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〈江戸時代(10)〉

1764(宝暦14、明和01・06/02)【後桜町】 甲申(きのえさる)

  《奉行》大岡美濃守(06/12死去・大音寺内影照院に埋葬)、石谷備後守(08/着)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヤン・クランス(←10/24)(10/25→)フレドリック・ウイルレム・ウィネッケ

  01/09夜8時頃、寄合町の遊女屋筑後屋へ恵美酒町の善五郎が来て2階へ上がり遊女里見を呼び入れる
     01/10朝08時頃、下女タツがうめき声を聞きつけ部屋に入ると善五郎と里見が血に染まり倒れている
     家内の人に知らせ大騒ぎに。筑後屋は町乙名芦刈善太夫へ届け、町乙名から奉行所へ報告
     町役人が現場へ到着。里見は死んでいたが善五郎は息があり医師草野文仙を呼んで診察
     草野は人参湯などを服用させるが午前10時頃死去
     草野は検使役山本段次兵衛へ口上書を書いて報告。奉行所からは3人の役人が出張
     筑後屋猪太郎、下女タツ、禿(かむろ)トメ、遊女梅ケ枝、小萩、大野と向こう3軒両隣の者まで訊問、口書きを提出
     善五郎と里見の死体、善五郎の脇差1腰、は寄合町乙名、芦刈善太夫と同町組頭、山口政平次が預かり預かり証文を書く
     里見は島原領日見村の者で旅人掛町年寄、高島四郎兵衛へ届け出
     01/11奉行所に乙名芦刈善太夫と組頭4名が出頭
     2名の死体は西坂の刑場へ取捨て
     01/12死体取捨届が乙名から奉行所へ提出
  03/28未三番船の漕者、林岩弟が帰帆
     寄合町門屋抱えの遊女沢山は別離の悲しみにたえ切れず唐人屋敷の林岩弟の部屋で縊死心中
     役人は同情し西坂の刑場に取捨てとなった沢山の遺体を内々で親元に引き渡す
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、平戸町、
     八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  異国船入港を知らせる斧山(烽火山)の番所が一時的に閉鎖
     1808(文化05)10/斧山の番所が再開
     1815(文化12)10/斧山の勤番が廃止
  第11回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙●(日編に嚴)、総人数477。使命は徳川家治の将軍職就任祝い
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1811(文化08)第12回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は金履喬、総人数328。使命は徳川家斉の将軍職就任祝い
  五島の福江・有川・宇久で疱瘡が流行

1765(明和02)【後桜町】 乙酉(きのととり)

  《奉行》新見加賀守(正栄・前小普請奉行・01/26発令・08/着)、石谷備後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》フレドリック・ウイルレム・ウィネッケ(←11/07)(11/08→)ヤン・クランス

  01/24夜、西浜町より出火
  08/豊後町の制札場(高札場)を八百屋町に移す
  10/10夜、興福寺山上廬庵より出火。焼失
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  町火消に飛水筒8個を配布
  豊前米、石見米が長崎に迴漕されることになり格納するため新地に米蔵をおく
     総坪数372坪、土蔵3軒
  吉雄耕牛が甲比丹とともに江戸参府、平賀源内に蘭学を指導する
  馬込郷船蔵の構内の岸を穿ち港外木鉢郷と稲佐鯨洞(現旭町)の煙硝蔵が移される

1766(明和03)【後桜町】 丙戌(ひのえいぬ))

  《奉行》石谷備後守(09/着)、新見加賀守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヤン・クランス(←10/31)(11/01→)ヘルマン・クリスティアン・カステンス

