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〈江戸時代(15)〉

1844(天保15、弘化01・12/02)【仁孝】 甲辰(きのえたつ)

  《奉行》伊沢美作守(在勤・12/19小姓組番頭格発令)
  《代官》高木作右衛門忠篤
  《商館長》ピーテル・アルベルト・ビク

  06/29夜、稲佐岳の稲佐社より出火し焼失
  09/10夜、炉粕町のオランダ通詞附筆者友之助下女は手燭の蝋燭を倒し出火。屋根裏2尺4方が燃え抜く
      炉粕町・そめ、友之助
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  一口香総本家榎純正堂の前身、雑貨商「榎屋」が茂木に創業
     1949(昭和24)浜町電車通りに支店を出す
     1957(昭和32)本店を浜町商店街内に移転
  西ドイツのクリストファ・ベレンスマイヤー神父により聖フランシスコ病院修道会が設立
  島原藩4代藩主忠誠のとき藩医の市川泰朴が城内の「済衆館」で屍体の解剖を行なう
     シーボルト門人の賀来佐一郎と協同
  シーボルトが帰国するときに500種800株の植物を積み込む
     うち、ヨーロッパに移植が成功したもので生き残っていたのは204品種
     シーボルトが帰国したときに導入した植物500種800株のうちはそのうちの129種
     シーボルトが作成した販売カタログには、バイカイカリソウ、イカリソウ、トリカブト、ショウブ、シャクヤク、ヌルデ、
     サルトリイバラ、チャ、ツバキ、ガガイモ、ツルボ、シキミ、サネカズラ、ネズミモチ、カノコユリ、エビネ、シュンランなど

1845(弘化02)【仁孝】 乙巳(きのとみ)

  《奉行》伊沢美作守(12/03西丸留守居転出)、井戸対馬守(覚弘・前在勤目付・12/03発令)
  《代官》高木作右衛門忠篤
  《商館長》ピーテル・アルベルト・ビク(←10/31)(11/01→)ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン

  01/15寄合町の肥前屋、遊女花の井が唐船総代、林友春との間にくまを生む
     花の井の弟永次郎はくまを貰い養子に
     09/林友春が死去
     1846(弘化03)くまが死去
  02/03昼、岩原郷より出火
  02/07朝、酒屋町の喜平方同居藤兵衛は炬燵に火を入れ衣類を掛け置いたところ朝方に出火
  04/《03/》大村純顕の招きで漢詩人・儒学者の広瀬淡窓が再訪。純顕に6つの改めるべき弊風を説く
     一、諸大名群臣の行儀が尊大 二、行列を誇張し過ぎる 三、秘密主義は不可
     四、門地の高下重視では才能生きず 五、前例重視で進歩なし 六、文盲不学
     05/11《04/06》長崎に再遊。門下生で与力の吉沢雄之進むの部下として、念願の蘭館に入館
     椅子に座り、カピタンから酒、菓子でもてなされる
     唐館では関帝廟などを見てまわり茶菓でもてなされる
     のち日田へ戻るとき大村純顕から金千疋と鯨肉1かご、扶持金10両2分が届けられる
  07/08暁、長崎村本河内郷より出火
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  オランダ船により日本に初めてパイナップルの種苗がもたらされる
  茂木村の三浦シラがビワの枝を隣家の籠作り職人で甥の山口権之助におくる。受け接ぎ木し第2代をつくる
     のち権之助は三浦万次郎、三浦八十八らに接木の方法を教える
     明治維新前後三浦八十八が接ぎ木をしたビワが初めて長崎に出荷される
  異国船の来航が相次ぎ五島列島で緊張が高まる
     郷士や農民に鎌や熊手を用意させ大浜で農兵隊の訓練が行なわれる
  福江で初めて種痘実施される
  長崎の家数1万2028、人口2万9962(男1万4534・女1万5428)
     1853(嘉永06)家数1万0831(家持2156・借家8437)、人口2万7343(男1万3113・女1万4230)
  イギリス船が琉球に来て通商を求める

