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〈江戸時代(13)〉

1818(文化15、文政01・04/22)【仁孝】 戊寅(つちのえとら)

  《奉行》金澤大蔵少輔(04/28新番頭転出)、間宮筑前守(信興・前目付・04/28発令・09/着)、筒井和泉守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ

  05/23漢詩人で史家の頼山陽が九州への旅の途中、長崎へ立ち寄る
     3か月ほど滞在し内外詩人と交遊、名所旧跡を訪ね、42首の漢詩を詠む
  10/24出島の倉庫からガラス製品のが盗まれていたことが発覚
     長崎奉行は厳しい取り調べを開始。商館長ブロンホフも密かに調査を開始
     12/06オランダ人の料理人部屋から懐中時計が盗まれる
     まもなく犯人が捕まる
     12/18数々の盗品がブロンホフに返却される
     貿易品の運搬人夫、番人、乙名などに罰が課される
     懐中時計盗難は日本人の賄い方(料理人)の息子に容疑がかかるが逃亡。賄い方自身が拘留
     長崎奉行は直接の犯人だけでなく出島役人をも調べようとする
     ブロンホフの計らいにより、それ以上の追及をやめる
  11/09オランダ国王の皇子の誕生日を祝し停泊中のフラウ・マリア号が12時に8発の祝砲(空砲)を撃つ
     荷を積んだはしけ(大船の荷を波止まで運ぶ小舟)に乗る漕ぎ手の喜三郎が海に落ちて溺れ死ぬ
     警告はしており見まわりもしたが船員は気づかず砲を放つ
     商館長ヤン・コック・ブロンホフ、船長ヴェームホフの他、舵手、水夫頭、砲手手伝が奉行に出頭、尋問を受ける
     オランダ人に罪はないが手落ちがあったとして砲手手伝いが国禁を命じられ、他のオランダ人はお叱りを受ける
     船長ヴェームホフは喜三郎の妊娠中の妻と2人の子どもたちの生活費を贈ることを申し出る
     商館長のブロンホフは年明けに砂糖10籠の提供を約束
     奉行所も妻子に法事料銀200目、老母と妻子に扶助費米20俵を贈る
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  東浜町に長崎で最初の夜市がたつ
  大川の筋、出島門前海岸など浚渫する
  発心寺が一代限りの寺号公称を許される
     1878(明治11)三栗円照のとき寺号公称独立
  頼山陽が来崎。唐船主江芸閣との面会を望むが、江芸閣の船の入港が遅れて果たせず
     江芸閣の寵妓、引田屋の袖咲を花月に呼び詩書のことづてを依頼
  西山御薬園の薬草目録に70種が記録される
     山梔子(サンシシ)、烏薬(ウヤク)、酸棗仁(サンソウニン)、木瓜(モッカ)、山茱萸(サンシュユ)、
     仏手柑(ブッシュカン)、呉茱萸(ゴシュユ)、槐樹(エンジュ)、牡荊(ボケイ)、杜仲(トチュウ)、
     木蝋樹(モクロウジュ)、肉桂樹(ニッケイジュ)、辛夷(シンイ)、西府海どう(サイフカイドウ)、
     木犀(モクセイ)、楝(レン)、枳樹(キジュ)、楓樹(フウジュ)、方竹(ホウチク)、対青竹(タイセイチクイ)、
     大明竹(ダイミョウチク)、貝母(バイモ)、天門冬(テンモントウ)、青木香(セイモッコウ)、艾(ガイ)、
     大戟(タイゲキ)、大黄(ダイオウ)、大麦門冬(ダイバクモントウ)、小麦門冬(ショウバクモントウ)、
     何首烏(カシュウ)、草菓(ソウカ)、覆盆子(フクボンシ)、白附子(ハクブシ)、萎ずい(イズイ)、
     黄精(オウセイ)、川弓(センキュウ)、薄荷(ハッカ)、茴香(ウイキョウ)、金桜(キンオウ)、前胡(ゼンコ)、
     地楡(チユ)、甘草(カンゾウ)、桔梗(キキョウ)、蒼朮(ソウジュツ)、三七(サンシチ)、使君子(シクンシ)、
     玄参(ゲンジン)、甘邃(カンスイ)、当帰(トウキ)、白れん(ビャクレン)、黄今(オウゴン)、金灯草(キントウソウ)、
     蔓生百部(マンセイビャクブ)、特生百部(トクセイビャクブ)、白薇(ビャクビ)、白前(ビャクゼン)、
     土茯苓(ドブクリョウ)、蓖麻(ヒマ)、蓍草(シソウ)、黄耆(オウギ)、竜胆(リュウタン)、防已(ボウイ)、
     菊葉黄連(キクバオウレン)、良姜(リョウショウ)、知母(チモ)、淫羊かく(インヨウカク)、北五味子(ホクゴミシ)、
     浙江大青(セツコウタイセイ)、馬蹄決明(バテイケツメイ)、江芒決明(コウホウケツメイ)