  02/13亥刻、酒屋町より出火
  02/27夜、四つ時に西古川町の林田あい・林田まさ宅の風呂場の火元不始末により出火
     のち大風で風向きが変わり本古川町、今鍛冶屋町、出来鍛冶屋町、今籠町、
     今石灰町、新石灰町、油屋町、榎津町、万屋町、東浜町を焼き尽くす。西古川町、西浜町、銀屋町の過半数を焼く
     16町、2794戸を焼失する大火災に
     罹災者には米、銭を与え仮屋33棟を造って収容
     市内の富豪も米銭を寄付
     村山治兵衛は米300俵、青木左馬は苫1200枚、筵600枚、飛鳥八右衛門ら14人は銀26貫目を寄付
     川副大恩は無利子で銀52貫200目、上田嘉右衛門は低利で銀63貫目を貸与
     奇特の人々に奉行所はそれぞれ麻上下ひと揃え或いは衣服を与え賞する
     類焼地役人にも貸与が許可
     消防尽力者は表彰を受け、町乙名は各麻上下ひと揃い、消火夫には各銭200文が与えられる
      西古川町・林田あい押込30日
      西古川町・林田まさ
     出火の折り、隣家の者がその場に駆けつけ消火もせず、駆けつけても消火に尽くさず
      西古川町・安留勘兵衛、西古川町・小柳久平次、西古川町・大薗長右衛門、榎津町・櫛屋市太郎、榎津町・利三次
     出火を発見し消防のため水をかけるが未熟なため大火に
      西古川町・清助叱、西古川町・金次郎
  05/07夜、八つ半に大黒町の林良迪宅で焚火の不始末により出火
     西中町に延焼し肥後屋敷門長屋その他33戸を焼失
      大黒町・林良迪押込30日
     以下5人は火事を発見したにもかかわらず消火を怠る
      大黒町・竹内政兵衛、大黒町・竹内弥兵衛、大黒町・西原きん、大黒町・宮崎弥蔵、大黒町・田中時之助ともに叱
     上田嘉左衛門が銭25貫文を大黒町の災民に寄付
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、
     東上町、下筑後町、西中町、東中町、豊後町、外浦町、島原町、本下町
     火事にあった油屋町、今石灰町、今籠町、今鍛冶屋町の踊町を免じる
     新興善町、今下町、西築町、東上町を繰り上げ。3年間で踊町を調整
  高野平郷の宝樹山現応寺が大火により焼失
     1773(安永02)市中の町々、人々の寄付により再建
  今籠町の時を報せる鐘撞所が豊後町(高札跡地・俗称鐘の辻)に移転。鐘つきをはじめる
  萩藩が薬園を設置
  浚渫費捻出のため木鉢浦に石銭御番所を設置
     中島川、浦上川から流れ込む土砂が河口や港沿岸に堆積
     船舶の運航に支障をきたし年々浚渫を繰り返し費用がかさんでいた
     03/13港内の浚渫が行われる
     1791(寛政03)廃止となる
     1715(正徳05)の正徳新令で長崎貿易が縮小。以来、石銭御番所もその効果が薄れたため
  有馬村の願心寺住職が島原一揆で犠牲となり散乱した骨を敵味方なく拾い集めて供養。骨かみ地蔵を建てる
  出島オランダ商館長にヘルマン・クリスチャン・カステンスが赴任。出島に日時計を設置

1767(明和04)【後桜町】 丁亥(ひのとい)

  《奉行》新見加賀守(08/着)、石谷備後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヘルマン・クリスティアン・カステンス(←10/20)(←10/21)ヤン・クランス

  04/07夜、島原町より出火。大村町に延焼、21戸が焼失
  05/長崎奉行の命により町名の本「ほん」をすべて「もと」と公称するようになる
  「長崎くんち」(4)[1766(明和03)の火事調整]…丸山町、寄合町、東築町、桜町、
     小川町、内中町、西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、南馬町、大黒町、中紺屋町
  稲佐鯨洞の煙硝蔵跡に鋳銭所・稲佐銭座ができる
     鋳造された銅銭の表に「寛永通宝」、裏にマス型の上に「長」の字が刻まれた
     1773(安永02)までの7年間に23万1千貫が造られる

1767(明和04)頃

  出島に玉突き台(ビリヤード)がオランダから伝来

1768(明和05)【後桜町】 戊子(つちのえね)

  《奉行》石谷備後守(09/着)、新見加賀守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヤン・クランス

  02/02夜、南馬町より出火。出来大工町、大井手町、今博多町に延焼。散使長屋その他339戸と青光寺を焼失
     罹災者に米銭を施与。村山和由、安川吉左衛門、上田嘉左衛門らが300貫文をだし罹災貧民245人に施す
  11/22辰中刻、唐人屋敷より出火。2棟、観音堂の籠所1棟、獄屋を焼失
  12/03夜、油屋町より出火
  12/08長崎村高野平郷より出火
  「長崎くんち」(5)[1766(明和03)の火事調整]…油屋町、今石灰町、今籠町、
     今鍛冶屋町、新石灰町、東浜町、東古川町、本古川町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  中島真兵衛が御薬園掛兼任、薬種目利頭取となる

1769(明和06)【後桜町】 己丑(つちのとうし)

  《奉行》新見加賀守(08/着)、石谷備後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヤン・クランス(←11/08)(11/09→)オルフェルト・エリアス

  01/02暁、出来大工町より出火
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町

1770(明和07)【後桃園】 庚寅(かのえとら)

  《奉行》石谷備後守(06/17長崎奉行兼任を解く)、
      夏目和泉守(信政・前普請奉行・06/17発令・08/着)、新見加賀守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》オルフェルト・エリアス(←11/16)(11/17→)ダニエル・アルメノールト