1846(弘化03)【孝明】 丙午(ひのえうま)

  《奉行》平賀信濃守(勝足・前目付・閏05/06発令・09/着)、井戸対馬守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠篤(08/23罷免)、高木健三郎忠顕(09/10任)
  《商館長》ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン

  01/13昼、長崎村本河内郷より出火
  02/25夕、日見村網場名より出火。120戸が焼失
  10/09くんち奉納踊りに初めて「江戸町の兵隊さん(オランダ軍楽隊)」が登場、異彩を放つ
     使用した衣裳その他一式(ミリタリー衣装一式)は蘭人デルプラットが注文を受けてオランダから持ちきたもの
     江戸町ではこの年から7年ごとに維新直前までこの衣裳を使って4回ほど出演
  12/12夕、浦上山里村稲佐郷より出火
  12/25朝、大徳寺境内より出火
  端唄「春雨」が丸山遊女おかつの節付で誕生
  島原藩が薬園を設置
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
     カピタン、デルプラットより江戸町の阿蘭陀兵隊用具一式が寄贈される

1847(弘化04)【孝明】 丁未(ひのとひつじ)

  《奉行》井戸対馬守(09/着)、平賀信濃守(10/発)
  《代官》高木健三郎忠顕
  《商館長》ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン

  06/「諏訪社神事舞踊等諸事質素を主とすべき」との達しがでる
  09/12暁、長崎村夫婦川郷より出火
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  島原にて農村に対する耕作地の実態把握や寸志銀制度などが強化
     疲弊困窮していた下層農民がおこした多比良一揆、有家で小作人がおこした暴動に続いて、千々石で小作人の暴動がおきる
     のち藩が備蓄米を放出など対策を講じる
     村方でも救助策が考えられ多比良では庄屋村里・地主万屋・籾屋・鍵屋ら7人が各自1町歩ずつの田を提供
     永世田が作られ貧農救済にあてられる
  宇田川ヨウ庵が「舎密開宗」を編刊。未完に終わる

天保〜弘化年間(1830〜1848)

  長崎の唐通事の家に女中奉公に来ていた茂木村北浦名字木場の三浦シオが南中国より舶載の唐びわを知る
     食べたビワの種を持ち帰り茂木村北浦名字木場の兄喜平次の畑にまく。初代茂木ビワ
     1845(弘化02)隣家の籠作り職人山口権之助がビワの枝をもらい受け接ぎ木し第2代をつくる
     のち権之助は三浦万次郎、三浦八十八らに接木の方法を教える
     明治維新前後三浦八十八が接ぎ木をしたビワが初めて長崎に出荷される

1848(弘化05、嘉永01・02/28)【孝明】 戊申(つちのえさる)

  《奉行》平賀信濃守(05/26西丸留守居転出)、
      稲葉出羽守(正申・前目付・05/26発令・09/着・09/28死去・大音寺に埋葬)、
      大屋遠江守(明啓・前小普請奉行・11/01発令)、井戸対馬守(在勤)
  《代官》高木健三郎忠顕(08/21死去)
  《商館長》ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン

  01/唐船主、顧士英の帰国後、唐館に呼入れていた寄合町の筑後屋、遊女高根が男児を出産
     のち再渡来した顧士英が実子であると認め寄合町乙名見習の芦刈三代太郎が出産届を奉行所に提出
     顧士英は高根に銀1貫目を養育料として与え、外にも贈り物をする
  06/20夜、長崎村小島郷より出火
  06/ドイツのストラルズンド生まれのオランダ軍医オットー・モーニッケが出島蘭館医として来日
     日本に初めて聴診器をもたらす。また牛痘液を持ってきたが失敗
     モニーケは医学の他に気象学を教え、出島に気象観測所を設ける
     鍋島藩の医師、楢林宗建がモーニッケに進言、次年は牛痘痂(かさぶた)を取り寄せることに
     1849(嘉永02)06/蘭船が前年注文の苗痂(牛痘痂)を大切に積んで入港
     宗建は自分の三男と2人の幼児を実験台として出島に送り、モーニッケは幼児たちの両腕に新しい痘痂を接種し大成功
     以後これを種として次々と種痘が行われた
     1849(嘉永02)07/24楢林宋建と相談し江戸町の阿蘭陀通詞会所に伝習所兼種痘所がおかれる
     モーニッケが吉雄圭斎、柴田方庵に実地指導。接種に成功
     1849(嘉永02)12/27までにモーニッケが種痘した者は381人に
  秋北海道沖で捕鯨船を降りた米国人ラナルド・マグドナルドがボートで利尻島に上陸。密入国者として捕まり長崎送りに
     西山の諏訪神社近くの崇福寺の末庵大悲院に幽閉される
     マクドナルドは幽閉期間中に牢の格子を通して青年通詞14人に英語を教えるよう命じられる
     それまで外国語は和蘭語のみだった日本人が直接アメリカ人教師から初めて生きた英語を学ぶ
     授業では生徒が英単語を発音し、マクドナルドが正しい発音かどうかをうなずいたり、首を振ったりして伝えた
     1849(嘉永02)04/漂流者引き取りに来航したアメリカ軍艦プレブルに引き渡される
     マクドナルドは「Soinara」(さよなら)という言葉を残して日本を去る
     のち弟子のひとり森山栄之助はペリー来航時の通訳を務める
     英語を学んだ14人…本木昌左衛門、西与一郎、植村作七郎、森山栄之助、西慶太郎、中山兵馬、
      名村常之助、小川慶十郎、猪俣伝之助、志筑辰一郎、岩瀬弥四郎、茂鷹之助、塩谷種三郎、堀達之助
     1894(明治27)マクドナルドが亡くなるとき「ソイナラ・マイ・ディア・ソイナラ」と別れの言葉を口にする
  10/24暁、西浜町より出火
  12/23暁、長崎村伊良林郷より出火
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     万屋町の魚尽し刺繍作られる。次代、二十八匹、縫い師・熊吉
  市川泰朴、賀来佐一郎は島原で初めて種痘を実施
  楢林宗建が佐賀藩内で種痘を実施
  西洋植字印刷機一式および鉛活字を輸入。蘭通詞の本木昌造ら4人が蘭書の復刻を試みる
  御用商人上野俊之丞がフランスのダゲールが発明した銀板写真機ダゲレオタイプ(銀板写真法)をオランダ船で輸入
     のちカメラが薩摩藩の手に渡る
     1857(安政04)09/17薩摩藩藩主島津斉彬自らを藩士に写させる
     日本人が日本人を撮って成功した唯一の銀板写真

1849(嘉永02)【孝明】 己酉(つちのととり)

  《奉行》大屋遠江守(03/着)、井戸対馬守(04/発・08/04江戸町奉行転出)、
      内藤安房守(忠明・前禁裏付・09/24発令)
  《代官》高木作右衛門忠知(10/任)
  《商館長》ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン

  03/出来鍛冶屋町の竹内億助が私財を投じて日見街道に石畳を敷く
  06/19朝、唐人屋敷より出火
  06/再種痘のためモニーケが頼んだ注文の苗痂(牛痘痂)を蘭船が大切に積んで入港
     江戸町の阿蘭陀通詞会所にて蘭館医モーニケがバタビアから取り寄せた牛痘苗で種痘を行なう
     わが国で牛痘苗での種痘が成功する
     モーニケは楢林宗建と協議し小児に接種することを決める
     のちモーニケが江戸町の阿蘭陀通詞会所で種痘を始める。吉雄圭斎・柴田方庵に種痘術を伝授
     〜12/27モーニケが種痘した者は391人にのぼる
  07/幕府が五島藩に「城を築き海岸防衛を厳重にせよ」と築城許可を与える
     五島氏の半世紀にわたる築城への願望が成就
     1849(嘉永02)08/着工
     幕府は経費2万両のうち、1万両を貸し付け、早急に完成するよう指示
     1863(文久03)約15年の歳月を費やし、石田陣屋の跡に石田城(福江城)が完成
     城郭は、東西160間(約291米)、周囲740間(約1346米)
     野面積みで堅牢な石垣を持ち、城郭の三方を海に囲まれ、異国警備という使命を持った海城
     完成後、40歳以下の領民に禁酒令を出すなど藩の財政建て直しに懸命となる
     1872(明治05)石田城は新政府に収納。城と備えつけの武器、馬具一切が売り払われる
     石田城の生命はわずか10年足らずと短く、時代の変遷にふりまわされた
     石田城は江戸時代を通じて築城を許された例外であり、わが国最後の築城となる
  08/旅芸子の長崎滞在が100日から50日限りに改められる
  09/10《07/24》江戸町阿蘭陀通詞会所に伝習所兼種痘所がおかれ、モニーケが吉雄圭斎、柴田方庵に実地指導
     蘭医楢林宗建は自分の三男と2人の幼児を実験台として送る
     モニーケは幼児たちの両腕に新しい牛痘痂を接種し大成功
     以後これを種として次々と種痘が行われる
     12/27までにモニーケが種痘した者は391人
  09/22暁、磨屋町より出火
  10/02暁、油屋町より出火
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
     榎津町の川船がはじまる
  10/江戸時代最後の代官・高木作右衛門忠知が任命される
     1868(慶応04)02/長崎府取締役に
  式見村で初めて種痘を実施。代は1軒につき米8勺あて、村中で米1表2斗7升9合を牛痘方に納めた

1850(嘉永03)【孝明】 庚戌(かのえいぬ)

  《奉行》大屋遠江守(05/21死去・本蓮寺に埋葬)、
      一色丹後守(直休・前普請奉行・07/08発令・11/29勘定奉行転出・長崎在勤せず)
      牧志摩守(義制・前小普請奉行・11/29発令)、内藤安房守(08/着)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》ヨゼフ・ヘンレイ・レフィスゾーン(←10/31)(11/01→)フレデリック・コルネリス・ローゼ

  08/寄合町の引田屋、遊女雅妻が唐船主、沈晋伯の子を妊娠
     のち沈晋伯が帰帆ののち出産。まもなく死去
  09/唐人が遊女の揚代を払わない場合、唐人が遊女を呼入れたいときに少しでも払ったら入館させてよいと達し
  10/11《09/06》吉田松陰が長崎へきて、砲術を学ぶため高島秋帆の子、浅五郎を訪ねる
  10/旅芸子たちが丸山町、寄合町、総代へ長崎滞在を100日に戻して欲しいと嘆願
     乙名の奥印を受け書類を旅人方役場へだし許可される
  12/「唐人の揚代が滞ったまま出帆し大損で借金が増えてしまう」と
     寄合町の遊女屋、門屋富三郎など9人が官銀拝借願書を年番所へ差出す
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  遊女屋では唐館、蘭館へ出入りする遊女には正月の踏絵の後、掟をよく申し諭し遊女、禿、遣手に誓詞血判をさせる
  長崎の木下逸雲が種痘巧者として天草に迎えられ、数千人に種痘を施こす
  最後の江戸参府が行なわれる。合計166回を数える

1851(嘉永04)【孝明】 辛亥(かのとい)

  《奉行》牧志摩守(09/着)、内藤安房守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》フレデリック・コルネリス・ローゼ

