュー・ウエストミンスターに密入国
     永野万蔵は南高口之津村の生まれで日本人として初めてカナダに移民
     のちフレザー川の河口で鮭漁をはじめ、州都ビクトリアでレストランやホテル経営
     のち日本向け輸出塩ざけ製造会社を設立し大成功。一躍大富豪となり「塩ざけキング」の異名
     1922(大正11)ビクトリア市のメインストリートにあるJ・M・NAGANO&CO.のビルが火災
     全財産を失い2人の子供をカナダに残し妻多誉子とともに帰国
     1924(大正13)05/21死亡
  09/24西郷隆盛(48)が自刃したことにより西南の役終わる
  09/下コレラが流行ため長崎港口の女神に避病院を設置
     1880(明治13)12/来航船舶に対する海港検疫として女神に検疫所を設置
     1899(明治32)04/13女神検疫所が内務省直轄の長崎海港女神検疫所として常置される
  10/10県令北島秀朝が避病院にコレラ患者を慰問。感染し死亡、享年36歳
  10/橘周太が長崎中学校に進学。このとき西南の役が勃発(13歳)
     1879(明治12)12/中学校の学期末試験終了、のち陸軍幼年学校入校を父に申し出て単身上京
     叔父本多潤の家に寄寓(15歳)
  11/11勝山小学校内の崎陽師範学校が新町の旧小倉藩邸跡に新築移転
     1877(明治10)12/付属小学校を設ける
  11/30アンデレ神学校が東山手9番地の英国領事館敷地内に開校
     まもなく廃止
     出島聖公会神学校の寄宿舎に
  12/07渡御。「長崎くんち」が西南の役とコレラ流行のため日程変更12/09還御
     (6)…今博多町、古町、今魚町、本大工町、本紺屋町、材木町、江戸町
     渡御の途中で伊良林郷、本河内郷、中川郷に闘争があり、還御は西山郷が勤める
  12/20株式組織の立誠会社が発展的に解散。東濱町326番地に全国で18番目の国立銀行として第十八国立銀行が発展開業
     頭取・永見伝三郎、支配人・松田源五郎。資本金16万円
     1889(明治22)10/12築町の俵物役所跡に第十八国立銀行本店の新社屋が完成
     ルネサンス様式で洋風煉瓦造2階建のモダンな新社屋
     1889(明治22)12/01東濱町より移転。営業を開始
     1890(明治23)国内外初の第1号支店として、朝鮮国仁川に支店開設
     1897(明治30)07/01国立銀行制度改革で株式会社十八銀行に転換し営業を継続
     1907(明治40)十八銀行がウラジオストクに松田銀行部(十八銀行支店)を開業
     ロシアは外国人法人による銀行支店の開設を認めず頭取松田庄三郎の個人名義とし実質的な支店
     1914(大正03)株式会社十八銀行が長崎では初となる支店を開設する
     北支店(台場町・現大黒町、ホテルニュー長崎ビル1階)…尾上町に新魚市場開設のため
     稲佐支店(瀬ノ脇町・現丸尾町)…第一次世界大戦勃発により長崎三菱造船所が活況を呈したため
     1916(大正05)第一次世界大戦に伴うルーブルの下落に災いされ朝鮮銀行に譲渡
     1924(大正13)株式会社十八銀行の東京支店が開設
     1942(昭和17)預金が1億円を突破
     1967(昭和42)預金が1千億円を突破
     1969(昭和44)07/14鉄筋コンクリート造りの新社屋が完成。十八銀行新本店となる
  12/西道仙の「長崎自由新聞」が西郷隆盛が城山の露と消えるとともに廃刊
     あたかも西西南の役応援のために発刊されたようなもの
  12/新町の崎陽師範学校が付属小学校を設ける
     1878(明治11)06/16佐賀師範学校が廃止。崎陽師範学校が長崎県立師範学校に改める
  伊王島灯台吏員退息所が完成