  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
     出来鍛冶屋町の傘鉾がつくられる【1780(安永09)?】
  平賀源内が田沼意次の知遇を得て2度目の長崎遊学
     通詞・西善三郎から壊れたエレキテル(摩擦起電器)を入手
     また外国人から「雲中飛行船」の図を購入し、田沼主殿頭に贈る
     のち長崎で入手した起電機をヒントにエレキテルやコンパスを発明

1771(明和08)【後桃園】 辛卯(かのとう)

  《奉行》新見加賀守(09/着)、夏目和泉守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ダニエル・アルメノールト(←11/09)(11/10→)アレント・ウイルレム・フェイト

  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、平戸町、
     八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町(相撲踊)、西浜町、銀屋町、諏訪町
     島津重豪が長崎見学「くんちの薩摩踊を見られないのが心残り」
  長崎山・清水寺(真言宗霊雲寺派)の石門が建立
  長崎の家数1万0143、人口2万9897
     1779(安永08)家数1万2096(家持1953・借家1万0143)、人口3万0006(男1万4638・女1万5368)

1772(明和09、安永01・11/16)【後桃園】 壬辰(みずのえたつ)

  《奉行》夏目和泉守(09/着)、新見加賀守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト(←11/03)(11/04→)ダニエル・アルメノールト

  07/02東渕山雲龍寺の紫藤が大風により折れる。寺も衰微
     東渕山雲竜寺は桜馬場町観音堂から蛍茶屋方面一帯の山岡氏の荘に建つ。初夏に咲く紫藤が有名
     1868(明治01)廃寺となる
  09/22酉刻、船津町より出火。小家6軒を延焼
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
     桶屋町の傘鉾垂れ・十二支刺繍が作られる
  唐船主魏之●(えん・王へんに炎)の曾孫で明楽の名手の魏君山(鉅鹿民部)が唐通事の家督を継がず上京。明楽の師範に
     酒井雅楽頭の扶持を受け河原御殿泉水で船楽を奏する
  長崎総町80か町、人口2万9574人
     江戸町…414、出島町…052、外浦町…176、島原町…141、大村町…179、平戸町……170、本博多町……233、堀町……133、
     新町……144、本興善町169、後興善町219、新興善町253、豊後町…234、樺島町……361、金屋町………232、今町……408、
     本五島町383、浦五島町240、船津町…312、恵美須町613、大黒町…559、西中町……544、西上町………365、下筑後町258、
     桜町……237、内中町…238、小川町…286、東中町…422、東上町…431、上筑後町…273、八百屋町……276、勝山町…414、
     炉粕町…381、北馬町…312、南馬町…258、新大工町705、伊勢町…375、出来大工町478、大井手町……350、今博多町351、
     古町……338、桶屋町…481、八幡町…601、本紙屋町416、麹屋町…549、今紺屋町…417、中紺屋町……250、引地町…209、
     本大工町600、今魚町…521、酒屋町…331、袋町……323、本紺屋町175、今下町……180、本下町………400、材木町…300、
     西築町…331、東築町…329、新橋町…293、諏訪町…361、磨屋町…314、銀屋町……553、西古川町……370、東古川町307、
     本古川町407、榎津町…502、万屋町…666、西浜町…523、東浜町…563、今鍛冶屋町338、出来鍛冶屋町309、今籠町…339、
     今石灰町312、新石灰町316、油屋町…608、本石灰町715、丸山町…517、寄合町……838、船大工町……658、本籠町…435

1773(安永02)【後桃園】 癸巳(みずのとみ)

  《奉行》夏目和泉守(06/12死去・本蓮寺に埋葬)、桑原能登守(盛員・前目付・07/18発令・08/着)、新見加賀守(08/着)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ダニエル・アルメノールト(←11/22)(11/23→)アレント・ウイルレム・フェイト

  09/18夜、浦上山里村中野郷より出火
  12/11夜、豊後町の堺屋新十郎宅の下女が小用のため明りを灯し、途中火の先が落下し出火。新町に延焼し数10戸が焼失
      豊後町・堺屋新十郎宅下女押込
     罹災者に米銭を給与
     以下2人は出火の折り片づけ手伝いをした際、預かった道具を売払って銭にかえる
      東古川町・武兵次入牢
      東古川町・源太郎手鎖町預
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  高野平郷の宝樹山現応寺が市中の町々、人々の寄付により再建
     1819(文政02)一の鳥居が風頭石で建立
  岩屋山神通寺に「密蔵界」と刻まれた石造アーチ門を建立
     のち寺運衰微。寺観の壮大を誇った女人禁制の一大霊場も廃滅
     1868(明治01)岩屋神社に