1818(文政01)頃

  丸山町の妓楼「引田屋」の庭園内に茶屋を建て「花月」と名づける
     のち花月には頼山陽や江芸閣など内外の文人墨客がよく往来し、書画の一種の展覧会・品評会も行なわれる
     1879(明治12)03/丸山の大火で類焼

文化年間(1804〜1818)

  「長崎くんち」の本籠町「白蛇刺繍傘鉾幕」を中村嘉右衛門が寄贈
  諫早藩士の青木弥惣右衛門が、山下淵からの水を田井原に引き半造川の下をくぐらせて小野島に導くことを考え藩庁に献言
     原理のサイフォン方式を信用する人はなく四方説得に奔走。領主の理解も取りつけて完成に導く

1819(文政02)【仁孝】 己卯(つちのとう)

  《奉行》筒井和泉守(09/着)、間宮筑前守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ

  07/23丸山町、寄合町の揚屋13人が旅芸子の長崎滞在の許可を長崎奉行へ差し出す
     1)地下芸子だけでは客の要求に応じられない
     2)28人の地下芸子は競争相手がおらず増長する
     3)客が減って商売に差支える
     4)地下芸子28人の外に旅芸子20人の増方を許可して欲しい
     5)不景気で物価が高いが旅の客は支払いが良く、召使の下男下女まで貰物があり旅客を目当てに稼ぎたい
     役人からは地下芸子の親たちと相談するよう注意を受け、相談したものの納得できず再度願い出
     年番乙名黒川勘八郎、盗賊方宇野九郎兵衛が仲裁しても親たちは承諾せず、奉行所に呼び出される
     親たちは奉行所で散々叱られ、遊女町芸子としては遊女屋、揚屋に従うこと
     旅芸子は長崎滞在日数100日を超えないことを申し渡される
  08/奉行は物価値上げ対策の触書きをまわし高騰する物価抑制につとめる
  12/飢饉その他の災害に備え幕府が長崎迴米620石を増加。通計2万6620石となる
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
     銀屋町の大名行列が考案される
  丸馬場の安禅寺に乙名頭取や総町乙名の寄進によって石門が建立
     1868(明治01)明治維新で幕府の庇護がなくなり廃寺となる。御宮等は破壊
  書画清譚会が丸山の遊廓「引田屋」で美術展覧会を開催。美術展の始まり
  宇田川玄真が「和蘭薬鏡」(おらんだやっきょう)第1巻を刊行
     1835(天保06)6編、全16巻完成
     医薬品について、国産の薬材はもちろん、中国・東南アジア産で手に入るものから、
     オランダの医学書・薬学書・植物書・百科事典・局方などを参考にして、その形態・薬効・処方・製剤法などを示す
  高野平郷の宝樹山現応寺、一の鳥居が風頭石で建立
     1868(明治01)神仏分離に伴い澤宣嘉総督により八坂神社と命名
     1879(明治12)本殿、拝殿の改修工事竣工に際し宮司、小西成則(易堂)により扁額を手書き
     人が集まる里の意を込めてコザト偏の「八阪神社」に改める
  江戸で赤痢やビタミン類などの不足からおこる大病、麻疹(はしか)が大流行する

1820(文政03)【仁孝】 庚辰(かのえたつ)

  《奉行》間宮筑前守(09/着)、筒井和泉守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ

  01/01駿河国有渡郡清水美濃輪の高木寿三郎とトヨの四子として清水の次郎長(長五郎)が生まれる
     1893(明治26)06/1274歳で没する。法号・硯量軒雄山義海居士
  09/12浦上山里村里郷より出火。10戸が焼失
  09/15オランダ商館長ブロンホフが長崎奉行を離任する筒井和泉守正憲と新任の間宮筑前守信興を出島に招待
     玉突きをさせたり商館員や船乗組員に素人芝居を見せ、その合間にオランダ風の軽食を振る舞うなどの大歓迎
     実は日本からの輸出品の銅や樟脳の調達・引き渡しが順調でなく、輸出品がなかなか運びこまれなかった
     輸入品の評価額を上げ、日本滞在の経費を抑え貿易による利潤を多くするため日本側との交渉も順調でなく
     オランダ商館長は接待をして親交を深め交渉をより円滑にする必要があった
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     銀屋町の傘鉾新調される
  諏訪神社の祭礼「長崎くんち」の看々踊と蛇踊を名古屋と江戸で興行
  勝山町の料亭・竹泉で料理人同志が、てんぷらの元祖を苦心して作る

