室町時代以前
(1)
室町以前(2)
安土桃山(1)
安土桃山時代
(2)
安土桃山時代
(3)
江戸時代(1) 江戸時代(2) 江戸時代(3)
江戸時代(4) 江戸時代(5) 江戸時代(6) 江戸時代(7) 江戸時代(8) 江戸時代(9) 江戸時代(10) 江戸時代(11)
江戸時代(12) 江戸時代(13) 江戸時代(14) 江戸時代(15) 江戸時代(16) 江戸時代(17) 江戸時代(18) 明治時代(1)
明治時代(2) 明治時代(3) 明治時代(4) 明治時代(5) 明治時代(6) 明治時代(7) 明治時代(8) 明治時代(9)
大正時代(1) 大正時代(2) 大正時代(3) 昭和時代(1) 昭和時代(2) 昭和時代(3) 昭和時代(4) 昭和時代(5)
昭和時代(6) 昭和時代(7) 昭和時代(8) 昭和時代(9) 昭和時代(10) 昭和時代(11) 平成時代(1) 平成時代(2)

前のページへ


〈明治時代(1)〉

明治時代はじめ

  大浦の片岡商店で外国艦船に生鮮食料品を納めはじめる
     1877(明治10)頃日本人で初めての製パン所を併設
  戸町遊廓ができる
  悟真寺国際墓地の南側にロシア兵の射的場ができる
     1903(明治36)頃廃止となる
  大徳寺境内に梅ケ枝餅屋「老舗 菊水」が創業
  長崎居留外国人の遊歩範囲が変わりがないが宣教師の行動は制限される
     大浦天主堂に入り込む太政官探索方の石丸八郎、山村三郎、山口礼三、有江彰信、野上二郎などが宣教師の行動を逐一報告
     1879(明治12)12/27長崎居留外国人の遊歩範囲がかなり拡張される
  福生某が丸山町に遊廓・角油屋をはじめる。福生某の妻は福地桜痴の妹
     のち随陽亭、遊楽、角海老と屋号を変える
     外観が西洋風の建物で珍しい遊廓として人気を集める
     1940(昭和15)松浦信太郎が角海老を譲り受けて経営を開始
     1958(昭和33)01/売春禁止法施行前に女性従業員の身の振り方を決め、旅館に転業
     過去の未練を断ち明るい経営に切り替える
  万屋町のカラスミの店、高野家が本下町(現築町)に移転

1868(慶応04、明治01・09/08)【明治】 戊辰(つちのえたつ)

  《代官》高木作右衛門忠知(02/任長崎府取締役・04/辞職)
  《知事》[第1代(官選)]沢宣嘉(05/04→)