1774(安永03)【後桃園】 甲午(きのえうま)

  《奉行》新見加賀守(09/発・11/26作事奉行転出)、桑原能登守(在勤)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト(←11/10)(11/11→)ダニエル・アルメノールト

  09/18夜明、浦上山里村中野郷より出火
  前野良沢・杉田玄白・中川順庵・桂川甫周らが「解体新書」を刊行
     人体解剖学を初めて日本に紹介
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町

1775(安永04)【後桃園】 乙未(きのとひつじ)

  《奉行》柘植長門守(正寔・前佐渡奉行・06/08発令・09/着)、桑原能登守(10/発・11/17作事奉行転出)、
      久世丹後守(広民・前浦賀奉行・12/03発令)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ダニエル・アルメノールト(←10/28→)アレント・ウイルレム・フェイト

  03/03夜明、酒屋町とよ宅より手燭の火先が落ち出火。風が強く消防困難で大火に。51戸が焼失
      酒屋町・とよ押込10日
     銀屋町の嘉三郎は駆けつけ世話をし風呂敷を預かり質入れしたことが発覚入牢
     罹災者に米銭を給与
  03/09森崎社の神事能復活。1707(宝永04)の廃止以来68年ぶり
  08/14《07/19》スウエーデン人カール・ペーテル・ツユンベリーがオランダ商館医として来日
     【07/15?】
     蘭通詞たちに医学・薬学・植物学等を教える。出島3学者の1人
     東インド会社の外科医の資格で出島オランダ商館医として2年間滞在
     江戸参府の時、日本の医師や天文方に大いに影響を与える
     幕府医官桂川甫周と小浜藩医中川淳庵が特に熱心で物理学・経済学・植物学・内科・外科学等について学ぶ
     植物に関する標本や知識と引き換えに西洋科学、医学や博物学の知識を与える
     1775(安永04)約1年間気温の観測を1日4回行なう。また長崎郊外で植物を採集することを許される
     1776(安永05)04/27《03/10》江戸参府に随行し、江戸に到着
     長崎屋では桂川甫周、中川順庵、吉雄耕牛らに医学上の指導
     「解体新書」訳出の桂川、中川を特に愛弟子と認め、メスや外科用具を譲り臨床外科教育を教授
     1776(安永05)長崎の植物300種、箱根の植物62種、江戸の植物43種など、合計812種の植物標本を採取
     1776(安永05)10/23わずか1年の滞在ののち長崎を出帆帰国
     日本滞在中、日本植物の研究を行ったほか、日本の政治・経済・学芸に関心をもつ
     のちスウェーデンに帰国後、師リンネの後のウプサラ大学植物学教授を経てこの大学の学長となる
     1784(天明04)日本から持ち帰った大量の標本をリンネの体系にしたがって分類
     「日本植物誌」を著す
     日本の植物を新分類学の立場からはじめて体系的に扱った学術書で、わが国近代博物学の黎明期における記念碑的著作
     報告された日本産植物は総計401属812種で、そのうち26属390種はツユンベリーによって発見・命名された種族
     トリカブト、カワラヨモギ、オケラ、スイカズラ、ゲンノショウコなど、日本の薬用植物を分類
     1791(寛政03)帰国後の著書「旅行記」の第3巻で江戸参府の道中や長崎の市政や出島の生活、諏訪祭礼や遊女のことを伝える
     諏訪祭礼のこと
     ○町々の名および紋印を書いた一本の大きな日傘が現れた
     遊女のこと
     1)日本には唐人、紅毛人に開かれている遊女屋がある
     2)遊女を求めたいときは出島にいる日本人に連絡すれば夕方には世話してくれる
     3)遊女は禿(かむろ)を連れてくる
     4)遊女は3日より短く出島においてはいけない。但し1年乃至数年留め置くことは紅毛人の自由
     5)揚代は8匁
     6)遊女は紅毛人から絹の着物、帯、髪飾りなどの贈り物を受ける
     7)キリスト教徒である紅毛人が丸山遊女に接して堕落することは好ましいことではない…
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  カステラ本家・福砂屋が6代目市良次の頃、引地町から市中の発展と共に船大工町に移転

1776(安永05)【後桃園】 丙申(ひのえさる)

  《奉行》久世丹後守(08/着)、柘植長門守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト(←11/22)(11/23→)ヘンドリック・ホッドフリート・デュルコープ

