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〈江戸時代(11)〉

1789(天明09、寛政01・01/25)【光格】 己酉(つちのととり)

  《奉行》末吉摂津守(06/12新番頭転出)、永井筑前守(直廉・前目付・06/12発令・09/着)、水野若狭守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》J・F・B・V・R・T・D・パルケレール(←08/01→)ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ

  02/05夜、日見村より出火
  03/03暁、古賀村より出火
  03/18暁、茂木村より出火。27戸が焼失
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  諏方神事の奉納踊り用衣服は−切木綿ものを着用するよう布達
  万屋町の貞女マツに銀2枚が賞与される
  桶屋町の光永寺が火災にあい焼失。再建される
     1808(文化01)山門が桶屋町筋から東向きの位置に移される。向陽山と号する
  蘭船が火喰鳥(駝鳥)をもたらす
  松翁軒5代要次郎が砂糖漬を改良。ざぼん漬の製法を習得して売出す
     のち6代幸次郎が寒菊を製作
     1861(文久01)7代熊吉が飾菓子の名手としてその名が知られる
  五島西島(若松町)に疱瘡が流行する
  長崎の家数1万2203(家持1934・借家9530)、人口3万1893(男1万5502・女1万6391)
     1822(文政05)家数1万1466(家持2089・借家9377)、人口2万9681(男1万4375・女1万5306)

1790(寛政02)【光格】 庚戌(かのえいぬ)

  《奉行》水野若狭守(09/着)、永井筑前守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(←11/13→)ペトルス・テオドルス・シャッセ

  07/22浦上でキリシタン19人が密訴により捕らえられ入牢、のち放免。「浦上一番崩れ
  09/04夜、浦上山里村里郷より出火
  09/幕府への長崎会所上納斤1万5千両の他当分免じる
  09/町年寄と宿老の参府を隔年に改める。また江戸諸役人への贈品の額を減らし5分の3に
  09/貿易額が減少したため甲比丹(出島商館長ロムベルフ)に対し江戸参府を5年【4年?】ごとに
  09/オランダ貿易の規模を縮小。オランダ船を2艘から1艘にし支払い銅を100万斤から60万斤に減じる
     幕府献上品と諸役贈答品、奉行その他への八朔銀を減じる
  09/遊女和哥鶴が丸山の遊女屋引田屋の庭園の後方にある稲荷祠に石の鳥居を寄進
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  市民に対し倹約令が出される
     専ら産業に意を用い着るものなど贅沢をしない
     冠婚葬祭の簡素化、諸道具に銀を用いることを禁止、過分の新築、高利の貸付の禁止など
  備籾の制が創立
     1812(文化09)備籾の制が中止に
  天后堂が重修
     1906(明治39)全国の華僑の寄附により再建
  諏方社能舞台板障が白坂なため松桧の彩画を描く
  幕府が長崎町民に対し諭告を発する。冠婚葬祭の簡素化、過分の新築、高利貸付を禁じる
  高谷永左衛門が穴弘法奥之院霊泉寺を創建
     1850(嘉永03)最後の江戸参府が行なわれる。合計166回を数える
  幕府が朱子学を勧め異学を禁ず。寛政異学の禁
  阿蘭陀通詞目付けとなる吉雄耕牛が吉雄流外科の一派を起こす
  雲仙の古湯、寺の馬場に熊蔵が6室を以て旅籠万屋をはじめる
     1915(大正04)5代目勝秋が雲仙で最初の内湯を開始
     それまで雲仙の旅館には内湯の設備がなく湯元経営の共同浴場(延暦湯)に依存
     内湯は共同浴場からの「湯くみ男」による
     1919(大正08)公園事務所の許可を得て八幡地獄の温泉を引き温泉旅館をスタート

1791(寛政03)【光格】 辛亥(かのとい)

  《奉行》永井筑前守(09/着)、水野若狭守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ペトルス・テオドルス・シャッセ