  01/03上洛を決意した平戸藩12代藩主詮(あきら)は平戸藩兵とともに一言丸で大坂に到着
     のち平戸藩は新政府の一員として倒幕戦に加わり近畿平定に従軍、さらに奥州へ出兵する
  01/09夜、本古川町より出火。榎津町、萬屋町、東浜町に延焼、西浜町海岸沿いの土佐商会が全焼
     「それ戦争だ」と、おびえた町民の中には近在へ逃げだす者も
  01/13土佐藩の佐々木三四郎(海援隊隊長)が薩摩藩の松方助左衛門を訪ね対策を協議
     幕府方の遊撃隊と勤皇方の海援隊は一発触発の事態。流言が乱れ飛び市中は戦々恐々の毎日
     佐々木は単身、西役所に出向き奉行・河津伊豆守に面会
     佐々木は「万一、遊撃隊と海援隊がことを起こせば、戦火は外国居留地に及び国際問題になる」と伊豆守を説得
     伊豆守は幕府追討令の情報を入手しており勤皇派の多い九州諸藩を向こうにまわしては不利と長崎脱出を決意
     01/14佐々木、松方が西役所へ。伊豆守の姿はない
     居残った役人は帰順の意を表わす。手を下さずに奉行所を占領
     松方は伊豆守が遊撃隊に残した命令を不安に思い、単身、乃武館(遊撃隊詰所)へ説得に向かう
     遊撃隊幹部の白江竜吉は松方の意を受け入れ一発触発は回避されることに
  01/14新政府が天領を没収する旨の布告を発する
  01/14長崎奉行所が物騒な世情の混乱を避けるため
     また西役所は海岸に近く物騒だと立山の東役所へ移転
     西役所からはひっきりなしに大八車、用心籠、牛馬が桜町、勝山町を通り東役所へと列をなす
     夜更けには町に漏れ評判に。西浜町の薩摩屋敷では兵をくり出して西役所を占領するという噂も
     のち土佐藩の佐々木三四郎(海援隊隊長)が単身、西役所に出向き奉行・河津伊豆守に面会
     佐々木は「万一、遊撃隊と海援隊がことを起こせば、戦火は外国居留地に及び国際問題になる」と伊豆守を説得
     伊豆守は幕府追討令の情報を入手しており、勤皇派の多い九州諸藩を向こうにまわしては不利と長崎脱出を決意
     長崎警備の当番、筑前、肥前の聞役には連絡済み
     列国領事に対して国内の新事態により長崎の治安維持と政務の執行に関しては筑前、肥前両藩に委託した旨を通告
     のち長崎奉行所西役所が伊豆守と入れ違いに海援隊士20余人に占領
     01/15未明、14日の引越し騒ぎに乗じて伊豆守は支配諸役を率いて外国船アトリン号で長崎を脱出
     江戸へ引き揚げ(実質的に奉行所が消滅)
     長崎は無政府状態となる
  01/14佐々木は役人たちを促し空家同然の役所を調べる
     伊豆守が金箱を全部持ち出していることが発覚
     「伊豆守が公金を持ち逃げするのなら、彼の乗船を砲撃して絶対に出港はさせぬ」
     息まく海援隊士に驚いた幕府方の波止場役人、白木保三が公金取り戻しに名乗りでる
     白木は伊豆守に面会し事の次第を伝えると
     「身の安全を守るのが第一」と伊豆守は素直に4箱、1万7千両分の金箱を白木に引き渡す
     佐々木は白木の懇請で3500両を伊豆守に返す
     01/15伊豆守に返した残りのうち8千両と奉行所保管の回米5千石を地役人に命じ市中に配給
     配給を受けたものは2万1780人にのぼる
  01/15長崎に屋敷をもつ諸藩の代表者が続々と西役所に集まる
     土佐藩の佐々木三四郎と薩摩藩の松方助左衛門から緊急招集の回章を受けてのこと
      薩摩、長州、土佐、駿州、大村、宇和島、対馬、加州、柳川、
      越前、筑後、肥後、筑前、肥前、平戸、五島、島原、小倉
     長崎の事態収拾について協議。長崎の治安を守ることに対して異を唱えるものはなし
     在崎諸藩に対し一致して王事に尽力する旨の同意を取り付けつことを決める
      一、長崎表の政治向きは、諸藩および地役人が相談して万事決める
      二、政治その他万事は従来のままとする
      三、西役所は長崎会議所と称する
      四、立山役所は黒田家(筑前藩)で預かる
        長崎奉行格として長崎とはもっとも縁の深い大村藩預かりに変更、筑前藩は譲歩
     「旧来のわだかまりをいっさい捨て、今後どんなことが起きても互いに協力し、調停のため鉄石の誠意を示す」
     誓書をしたため、18藩の代表はもれなく署名。長崎の新秩序が着々と進行する
     各藩の合議制によって治安の維持に当たることを決める
     01/16西役所に諸藩および地役人合議の行政機関として長崎会議所が設置される
     のち「朝廷からの正式の下知があるまでこれまでどおり公務をとるよう」示達
     西浜町、本石灰町、唐人屋敷前、桜馬場入口、新橋に市民に対して広報の高札が立つ
     「流言などにまどわされず、一般は安心して生活するように」
  01/16長崎奉行西役所が長崎会議所と改められ、長崎奉行の権限を引き継ぐ
     02/16「長崎会議所」を廃止し「長崎裁判所」が正式に発足
     明治政府が旧長崎奉行支配地を管轄する行政機関として長崎裁判所を置く。府庁が外浦町に設置
     所内に「九州鎮撫長崎総督府」が置かれる
     05/04「長崎裁判所」を「長崎府」と改称し「長崎総督府」を廃止
     1869(明治02)07/28《06/20》「長崎府」が「長崎県」と改められる
  01/17松方、佐々木、肥前藩の副島二郎、筑前藩の粟田貢が新地の運上所で外交処理について諸国領事と会見
     松方は英国領事に説明
     「長崎奉行は退去した。朝廷から正式な行政責任者が任命されるまで、とりあえず長崎駐在の諸藩と、
     地役人が万事を協議してやってゆく。貴国人に対しては、暴行など不祥事件の起きないよう十分取り締
     まるので、安心して貿易もこれまでどおり行なわれたい。貴国側も不祥事を起こさぬよう自重されよ」
     「適切な処置だ。在留英人の安全が確保されることは何よりだ」と英国領事は納得して帰る
     会議所では同様主旨の文書を領事に提出、領事は好意的な態度であいさつにくる
     アメリカ、フランス、ベルギー、ロシア、オランダ、ポルトガル、デンマークなど
     フランスは難色を示すが、松方の説得により平静に処理される
  01/21薩摩藩の沖直次郎と芸州藩の石津蔵六を会議所総代として京都にのぼらせる
     2人は奉行脱走後の長崎の治安状況や外交処理の経過を中央政府に詳しく報告
     鎮撫使の下向を強く要請する
     01/28徳川体制の完全粉砕を目指す新政府が沢主水正宣嘉を九州鎮撫使兼外国事務総督に任命する
     02/01長崎の重要性を認めた政府は長崎に民政機関の長崎裁判所を設置することを決定
     02/02沢宣嘉の長崎裁判所総督兼任を発令
     鎮撫使は兵力をもって治安にあたる軍政機関であり、軍政と民政の総督を兼ねたことになる
     02/13夕方、沢卿着任の先触れとして沖と石津が京都より戻る
  01/28新政府は九州鎮撫使(兵力を持った軍政機関)兼外国事務総督に沢主水正宣嘉を任命
  01/鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争がはじまる