  04/1諏方社、将軍家治の日光社参に際し社頭で武運長久祈願を行なう
     04/22まで
     04/27《03/10》出島オランダ商館医のカール・ペター・ツユンベリーが江戸参府に随行し、江戸に到着
     長崎屋では桂川甫周、中川順庵、吉雄耕牛らに医学上の指導
     「解体新書」訳出の桂川、中川を特に愛弟子と認め、メスや外科用具を譲り臨床外科教育を教授
  04/27《03/10》出島オランダ商館医のカール・ペター・ツユンベリーが江戸参府に随行し、江戸に到着
     長崎屋では桂川甫周、中川順庵、吉雄耕牛らに医学上の指導
     「解体新書」訳出の桂川、中川を特に愛弟子と認め、メスや外科用具を譲り臨床外科教育を教授
     のちツユンベリーが植物標本を採取
     長崎の植物300種、箱根の植物62種、江戸の植物43種など、合計812種の植物標本
     10/23ツユンベリーがわずか1年の滞在ののち長崎を出帆帰国
     日本滞在中、日本植物の研究を行ったほか、日本の政治・経済・学芸に関心をもつ
     のちツユンベリーがスウェーデンに帰国後、師リンネの後のウプサラ大学植物学教授を経てこの大学の学長となる
     1784(天明04)日本から持ち帰った大量の標本をリンネの体系にしたがって分類
     「日本植物誌」を著す
     日本の植物を新分類学の立場からはじめて体系的に扱った学術書で、わが国近代博物学の黎明期における記念碑的著作
     報告された日本産植物は総計401属812種で、そのうち26属390種はツユンベリーによって発見・命名された種族
     トリカブト、カワラヨモギ、オケラ、スイカズラ、ゲンノショウコなど、日本の薬用植物を分類
  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  愛宕山祭礼のとき、市中から米ひきをした際、萬屋町の旅館呼子屋に滞在の鯨組主人の中原甚六が鯨引きを勧める
     萬屋町の諏訪神社大祭「おくんち」の奉納踊りとして採用
     1778(安永07)くんち奉納踊りに、初めて鯨引き(俗に鯨の潮吹き)がでる
  福江に麻疹が流行する

1776(安永05)頃

  矢上地方で人参(西洋人参)の栽培が始まる

1777(安永06)【後桃園】 丁酉(ひのととり)

  《奉行》柘植長門守(08/着)、久世丹後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》ヘンドリック・ホッドフリート・デュルコープ(←11/11)(11/12→)アレント・ウイルレム・フェイト

  04/01酒屋町より出火
  04/24夜、長崎村伊良林郷の平右衛門借家きん宅より出火。26戸を焼失
      伊良林郷・きん村預、差免のち八幡町・倅勘六押込
     長崎村伊良林郷の平右衛門借家多三太が出火の折り、きんらと火元を論争し消火に精を出さず
  06/28浦上山里村里郷より出火。14戸焼失
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町

1778(安永07)【後桃園】 戊戌(つちのえいぬ)

  《奉行》久世丹後守(09/着)、柘植長門守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト

  07/27出島商館長として赴任するはずのデュールコープがオランダ船フィス・テスピック号の船上で急病のため死亡
     【ケンドリック・ガッドフリード・ダークープ(42)のこと?】
     08/09密封保存された遺体が長崎に到着【08/15?】
     悟真寺での葬儀は様々な模様の旗が風に翻る中、葬儀は盛大に執り行なわれオランダ人の同胞は喪服で正装して参列
     遺体はオランダ人墓地28番に埋葬
     埋葬後、墓前で仏教の僧侶が経を唱える
     新カピタンへんでれき・でゆるこうふの名で風説書が幕府に提出される
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     万屋町の「鯨引き(鯨潮吹き)」がはじめて奉納される
  蘭船が日本に初めて火喰鳥(駝鳥)を運んでくる

1779(安永08)【光格】 己亥(つちのとい)

  《奉行》柘植長門守(09/着)、久世丹後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト(←11/28)(11/29→)イサーク・ティチング

  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  ティチングが出島に商館長として5回、6年赴任。帰国後の著書「日本図説」[1822(文政05)]で諏訪祭礼を伝える
  平戸藩9代藩主清(静山)のとき藩校「維新館」が設けられる
  薩摩藩が薬園を設置
  長崎の家数1万2096(家持1953・借家1万0143)、人口3万0006(男1万4638・女1万5368)
     1788(天明08)家数1万2272、人口3万2364

1780(安永09)【光格】 庚子(かのえね)

  《奉行》久世丹後守(09/着)、柘植長門守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興
  《商館長》イサーク・ティチング(←11/05)(11/06→)アレント・ウイルレム・フェイト

  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町

1781(安永10、天明01・04/02)【光格】 辛丑(かのとうし)