  03/10出島で誤訳が発覚
     通詞目付吉雄幸作が大通詞楢林重兵衛、小通詞西吉兵衛ととも放役(免職)、5年間の蟄居(謹慎)を命じられる
     幕府は主要輸出品の銅の減少を理由に寛政半減商売を打ち出す…
     のちオランダ船入港2隻を1隻に、銀の取引量1250貫目を700貫目に
     さらに銅の取引量90万斤を60万斤にとほぼ半減の方針を下す
       吉雄らは故意にその半減の趣旨を正確にオランダ商館に伝えていなかった…というもの
     他にも大通詞2人、小通詞2人、小通詞並1人も連座し50日の押込に処せられる
     阿蘭陀通詞幹部のほとんどを巻き込んだ大事件に発展
  04/長崎奉行、水野若狭守訓令
     1)丸山町、寄合町の芸子等の衣類、櫛、簪等が甚だ華美で不埒である
     申し渡したことを守らなければ直ちに召捕吟味の上咎めを申付ける
     2)地下の者も心得違いをして華美であるから、この様な者も召捕吟味するから専ら質素にする様心掛けねばならない
     ほかに水野若狭守は両奉行の買入れる唐・蘭品のうちの差金で毎年籾米を買入れるよう定める
     江戸の許可を得て永久制に
  07/02諏方神事に歌舞伎に類する舞踊を禁止し、踊り町に対する貸与銀を減らす
     神事町ごとに銀2貫500目の貸与を改め1貫500目とし丸山・寄合両町に支給する4貰目を改め1町2貫500目とする
  07/諏方社大宮司青木永勇が許しを得て別宅の小島八軒屋に薬園を設ける
     長崎代官所より薬種14種をもらって移植。のち栽培不慣れなどのため失敗
  10/08島原一帯が毎日3〜4回の地震に見舞われる
     11/10頃眉山の土石が崩れ落ちるほど揺れる
     1792(寛政04)年が変わりさらに噴火活動は活発になる
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  西築町に籾米貯蔵用の土蔵45坪(148平方米)を建てる
     飢饉の年には迴米も不十分となり町民は飢えに苦しむことを想定し籾米を買入れ貯蔵するため
     1年毎に新・古米を繰り替え飢饉に備える準備をする
     1800(寛政12)10/西築町の籾蔵を新地に移す
  諸山出銅の不足につき唐船定数13艘を10艘とする
  商額銀を2740貫目にする
  御目附井上圖書が長崎会所の監察を主目的とし寛政の布令の実施状況の把握のため長崎に下向
  木鉢浦の石銭御番所が廃止となる
     1715(正徳05)の正徳新令で長崎貿易が縮小。以来、石銭御番所もその効果が薄れたため
  唐船の入港を10隻に制限
  正覚寺の僧観海が正覚寺境内に深廣寺を創建
        1897(明治30)頃片淵の現在地に移転
  スウエーデンに帰国したカール・ペーテル・ツユンベリーが著書「旅行記」の第3巻を発表
     江戸参府の道中や長崎の市政や出島の生活、諏訪祭礼や遊女のことを伝える
     諏訪祭礼のこと
     ○町々の名および紋印を書いた一本の大きな日傘が現れた
     遊女のこと
     1)日本には唐人、紅毛人に開かれている遊女屋がある
     2)遊女を求めたいときは出島にいる日本人に連絡すれば夕方には世話してくれる
     3)遊女は禿(かむろ)を連れてくる
     4)遊女は3日より短く出島においてはいけない。但し1年乃至数年留め置くことは紅毛人の自由
     5)揚代は8匁
     6)遊女は紅毛人から絹の着物、帯、髪飾りなどの贈り物を受ける
     7)キリスト教徒である紅毛人が丸山遊女に接して堕落することは好ましいことではない…

1792(寛政04)【光格】 壬子(みずのえね)

  《奉行》水野若狭守(02/25閉門・06/06赦免・07/01先手鉄砲頭転出)、永井筑前守(閏02/06死去・晧台寺に埋葬)
      平賀式部少輔(貞愛・前目付・03/01発令・06/着)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ペトルス・テオドルス・シャッセ(←11/13→)ヘイスベルト・ヘンメイ