     1869(明治02)05/弁天岬台場・五稜郭の旧幕府軍が降伏し、戊辰戦争が終結
  01/鳥羽伏見の戦いの後、幕府軍の敗走の激震は、どさくさにまぎれて強盗事件が多発
     長崎に屋敷を置く諸藩の動向があわただしさを増す
  01/イギリス人医師ウイリスが鳥羽・伏見の戦いにて創傷洗浄に過酸化マンガンを使用
  01/「長崎新聞」が創刊
     のち廃刊
  02/01「長崎裁判所(民政機関)」を外浦町に置き、旧天領を管理
  02/02沢宣嘉は長崎裁判所総督をも兼任。軍政、民政の総督を兼ねる
  02/16長崎会議所を廃止し「長崎裁判所」が正式に発足
     明治政府が旧長崎奉行支配地を管轄する行政機関として長崎裁判所を外浦町に設置
     1868(慶応04)05/04長崎裁判所を長崎府と改称
  02/江戸時代最後の代官・高木作右衛門忠知が長崎府取締役に任命される
  02/14午後3時、沢卿を乗せた肥前藩の持ち船甲子丸が静かに錨をおろす
     沢宣嘉は右舷に立ち長崎の街を見つめる
     右に鎮撫使主席参謀、長州の井上聞多、左に新たに長崎市中警備の任を帯びた大村丹後守が立つ
     打ち合わせのため一行は船内に1泊
     02/15大波止海岸には早朝から麻かみしもに威儀を正した諸藩の代表、地役人や諸藩兵士が整列
     市中は各戸に国旗を立て提灯をつるし、お祭りのような騒ぎ
     午前8時、朝廷の鎮撫使に敬意を表し在港の各国軍艦が一斉に放つ21発の祝砲が港の空をゆるがす
     鎧直垂(よろいひたたれ)胴服に太刀をつけた沢卿が上陸
     沢卿、井上参謀、大村候は馬上の人に、前後を薩摩、肥前、大村の兵で固めた行列は錦旗を先頭に大波止を出発
     長崎会議所(現県庁)前を通り諏訪神社に向かう
     沿道をうめる市民に迎えられ、じつに威風堂々のパレード
     氏神諏訪神社に着任を奉告した沢卿の行列は、ふたたび会議所に引き返す
     沢卿は佐々木三四郎の案内で総督室に落ち着く
     佐々木と松方が奉行脱走後1か月、長崎鎮撫の経過や市中警備の状況を報告
     総督はそのつどうなずき、その苦労をねぎらう
     02/16長崎会議所が廃されて長崎裁判所が正式に発足。職制の全面改革が行なわれる
     沢総督は九州全体の鎮撫使として西海道治安の大任をおう
     幕府時代、直轄地の長崎と西国郡代支配の豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向諸国の中の旧幕領11万石の管理者に
     長崎裁判所内に九州鎮撫総督府を併置。天草の富岡、豊後の日田、日向の富高に出張所を置く
     重任をまっとうするため自分の補佐役となる人事には一流の人材を足下に集める
      参謀=井上聞多(長州)、同=町田民部(薩州)、参謀兼裁判所判事=野村盛秀(薩州)、
      参謀助役兼裁判所判事=佐々木三四郎(土州)、参謀助役=松方助左衛門(薩州)、
      同=大隈八太郎(肥前)、同=揚井謙蔵(長州)、同=楠本平之丞(大村)、権判事=吉井源馬(土州)
       参謀、助役は軍政、判事は民政を本務とする
  03/07《02/14》明治政府が澤宣嘉に九州鎮撫使兼外国事務総督、長崎裁判所総督兼任を発令
     長崎裁判所は外浦町におき旧天領を管理
     長崎裁判所には九州鎮撫長崎総督府(九州の中心的役所)が置かれる
     参謀と助役は軍政、判事は民政を本務とする
     05/04長崎裁判所が長崎府に改められ長崎総督府を廃止
     沢宣嘉総督は初代知府事に(→1年後☆府知事と改称)に就任
     1869(明治02)03/05澤宣嘉が明治政府参与に任官
     1869(明治02)04/11澤宣嘉が上京
     1869(明治02)07/28《06/20》長崎府が長崎県に改められ判事の野村盛秀が第2代知事に任命
  02/16「長崎会議所」が廃止。「長崎裁判所」が正式に発足。所内に「九州鎮撫長崎総督府」が置かれる
     長崎会議所の全ての業務が長崎裁判所に引き継がれる
     05/04「長崎裁判所」を「長崎府」と改称し「長崎総督府」を廃止
  03/14天皇が五箇条の御誓文を発布
  04/07《03/15》明治新政府が旧幕府の高札を撤去、新しく五つの高札「五榜の掲示」を掲げる
     新政府は旧幕府に倣い神道国教主義の政治方針を明らかにする
     体制移行期の臨時治安立法で内乱や犯罪の増加など混乱を避ける為に作られる
     第一札 定
      一、人たるもの五倫の道を正しくすべき事
      一、鰥寡(かんか)孤独廃疾(はいしつ)のものを憫(あわれ)むべき事
      一、人を殺し家を焼き財を盗む等の悪業ある間敷(まじき)事
     第二札 定
      何事に由らず宜しからざる事に大勢申合せ候を徒党と唱え、徒党して強て願い事企るを強訴といい、
      或は申合せ居町居村を立退き候を逃散と申す。堅く御法度たり。・・・
     第三札 定
      切支丹(キリシタン)邪宗門の儀は堅く御制禁タリ。若し不審まる者これあらば、その筋の役所へ申し出ずべし
     第四札 定
      ・・・猥に外国人を殺害し或は不心得の所業等いたし候ものは、朝命に悖り御国難を醸成し候・・・・
     第五札 定
      ・・・自然今日の形勢を窺い、猥りに士民ども本国を脱走いたし候儀、堅く差し留められ候。
       慶応四年三月   大政官
     のち五榜の掲示を見た欧米の外交団から政府へ抗議があり書き改められる
       一、切支丹宗門之儀は、是迄御制禁の通り固く相守るべく候事。
       一、邪宗門之儀は固く禁止之事。
     1973(明治06)02/21「五榜の掲示」のうち三札が撤廃される
     1614(慶長19)以来の切支丹(キリシタン)の長い弾圧と追害が終わる
  03/24「九州鎮撫長崎総督府」が九州34藩の全てを管轄することに
  03/28新政府が神仏分離令を出す
     のち全国で排仏毀釈運動が起こる
  04/06遠見番所の廃止の達しがでる
  04/08《03/16》澤宣嘉は浦上キリシタンの指導者26人を総督府に召喚、キリシタンを捨てよと厳しく命じつめ寄る
     26人は殉教を覚悟し「死刑にされてもかまわない」と信仰を貫く
     04/29澤宣嘉は浦上村周辺の耶蘇教徒の家長180人を召喚
     改宗するよう説得したが成功せず、信者たちの決心の固さを知る
     のち澤宣嘉をはじめ、キリシタンに無理解な長州の伊東聞多ら参謀によって、浦上村総流罪の一大処分案が企画
     澤宣嘉は「中心人物は斬首、その他の者は流罪にする」という浦上信者処分案を井上馨にもたせ京都へ、政府の決裁を求る
     05/17《04/25》澤宣嘉は政府へ決裁を求め御前会議により全員を流罪に
  04/08新町の済美館が立山役所跡に移転、長崎府の管轄となり広運館と改称
     1872(明治05)08/文部省の学制頒布により第六大学区第一番中学と改称
     10/授業料制が採用され1か月金50銭に
  04/11討幕軍が江戸入城、徳川慶喜は水戸へ退去