  05/24夜、浦上山里村本原郷より出火
  06/寄合町の筑後屋、遊女深山がフレデレキ・コルネリウス・ロ−セとの間に女児ひろを生む
     今町のときを雇入れ、筑後屋の遊女の籍に入れ乳母遊女として出島に入れる
     のちひろ(4)は驚風症で死去
  08/16暁、延命寺より出火。1寺焼失
  11/18暁、新大工町より出火
  暮/本木昌造が長年の苦心の末、種字から鉛の字母を作り、鉛と錫とアンチモンの合金で丈夫な活字を作り
     流し込みの鋳型を作り、一通り出来上がる
     1869(明治02)06/本木昌造が唐通事会所跡に長崎製鉄所付属の長崎活版伝習所を設立
     唐通事会所跡は興善町の(旧新興善小学校)の地
     上海のミッションプレス美華書館の活字技師ガンブルを招く
     中国文や欧文の活字を持ち込み、電胎法による母型の作り方を教授
     1870(明治03)03/本木昌造が日本活字を創製。新町に新町活版所を開き活字鋳造と印刷事業を始める
     日本の民間印刷所の始まり
     1870(明治03)大阪に大阪活版所を開設
     1873(明治06)東京に長崎の出張活版製造所(のち東京築地活版製作所)を開設
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  C・T・Van Assendeift de coningh の「日本滞在記」には紅毛船ヨアン号船長の遊女に関する記事
     1)外国人女性の渡来が厳禁されており出島の紅毛人は遊女とともに愉快に生活している
     2)遊女は日本語、オランダ語、マレー語の3か国語の混合の言葉で紅毛人と会話している
     3)出島の遊女の部屋は秩序正しく綺麗である
     4)紅毛人は家事を遊女に任せているが、解雇権を持っており遊女は遠慮がちである
     5)遊女は毎日、出島の本門前の江戸町の仲宿にいって出代わりの点検を受ける
     6)遊女は仲宿で家族と逢い、家族は相手の紅毛人へ水引をかけた菓子箱等を贈る
     7)これらの遊女たちはヨーロッパの大都会で見受けられるような淪落した淫乱な女だとは思われていない
     貧しい親が娘を養えないときは6才から8才で茶屋へ連れていく
     そこでは都びた日本風の教育と躾を受け、小間使いとして年長の遊女に従う
     14才になると遊女になり25才になると自由に身となって良い結婚をして立派な母となる
  土橋の銅座橋が石橋になる
  ●●町に高橋呉服店が創業

1852(嘉永05)【孝明】 壬子(みずのえね)

  《奉行》内藤安房守(05/15西丸留守居転出)、大澤豊後守(秉哲・前目付・05/15発令・09/着)、牧志摩守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》フレデリック・コルネリス・ローゼ(←10/31)(11/02→)ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス

  01/05暁、南馬町より出火
  01/29朝、浦上山里村中野郷より出火
  02/18朝、長崎村小島郷より出火
  02/28夜、長崎村本河内郷より出火
  04/20暁、本石灰町八五郎宅の灰を入れる樽小屋の残り火より出火。長崎村小島郷に延焼し611戸が焼失
     米銭を施与
      本石灰町・八五郎押込20日
  10/06佐賀藩医の楢林宗建が没。
     1801(寛政13・享和01)長崎に生まれ佐賀藩医となり、シーボルトに師事し蘭医術、物理学、化学に精通し詩文にも長じる
  10/28暁、長崎村伊良林郷より出火
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  浦上淵村の鵬ケ崎焼が廃窯
  五島各地に疱瘡、コレラ(とんころりん)が蔓延[〜1853(嘉永06)]

1853(嘉永06)【孝明】 癸丑(みずのとうし)

  《奉行》牧志摩守(04/28西丸留守居転出)、水野筑後守(忠徳・前浦賀奉行・04/28発令・08/着)、大澤豊後守(在勤)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス

  06/03アメリカ合衆国印度洋艦隊司令官マッシュ・ペリー提督が4隻の軍艦を率いて相模国浦賀沖に現われる
     東インド艦隊が遣日国使として米国大統領フィルモアの親書を幕府応接掛の戸田氏栄に手交し開国をせまる
     06/06久里浜に上陸して国書を提出
     1854(嘉永07)03/03再来日して「日米和親条約」を締結。結果、伊豆国下田湊が即刻開港される
  08/22《07/18》ロシア使節海軍中将極東艦隊司令長官ワシリエビッチ・プチャーチンが長崎に来航
     軍艦4隻を率い開国をせまる
     旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊。うち1隻は日本最初の蒸汽船の来航。火船と称する
     来航の目的はロシア皇帝の千島、樺太の測量と通商を求めた国書を手渡すなど露日修好条約をもたらす
     原案はシーボルトによって書かれる
     艦隊停泊中は筑前、佐嘉、平戸、島原、唐津、大村各藩の兵士7226人、船734隻で長崎を警備
     08/19長崎奉行が西役所で使節と合う。プチャーチンからの国書を受け取り、すぐ幕府へ送られる
     10/08幕府派遣のロシア使節応接掛の人選が難航
     勘定奉行兼海防掛の川路聖謨と大目付格兼応接掛の筒井正憲らに決定。上使として長崎に下向
     10/23通商が拒否されロシア艦隊は上海へ出帆
     01/03《12/05》プチャーチンがロシア艦隊4隻を率いて2度目の来崎。通商条約、国境問題の交渉を求める
     12/14江戸より来崎の幕府要人が長崎奉行西役所で初顔合わせ
     ロシア側はプチャーチン、使節付副官兼蘭語通訳官の海軍少佐ポシェット、
     旗艦パルラダ号艦長の海軍大佐ウニコフスキー、秘書官ゴンチャロフの4人
     筒井、川路は「殊更に高き高麗べりの二畳台」に座り高さを合わせ、大通詞の西吉平衛と森山栄之助が同席
     三汁七菜と酒の昼食ののち正式な挨拶が交わされる
     のち1854(嘉永07)01/07まで6回にわたり国境、通商問題などの交渉が行なわれる
     のちパルライダ号上の最終会談で日本が他国と通商条約を結んだ際、ロシアも同一条件を与える旨が保証
     01/08《1853(嘉永06)・12/17?》プチャーチンが旗艦パルライダ号に日本人使節団を招き、船内を見学させる
     士官室のテーブル上に敷かれた円周軌道を走る蒸気機関車の模型を川路聖謨や森山栄之助らが日本で初めて見る
     12/18西役所で露使節と会見し回答書を交付、幕府からの贈物を使節らに贈呈
     12/22露使節は国王の献上品を西役所に持参
     02/05《01/08?》ロシア艦隊が長崎を出港
     1854(嘉永07)03/23プチャーチンがロシア艦隊3隻を率いて3度目の来崎
     1854(嘉永07)03/31《03/03》クリミア戦争勃発で上海まで後退するが、執拗に長崎、樺太、函館に来航
  08/06幕府が高島秋帆の禁固を解き釈放する
  11/01渡御。「長崎くんち」が将軍家慶の逝去と露使節プチャーチンとの交渉のため日程変更11/05還御
     【12/との記録も?】
     (6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  油屋町の大浦お慶が出島蘭人テキストルと相談、嬉野茶の標本を米、英、アラビアに送る
  長崎の家数1万0831(家持2156・借家8437)、人口2万7343(男1万3113・女1万4230)
     1854(安政01)家数1万0842(家持2143・借家8482)、人口2万7339(男1万3116・女1万4223)

1852〜1853(寛永05〜06)

  五島各地に疱瘡、コレラ(とんころりん)蔓延

1853(嘉永06)以降

  高島秋帆一家が江戸に移る。雷が丘(現東小島町)の高島宅には門人の中島名左衛門が住む
     1863(文久03)以降中島名左衛門が下関で没し料亭「咲草屋」となる

嘉永年間(1848〜1854)

  外海から潜伏キリシタンが大山地区に移る

1854(嘉永07、安政01・11/27)【孝明】 甲寅(きのえとら)


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