  01/18年が変わりさらに噴火活動は活発になる雲仙普賢祠付近で大噴火がおこる
     02/09穴迫谷から溶岩が噴出し東方に流れ出る
     直接人里に被害を及ぼすほどではなく、流れ出る溶岩の珍しさに人びとが押しかけ、
     ふもとには茶屋ができ、なかには酒宴まで催すありさま
     03/01午後4時頃から大地震により眉山が崩れる
     道には幅1尺あるいは3尺の亀裂が生じ、 家屋は倒壊、家人縁者の消息を探し民衆は右往左往。街中は修羅場に
     03/中地震が収まり避難先から自家へ戻りはじめる
     04/01午後7時頃、大音響とともに2回の大地震に見舞われ、眉山の半分が頂上からふもとまで裂け前海へ崩れる
     眉山の高さが500尺ほど低くなり、崩れた山肌から水が溢れ、海からは津波が押し寄せ、島原市街地は壊滅状態に
     崩れた土石は安徳村北名、 島原村今村名を埋め丘陵をつくり、島原藩は土石により砂漠と化す
     地獄跡火口から噴火、のち北東部から新焼溶岩が噴出し、溶岩流の長さは2粁に
     雲仙岳の北斜面に4粁に及ぶ溶岩が流出。奇岩、巨岩が転石した溶岩流の末端部が焼山となる
     眉山は七面山と天狗山の山峰に分かれ、現在も崩れ山として10万瓲の土砂が崩落する
     3億立方米を超える土砂が人家や田畑を埋め尽くし有明海へ向かって崩れ落ちる
     市中の善法寺前から江東寺付近までの間に地割れが生じ水が吹きだす。長さ10町、幅3〜4町ほどの湖が出現。白土湖
     島原前海に浮かぶ小島59島が、砂質の島は崩壊して暗礁となり31島に減少
     7〜8回発生した津波は島原半島、天草、肥後の沿岸で1万4524人の溺死者がでる。家屋倒壊は1万2千戸に
     結果、島原での死者9535人、傷者707人、斃死牛馬496、 家屋の流失倒壊3347戸を数える
     残りの5千人の死者は肥後の玉名、飽田、宇土と天草方面の住人で「島原大変肥後迷惑」と膾炙される。
     日本最大の噴火災害に。もっとも高い津波は肥後西部で発生した「高波7丈余(21米)」と記される
  02/09夜、浦上山里村中野郷より出火
  閏02/06奉行永井筑前守が没し皓台寺に葬られる
     永井筑前守は善政を行ない市民は父母のごとく慕う
     病にかかると諸社寺に全快を祈願、在留唐人たちも諏方社に全快を祈る
  03/11夜、本籠町の太郎次大徳寺茶屋より出火。類焼はなし
      本籠町・太郎次
  03/23暁、豊後町の後藤久右衛門宅脇小屋より出火。類焼はなし
      豊後町・後藤久右衛門
  06/03暁、本興善町より出火
  06/引田屋の遊女廿巻、早瀬の2名が引田屋庭園の稲荷祠に石灯籠1対を寄進
  09/09渡御。「長崎くんち」が将軍家治七回忌祥月にあたるため日程変更09/13還御
     (1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  09/17老中松平越中守定信の建議により江戸小日向の山屋敷が廃止される
     山屋敷の蔵の中にあるキリシタンからの没収品は神田見付内の多門櫓(たもんやぐら)に移される。俗に不浄倉とも呼ばれる
  09/21夜、浦上山里村中野郷より出火
  09/引田屋の遊女和歌鶴、木々野の2人が引田屋庭園の稲荷祠に石灯籠1対を寄進
  市中の米穀が欠乏。13名に米穀を購入させ肥後、豊後、石見、天草からの上納米2万5500石を迴漕
     うち4400石は欠乏や米価騰貴に備える。1万9千石は長崎会所で購入、地役人の給与や臨時の準備米に
     13人…河内屋九郎右衛門、安川吉左衛門、飛鳥八右衛門、岡村屋惣兵衛、森安茂四郎、矢島要左衛門、
     道幸三次郎、矢島弥左衛門、河内屋勘右衛門、廣島屋儀十郎、林猪三太、松屋太兵衛、河内屋仁右衛門
  カピタンのゲイスベルト・ヘンミイが寄合町油屋の遊女、花の井、京屋の遊女、常葉を出島に呼び入れる
     琴、胡弓、三味線、太鼓、笛など日本の音曲を好んで召使の黒人リューベン・バンシャル・オーノスに演奏を習わせる
  町年寄高島作兵衛や町乙名が立会い「大波戸の砲丸」を公式計測。周り5尺8寸(1.758米)、重さ924斤5合(554.7瓩)

1793(寛政05)【光格】 癸丑(みずのとうし)

  《奉行》高尾伊賀守(信福・前日光奉行・02/24発令・09/着)、平賀式部少輔(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ

  06/08暁、諏訪町より出火
  09/09渡御。「長崎くんち」の日程を変更09/11還御
     (2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  09/09諏方祭礼日を改める
     従来7日・9日・11日に行われていたが7日は将軍の忌日にあたり許しを得て9日・11日・13日に変更
     長崎くんちの日取りは、幕末まで続く
     1868(慶応04)04/25明治維新とともに再び7日と9日に変更
     1875(明治08)諏訪神事の日取りが太陽暦の採用により10/07渡御、10/09還御の3日間に変更される
  09/26夜、頂守岳大神宮殿より出火し焼失
  09/引田屋の遊女、千とせ、花扇、鵲の3人が稲荷社の坂の下手に石の鳥居を寄進
  11/02夜、長崎村十善寺郷より出火
  12/21正午、材木町より出火
  徳川家斉が出島オランダ商館にドンケルスクロク[泳気鐘(潜水器・ケーソン)]を注文
     オランダは自国で造れずイギリスに注文
     1834(天保05)長崎に到着するが日の目を見ないまま出島の倉庫に眠り続ける
     鋳鉄製で重さ4.5瓲、中に2人位腰掛けられ、台船につり下げられて使う
     上部の通気孔からポンプで空気を送り、上部のガラス製円窓から採光
     ダイバーは膝のあたりまで水に浸かりながら海底の様子を調査
     1857(安政04)飽の浦熔鉄所建設が始まり裸島まで埋立てる。工場敷地の周囲を巡らす石垣の基礎工事に使用
     熔鉄所建設の総指揮をとるオランダ海軍技術士官ハルデス中佐が自らケーソンに入る
  島原藩に藩校の「稽古館」が設立する
  初代森竜吉が諫早で森長おこしを創業
     のち4代目が森長四郎を名のり、5代目がこれを襲名。森長おこしの商標がここにはじまる
  福江領内に疱瘡が流行する
  宇田川玄髄がオランダ人ゴルテルの内科書を仮名まじりで訳し「内科撰要」(初編3巻3冊)を刊行
     1810(文化07)全6編18巻が完成

1794(寛政06)【光格】 甲寅(きのえとら)

  《奉行》平賀式部少輔(09/着)、高尾伊賀守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ

  04/10夜、浦上山里村中野郷より出火
  07/23諏方社が奉行高尾伊賀守の命により07/24まで雨乞の祈願を行なう
  09/13諏方社が神事能開催に際し老中松平和泉守の訃報に接し09/15に延期
  10/03浦上山里村本原郷より出火
  閏11/03夜、長崎村小島郷の芝居小屋より出火し焼失
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  阿蘭陀大通詞の本木良永(通称栄之進)が「阿蘭陀地球図説」「平天儀用法」「天地二球用法」など各種の天文学の訳述
     コペルニクス地動説を日本に初めて紹介

1795(寛政07)【光格】 乙卯(きのとう)

  《奉行》高尾伊賀守(02/05普請奉行転出)、中川飛騨守(忠英・前目付・02/05発令・09/着)平賀式部少輔(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ

  07/195月以降の長雨と18・19日の豪雨で彦山、烽火山などから泥水噴出した未曾有の大水害
     床上4〜5尺まで増水。死者5人(男3、女2)。家屋の流失166、全壊39、半壊194。「寛政大水害
     原因のひとつには眼鏡橋(酒屋町橋)が堅固だったため、付近の被害が著しく大きくなった
     多数の橋が崩落、破損
      阿弥陀橋……………………多いに破損
      大井手橋……………………1796(寛政08)05/26仮橋が流失
      編笠橋………………………1796(寛政08)05/26仮橋が流失
      一覧橋………………………1801(享和01)09/22再架
      東新橋………………………1796(寛政08)05/26仮橋が流失
      魚市橋………………………1796(寛政08)05/26仮橋が流失
      袋(町)橋…………………破損のち再架
      本古川町(本紺屋町)橋…1796(寛政08)05/26仮橋が流失
      榎津橋………………………1799(寛政11)11/15再架
      すすき原橋、古町橋………破損
      萬屋町橋……………………少し損じるが往来の妨げはなし
      玉帯橋………………………若干の破損ですむ
  09/11渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/13還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  09/23正午、茂木村本郷より出火。245戸が焼失
  11/唐人の遊女揚代が銀札使用となる
  諏方社本殿に霊元天皇の宸翰(しんかん)を掲げる(神の一字)
     1693(元禄06)に青木永弘に下賜されたものを青木永勇が勅許を得て額仕立てにして奉掲
  ナポレオンがヨーロッパを席捲。オランダがフランスの支配下に入る
     以降、1817(文化14)までバタビアから長崎に派遣されるオランダ船がなくなる
     長崎滞在中のオランダ人たちの生活は難渋を極める