  04/18南山手17番地にロシヤ領事館が新設
     1901(明治34)南山手5番地乙に移転
     1904(明治37)日露戦争により一時閉鎖
     1906(明治39)再開
     1908(明治41)05/仏国領事の代理を兼摂
     ロシヤ革命露国壊滅により閉鎖
  04/19澤宣嘉総督は奉行直属の親衛隊だった「遊撃隊」を「振遠隊」と改称
     軍事と警察を兼任。屯所は乃武館
     応急に備え長崎表を警衛すべしとの命令が下る
     隊員はイギリス式の教練を受ける
     筒袖に袴、両刀を差しライフル銃を持ちニラヤマ笠を冠る。士官以上はフロックコートを着用
     総員333人、17歳の少年から60歳の老人まで
     ラッパや太鼓で歩調を整える。時々は沢総督指揮の下に田上で演習を行なうことも
     1872(明治05)02/22「振遠隊」を解散、「邏卒」制度を新設
  04/21政体書が発布される
     地方制度は府、藩、県の3治制となる
     諸侯の領地はそのまま藩として残し、旧幕領は府、県として藩と区別することに
  04/27「海援隊」解散。同時に「土佐商会」も閉鎖
  04/京都から阿片の売買及び服用を厳禁する旨の公布
     05/長崎市中及び近郊の村へ達する
  閏04/25明治維新とともに諏方祭礼日を再び7日(渡御)と9日(還御)に変更
     7日は将軍家宣の忌日にあたり、1793(寛政05)から9日・10日・11日に変更されていた
     1875(明治08)諏訪神事の日取りが太陽暦の採用により10/07渡御、10/09還御の3日間に変更される
  05/04「長崎裁判所」を「長崎府」と改称し「長崎総督府」を廃止
     沢総督が初代知府事(1年後府知事と改称)に就任
     参謀助役の佐々木三四郎は天草富岡県知事に、同じく松方助左衛門は豊後の日田県知事となる
     1869(明治02)03/05澤宣嘉が明治政府参与に任官
     1869(明治02)04/11澤宣嘉が上京
     1869(明治02)07/28《06/20》長崎府が「長崎県」に改められ判事の野村盛秀が第2代知事に任命
  05/17《04/25》天皇の御座所、大阪の西本願寺にて浦上村民処分に関する御前会議が開かれる
       三条実美、木戸孝允、伊達宗城、井上馨、小松帯刀に、長崎から呼び出された大隈八太郎が加わる
       御前会議では澤宣嘉の処分案や重臣の意見も参考にされるが、木戸の意見が用いられる
       「中心人物は長崎で死刑。残り3千余人を名古屋以西の10万石以上の諸藩に流配、大名に生殺与奪の権を与える
       7年間は一口半の扶助米を支給し、キリシタンの中心浦上を一掃することに」
       しかし、あまりにもひどすぎると参与小松帯刀が三条実美に意見を申し出、死刑せずに全員流配することに決定
       一村総流配「浦上四番崩れ」という大変な処分が行われることに
     明治新政府は神道国教主義をとり、キリストへの信仰を捨てない浦上のキリシタンたちを「一村総流罪」にすることに決まる
     結果、浦上の信者3394人が金沢や名古屋、萩、津和野、鹿児島などの西日本の諸藩に流される
     明治時代となるが禁教令は残り、「浦上四番崩れ」の旅が決定される
     07/11《05/21》まず仙右衛門や甚三郎などの中心人物ら戸主たち114人を捕縛し長崎港から送り出し3藩に預ける
     萩66人、津和野28人、福山20人
  06/07《閏04/17》フランスのド・ロ神父が宣教師として来崎。大浦天主堂で教会暦などを日本初の石版印刷する
     石版印刷機で最初の本「聖教初学要理」が出版
     その年のうち大浦天主堂で日本初の石版印刷をする
     のち1878(明治11)までに大浦天主堂で印刷出版された書物は32種類に
     1879(明治12)やせたわずかな耕地があるだけの寒村、黒崎村出津に赴任
     村の貧窮を救うため機織り、染物、パン、マカロニなどの製法を教える
     また多品種栽培の有利さを教え小麦、トマト、イチゴ、茶、綿栽培を指導
  06/19旧幕府所有の長崎製鉄所が明治政府に収められ長崎府判事の総轄のもと経営
     官営長崎製鉄所となり工部省所管長崎造船局と改称
     1871(明治04)05/27《04/09》長崎造船所と改称
  06/東山手乙12番館にデンマーク領事館を設置
     大正年間米国領事が代理領事に
  07/11《05/21》新政府は名古屋以西の諸藩に浦上キリシタン総配流を断行
     まず仙右衛門や甚三郎などの中心人物ら戸主たち114人を捕縛し長崎港から送り出し3藩に預ける
     萩66人、津和野28人、福山20人。「浦上四番崩れ」の始まり
     1870(明治03)01/01戸主700名が呼び出しを受ける
  07/17江戸の地名が東京(東亰・とうけい)になる
  07/19振援隊に奥羽出征の動員令。振援隊と同時に 島原、大村、平戸、佐賀、福岡、秋月の諸藩兵が出陣
     振遠隊318人が英船フイロン号で東北遠征に向けて出発
     1868(慶応04)07/23秋田着
     1868(慶応04)08/08秋田領の朝舞口で酒井忠篤の軍を防ぐ
     苦戦連日、酒井軍を退け北盛岡を攻め国見峠から遂に盛岡城へ
     1868(明治01)10/19凱旋の途につき、東海道から神戸にでて神戸で露商船コレヤ号に乗船
     1868(明治01)12/20長崎に戻る
     戦死19人、病死4人、負傷19人
  07/長崎府から丸山町、寄合町の遊女屋へ達し
     遊女屋へ店勤めもしない名付遊女を外国人方へ遣すのは甚だ不埒である
     名付遊女にも遊女屋にも各30両の罰金を科し、名付遊女は遊女屋に下げ渡す
     遊女どもは素人に紛らわしい風俗をしてはならないはずなのに違反する者がある
     今後、遊女の風俗になす様、抱主は良く申し諭すこと
  08/01中島川に架かる木製の大橋が日本で最初の鉄橋(銕橋・鐵橋・くろがねばし)に架け替え
     九州鎮撫総督兼長崎裁判所総督の沢宣嘉、参謀井上聞多と共に渡り初め
     慶応03(1867)05/12中島川の洪水で木橋が流失。衆議は永久橋として鉄橋にすることに決定
     当時の最新技術でオランダ人技師ホーケルが設計、本木昌造が監督施工、長崎製鉄所が建設
     工費は1万6500両。長さ27.2米の鉄の桁を渡し板を張った橋、幅6.5米、欄干には黒く光る擬宝珠が飾られた
     引きも切らぬ通行人の下駄の音がゴロゴロと雷鳴のように響く橋
     昭和06(1931)09/鉄筋コンクリート製に
     平成02(1990)再度架け替わる
  08/08長崎府庁を外浦町から立山役所跡へ移設
  08/27天皇が即位の大礼をあげる
  08/28沢知府事が諏訪神事を改革、華美禁止の令をだす
     沢卿は長崎に来て、くんちの華美に驚き厳令を下す
     (1)傘鉾は直径4尺(1.2米)、飾りは町名をしるす程度。その他は一切禁止
     (2)奉納踊りは全廃
     (3)神輿行列は、お供町11町から1町各3人の33人が武者姿で供奉