  《奉行》柘植長門守(09/着)、久世丹後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠興(10/23死去)、高木作右衛門忠任(12/任)
  《商館長》アレント・ウイルレム・フェイト(←11/23)(11/24→)イサーク・ティチング

  09/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  唐船主周壬録は寄合町引田屋の遊女えにしを病気のため全快まで唐館に滞在させたいと願い出
     町年寄高島四郎兵衛から唐館番人へ許可が通達

1782(天明02)【光格】 壬寅(みずのえとら)

  《奉行》久世丹後守(09/着)、柘植長門守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》イサーク・ティチング

  01/25夜、袋町の河内屋喜平次宅より出火。15戸を焼失
  03/西古川町の袋町橋たもとに「町内安全鎮護」の石柱と地蔵(地蔵菩薩半跏像)が地元住民から寄進
     のち地蔵の効力により西古川町界隈に大火が起きなくなる
     のち紺屋町町民より「香炉」の寄進を受ける
     1926(大正15)西古川町町民より「りん」の寄進を受ける
     1950(昭和25)本下町町民より「幔幕」の寄進を受ける
     1982(昭和57)07/23長崎大水害で中島川に架かる石橋群が流失
     地蔵他を西古川町町内で仮安置する
     2006(平成18)07/中島川左岸の護岸工事が完成。袋橋たもとに新しく祠を建て「町内安全鎮護」の石碑とともに安置
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  米価が高騰し盗賊や放火が多くなる
     米価が高いため12/に下付する予定の「かまど銀」を11/に支給
     地役人が巡羅して盗賊や放火を取締る
  オランダカピタンのイザアク・チチングが寄合町筑後屋の太夫格遊女浮音を出島に呼び入れる
     太夫の出島入りは初めて

1783(天明03)【光格】 癸卯(みずのとう)

  《奉行》柘植長門守(03/20作事奉行転出)、
      土屋駿河守(守直・前大坂町奉行・04/19発令・09/着)、久世丹後守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》イサーク・ティチング(←10/26)(10/27→)ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ

  02/米価騰貴、米1升銭120文に
     奉行は窮民に米を与える−方、近国諸侯に手配し米を回送させる。1升銭80文に下がる
  06/28夕、茂木村本郷より出火。63戸を焼失。罹災者に銀5匁を貸与
  09/奉行久世丹後守が江戸に戻るとき町民は馬場郷まで見送る
     なかには日見・矢上まで見送って恩を感謝する者もあり、また諏方社に額を奉納して奉行の武運長久を祈る
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  米価がますます騰貴して米1升120文に
     長崎奉行久世丹後守が近国の諸侯に米を依頼し船で輸送。1升80文に下がる
     貧民1戸につき米1斗を渡す
  古川古松軒の「西遊雑記」より
     「…出島の出入口の石橋には何時も紅毛人や黒人が出て来て、日本人を見ては蛮語で戯れるが、
     長崎の町人は聞きなれている故か大体理解し、紅毛人や黒人も日本語を6、7割は理解する…」
  五島の岐宿に疱瘡が流行する

1784(天明04)【光格】 甲辰(きのえたつ)

  《奉行》久世丹後守(03/12勘定奉行転出)、戸田出雲守(氏武(氏孟)・前佐渡奉行・03/12発令・07/着)、
      土屋駿河守(05/18死去・春徳寺に埋葬)、土屋伊豫守(正延・前京都町奉行・07/26発令)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ

  07/24巳刻、唐人屋敷内の大工小屋より出火。唐人屋敷がほとんど全焼
     東風が強く関帝堂を除き観音堂、土神祠、その外諸部屋を焼き、二の門まで焼失
     在留唐人892名は唐4か寺に分散収容して唐館内に仮屋を建てる
     のち再建。長屋は12楝(3間×9間の2階建、延べ床面積648坪)と4分の1に縮小
     1859(安政06)開国後は廃屋化
     土神堂が焼失
       のち唐三ケ寺(興福寺・崇福寺・福済寺)の●●により復旧、数度改修
       1950(昭和25)09/13老朽化のため石殿のみを残し解体
     観音堂がで焼失
       1787(天明07)再建
     天后堂は焼け残る
       1790(寛政02)重修
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  スウエーデンに帰国したカール・ペーテル・ツユンベリーが日本から持ち帰った大量の標本をリンネの体系にしたがって分類
     「日本植物誌」を著す
     日本の植物を新分類学の立場からはじめて体系的に扱った学術書で、わが国近代博物学の黎明期における記念碑的著作
     報告された日本産植物は総計401属812種で、そのうち26属390種はツユンベリーによって発見・命名された種族
     トリカブト、カワラヨモギ、オケラ、スイカズラ、ゲンノショウコなど、日本の薬用植物を分類
     1791(寛政03)帰国後の著書「旅行記」の第3巻で江戸参府の道中や長崎の市政や出島の生活、諏訪祭礼や遊女のことを伝える
     諏訪祭礼のこと
     ○町々の名および紋印を書いた一本の大きな日傘が現れた
     遊女のこと
     1)日本には唐人、紅毛人に開かれている遊女屋がある
     2)遊女を求めたいときは出島にいる日本人に連絡すれば夕方には世話してくれる
     3)遊女は禿(かむろ)を連れてくる
     4)遊女は3日より短く出島においてはいけない。但し1年乃至数年留め置くことは紅毛人の自由
     5)揚代は8匁
     6)遊女は紅毛人から絹の着物、帯、髪飾りなどの贈り物を受ける
     7)キリスト教徒である紅毛人が丸山遊女に接して堕落することは好ましいことではない…