1796(寛政08)【光格】 丙辰(ひのえたつ)

  《奉行》平賀式部少輔(09/着)、中川飛騨守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ

  02/唐人の遊女揚代が銀札及び正銭併用となる
  春田上菊舎尼が44才のとき再来崎。1786(天明06)以来
     唐通事平野善次右衛門に就いて華音(中国語会話)を学び、漢詩の実作を始める
     在崎の中国人と漢詩の応酬をして、才能と度胸の持主であることを示す
     田上菊舎尼の来崎は1786(天明06)の夏に次いで2度目
  04/14夜、長崎村小島郷より出火
  05/26今鍛冶屋町乙名の金子徳次右衛門と古町乙名の掘郁右衛門が神器掛乙名に任命
     三座神輿と各種の神器を修理させる
     神器掛乙名は諏方社吟味役と称し奉行の命により総町乙名の中から選任兼務されていた
     安永、天明年間の頃は中絶。このときこれを再興し2人を選ぶ
     相談相手として総町乙名頭取から諏方社取締掛り乙名を任命する
  05/26〜06/06断続的な長雨と大雨で再び大水害「寛政第2次大水害
     前年の仮木橋など多数の橋が崩落、破損
      大井手橋……………………1804(文化01)09/25公費で再架
      編笠橋………………………1802(享和02)08/08再架
      古町橋………………………1803(享和03)08/09公費で長崎奉行所が架設
      すすき原橋…………………1804(文化01)07/26再架
      東新橋………………………1800(寛政12)09/06銀12貫目の公費負担で石橋を完成
      魚市橋………………………1800(寛政12)11/18石橋が完成
      本古川町(本紺屋町)橋…1803(享和03)07/24銀12貫目の公費で再架
      榎津橋………………………1799(寛政11)11/15銀12貫目の公費で石橋再架
      萬屋町橋……………………1801(享和01)08/28銀12貫目の公費で石橋再架
  08/濱町に大橋が起工
     1797(寛政09)04/23完成
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  井戸を改修して土管を敷設、立山屋敷専用の水樋「狭田(狭畑)水樋」ができる
  東古川町47.4坪と今鍛冶屋町が埋立てられる
  蘭人、諏方社へ砂糖1俵(254斤入)を寄付
     以後慣例となる

1797(寛政09)【光格】 丁巳(ひのとみ)

  《奉行》中川飛騨守(02/12勘定奉行転出)、松平石見守(貴強・前大坂町奉行・03/14発令・09/着)
      平賀式部少輔(09/発・11/22普請奉行転出)、
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ

  03/23在留唐人が諏方社へ参拝
  04/23濱町に大橋(長さ14間、幅3間、無柱)が完成
  禄高わずか1万2千石の五島藩藩主の開拓移住の申込みにより、外海から108人が五島福江島の六方に上陸
     各地に移り住み荒地を開拓
     五島藩は捕鯨の他、産業はなく荒地の開墾に目を向け、労働力の供給源を大村藩に求める
     大村藩はキリシタンの禁制が厳しく信仰を密かに伝えていた外海地方の農民は人口の増加と信仰保持の苦難に悩む
     外海の人は土地を求め大小の島々へ散らばる。住む場所は生活条件の悪い山間僻地のやせ地だが、生活ははるかによい
     信仰に安住できる喜び。隠れキリシタンの帳方(惣頭)、水方(司祭代理)などの組織ができ信仰を継承
     のちぞくぞくと移り住み、その数は3千人に及ぶ
  05/町年寄、久松善兵衛が丸山町乙名、芦刈茂次之助へ問い合わせ
     「地下役人が身分を隠して娘を遊女奉公にだした場合、内々は知っていても奉公させるのか」
     答「身分が分かっていたら断然拒絶して決して抱えない。しかし分からない場合は抱えることがあるかも知れない」
  12/05古賀村より出火。元島原領の杉谷文助が出火の折り衣類9品を盗み売払う入牢
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  丸山遊女のもらい品目にチョクラートの記述

1798(寛政10)【光格】 戊午(つちのえうま)

  《奉行》朝比奈河内守(昌始・前佐渡奉行・05/16発令・09/着)、松平石見守(10/発・12/03勘定奉行兼任)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘイスベルト・ヘンメイ(←07/08→)レオポルド・ウイルレム・ラス