     (4)丸山・寄合町だけは例外として傘鉾と小舞の奉納を許す
     …など殺風景なものに
     1870(明治03)知事が代わり、おおまかに昔の姿を取りもどす
  08/29天草県(富岡県)が長崎府に編入される
     1871(明治04)11/14第1次府県統合により長崎県の旧天草県が分離、熊本県、人吉県とともに合併し八代県となる
  08/和紙木版刷り冊子形式の日本初の地方新聞で週刊の「崎陽雑報」が創刊
     本木昌造の長崎新聞局経営で致遠閣発兌。致遠閣は佐賀藩の学舎、致遠館のこと
     長崎府の官報で「長崎府印」の朱印も捺してあり、佐賀藩の大隈八太郎(重信)も発行に関係
     ニュースの源は長崎府からの示達、居留地からの風聞、外字新聞の翻訳で官報の色彩が濃い
     内容は市中の事件、諸外国の話題、また長崎振遠隊の奮戦ぶりなどが報じられる
     最初の鉛活字は半強制的に中央に徴収され木活字を使用
     1871(明治04)13号で廃刊
  08/丸山遊女、芸子ら4名が阿片中毒で死去
     長崎府、外国管事務所は阿片の輸入を厳禁し阿片を所持する者は阿片1斤毎に洋銀16枚の罰金を科する旨を布告
  高島で佐賀藩とグラバーが共同経営による合弁事業として高島炭坑開発の契約が成立
     藩主鍋島閑叟は家臣松林源蔵を派遣しグラバーとともに経営
     日本初の本格的な近代炭坑北渓井坑が開さく
     1869(明治02)04/17日本初の蒸気機関による立坑(約43米)を開坑、日産300瓲を出炭
     巻き上げ、揚げ水用の蒸気機関を備え、波止場までレールを敷く。日本初の洋式採炭法を取り入れた近代炭鉱
     1869(明治02)08/1丈8尺層(5.45米)の採炭の目的で南洋井坑の開さくに着手
     1874(明治07)01/官営となる
     1874(明治07)11/政府から後藤象二郎が北渓井坑、南洋井坑の払い下げを受ける
     1876(明治09)北渓井坑が潮水侵入のため廃坑
     1876(明治09)06/尾浜に横坑を開さく
     のち経営困難となり福沢諭吉が仲裁になり武家の商法で借金漬けの後藤象二郎から岩崎彌太郎に譲渡
     1881(明治14)04/岩崎彌太郎が買収。三菱の経営に移る
     高島は最新技術の導入により、後年三菱のドル箱に
     1892(明治25)南洋井坑が終堀
     1986(昭和61)11/27105年にわたる高島炭坑が幕を閉じる
  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     各町奉納踊は1874(明治07)まで廃止、丸山町、寄合町のみ慣例の傘鉾、小舞踊を奉納
  お達しにより、神事が質素なものに改められる
  09/20天皇が東幸のため京都を出発
     10/13東京着、江戸城を皇居とする
  10/17精得館が長崎府医学校と改称
     校長に長与専斎、教頭にマンスフェルトを任命
     大学・小学の2科を設け、医学校規則・病院規則・薬局掟などを定める
     1869(明治02)02/長崎県病院医学校に改称
  11/F・リンガー(29)がグラバー商会の暖簾分けとして同僚のE・Z・ホームと共に「ホーム・リンガー商会」を開設
     場所は大浦12番地、弁天橋北側筋向かい
     のち海岸通りの大浦7番地に移転
     1940(昭和15)10/ホーム・リンガー商会が閉鎖
  11/精得館が長崎府医学校、長崎府病院と改称
     1868(明治01)改革により一般患者も治療ができるようになる
  11/高松凌雲が函館戦にて創傷洗浄に石炭酸水を使用
  12/06グラバーと薩摩藩五代友厚らとにより小菅修船場(通称ソロバンドック)の完工落成式行なわれる
     小菅修船場(通称ソロバンドック)は日本初の洋式近代的ドック
     引揚小屋は日本初期の薄手煉瓦造り
     1969(明治02)03/11明治政府がグラバー管理の小菅修船場を洋銀12万弗で買収。長崎製鉄所の付属に
     1876(明治09)西南戦争のため修理船が11隻を数える。新船も建造
     1879(明治12)05/21政府の支持を得て立神ドックが完成
     のち500瓲クラスの船舶までは小菅で引き受け、それ以上の内外国船は立神ドックを使用
     1887(明治20)小菅修船場が三菱の所有になる
  12/20東北遠征の振遠隊が露商船コレヤ号で帰着
     戦死19、戦病死4、負傷者19
  12/26奥羽戦争での振遠隊戦死者等17人を祀るため大徳寺跡に梅香崎招魂社を設置
     1869(明治02)06/14函館戦役の戦死者等23名を合祀
  12/在留外国人数は574(清375、英81、米39、蘭30、独20、仏15、葡8、瑞6)
  12/下新地が外国人居留地に編入される
  F・ワルシェが「ナガサキ・タイムス」を創刊。大浦居留地で英字新聞の復活
  東山手12番地にプロシア領事館が建つ
     木造平屋寄棟造桟瓦葺き。中廊下式で廊下の幅は3017粍と広い
     廊下の左右に執務室として使っらしい3つの居間(48.9平方米)を配し、北東の一角には3つの小室を配する
     ベランダは正面と側面に設けられ、幅は正面3260粍、側面2942粍
     のちアメリカ領事館、アメリカのメソジスト派(婦人外国伝道教会)の宣教師などの住宅に使用
     1941(昭和16)活水学院に譲渡
     1976(昭和51)建物が活水学院から長崎市に寄贈
  グラバーが高島炭坑開発のため高島に洋式邸宅を建てる
     1873(明治06)高島から離れる
     のち三菱高島礦業所の迎賓館として使用
     1948(昭和23)老朽のため取り壊し
  富江町で農業と海運業を営む田中庄三郎が薩摩から芋を移入
     のち芋苗の量産に成功
     のち五島中に広め、県外にも売りだす
     カンコロもちで有名な五島芋など
  福健省泉州出身者が唐人屋敷内に八●(ビン・門かまえに虫)会所を創設
     1897(明治30)建物を全面的に改築。福健会館と改称
     1945(昭和20)08/09本館建物が原爆により倒壊。正門と天后堂のみが残る
        正門は三間三戸の薬医門形式
        中国風要素も若干含むが組物の形式や軒反りの様子、絵様の細部など主要部は和様の造り
        天后堂は外壁煉瓦造りで架構法など純正な中国式を基調とし、一部木鼻や欄間は和式
  長崎公園内、池の端に休憩所の月見茶屋と呑江(港)茶屋ができる
  改革により長崎府病院で一般患者も治療ができるようになる
     1869(明治02)07/09長崎府医学校が長崎県病院医学校と改称
  英国人ノース・レーが横浜で炭酸飲料水各種を居留外国人用に製造販売
     炭酸飲料水各種はジンジャーエール、ミネラルトニック、シャンペンサイダー
  五島久賀島の島民が寺請制度を拒否、信仰を公にする。キリシタン弾圧「五島崩れ」の発端
     大開・松ケ浦の6畳の仮牢に幼児から老人まで200人余りが8か月間押し込められる
     拷問を受け苦しみのあとに42人が殉教
     のち五島全土に広がる