1821(文政04)【仁孝】 辛巳(かのとみ)

  《奉行》筒井和泉守(01/29江戸町奉行転出)、土方出雲守(勝政・前目付・03/17発令・09/着)、間宮筑前守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ

  07/アラビア・メッカ産のヒトコブラクダ雄雌各1頭が蘭船により長崎に上陸
     長崎奉行間宮筑前守が西役所で見物。江戸へ問合せるが幕府献上品とはならない旨の返答
     カピタン・ブロムホフは寄合町、引田屋の遊女糸萩へ贈る
     通詞仲間が引受けブロムホフに肥田織木綿330端、色縮緬57端、青海縞70端、紋羽30端を贈り代金は糸萩の収入となる
     糸萩が外に貰ったもの…素焼茶器1揃、針差1箱、銘酒器1箱、焼物とんまり1つ・水次1つ
     ・皿35枚・猪口2つ、きんもうる帯地1つ・ごろふくれん帯地2つ、上皿紗2端・皿紗2端・奥島2端
     のち阿蘭陀通詞中山作三郎の斡旋で大阪香具師に売却。全国見せ物屋を巡業
     西両国広小路では木戸銭32文で見せ物に
     とても仲が良く、ラクダ使いが雌の手綱を引きグングンすすむと雄は雌にピッタリと寄り添う
     のち北国巡業中に寒さのため死ぬ
  09/18朝、日見峠より出火
  12/11《11/17》平戸藩第10代藩主の松浦静山が「甲子夜話」の執筆を開始
     1841(天保12)08/15《6/29》正続100巻、続編80巻の大著になるが未完のまま死亡
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  寄合町筑後屋の遊女管絵が唐船主願遠山との間に混血児を出産
  ドーフの息子、丈吉に唐物目利に命じられ受用銀1貫目を給される
     1824(文政07)丈吉が17才で死去。皓泰寺後山に葬られる
  島原城内に蘭学の医学校と病院をかねた「済衆館」が設けられる
  五島藩9代藩主盛繁のとき藩校「育英館」が創立
     のち城下福江の南富江に藩校「成章館」ができる

1822(文政05)【仁孝】 壬午(みずのえうま)

  《奉行》間宮筑前守(06/14作事奉行転出)、
      高橋越前守(駿河守・重賢・前松前奉行・06/14発令・09/着)、土方出雲守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ

  03/05浦上山里飽浦郷より出火
  03/20夜、本紺屋町より出火
  06/18筆者(書記)紅毛人ガウセマンが呼入れている寄合町、引田屋の遊女綾妻が女児を出産
     06/25驚風症で死去
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  奉行高橋越前守は消火が円滑に行われるように通達をだし従来の組合消防を変更
     一、消防の仕方については各組ごとよく申合せ火消人足は厳に喧嘩口論を慎む
     一、各町の乙名、組頭、日行使などは町内を記した幟のもとにおいて決してその場から離れない
       火消人足が自分の知人の家のみ加勢に行くような公私乱るる振舞いがあってはならない
     一、火消人足の賃銭は従来一律であったが、今後その働き如何によって手当てを加える
       町役人は鎮火後、火消人足の甲乙を区別した成績表を出す
     一、火消人足は1町当り20人
  再びオランダ船が雄雌2頭のラクダを運んでくる。このラクダの値段は2頭で1050両と高額
  長崎奉行・土方出雲守が旧長崎奉行所内の稲荷に方形の鳥居を奉納
     1869(明治02)若宮稲荷境内脇に移す
  宇田川玄真が「遠西医方名物考」1〜2編刊行
     1825(文政08)全12編9巻が完成。西洋で定評のある薬品・製剤方法・器具などをイロハ順に並べた事典
  長崎に入ったコレラがたちまち大阪まで広がり、大阪での死者は日に3〜400人
  長崎の家数1万1466(家持2089・借家9377)、人口2万9681(男1万4375・女1万5306)
     1838(天保09)家数1万0581、人口2万7166

1823(文政06)【仁孝】 癸未(みずのとひつじ)

  《奉行》土方出雲守(09/着)、高橋越前守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ(←11/20→)ヨアン・ウイルレム・ド・ステュルレル