  01/28夜、長崎村高野平郷より出火
  03/06午前1時頃、オランダ屋敷の縫物師紅毛人の部屋から出火
     北東風にあおられ西側を焼き尽くし、甲比丹住家1棟以下、役員詰所2棟、蘭人住家10棟、土蔵3棟などを焼失
     03/07午前10時頃に鎮火
     火元の紅毛人の部屋にいた寄合町、京屋の遊女三河は逃げ場を失い、2階から表通りへ飛び下り負傷
     遊女、三河の召使、禿(かむろ・遊女に仕える10才前後の少女)ます(14)が行方不明に
     救助の船が八方から集まり水門では波止場役が通船、鯨船、番船、唐船の杉板まで集める
     堺回船中からは伝馬船を差出し都合270艘ほども集まり、町々の火消しは真先に駆け付ける
     長崎奉行松平石見守は役人を引き連れ現場にいき肥前、肥後、筑前、筑後、薩摩、大村の長崎蔵屋敷聞役も出馬
     沖の番所からは黒田美作が飛船で100人余りと鉄砲20挺を持参、深掘氏も飛船で鉄砲を持参
     紅毛人16人は西役所に避難。夜、焼け残った建物に戻る
     禿ますは焼死体で発見。抱主の京屋茂八は検使、滝沢氏の許可を得て引き取り親元へ渡し香華料として銭25貫文を与える
     商館長ヘイスベルト・ヘンミーは江戸参府で不在のため火事処理の事務は留守役の商館員補ポシェットが行なう
     04/16オランダ側の速やかな建物再建の願いがかない出島町人に銀を貸与して再建に着手
     蘭人は一時、西役所に避難
     03/07新橋町の善七が焼跡にて銀地がねを拾い隠し持つ
     町内の宇兵衛と銀屋町の広八をたより89匁9分を銭17貫340文にて売払い1貫文は広八に。宇兵衛は売払いの世話をする
      新橋町・善七03/03入牢05/04市中郷中払
      新橋町・宇兵衛03/03入牢
      銀屋町・広八03/03町預
     1808(文化05)02/27カピタン部屋再建工事に着手
     1809(文化06)01/10カピタン部屋と附属家屋が完成
     1809(文化06)01/13オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが落成披露パーティを開く
     阿蘭陀通詞や長崎奉行の役人など多数を招く
  04/29在留唐人が諏方社へ参拝
  06/08出島商館長のヘイスベルト・ヘンミーが江戸参府の帰り東海道の掛川宿で急死
     翌日掛川の天然寺に葬られる
     乱脈な経理や密貿易の発覚を恐れての服毒自殺とオランダ人は噂。急な死は謎に包まれたが、直接の死因は胃病
  06/10夜、高浜村より出火
  06/23夕方、寄合町の役場に皓泰寺の僧、祖能から届出
     境内の耕雲庵で無宿の僧と寄合町筑後屋の遊女花園が相対死(心中)を遂げているとのこと
     町役人が皓泰寺と相談の上、市中取締乙名金子徳右衛門へ知らせ内証にして欲しいと頼むが、金子は目安方に伺う
     月役の野口善作が奉行所へいくと届出をだすようにとのこと
     調べてみると…
     06/23午後4時頃、丸山の揚屋、釜屋はる方から寄合町の遊女屋、筑後屋平右衛門へ遊女花園を呼びにくる
     遣手つねが花園を連れて釜屋へいくと、見知った出家がおり挨拶をして帰る
     06/23暁方、釜屋から2人の姿が見えぬと筑後屋へ知らせが入り驚いて方々を探す。暮頃、相対死の知らせが入る
     皓泰寺の耕雲庵の脇手の小屋で2名が脇差、小柄の小刀で喉を突いて死亡していた
     06/24奉行所から検使がきて現場検証をする
     筑後屋平右衛門、遣手つね、耕雲庵主、東岫、下人清蔵、丸山町釜屋はる等を訊問し口書を差出させる
     僧は長崎生まれで随苗といい、皓泰寺では迷惑であるので無宿の僧と申し立て奉行所もそのままにしていた
     随苗の死体を引き取りたいと申し出たが却下される
     06/24夜、男女の死体、脇差、遊女の衣類、簪等が牢屋敷の牢守へ引き渡される
     筑後屋では麹屋町に住む花園の母親へ香典として銭10貫文を贈る
  10/17暴風のため高鉾唐人ケ瀬でオランダ船が座礁。輸出銅と樟脳を多量に積んでおり沈没
     1799(寛永11)01/周防国の村井喜右衛門が引き揚げる
  西丸小姓の遠山金四郎景晋が書院番頭の松平忠明に随い蝦夷へ渡る
     遠山金四郎景晋は江戸の幕臣、遠山金四郎景元の父
  志築忠雄が「暦象新書」を刊行。ニュートンの門弟ジョン・ケイルの天文書の蘭訳本について記述
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町