     12/24福江島岐宿町水ノ浦の張方久三郎宅でナタラ(クリスマス)のオラショをしようとしたところ捕らえられる
     久三郎宅は仮牢となり60余人が拷問を受ける
  浦上四番崩れが起きたことにより、大村領の三ツ山などにも弾圧の手が伸びる
  西道仙が澤宣嘉に献策。報奨として賞金の代わりに道仙が所望した鳴瀧の琴石を賜う
     澤は賞状で「王制維新前後追々建言し且つ著書を為し、報国尽力神妙の至り、賞金を辞退致し候に付き、
     望みに任せ官有地に有る石を遣わし賞金に代えるものである」と功績をたたえる
     琴石は縦約1.2米、横約1.3米、長さ約3米の奇石。表面には琴の線のような数本の筋をもつ奇石
  長崎にいた鍋島藩士大隈八太郎(重信)が長崎裁判所参謀助役となる
     1913(大正02)11/16大隈重信伯爵が夫人同伴で来崎
     長崎市民は鳳鳴館で官民連合大歓迎会を催す
     舞鶴座で「長崎市民に対して」と題して講演。5600人の大聴衆を前に大隈ブシが炸裂
     大隈伯は三菱社宅に宿泊、老齢の身で2日間の滞在に8回の講演を行なう
  長崎での在留中国人総数743人。うち館内242人、新地213人
  英国派遣宣教師エンソーが東山手に住み、密かに10人の日本人に洗礼を授ける
  伊勢町の長崎聖堂(中島聖堂)が廃止となる
     1959(昭和34)03/大学門と規模を縮小した大成殿が保存のため興福寺の境内に移築復元
  グラバーと淡路屋ツルの間に女の子が生まれハルと名づける
     1870(明治03)日本の政情不安定で武器弾薬の需要を見込み大量買付け
     1870(明治03)09/16英本国政府がグラバー商会に対し破産を宣告
     予想外の早期安定で売却できず、負債数10万弗となる。日本の国情安定が、グラバーを破滅させたことになる
  (橋本商会の)創業者の橋本雄造は中津藩士として参勤交代の江戸詰め中に維新を迎え、商人を志して長崎へ下る
     長崎のドイツ商会で商売の修業をする
     1872(明治05)03/橋本雄造が長崎市江戸町に金物商として中津屋橋本商店を創業
     洋鉄・洋釘・船具及び機械類の輸入、古鉄類の売買、船舶の解体等を行なう
     1885(明治18)平戸港外で沈没したオランダ船をグラバーの指導のもとに、引揚げに成功
     日本に於ける沈没船引揚げ第1号
     1888(明治21)台風により五島黄島沖に沈没したフランス汽船スローエン号3千瓲の引揚げ
     成功しサルベージ技術を確立
     1905(明治38)旅順港内で港湾閉塞のために自沈したロシアの艦船の過半数を軍命により引揚げる
     1912(大正01)トロール漁船3隻により水産業にも進出
     1914(大正03)第1次大戦勃発と同時に、神戸市明石町を本社とする福洋汽船株式会社を設立し、海運業に進出
     大黒山丸9千瓲、大日山丸9千瓲、遠加丸1万瓲、茂木丸9千瓲
     1921(大正10)12/組織改革を行い橋本商店より株式会社橋本商会(資本金50万円)とする
     取扱品目を工業用資材・土建用資材等にひろげ、その販路も拡大
     1939(昭和14)11/古鉄部門が業務拡張。株式会社橋本商会古鉄部(資本金19万5千円 社長/橋 本和太八)として発足
     朝鮮・台湾方面よりの屑鉄輸入等にともない同部門を株式会社橋本商会から、別会社として分離独立
     1945(昭和20)01/株式会社橋本商会が販売部門のほかに鉄材の鍛造機械部品の加工・製造部門として鉄工部を新設
     1946(昭和21)03/株式会社橋本商会古鉄部が三菱製鋼株式会社の製鋼原料である屑鉄の一手納入者の指定を受ける
     戦後の国土復興に尽力する
     1956(昭和31)11/株式会社橋本商会古鉄部が鋼材及び新商品の成長につれて取扱品目が多角化
     社名を橋本商事株式会社(資本金3千万円)に変更する
     株式会社橋本商会も遂年発展して資本金600万円となり営業活動は関西・関東に及ぶ
     1957(昭和32)10/業容の競合回避と経営効率化のため、橋本商事株式会社が株式会社橋本商会を合併
     新生株式会社橋本商会(資本金3千600円 社長/橋本和太八)となる
     1966(昭和41)08/油屋町に地上5階地下1階の総合ビルを建設
     1976(昭和51)12/長崎市目覚町に地上4階建の橋本有料駐車場をオープン
     1984(昭和59)09/創業110周年を記念して本社ビル(地上8階)及び別館(地上5階)を竣工
     1985(昭和60)04/隣接地に本社ビルより直通出来る大型有料駐車場(地上8階 収容能力250台)をオープン
     1985(昭和60)07/旧本社ビル跡地に橋本商会第2ビル(地上5階)を竣工
  政府の政策的意図による神仏分離令・排仏毀釈(03/28太政官布告)により神仏混淆がなくなる
     神道振興で諸社が格式をそなえ神社と仏寺の習合が禁じられる
     多くの仏寺が神社として存続するが、廃滅を余儀なくされた寺もある。廃寺改称が30か寺にのぼる
     《神社として存続した主な仏寺》
     現応寺八坂神社(鍛冶屋町)、玉泉院玉泉神社(寄合町)、威福寺天満宮(桜馬場町)、
     神宮寺金刀毘羅神社(立山町)、金剛院如意輪寺大崎神社(本石灰町)、願成寺愛宕神社(愛宕町)、
     能満院万福寺淵神社(淵町)、琢生院楠稲荷神社(西小島町)、大覚寺宮地嶽八幡神社(八幡町)、
     楞厳院銅座稲荷社(銅座町)、大行寺今博多町天満宮(今博多町)、不動院南光寺天満宮(今籠町)、
     観音院圓福寺山王日吉神社(坂本町)、中島聖堂隣地の瓜生野天神中島天満神社、西山妙見社西山神社、
     松月庵銭座(馬込)天満宮(銭座(馬込))、桜谷権現天照大神を勧請して桜谷神社(立神)、
     弁財天伊都岐島神社(浪ノ平)明治43(1910)以前から祀られていた琴平神社に合祀、
     安禅寺東照宮神社(炉粕町)1874(明治07)内務省公布に基き安禅寺遺址に公園設置が決定、長崎公園が誕生。諏訪公園とも…など
     《廃滅した主な仏寺》
     慈眼院大徳寺(西小島町)、法界院体性寺(玉園町)、青光寺(出来大工町)、本覚寺(炉粕町)、
     大教院(伊勢町)、大学院(八幡町)、真福寺(高平町)、金蔵院(八幡町)、徳苑寺(八幡町)、
     快行寺(鍛冶屋町)、興善院荒神堂(炉粕町)、雲龍寺(桜馬場町)、能仁寺(西山郷)、躰性寺(岩原郷)など
  大村の円融寺が廃寺となり護国神社となる
     のち境内奥の斜面に、江戸時代初期様式で造られた庭園が残される
     立石を組み合わせた枯山水の庭園で、国の名勝に指定される
  市内における主な寺子屋私塾[名称(所在地・経営者・学科)]
     奇石軒(小川町、笹山繁、読書・習字・礼式・謡)、秋岡塾(東中町、秋岡種寿、算盤)、
     静寿軒(勝山町、渡辺一郎、算盤・習字)、谷山塾(鍛冶屋町、谷山悦十郎、算盤・習字)、
     長川塾(本興善町、長川幹二、漢文、習字)、学思軒(引地町、太田寿吉・習字)、
     嘯涛軒(桜町、勝木禎輔、読書・習字)、八尋私塾(西上町、八尋雅二、習字)