  07/05夜、長崎村十善寺郷より出火。17戸が焼失
  07/06フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27)が蘭館医として着任
     衰退した日蘭貿易を復活させる切り札として派遣
     オランダ東インド会社総督ファン・デア・カペレンは、長崎奉行高橋越前守に親書を送る
     「優秀な外科医であり、かつ、優れた科学者であるから優遇して欲しい。きっと日本のために役立つでしょう」
     そのとき日本に初めてピアノが持ち込み、出島商館の外科部屋で故郷の歌曲を奏じる
     シーボルトは、南ドイツのバワリヤ王国の学都ウエルツブルグのドイツ医学の名門の家に生まれる
     長崎奉行の特別の計らいで、来日草々長崎の町に出て、日本人患者の診察・治療・投薬に当たる
     週2回、日本の医学生を出島の自室に呼び入れ、医学の講義をする
     内科の治療だけでなく様々な手術の講義をする
     腹水穿刺、乳がんの手術、産科鉗子を用いて分娩、薬剤を用いて瞳孔を拡大し眼科手術…など
     漢方医学が主流の当時、蘭方医は医学書を頼りにする程度のもので、シーボルトの治療はまさに画期的なもの
     オランダ商館に名医来るの報は日本全国にひろがり、西洋の進んだ医学を学ぼうと150人を超える俊秀が集まる
  シーボルトが出島に上陸してすぐにジェンナーにより開発された牛痘法を日本の子供に実施
     残念ながら長い航海の間に痘苗が腐敗していたため失敗
  江戸参府の途中、シーボルトが植物2000種を栽培する尾張の水谷豊文の薬園を訪れ驚く
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
     寄合町の「金糸花模様刺繍傘鉾幕」が新調される
  諏方社が奉行・地役人および氏子らの寄付金1千両で、神輿や諸神器を修理
  外海の東樫山から7戸のキリシタンが善長谷地区に移り住む
     のち三和町岳路に移り住んだ半分はカトリックに改宗せず
     善長谷に残った家族はカトリックに改宗
  博打で身を持ち崩し無宿人となった江戸中村座の木戸番定七の子次郎吉が大名屋敷へ忍び込む
     以降、10年間に99か所、122回忍び込み、3千両とも1万2千両ともいわれる金を盗む
     1832(天保03)08/捕縛された鼠小僧次郎吉が市中引き回しの上、鈴ケ森刑場で打首獄門。35歳

1823(文政06)頃

  浦上淵村の鵬ケ崎で蒲地子明が開窯
     1852(嘉永05)廃窯
  シーボルトが植物園を再建。出島の1/4近くを占めるものに
     1825(文政08)出島の植物園に日本の1000種以上の植物が移植
     植えられていた植物の約370種のリストが残される。なかには…。
     ケシ、ナデシコ、アサガホ、イレイセン、キキャウ、クララ、センゴシツ、、ソテツ、ワタ、チゴザサ、イシカグマ、
     シモクシダ、ハシリドコロ、クロムメモドキ、バイケイサウ、コケモモ、アシタバ、ハマナシ、、ガジュツ、キャウオウ、
     ヤマサンシャウ、キハダ、ニガキ、マタタビ、カギカヅラ、タケニグサ、テウセンアザミ、トサミズキ、チモ、ハマビシ、
     ザクロサウ、フジウツギ、レンゲシャウマ、ブナノキ、シイーノキ、タチアヲイ などや、
     春の七草のセリ、ナズナ、コギャウ、タビラコ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが記載される

1824(文政07)【仁孝】 甲申(きのえさる)

  《奉行》高橋越前守(09/着)、土方出雲守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヨアン・ウイルレム・ド・ステュルレル