1785(天明05)【光格】 乙巳(きのとみ)

  《奉行》土屋伊豫守(07/12死去・長崎に着任せず)、戸田出雲守(10/04死去・大音寺に埋葬)、
      松浦和泉守(信●(木編に呈)・前小普請奉行・07/24発令・10/着)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(←11/21)(11/22→)J・F・B・V・R・T・D・パルケレール

  03/出島行きの遊女、禿(かむろ)は、入るときも出るときも江戸町の仲宿に立ち寄り人別改めを受ける
     丸山町、寄合町から毎日組頭1人、日行使1人が仲宿につめる
     組頭は毎日出島へ出張し遊女、禿の出入を見守り、乙名、組頭は遊女、禿の名前証文張に押印して出島大門蕃書に提出
  09/07朝から大降雨のため奉行所の指図で「長崎くんち」が夜4つ頃に渡御
     (1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  12/16《11/15》大槻玄沢が来崎。オランダ通詞本木良永の家に寄宿しオランダ語を学ぶ
     蘭館医ツュンベリーの愛弟子で通詞の吉雄耕牛にも師事
     1786(天明06)江戸へ帰る
  大槻玄沢が蘭学修業のため来崎。吉雄耕牛に師事する
  長崎奉行、戸田出雲守は唐船主から遊女への贈砂糖を1千斤に限定し、猥りに多く与えることを禁じる
  卯11番船主、程赤城氏は遊女夕梅へ、辰8番船蒋嵩三氏は萩の戸へそれぞれ白砂糖2千斤を贈りたいと奉行所へ願い出
     例外として特別に許可が布告
     蒋嵩三氏は萩の戸へ手紙を認め書き送る
     「長崎会所から白砂糖の代金を受取ったらよくよく倹約して行く末の暮らし方を計りなさい。
     無駄遣いしたり、うっかり他人の口車に乗らぬ様に、切に祈っています」
     06/萩の戸は代銀4貫836匁8分8厘を受取る

1786(天明06)【光格】 丙午(ひのえうま)

  《奉行》水野若狭守(忠通・前西丸目付・02/20発令・09/着)、松浦和泉守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》J・F・B・V・R・T・D・パルケレール(←11/20)(11/21→)ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ

  02/06未刻、唐人屋敷より出火。小部屋1軒が焼失
  02/唐紅毛人から遊女への貰砂糖代金を長崎会所で渡す際は組頭が立ち会うこと
     唐人は遊女、遣手、遊女屋へ砂糖を贈る
      貰砂糖代金渡しは組頭、日行使が遊女、遣手、遊女屋など貰主を同伴して長崎会所へ出頭
     紅毛人は遊女、小使に砂糖を贈る
      貰砂糖代金を受け取る際は遊女、遊女小使だけを同伴して長崎会所へ出頭
  03/08長崎奉行松浦和泉守が町年寄久松士岐太郎へ指示
     丸山、寄合町の乙名、組頭、日行使へ通達
     1)奉行所、或いは岩原目付屋敷の家臣が遊女屋、揚屋へ来ても之を断り片時も留置かぬこと
     2)諸国蔵屋敷の者などと偽り遊女屋、揚屋も知り乍ら知らない振りをして遊興させることは絶対にならない
     如何に断っても承知しない時は、早速役所へ申し出ること
     他国の者と偽り遊女屋、揚屋でも気付かずに遊女を差し出すのも落ち度であり罰せられる
  06/下10代将軍家治が死去
     諏方社は10月初句までの17日間、大門および中門を閉じ神楽神供を中止して弔意を表す
  夏田上菊舎尼が34才のとき、傘狂の高弟百茶坊に誘われて、別府、博多とまわる
     佐賀で百茶坊と別れて、ひとり長崎にきて多くの同志たちと交わり沢山の作品を残す
      田上菊舎尼は本名田上道、長府藩士の長女として長門国豊浦郡田耕村に生まれ、16歳で結婚
      24才で夫に死別、復籍して長府町に住む父、御側医の由水と暮らす
      29才のとき出家(浄土真宗)し、郷里を後にそれからの一生を俳行脚に生きる
      九州遍路4回を含む全国行脚の旅は6、7千里以上に及び、それは74歳で亡くなるまで、ほとんど休むことなく続く
      茶、琴、句、歌、詩、書画に秀で、京都にあっては雲上人と交遊し、天下の文化人を知己に持つ
     1796(寛政08)春田上菊舎尼が44才のとき再来崎
     唐通事平野善次右衛門に就いて華音(中国語会話)を学び、漢詩の実作を始める
     在崎の中国人と漢詩の応酬をして、才能と度胸の持主であることを示す
  07/06夜、長崎村伊良林郷より出火
  08/14夜、長崎村桜馬場郷より出火
  オランダ通詞本木良永の家に寄宿しオランダ語を学んだ大槻玄沢が長崎遊学を終え江戸へ帰る
     蘭館医ツュンベリーの愛弟子で通詞の吉雄耕牛にも師事
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  久留米藩が薬園を設置