維新後

  西山郷(下西山町)の1228坪の御薬園がいったん長崎県の所有となる
     のち土地と薬草木は入札により売却され、御薬園としての幕を閉じる

1869(明治02)【明治】 己巳(つちのとみ)

  《知事》[第1代(官選)]沢宣嘉(→06/20)、[第2代(官選)]野村盛秀(06/20→)

  01/23岩佐純が相良知安医学校取調御用掛となる
     相良知安は、明治新政府が政治的配慮からイギリス医学導入を決めようとしていたとき、
     純粋に学問的立場からドイツ医学導入を強く説き、その採用に大きく貢献する
  01/28ドイツ系アメリカ人のグスターフ・ウィルキンズが37才で死去
     グスターフ・ウィルキンズは外国貿易商社カール・ニクル商会を共同経営していた
     財産は丸山の茶屋「津の国屋」の芸者玉菊(25)に遺贈
     悟真寺の稲佐国際墓地31番に埋葬。玉菊は死を悲しみ桁外れに大きな舵輪型の墓碑を建立し魂を慰める
  02/出島〜築町に出島新橋(10間)、梅香崎〜新地に梅香崎橋(15間)、
     遅れて築町〜新地に新大橋(27間)が架設される(いずれも近代木橋)
     出島は江戸町側の出島橋のみでつながっていたが、出島新橋の架橋で初めて出島と築町が陸続きとなる
     出島〜居留地の湾岸道路が完成
     しかし道路は主に居留地方面の整備にとどまり、他は徒歩主体の未整備状態のまま
  02/長崎府医学校(旧養生所、精得館)が長崎県病院医学校に改称
  03/01中小島町76番地に西洋料理店「福屋」の元となる日本家屋が上棟
     1875(明治08)06/19洋風増築家屋が上楝
  03/05澤宣嘉が明治政府参与に任官
     1869(明治02)04/11澤宣嘉が上京
  03/11明治政府がグラバー管理の小菅修船場(通称ソロバンドック)を洋銀12万弗で買収。長崎製鉄所の付属に
     1876(明治09)西南戦争のため修理船が11隻を数える。新船も建造
  03/長崎製鉄所を辞職した本木昌造が新町の長州藩蔵屋敷跡を購入。私学校「新街私塾」を開く
     読書、習字、数学、英語などを教え市民子弟の教育事業を行なう
     1870(明治03)03/私塾経費を賄う目的もあり新町活版印刷所を創設し活字製造と印刷を始める
  03/明治政府が陸海軍に函館攻略を命じる
     長崎から振援隊樂手と長崎海軍伝習所に学んだ士官等の他、奉行組下の船手係と水夫、火夫らが出征
     35人が朝陽丸に、15人が陽春丸に乗組む
     06/11朝陽丸沈没。長崎参戦者のうち20人が艦と運命を共に
  04/11澤宣嘉が上京
     1869(明治02)07/28《06/20》長崎府が長崎県に改められ判事の野村盛秀が第2代知事に任命
  04/17高島炭坑の北渓井坑で日本初の蒸気機関による立坑(約43米)を開坑、日産300瓲を出炭
     巻き上げ、揚げ水用の蒸気機関を備え、波止場までレールを敷く。日本初の洋式採炭法を取り入れた近代炭鉱
     1869(明治02)08/1丈8尺層(5.45米)の採炭の目的で南洋井坑の開さくに着手
  05/02キリシタン禁制高札対して政府法律顧問のオランダ改革派教会牧師フルベッキはブリーフ・スケッチの中で取り除くよう建言
  05/弁天岬台場・五稜郭の旧幕府軍が降伏し、戊辰戦争が終結
  06/14函館戦役の戦死者等23人を大徳寺跡の梅香崎招魂社に祀る
  06/17各藩主に対し版籍奉還の奏請を許し、各藩主を藩知事に任命
     06/19任島原藩知事・松平忠和、任平戸藩知事・松浦詮、任厳原藩知事・宗義達、任福江藩知事・五島盛徳
     06/24任大村藩知事・大村純熙(左上は臣)
  07/09長崎府医学校、長崎府病院が長崎県病院医学校と改称
     1871(明治04)11/14文部省の所管となり、長崎県病院・長崎医学校と改称
  07/25《06/17》版籍奉還が行なわれる。藩主が旧来所有していた土地と人民を朝廷に返還
  07/28《06/20》「長崎府」が「長崎県」と改められる【06/07?】
     判事野村盛秀が第2代知事に
  07/《06/》本木昌造が上海から宣教師ウィリアム・ガンブルを迎え、長崎製鉄所で金属活字(鉛)の鋳造に成功
     11/本木昌造らのグループが洋式活版術の移入を受ける
      興善町の唐通事会所跡(旧新興善小学校)に、長崎製鉄所付属活版伝習所を設立
     上海のミッションプレス美華書館の活字技師ガンブルを招く
     中国文や欧文の活字を持ち込み、電胎法による母型の作り方を教授
     1870(明治03)03/本木昌造が長崎製鉄所の頭取を辞し新町に新町活版所を創設
     私学校「新街私塾」の経費を賄う目的も
     日本最初の民間活版所で、活字鋳造と印刷事業を始め近代日本の印刷技術発展の基礎がつくられる
     1870(明治03)新町活版所にて日本活字号数制を確立
     和文活字の大きさは、ウイリアム・ガンブルの考案した号数活字のシステムを参考にした「号数制」が基本
     ガンブルはスモールパイカ(11point)を5号活字とするが、11pointに相当する日本の尺度、鯨尺の1分をあてる
     1870(明治03)新町活版所にて明朝活字の鋳造にも成功
     約半年ほどガンフルの指導を受け、電胎法による母型を作って和文活字の鋳造技術を獲得
     1870(明治03)大阪に大阪活版所を開設
     1871(明治04)12/12横浜に移り1枚摺りの日本最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を創刊【12/08?】
     神奈川県の今井関盛良が、長崎の本木昌造に依頼して活字と印刷機とを取り寄せる
     昌造が派遣した長崎製鉄所付属活版伝習所の社員陽其二を編集長に、横浜本町6丁目に本社を構える