  長崎郊外鳴瀧の諏訪神社神官の別荘を長崎奉行の許可を得て、オランダ通事中山某氏の名義斡旋でシーボルトが購入
     木造2階建の母屋や倉が建つ
     1829(文政12)12/05国外追放で日本を去った後、敷地は人手に渡る
     1859(安政06)シーボルト再来日の際に買い戻され、長崎滞在中、この地に住む
     1862(文久02)春幕府に献言しようとしてオランダ総領事に妨げられ帰国
     のちシーボルトの娘楠本いねの所有になるが売却
     1874(明治07)台風で大破
     1894(明治27)解体され跡地だけが残る
  06/シーボルトが鳴滝に塾を開く
     シーボルトは、週に1度程度鳴滝塾を訪れ、塾生が選んだ患者の治療に当たり、日本初の臨床医学の方法を伝習
     シーボルトの教えを受けた門人は50余人だが、その影響は非常に大きく日本近代医学の黎明をもたらした
     門人に、美馬順三(阿波)、高良斎(阿波)、水谷豊文、伊東圭介(尾張)、二宮敬作(伊予宇和島)、桂川甫賢、
     石井宗謙(備前)、高野長英(陸奥水沢)、戸塚静海、岡研介、小関三英(出羽庄内)、湊長安(江戸)、竹内玄同、
     伊東玄朴(豊前)、大石良英(豊前)、大庭雪斎、石坂桑亀、賀【加】来佐一郎(豊後)、武谷元立(筑前)、
     百武万里(筑前)、河野禎造、森田千庵、黒川良安、日野鼎哉(豊後)、岡泰安、有吉周平(筑前)、原田種彦(筑前)、
     後藤松軒、児玉順三らがいる
     門人たちは業成り、帰郷して医者を開業し、蘭学を教授した
     シーボルトは門人に学問研究の方法を説いて、それぞれに研究課題を与え、成績優秀な者にはドクトルの免許状を与える
      高良斉は「日本の小児病、成人病」などの論文を提出
      美馬順三は「日本産科問答」を完成、1825年のバタビア学芸協会雑誌に発表
      高野長英は「日本の茶の木と茶の製法」について論文を提出
  閏08/07夜、浦上山里村里郷より出火
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  ドーフと寄合町、京屋の遊女、瓜生野の間に生まれた混血児丈吉が17才で死去。皓泰寺後山に葬られる

1825(文政08)【仁孝】 乙酉(きのととり)

  《奉行》土方出雲守(09/着)、高橋越前守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヨアン・ウイルレム・ド・ステュルレル

  02/08小瀬戸浦より出火
  03/15夜、西中町の大村屋敷内より出火
     出火の折り恵美須町の金三郎が火消人足として駆出されるが、指図通り動かず水口を抜取り消防の妨げとなり不届
      恵美須町・金三郎03/18入牢03/27追放
      恵美須町・喜蔵、忠蔵、増之助、久吉、仲蔵、万吉、夘吉、甚之助、勝次郎、寿吉、倉之助、馬次郎、利助ともに手鎖
  03/16本紺屋町より出火
  08/シーボルトがケンペルおよびツユンベリの功績を顕彰するため出島薬草園に記念碑を建立
     出島の薬草園に日本列島の1千種以上の植物が移植(文政08(1825)10/付のシーボルトの書簡による)
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
     本籠町の大太鼓つくられる
  市中の銭相場が高騰。小銭が欠乏して市民は日常生活に困る
     箇所銀、かまど銀に4銭文、鉄銭など小銭を配与
  丸山遊郭の遊女・錦山が唐人陳仁謝と心中
  ドクトル・ビュルゲルが其扇の姉おつねとの間に女児千歳を設ける
     コンプラ仲間(諸色売込人)藤吉英重に付託
  シーボルトが茶の木をジャワに移植することに成功
  シーボルトが出島の植物園に日本の1000種以上の植物を移植
     植えられていた植物の約370種のリストが残される。なかには…。
     ケシ、ナデシコ、アサガホ、イレイセン、キキャウ、クララ、センゴシツ、、ソテツ、ワタ、チゴザサ、イシカグマ、
     シモクシダ、ハシリドコロ、クロムメモドキ、バイケイサウ、コケモモ、アシタバ、ハマナシ、、ガジュツ、キャウオウ、
     ヤマサンシャウ、キハダ、ニガキ、マタタビ、カギカヅラ、タケニグサ、テウセンアザミ、トサミズキ、チモ、ハマビシ、
     ザクロサウ、フジウツギ、レンゲシャウマ、ブナノキ、シイーノキ、タチアヲイ などや、
     春の七草のセリ、ナズナ、コギャウ、タビラコ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが記載される
  シーボルトが要請した助手の1人としてハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich Burger)が日本へ
     画家フィレネーフ(Carl Hubert de Villeneuve) とともに来日
     3等薬剤師に昇進したばかりのビュルガーは出島のオランダ商館付き医師シーボルトの下での「薬剤師」として来日
  宇田川玄真が「遠西医方名物考」全12編9巻を完成。西洋で定評のある薬品・製剤方法・器具などをイロハ順に並べた事典
     1〜2編は1822(文政05)に刊行

1826(文政09)【仁孝】 丙戌(ひのえいぬ)