1787(天明07)【光格】 丁未(ひのとひつじ)

  《奉行》松浦和泉守(03/12大目付転出)、末吉摂津守(利隆・前目付・03/12発令・09/着)、水野若狭守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(←11/30)(12/01→)J・F・B・V・R・T・D・パルケレール

  01/25夜、恵美須町の忠右衛門宅の手燭の火先が落散し出火
     大黒町、西中町に延焼し島原、平戸屋敷その他118戸が焼失
      恵美須町・忠右衛門押込10日
  03/長崎奉行、水野若狭守訓令
     1)衣服は町年寄であっても絹、紬、羽二重に限ること
     紗綾、縮緬以上の物、呂、紗、茶苧、羅紗、羅背板、へるへとわん等の毛物類は着用禁止
     地下役人は右に準じ絹、紬に限ること
     2)筆者、小役人は木綿に限ること。勿論、越後縮み等も着用禁止
     それ以下の役人は襟、袖口等も絹、紬の類いを禁止する
     女の衣類も右に準じ華美になってはいけない。長崎の風俗は分に過ぎて華美であるから堅く戒めること
  05/28夜、町民が集合し米屋14軒を打ちこわし
     春以来、物価が高騰し米1升124文から138文、麦70文に達し諸物価も準じることに
     首謀者52人を逮捕投獄
     米屋14軒…本五島町・北島伝九郎、本五島町・肥前屋久次郎、浦五島町・米屋作次郎、恵美須町・谷山忠蔵
     東築町・米屋源右衛門、東築町・長門屋平助、東築町・両国屋藤助、麹屋町・伊藤甚右衛門、西浜町・紅粉屋佐兵衛
     西浜町・木綿屋庄右衛門、西浜町・浜崎浅右衛門、今鍛冶屋町・米屋弥太郎、豊後町・松本甚平次
  08/大坂の米価が下落したため秋になって長崎でも物価が下がり貧民に米を配給、銀を貸与
     奉行所は1戸につき銀10匁を貸与。市中賤者・極貧者に男1人に米3升、女・15才以下の男に米2升を与える
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  火消役付と場所詰を制定
  唐人屋敷内の焼失した観音堂が再建
     1917(大正06)華僑によって改築
     のち数度改修

1788(天明08)【光格】 戊申(つちのえさる)

  《奉行》水野若狭守(09/着)、末吉摂津守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》J・F・B・V・R・T・D・パルケレール

  04/21夜、茂木村本郷より出火
  09/23渡御。「長崎くんち」が長崎奉行、喪中引き篭りのため日程変更09/25還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  諏訪神社の奉納踊り衣服は木綿着用の布達
  司馬江漢が時津を経て長崎へ
     オランダ通詞などと交流し、江戸会所の商人に化けて出島に入り蘭館内外を写生
     司馬江漢…文明批判をも行なった江戸系洋風画の創始者
       1783(天明03)には蘭学を平賀源内や前野良沢らに学び、我が国最初の銅版画を作成
       写実的な油絵を描き桃山時代以降、中絶していた洋風画を再興
     11/14時津経由で長崎を発つ
  長崎の家数1万2272、人口3万2364
     1789(寛政01)家数1万2203(家持1934・借家9530)、人口3万1893(男1万5502・女1万6391)

1789(天明09、寛政01・01/25)【光格】 己酉(つちのととり)


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