     1873(明治06)東京に長崎の出張活版製造所(のち東京築地活版製作所)を開設
  08/07対馬の府中藩(対馬藩)が厳原藩と改称
     1871(明治04)07/14廃藩置県により厳原藩が厳原県となる
     1871(明治04)09/04佐賀県(旧佐賀藩)が伊万里県と改称し厳原県を統合する
     1871(明治04)11/14第1次府県統合により厳原県を含む伊万里県が佐賀、唐津、鹿島、小城、蓮池各県を合併
     1872(明治05)05/29伊万里県が佐賀県と改称
     1872(明治05)08/17旧厳原県が佐賀県から分離し長崎県に統合される
  08/高島炭坑の1丈8尺層(5.45米)の採炭の目的で南洋井坑の開さくに着手
     1874(明治07)01/官営となる
  10/新地蔵所の築き増し工事が完成。新地蔵所の一角と本籠町が陸続きになる
     (玉帯川の川口が右折、新地蔵所と西濱町の間を流れ、中島川の川口に延び、銅座川を形成)
  11/本木昌造らのグループが洋式活版術の移入を受け、長崎製鉄所付属活版伝習所を設立
     長崎製鉄所付属活版伝習所の場所は興善町の唐通事会所跡(旧新興善小学校)
     上海のミッションプレス美華書館の活字技師ガンブルを招く
     中国文や欧文の活字を持ち込み、電胎法による母型の作り方を教授
     1870(明治03)03/本木昌造が長崎製鉄所の頭取を辞し新町に新町活版所を創設
     私学校「新街私塾」の経費を賄う目的も
     日本最初の民間活版所で、活字鋳造と印刷事業を始め近代日本の印刷技術発展の基礎がつくられる
  11/デンマーク大北電信会社がロシア領から大阪、横浜、長崎、上海、福州、香港への海底電線敷設権を獲得
     日本政府は上海〜長崎、ウラジオストク〜長崎、長崎〜横浜の敷設を許可
     1870(明治03)08/長崎伝信局が開設。長崎〜横浜の電信線(陸線)の架設工事に着手
     伝信局はのちの電信局
     電信線のない当時、電報は早飛脚で長崎〜横浜を7〜9日間を要した
     1871(明治04)06/上梅ケ崎町にデンマークの大北電信会社長崎支店が開設
     07/29長崎伝信局が長崎〜東京(1368粁)に電信線架設
     伝信局はのちの電信局
     沿道各県に4粁あたり70本の電信柱の設置を割りあてる
     08/04《06/18》長崎〜上海の海底電信線敷設工事が完成
     小が倉町のホテルベルビューの一室を借り日本初の国際電信業務を開始
     08/12《06/26》民部省が長崎〜上海の通信を開始
     10/05長崎〜ウラジオストックに海底電信線を開通
     11/21長崎〜ウラジオストックの通信を開始
     1873(明治06)02/17長崎〜東京の架設電信回線が完成、九州初の長崎電信局が開設
     電信局は以前の伝信局
  12/ジュル・アルフォンソ・クザン神父は大坂居留地川口に天主堂用地を入手
     1870(明治03)04/04大坂天主堂献堂式を挙げる
  旧長崎奉行所内の稲荷の方形鳥居を若宮稲荷境内脇に移す
  長崎在住の中国人鼎泰、孚泰と和昌号が初めて灯油を輸入
  西山郷の妙見社が西山神社となる
  丸山の一等地に遊廓、梅鶯楼が創業
     1958(昭和33)売春禁止法により旅館、公楽荘として新スタート
  イギリス人技師モーリスが日本初の洋式炭鉱、蒸気機関による立坑(約43米)を高島町に開坑。日産300瓲を出炭
     1874(明治07)01/官営になる
     1874(明治07)11/後藤象二郎に払い下げられる
     1876(明治09廃坑
  松田雅典が広運館の仏人教師レオン・デュリーから缶詰製造の指導を受ける
     1877(明治10)缶詰業の必要性を県令に説き缶詰試験場の設置を願い出る
     1879(明治12)県立缶詰試験場が炉粕町通り沿いにできる。松田雅典は主任に
     外国から缶詰製造機械を買い入れ、伝習生6人を採用し試作
     製品は海外にも送られ好評を得る
     1882(明治15)缶詰試験場が廃止
     のち松田雅典は缶詰製造に専念しようと官職を去る
     試験場を支払い下げてもらい松田缶詰工場として自営
     のち清国へ輸出し、ロシア東洋艦隊へ納入
  箱館の地名表記が函館となる
  写真家の内田九一が横浜から東京浅草に移り写真館を開業
     1872(明治05)明治天皇と昭憲皇太后を写す。明治天皇の写真は公式の御真影第1号
  井上ユキヨが島原で料亭「腰駕楼」をはじめる
     のち島原の名門料亭として栄える
     1913(大正02)経営を住吉旅館にかえる
     1945(昭和20)07/強制疎開をうけ建物が取り毀される
     1946(昭和21)井上ユキヨの孫にあたる井上籠子が住吉旅館の経営を再開
  東京芝に文英堂パン店が開業。翌年銀座に移転「木村屋」と改名

1870(明治03)【明治】 庚午(かのえうま)


次のページへ


室町時代以前
(1)
室町以前(2)
安土桃山(1)
安土桃山時代
(2)
安土桃山時代
(3)
江戸時代(1) 江戸時代(2) 江戸時代(3)
江戸時代(4) 江戸時代(5) 江戸時代(6) 江戸時代(7) 江戸時代(8) 江戸時代(9) 江戸時代(10) 江戸時代(11)
江戸時代(12) 江戸時代(13) 江戸時代(14) 江戸時代(15) 江戸時代(16) 江戸時代(17) 江戸時代(18) 明治時代(1)
明治時代(2) 明治時代(3) 明治時代(4) 明治時代(5) 明治時代(6) 明治時代(7) 明治時代(8) 明治時代(9)
大正時代(1) 大正時代(2) 大正時代(3) 昭和時代(1) 昭和時代(2) 昭和時代(3) 昭和時代(4) 昭和時代(5)
昭和時代(6) 昭和時代(7) 昭和時代(8) 昭和時代(9) 昭和時代(10) 昭和時代(11) 平成時代(1) 平成時代(2)