     英国人R・H・ブラントン技師の設計、伊王島の大工大渡伊勢吉により建築
     明治初期の典型的な洋風住宅だが、輸入セメントを使った無筋コンクリート造り
  デ・レーケらにより内務省の調査がはじまる
     維持管理が不充分であった長崎港は、河口の土砂堆積が進行し、海上交通の支障が懸念されるため
     1885(明治18)05/同省直轄事業として中島川変流・港内浚渫の第1次港湾改修工事がはじまる
     多量の土砂を港湾海底に堆積させる中島川を出島背後に変流。五島町、樺島町の海岸線の埋立て
     1890(明治23)完成
  長崎病院長兼長崎医学校長の吉田健康が西南の役に際し軍医として軍団病院付となる
  上田神仏具店が西古川町に創業
     第二次世界大戦中三菱長崎造船所で建造される艦船に祭られる神棚を製作
     昭和30年代三菱社員の福利厚生事業のひとつに、家族の葬儀を受ける
     のち葬祭業に進出。(株)上田葬儀社(のち長崎新生活センター)を設立。さらに婚礼部門にも参入
     のち油屋町に移転
  フレノー神父が五島常駐となり布教
     1881(明治14)長崎に戻り2年間に渡り長崎公教神学校の校長を務める
  広運館の仏人教師レオン・デュリーの指導を受けていた松田雅典がを缶詰業の必要性を県令に説く
     缶詰試験場の設置を願い出る
     1879(明治12)県立缶詰試験場が炉粕町通り沿いにできる。松田雅典は主任に
     外国から缶詰製造機械を買い入れ、伝習生6人を採用し試作
     製品は海外にも送られ好評を得る
  出島に日本初のキリスト教新教の神学校、出島神学校ができる
     日本人専用として初めての新教教会、出島教会(長崎監督教会)に隣接
     西側部分に鐘塔がある木造2階建切妻造りの優雅な洋風建築
     1889(明治22)出島教会が解体され、跡地を含めて東側に宣教師宿舎を増築
     のち増改築や模様替えがされる
     明治末病院として使われる
     1977(昭和52)04/国指定史跡「旧出島神学校」の老朽化が著しくなる
     保存のため総工事費1億500万円で文化財保護法に基づく半解体修理復元工事が始まる
     1980(昭和55)03/完成
  西南の役において佐野常民が博愛社を起こす
     1887(明治20)05/日の博愛社が日本赤十字社と改称
     シーボルトの長男、次男、ポンペが支援し万国赤十字社に加入
     09/29ドイツで開催された万国赤十字社大会に森鴎外が日本の代表として出席
     ポンペと会談し日本での赤十字社設立を喜ぶ
  西南の役により大黒町に政府軍機関の軍団砲工火具製造所を設置
  長崎上等裁判所が萬歳町の長崎裁判所の隣に同型の建物として開庁
     1886(明治19)05/長崎控訴院と改称
  崇福寺の末庵大悲庵が廃庵に
  日本初のコンクリート造りの小曽根邸が建築される
  大工の大渡伊勢吉は港外伊王島灯台の建設にきた英人ブラントからコンクリートの技法を習う
     応用し日本初のコンクリート造りの小曽根邸が建築される
     戦時中建物の強制疎開となり取り壊される
  岩永マキらが浦上十字会(準修道会)を創立
     1880(明治13)宣教師ボアリアの斡旋により旧浦上村庄屋の高谷官十郎邸屋敷の地に仮教会堂を建築
  川平小学校が開校
  上野彦馬が長崎県北島秀朝県令を通じ、新政府軍から戦場写真の撮影を依頼される
     門人2人を連れて西南戦争に従軍
     21日間にわたり暗箱を人夫8人に担がせ転々とする戦場を駆け巡り、4つ切り記録写真69枚を残す
  大工棟梁大渡伊勢吉氏により初の洋式無筋コンクリートの伊王島灯台旧吏員退息所が立つ
  長崎港を中心にコレラ流行(患者575、死者272)