  《奉行》高橋越前守(05/24新番頭転出)、
      本多佐渡守(近江守・政収・前日光奉行・06/17発令・09/着)、土方出雲守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヨアン・ウイルレム・ド・ステュルレル(←08/05)(08/04→)ヘルマイン・フェリックス・メイラン

  01/09甲比丹スチュルレルらがシーボルト、薬剤師ハインリッヒ・ビュルガーをともない江戸参府へ出発
     全同行者は107人シーボルトの協力者30人が加わる(普段はオランダ人3、長崎奉行所56の計59)
     シーボルトは画家フィレーネフの同行を申請したが、定員オーバーで不許可。代わりに 、画家の川原慶賀が同行
     シーボルトは書物奉行兼天文方の高橋作左衛門らと度々会談
     イギリス人シュケイ著の「地理書」と伊能忠敬作の「日本地図」とを交換
     06/03長崎に帰る。所要日数143日(普段は平均90日、約3か月)
  02/23寄合町、筑後屋の遊女高瀬がピストウリウスとの間に女児を死産
  04/25《03/19》江戸参府に随行したシーボルトが定宿の長崎屋で土生玄碩と会う
     土生玄碩は広島の安芸出身。徳川将軍家の奥医師で眼科医
     シーボルトは眼科の書物や眼科関係の器械を見せ、ベラドンナで瞳孔を広げてみせる
     土生は驚嘆し、白内障手術に必要な散瞳薬ベラドンナの製法伝授を頼むが、シーボルトは簡単に応じず
     土生は鰻の蒲焼き、駅路の鈴、果ては春画まで提供。さらに将軍より拝領した紋服を脱いで与える
     眼病を治すためには、例え露見し投獄されても息子の侍医玄昌に製法を伝える時間はあるはずと命がけの決断
     1828(文政11)台風によるシーボルト事件で国外持出禁止の品の中に将軍拝領の紋服が発見される
     土生玄碩は改易となり家禄が没収され終身禁固刑に
  08/29夜、長崎村馬場郷より出火
  11/22夜、浦上山里村里郷より出火
  11/寄合町、肥前屋の遊女橋藤の妹さだが唐人屋敷で紛れ女として見い出される
     遊女橋藤は謹慎、寄合町組頭藤田茂八郎は監督不行届のかどで押込みに
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、
     本石灰町、酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  ゲイルマン・フェリッキス・メイランの著「日本紀事」の丸山遊女の項に
     1)出島に日本人は居住できないが遊女は紅毛人の召使になることが許される
     2)遊女は出島滞在を証明するため毎日一度大門にいき役人に届け出る
     3)遊女は道徳的名誉的ではあり得ない、しかし家事にとって有用である
     4)男の使用人を雇うことは許されているが
     彼等は日の出前に来ることはできず、日没前に出島を退去する定めで、遊女がいないと不便
     5)一般的に良い趣味を持っている日本人が名誉も正義も打捨てて遊女屋を経営するのを認めるのは不可解
     6)公許の遊女屋は不相応な保護を受けて少しの規則で取り締まられている
     7)遊女が年期奉公を終えて社会に復帰し有利な結婚をし、妻、母として立派に生活するのが珍しくないのは一層注目
     長崎だけでも750人以上の遊女がいて全国には多くの遊女屋がある
  寄合町、筑後屋の遊女粧がヘトル役(荷蔵役)フィッセルとの間に男児を出産。数日後に死去
  寄合町、油屋の遊女青柳がカルロルス・ヒュウベルト・デ・フィレニゥフエとの間の男児を死産

1827(文政10)【仁孝】 丁亥(ひのとい)

  《奉行》土方出雲守(閏06/24西丸留守居転出)、
      大草能登守(高好・前目付・06/24発令・09/着)、本多佐渡守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘルマイン・フェリックス・メイラン