1799(寛政11)【光格】 己未(つちのとひつじ)

  《奉行》松平石見守(09/着・11/25死去・晧台寺に埋葬)、朝比奈河内守(09/発)、
      肥田豊後守(頼常・前勘定吟味役・12/24発令)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》レオポルド・ウイルレム・ラス

  04/27天草郡牛深に天草御番所(遠見番所、見張番所)が開設
     野母番所よりも早く異国船を発見することが目的
     任務はまた異国船の漂着、抜荷の情報の収集、煎海鼠・干鮑など輸出用俵物の出荷督促
     1868(明治01)04/06遠見番所の廃止の達しがでる
  08/17昼、長崎村西山郷より出火。26戸が焼失
     元大村領長与村の無宿要助は出火の折り味噌1樽を盗み、新大工町の伊兵太方へ持ち運び売払いを相談
      要助08/21入牢09/0450敲、市中郷中払
      新大工町・伊兵太押込10日
  08/18朝、長崎村西山郷より出火。焼失3戸。諏方社桟敷用道具庫が焼失
  11/15石橋榎津橋を銀12貫目の公費で石橋再架
     1901(明治34)06/石橋をフラットトラス構造に改め賑橋に改名
  12/19暁、小川町のはる宅裏小屋より出火。類焼はなし
      小川町・はる
  12/24夜、炉粕町の武八宅裏湯殿より出火。類焼はなし
      炉粕町・武八
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     船津町の川船が奉納される
  諏訪神社の「くんち」に樺島町が初めて「コッコデショ(堺壇尻)」を奉納
     長崎貿易品のうち上方に運ばれる品々は糸荷廻船によって運送。糸荷船を仕出すのは堺船が特に多数
     往時、樺島町には堺船頭連・水夫の定宿があり、樺島町に「コッコデショ」を伝える
  西山郷の徳川家霊屋の安禅寺、伊良林郷大音寺の防衛のため町年寄が町火消の者を率いて詰める
  ヘンドリック・ドゥーフがオランダ商館書記として来日
     1803(享和03)05/荷倉役に昇進したドゥーフが出島商館長に就任
     1808(文化05)08/のフェートン号事件、1813(文化10)06/の出島占領計画を粘り強い交渉により危機を脱する
     オランダがナポレオン支配下に苦しんだ時代、オランダ商館が守られ、オランダ政府はもとより江戸幕府も賞賛

1800(寛政12)【光格】 庚申(かのえさる)

  《奉行》松山惣右衛門(01/28発令・長崎奉行事務摂理・09/05帰府・1815(文化12)伊豫守直義として長崎奉行に)、
      朝比奈河内守(01/28新番頭転出)、肥田豊後守(09/着)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》レオポルド・ウイルレム・ラス(←07/17)(07/16→)ウイルレム・ワルデナール

  04/09諏方社が奉行の要請により04/11まで市中安全の祈祷を行なう
  05/1隻の外国船「エンペラー・オブ・ジャパン」がオランダの旗を掲げ貿易を試みようと入港
     船長のアメリカ人スチュワートは1昨年、オランダ東インド政庁に雇われ出島に来航した船の船長で行方不明だった
     積んできた品は没収、商館長が脇荷(個人貿易)として売却。船長のスチュワートは取り調べのためバタビアへ
  08/26夜、長崎村片淵郷より出火
  09/06新橋町〜本大工町の石橋東新橋を銀12貫目の公費負担で完成
     1982(昭和57)07/23大水害で流失ののち再架
  09/08昼、浦上山里村稲佐郷より出火
  09/諏方社、奉行肥田豊後守の寄付銀3貫目をもって総門前の長坂両側の練塀を石垣に改める
  09/京都人笹尾七郎兵衛が諏方社御神事図と大薩摩風流鯨などの踊り図を京都で出版
     のち長崎絵の出版物が次第に盛んになる
  09/遊女木々枝、姫菊、唐琴の3名が引田屋の庭園の稲荷祠に太鼓を寄進
  10/長崎奉行肥田豊後守が市内生活困窮者の老人や廃疾病者300余名に各銀20目から30目を与える
  10/西築町の籾蔵を新地に移す
  11/18今魚町〜諏方町の魚市橋が石橋で完成
     1810(文化07)03/06崩流
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  本五島町舟と深堀舟のペーロンが競漕しての喧嘩により死傷者を出す
     1801(寛政13、享和01)禁止令が出される