1877(明治10)頃

  滑石村に本籠町より蛇踊が伝わる
  大浦の生鮮食料品を扱う片岡商店が日本人で初めての製パン所を併設

1878(明治11)【明治】 戊寅(つちのえとら)

  《知事》[第6代(官選)]内海忠勝

  01/05英字新聞「ライジングサン・アンド・エキスプレス」が「キューシュータイム」と改題
     1897(明治30)09/01956号で廃刊
  01/11小曾根乾堂が小曾根町に私立小曾根小学校を創立
     1880(明治13)12/公立となり公立中等小曾根小学校と改称
     1886(明治19)06/小学校令改正により尋常小曾根小学校と改称
     1887(明治20)03/小曾根・浪平・古河の3町共同して鍋冠山に校舎新築。尋常鎮鼎小学校と改称
     1893(明治26)04/学制改正により鎮鼎小学校と改称
     1899(明治32)04/11鎮鼎高等小学校と改称(高等科生のみ収容)
     1908(明治41)04/01義務年限6か年となり浪平尋常高等小学校と改称
     1910(明治43)03/31高等科を大浦高等小学校へ移し浪平尋常小学校と改称
     1924(大正13)04/01高等科併置浪平尋常高等小学校と改称
     1941(昭和16)04/01長崎市浪平国民学校と改称
     1947(昭和22)04/01長崎市立浪平小学校と改称
     1954(昭和29)01/24上部運動場落成
     1965(昭和40)05/05旧校舎解体、整地作業着工。08/24完了
     1973(昭和48)05/11体育館建設工事完了
     1982(昭和57)09/07プ−ル落成
     1985(昭和60)06/25とりつけ道路改良工事(12/12)完了月日
     2007(平成19)03/北大浦小学校、南大浦小学校とともに3校統廃合のため閉校
     2007(平成19)04/北大浦小学校の校舎を利用して新たに大浦小学校が開校
  01/18長崎警察所を長崎警察署(警察本署)と改称東濱町に置く
     出張所、屯所、分屯所を警察署、分署、派出所、交番所に改める
     1923(大正12)07/東濱町の長崎警察署を老朽化と執務不便から江戸町・県庁西側に新築移転
  02/14岩原郷の国立(官立)長崎師範学校が廃止
     他に宮城、大阪の官立師範学校も廃止。官立は東京師範、東京女子師範のみとなる
     1878(明治11)03/国立(官立)長崎師範学校付属小学校は崎陽師範学校第2付属小学校となる
  03/03長崎英語学校が文部省より長崎県に移管。県の所轄として存続
     03/22長崎県立長崎中学校と改称、中学校として再出発
     1882(明治15)07/校名を長崎外国語学校と改称
  03/西道仙が東京へ旅行。連日、参上実美、勝海舟など朝野の名士等30余人を歴訪
  03/国立(官立)長崎師範学校が廃止され官立長崎師範学校付属小学校は崎陽師範学校第2付属小学校となる
  閏04/25くんちの祭礼日を再び7日8日・9日に変更
     7日は将軍家宣の忌日にあたり、1793(寛政05)から9日・10日・11日に変更されていた
     1875(明治08)諏訪神事の日取りが太陽暦の採用により10/07渡御、10/09還御の3日間に変更
  06/16新町の崎陽師範学校が長崎県立師範学校に改める。佐賀師範学校が廃止
     1886(明治19)04/01西浜町の長崎県女子師範学校が合併。長崎県立師範学校女子部と改称
     校舎は西浜町の付属小学校内のまま
  07/01国費にて長崎県肥前国西彼杵郡下長崎村十善寺郷中ノ平361番地に「内務省地理局長崎測候所」が設置
     我が国初の地方測候所として海抜67.6米【海抜56.7米?】の地に誕生
     電信回線が開通している兵庫、仙台、新潟、青森にもそれぞれ設置
     気象観測は毎日3回行なわれ、内務省地理局測量課へ電信で報告
     1887(明治20)04/長崎県へ移管され「内務省地理局長崎測候所」が「長崎県立長崎測候所」と改称
     1897(明治30)08/01海星高校が新校舎を建設
     観測に支障をきたし西彼杵郡戸町村大浦郷字日南平(現大浦元町129番地)に移転
     1939(昭和14)11/国へ移管され「長崎測候所」と改称
     1947(昭和22)04/30現在地の長崎市南山手町5番地に「長崎海洋気象台」が創立
     場所は南山手の旧長崎要塞司令部跡地(ロシア領事館跡)
     07/19開庁式が執り行なわれる
     1949(昭和24)06/01「長崎測候所」が廃止