  05/06午後10時頃、寄合町、引田屋の遊女其扇(楠本タキ)がシーボルトとの間に女児いねを出産
     07/女児いねのため乳母遊女の陸奥が雇われ出島に入る
     1828(文政11)07/女児いねのため乳母遊女十寸穂が雇われ出島に出入り
  07/其扇とシーボルトとの間の女児いねのため乳母遊女の陸奥が雇われ出島に入る
  09/09伊東圭介が来崎。シーボルトと共に植物について情報交換する
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     樺島町の傘鉾鶉篭の2つ重ねに栗、垂れは十二支
  万屋町の傘鉾が完成する
     傘鉾の飾りは締め鰹に酒樽、垂幕には魚づくしの刺繍がつく。初代、10匹
     垂幕につく魚や海草の下絵は我国初期の洋画人原南嶺堂が描き、刺繍は刺繍師縫屋幸助の手による
  メイランが出島に商館長として4年赴任。帰国後の著書「日本」[1830(文政13)]で諏訪祭礼を伝える
  シーボルトが西山御薬園を訪れて調査。栽培されている植物108種を自筆で記録
  諏方社、正殿の柿葺を檜皮葺に改める。経費1千両は総町の寄付
  寄合町、京屋の遊女初紫が十二家船主周藹亭との間に男児を出産したが届をださず
     のち男児石井簾平は年寄の高島秋帆が秘し反物目利に
     1842(天保13)高島秋帆事件で発覚
     1842(天保13)周藹亭が初紫に養育料として銀札21貫666匁を与える
     1843(天保14)遊女初紫は江戸送りに
     1845(弘化02)周藹亭が初紫に養育料として銀札6貫目を贈る
     1846(弘化03)遊女初紫が長崎へ帰され、押込抱主の京屋えんは過料3貫文、
     乙名芦刈高之進は不埒につき叱り、組頭山口利三太も叱り、石井簾平は免職に
     1897(明治30)石井簾平が71才で死去。墓は勧善寺後山に

1828(文政11)【仁孝】 戊子(つちのえね)

  《奉行》本多佐渡守(09/着)、大草能登守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘルマイン・フェリックス・メイラン

  01/24寄合町、引田屋の遊女左門太がピイトル・ファン・オーテレンとの間に男児を出産
     10/痘瘡にかかり死去
  02/1221時頃、浦五島町の高砂屋久米蔵宅の神前灯火の消し忘れにより出火。37戸が焼失
      浦五島町・高砂屋久米蔵押込20日
  05/12暁、酒屋町より出火
  07/シーボルトの娘いねのため乳母遊女十寸穂が雇われ出島に出入り
  08/09夜半からの大暴風雨でシーボルトは其扇、いね、乳母、禿、黒人少年を出島表門に避難させる
  08/10台風襲来。シーボルトを乗せ帰帆する予定の蘭船コルネリウス・ハウトマン号が座礁
     海岸に流れついたシーボルトの荷物の中から国禁の品が続々発見され「シーボルト事件」の発端となる
     国禁の品:文政09(1826)春、江戸参府に随行したシーボルトは
      書物奉行兼天文方の高橋作左衛門らと度々会談
       イギリス人シュケイ著の「地理書」と伊能忠敬作の「日本地図」とを交換
      また幕府の医官土生玄碩は、散瞳薬ロート根を入手した謝礼に、将軍拝領の葵の紋付きを贈る
       …などなどが難破船から発見
      「文政台風」「子の年台風」「シーボルト台風」とも
     将軍拝領の紋服が発見され、土生玄碩は改易となり家禄が没収され終身禁固刑に
     1829(文政12)01/07シーボルトが長崎奉行本多佐渡守に日本帰化願の書面を提出
     1829(文政12)01/10寄合町、引田屋卯太郎と遊女其扇が奉行所に呼び出され尋問を受ける
     1829(文政12)01/16シーボルトが奉行所で尋問を受ける
     1829(文政12)09/25長崎奉行所はシーボルトに帰国を命じ再渡来を禁止する
     1829(文政12)11/シーボルトは其扇に1千テール(銀10貫目)、
     指ぬき7つ、ギャマンの皿1つ、小指輪10、髪飾り7つ、櫛1つを贈る
     1829(文政12)12/08シーボルトが出帆帰国
     其扇といねは伯父宅に住み、伯父はいねから10貫目を預かっていたがドクトル・ビュルゲルが取り上げる
     別にシーボルトから寄託の5貫目を加えコンプラ仲間に預け毎月利子として150匁を渡すことに
  08/13暁、長崎村十善寺郷より出火
  08/23台風により未曾有の被害。米をはじめ日用品、材木の価高騰(米164文に)
     奉行所は酒造米を3分の2を減じ、倉庫の米(御払米)1千石を放出して安価に売り物価や貸銀の騰貴をおさえる
     袋町の買入米取扱方の石崎太平次に命じて米を購入迴漕させる
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  八幡神社横に長崎で最初の常設芝居小屋「八幡座」開設。江戸や上方から歌舞伎役者が訪れる
     1943(昭和18)08/09「長崎歌舞伎座」と改称
     1946(昭和21)火事により焼失
     のち教会と幼稚園に