寛政年間(1789〜1801)

  中国から唐人(カラヒト・別名髭鶏)と呼ばれる鶏が輸入
  上五島野崎島の野首に大村から2家族が移住
     禁教令廃止後木造の教会を建てる
     1908(明治41)野首地区で18戸の信徒が結束し本格的な煉瓦造り平屋(140平方米)の野首教会が完成
     鉄川与助による初めての煉瓦造りで鐘塔は持たない。正面前面を玄関とする
     正面柱頭の頂部などには城壁の物見櫓のような装飾物、正面両脇の頂部には百合の紋章に似た装飾物を持つ
     1971(昭和46)野首地区の住人が全員移住し野崎島が無人島に
     のち野首教会が荒廃する。小値賀町が廃校を利用して研修施設をつくり教会を整備
  上五島中道島の江袋地区に彼杵半島の神ノ浦から夫婦が移住
  福岡藩が薬園を設置

1801(寛政13、享和01・02/05)【光格】 辛酉(かのととり)

  《奉行》成瀬因幡守(正定・前大坂町奉行・04/03発令・09/着)、肥田豊後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ウイルレム・ワルデナール

  04/22奉行肥田豊後守が疫病流行で沈滞した空気を一掃するために、諏方社流鏑馬場で流鏑馬奉納を催す
     この日飛び入りの者も多く在館唐人まで見物し大にぎわい。疫病は次第に衰える
  08/28萬屋町(旧本鍛冶屋町)〜築町の石橋万(屋)橋が銀12貫目の公費で石橋再架
  08/「ケンペル日本史」の付録第6章がオランダ通詞志筑忠雄により翻訳
     幕府の外国政策を初めて「鎖国」と訳す。「鎖国」は志筑の造語
  09/22桶屋町〜本紙屋町の石橋一覧橋が代銀12貫目の公費で再架
     1982(昭和57)07/23大水害で流失ののち再架
     1915(大正04)コンクリート橋に架け替え
  秋五島黒瀬浦に異国船が漂着、長崎港に送られる
     乗組員のうち女は4人。あんぼん女1人、ちもうる女3人で出島へ上陸
     1802(享和02)紅毛船マチルダ・マリア号で帰帆
     中国人は戌8番船、9番船に便乗して帰帆
     船長、船員はジャカルタで取調べられ殺人犯であることが判明、マカオに送られる
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  凶作に備えて凶慌準備の法を設ける
  石見からの上納米は遠距離で運賃その他がかさみ肥前松浦郡と肥後国日田・玖珠の両郡から入れることに
     4千石のうち肥前松浦郡から1500石、肥後国日田・玖珠の両郡から2500石
     うち400石が一般に売出される

1802(享和02)【光格】 壬戌(みずのえいぬ)

  《奉行》肥田豊後守(09/着)、成瀬因幡守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ウイルレム・ワルデナール

  07/08昼、長崎村小島郷より出火
  08/08今博多町〜本紙屋町の編笠橋を公費で長崎奉行所が再架
     1810(文化07)03/06大水で欄干が破損
  09/11渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/13還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町

1803(享和03)【光格】 癸亥(みずのとい)

  《奉行》成瀬因幡守(09/着)、肥田豊後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ウイルレム・ワルデナール(←11/14→)ヘンドリック・ドゥーフ

  04/長崎奉行所訓令
     大阪からの女芸者が多く遊女屋の営業に支障をきたし
     到着届は丸山遊女屋で引請保証をしなければ引き出すことはできないとする
     年間に幇間とあわせ30人くらいが滞在
  07/08アメリカ船が「長崎丸」の船名板をつけ長崎に来航、通商を求めるが、幕府は拒絶し退去させる
  07/24石橋の本古川町(本紺屋町)橋が銀12貫目の公費で再架
     1912(明治45)02/03鉄筋コンクリート橋に改築、常盤橋に改名
  08/09古町〜本紙屋町に石橋の古町橋を公費で長崎奉行所が架設
     1982(昭和57)07/2大水害で流失ののち再架
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町

1804(享和04、文化01・02/11)【光格】 甲子(きのえね)


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