     業務は1947(昭和22)04/30創立の長崎海洋気象台が受け継ぎ統合される
  07/01大浦海岸通り2番地に清国領事館を設置
     1894(明治27)08/02清国に宣戦布告したことにより閉鎖
  07/本大工町の西洋料理専門店「良林亭(→自遊亭)」が馬町に移転、「自由亭」と改称
     のち京都・大阪に支店をだす
     1887(明治20)01/廃業
  09/21県下にコレラが流行、患者1854、死亡511
  10/07渡御。「長崎くんち」が日程変更10/11還御となる
     (7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
     諏訪神輿3体が新調される
  10/28郡区町村編成法の公布により大区小区制を廃止し長崎市街一円が長崎区となる
     執行機関として区役所を勝山小学校内に設置
  11/20以前1863(文久03)に定められた町名下り松町が松ケ枝町に改称
  11/20旧勝山小学校内に設置された長崎区役所が開庁(87町)
     上筑後町、下筑後町、東上町、西上町、東中町、西中町、大黒町、恵美須町、小川町、内中町、船津町、本五島町、
     浦五島町、樺町島、馬町、炉粕町、八百屋町、勝山町、引地町、桜町、豊後町、新町、本興善町、興善町、堀町、
     金屋町、今町、本博多町、平戸町、大村町、外浦町、萬歳町、今下町、本下町、江戸町、出来大工町、大井手町、
     今博多町、古町、桶屋町、紺屋町、本大工町、今魚町、酒屋町、袋町、本紺屋町、材木町、築町、新大工町、
     伊勢町、八幡町、麹屋町、本紙屋町、新橋町、諏訪町、磨屋町、西古川町、銀屋町、東古川町、本古川町、榎津町、
     萬屋町、今鍛冶屋町、出来鍛冶屋町、今籠町、八坂町、油屋町、東濱町、西濱町、銅座町、本石灰町、丸山町、
     寄合町、船大工町、本籠町、出島町、新地町、広馬場町、梅ケ崎町、常盤町、松ケ枝町、東山手町、南山手町、
     大浦町、古河町、浪之平町、小曽根町
  12/西道仙が公選最初の長崎区戸長に
  淵村字飽浦の飽浦小学校が淵小学校と改称
     1895(明治28)飽浦尋常小学校と改称
  伊勢神宮の崇敬者が「皇大神宮御分霊」を諏訪神社に鎮座させる
     1885(明治18)万才町の神宮奉祭会へ移し「大村町大神宮」に
     戦後長崎大神宮神社」に
     1953(昭和28)栄町の現在地に移転、改築
  英人イライザ・グッドオールが東山手3番地の自宅に女子塾「ガールズ・トレーニング・ホーム」を開校
     10人ほどの女学生に英語と裁縫を指導
     1892(明治25)「ガールズ・トレーニング・ホーム」を長崎女学校と改称
     1893(明治26)03/22イライザ・グッドオールは長い闘病生活ののち75才で死去
     遺体は坂本国際墓地123番に埋葬される
  高麗町の八幡神社が宮地嶽神社を勧請し宮地嶽八幡神社
  発心寺が三栗円照のとき寺号公称独立
  スウェーデンの探検家ノルデンシェルドが茂木の庄屋の岬で化石群を採取
  出島教会の隣に英学校が建設
     1883(明治16)出島聖公会神学校となる
     西側(左側)部分に鐘塔を有する木造2階切妻造りの優雅な洋風建築
     1889(明治22)隣接の教会が解体
     1893(明治26)出島聖公会神学校が東側に増築
  帝国陸軍が熊本鎮台から対馬に対馬分遣隊を派遣
     1886(明治19)12/03対馬分遣隊を改編して「対馬警備隊」が置かれる
     1903(明治36)04/14「対馬警備隊司令部条例」が制定。司令部が長崎県対馬国下県郡鶏知村に置かれる
     1920(大正09)08/対馬要塞司令部が設置
  東京から長崎に帰った西道仙が西南の役の事実との相違を批判した「近時随陣」3巻を著す。官憲から不許可
  コッホ破傷風菌が発見される
  口之津港が三池石炭海外輸出港(石炭積出港)の仮指定を受ける
     石炭積出港として繁栄し周辺地域は船員の町として発展
     [1909(明治42)三池築港の完成まで]
  雲仙の湯元旅館9代目の加藤小左衛門が新湯を開く
     1891(明治24)頃湯元旅館9代目の加藤小左衛門が湯浴みする女の裸体のさし絵を載せた奇抜な観光案内書をつくる
     長崎における観光パンフレットの最初のもの
  在日外国人の入浴客が増加し雲仙に新湯温泉が開かれる
     旅館を洋風にし新たに1人用の箱風呂をつくりベッドを採用し宿泊施設を改善。好評を得る

1879(明治12)【明治】 己卯(つちのとう)


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