1829(文政12)【仁孝】 己丑(つちのとうし)

  《奉行》大草能登守(09/着)、本多佐渡守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘルマイン・フェリックス・メイラン

  01/07シーボルトが長崎奉行本多佐渡守に日本帰化願の書面を提出
     01/10寄合町、引田屋卯太郎と遊女其扇が奉行所に呼び出され尋問を受ける
     01/16シーボルトが奉行所で尋問を受ける
     09/25長崎奉行所はシーボルト日本追放、帰国を命じ再渡来を禁止する
     11/其扇に1千テール(銀10貫目)、指ぬき7つ、ギャマンの皿1つ、小指輪10、髪飾り7つ、櫛1つを贈る
     12/05蘭船ジャワ号で出帆帰国。幕府、シーボルト事件の関係者の処分を終わる
     其扇といねは伯父宅に住み、伯父はいねから10貫目を預かっていたがドクトル・ビュルゲルが取り上げる
     別にシーボルトから寄託の5貫目を加えコンプラ仲間に預け毎月利子として150匁を渡すことに
  02/13昼、長崎村十善寺郷より出火
  07/20紅毛船が入港
     カロルス・ヒュウベルト・デ・フィレニュウフエ(29)と妻ミイミが乗船。妻の出島上陸は許されず
     長崎人に紅毛女性は珍しく仕立てた遊覧船で紅毛船のまわりに集まり酒肴を持込み太鼓、三味線の鳴物入りで見物
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  12/05シーボルトが国外追放で日本を去った後、鳴滝の敷地は人手に渡る
     1859(安政06)シーボルト再来日の際に買い戻され、長崎滞在中、この地に住む
     のちシーボルトの娘楠本いねの所有になるが売却
     1887(明治20)頃解体される
  シーボルトが帰国するとき500種800株の植物を積み込む
     のちオランダに届いたときには大半が駄目に
     1844(天保15・弘化01)ヨーロッパに移植が成功したもので生き残っていたのは204品種
     シーボルト自身が導入したものはそのうちの129種
     シーボルトが作成した販売カタログには、バイカイカリソウ、イカリソウ、トリカブト、ショウブ、シャクヤク、ヌルデ、
     サルトリイバラ、チャ、ツバキ、ガガイモ、ツルボ、シキミ、サネカズラ、ネズミモチ、カノコユリ、エビネ、シュンランなど
  米価が高騰。1升124文に
  伊東圭介が「泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)」を刊行
     シーボルトから贈られたツユンベリーの著書「日本の植物誌」を基に、
     記載されている植物名をアルファベット順に記し、それに和漢名を付す
     リンネの二名式のラテン名を用いて日本の植物を、日本人の手によって著された最初の本格的な本
  ヘトル役フィツセルが帰帆の際、遊女粧へ贈った品々は…
     絵鏡2枚、引堤1揃、但しコップ10、瓶3ツ、切子蓋物2揃、切子瓶1ツ、コップ2大小、焼物水さし2、焼物筆立て1、
     焼物蓋物2揃、但し匙1ツ、焼物皿18枚、内金絵15枚、焼物深鉢1、硝子板24枚、但し疵つき、針差し1、内糸9巻、
     指貫き1ツ、鋏1挺、針入1ツ、目ほがし1本、乳汁入れ1、皮櫃1、ばんこ1、オランダ沓4足、オランダき水張傘1本、
     硝子瓶8ツ、ブリキあき缶1つ、羊角燈籠1ツ、密漬6壷、オランダたんす1棹

文政年間(1818〜1830)

  長崎書画清潭会の主催により日本国内はもとより、中国、朝鮮に及ぶ文人墨客の書画会が盛大に行なわれる
     清潭会の盟主、八幡町の乙名・木下逸雲、油屋町乙名・村尾萬載、唐人屋敷組頭・水野媚川らによる
     場所は、夏は引田屋庭園内の茶屋「花月」、秋は千歳窩(中の筑後屋の「中の茶屋」/唐人による呼び名)
  長崎公園丸馬場の安禅寺の地にナンキンハゼが4本植えられる
  秋田藩が薬園を設置
  廣島藩が薬園を設置

文化文政年間(1804〜1830)頃

  甲斐田市左衛門が旅人歓送迎の茶屋が始める。樹木が茂り夏は蛍が飛び交う名所で蛍茶屋とよばる
  中国から九斤(キュウキン・別名コーチン、クチン、エーコク)と呼ばれる鶏が輸入

1830(文政13、天保01)【仁孝】 庚寅(かのえとら)


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