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〈江戸時代(8)〉

1704(元禄17、宝永01・03/13)【東山】 甲申(きのえさる)

  《奉行》石尾阿波守(01/着)、永井讃岐守(01/発)、佐久間安芸守(04/着)、別所播磨守(04/発)
  《商館長》ヒデオン・タント(←10/18→)フェルディナンド・ド・フロート

  03/08夜、西坂より出火
  04/27東古川町より出火
  10/08《09/10》後興善町に生まれた向井去来が京都・聖護院近くの家で病没
  12/01唐人屋敷で放火
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  大徳寺が大教院として伊勢町から梅香崎に移転創建
     1707(宝永04)御朱印地となり三大寺(晧台寺、大音寺、本蓮寺)と同格になる

1705(宝永02)【東山】 乙酉(きのととり)

  《奉行》永井讃岐守(03/着)、石尾阿波守(03/発・12/01勘定奉行転出)、
      別所播磨守(閏04/着)、佐久間安芸守(閏04/発)
  《商館長》フェルディナンド・ド・フロート(←11/06→)ヘルマヌス・メンシンフ

  02/01夜、福済寺浴堂より出火。1人焼死
  08/10暁、本下町より出火。本下町が焼失、東西築町の大半、島原町の半分、大村町と船番屋数戸を焼失
  09/07「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  09/07諏方神事に初めて森崎社の神輿が諏方、住吉二社とともに大波戸に渡御となる(三座渡御の初め)
  09/10夜丑下刻(午後3時頃)、唐人屋敷で出火。11棟焼失・類焼、泊船に飛火し18艘が焼失
     午前9時過頃鎮火。のち別所、永井奉行が検分。唐人屋敷乙名・組頭以下を火災責任者として罷免
  聖福寺に天王殿が建立
     天王殿は中央に仏殿があり左右に通り抜けられる門がある
     1717(享保02)09/梵鐘が再鋳される
  吉祥院が崇嶽(瓊杵山)に移り、讃岐国の金刀比羅大権現の分霊金毘羅神(金比羅神社)を祀る
     祈祷所、拝殿などを建て次第に寺観が整う
     崇嶽(瓊杵山)が金比羅山とも呼ばれるようになる
       1725(享保10)神宮寺の寺号が再興

1706(宝永03)【東山】 丙戌(ひのえいぬ)

  《奉行》駒木根肥後守(政方・前目付・01/11発令・06/着)、永井讃岐守(06/着)、
      佐久間安芸守(08/着)、別所播磨守(08/発)
  《商館長》ヘルマヌス・メンシンフ(←10/26→)フェルディナンド・ド・フロート

  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  楢林春斎(鎮山)が「紅夷外科宗伝」を著す
     もとは渡来した医師ホフマンが与えたフランスの名医アンブロアス・パレ(フランス後期ルネッサンスの名医)の「外科全書」

1707(宝永04)【東山】 丁亥(ひのとい)

  《奉行》永井讃岐守(08/着)、駒木根肥後守(08/発)、別所播磨守(12/着)、佐久間安芸守(12/発)
  《商館長》フェルディナンド・ド・フロート(←10/15→)ヘルマヌス・メンシンフ

  08/12朝8つ時、唐人屋敷で出火。2棟が焼失
     永井、佐久間奉行をはじめ諸役人が駆付けるが風もあまりなく、まもなく鎮火
     町火消に死者1人、負傷者1人
  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  水樋役倉田次郎右衛門が官許を得て高野平郷に水源を求める
     木樋「出島水樋」を出島オランダ屋敷に給水
     給水料金年間に蘭人から銀3貫600目を徴収。うち銀3枚を運上銀として納入。残りで水樋修繕他に
  大徳寺が御朱印地となり三大寺(晧台寺、大音寺、本蓮寺)と同格になる
     1708(宝永05)本籠町岸上に移る

1708(宝永05)【東山】 戊子(つちのえね)

  《奉行》駒木根肥後守(09/着)、永井讃岐守(10/発)、別所播磨守(在勤)、佐久間安芸守(在府)
  《商館長》ヘルマヌス・メンシンフ(←11/02→)ヤスペル・ファン・マンスダーレ

  01/唐館大門出入改方訓令
     遊女の衣類などを入れるときは、その度に改めること
     遊女、禿(かむろ)の出入りは帳面に記し翌朝奉行所へ届け出ること
  02/11暁、榎津町より出火
     今石灰町、新石灰町、万屋町、油屋町の過半、東浜町、今鍛冶屋町、出来鍛冶屋町の半分、今籠町、本古川町の一部を焼失
     類焼者に銀50貫目を貸与
  05/遊女が出島へ出入りするときは衣類、花簪まで改めること
     遊女は出島行、唐館行を除き丸山から市中や郊外への外出を禁止
  06/27暁、船津町より出火
     小川町、東上町、上筑後町を全焼、船津町、金屋町、恵美須町を全焼、後興善町、豊後町、東中町の一部を焼失
  08/29イタリア人在俗司祭ジョアン・バプチスタ・シドッチ神父が大隅国屋久島に上陸
     忽ちにして捕まり長崎奉行所へ送られ、所持した大袋の中身を長崎奉行がオランダ人通詞を介して調べる
     「異国人致所持候大袋ノ内諸色之覚(いこくじんしょじいたしそうろうおおぶくろのうちしょしきのおぼえ)」によると
        ミサ典書、カズラ、カリス、パテナ、聖遺物、アルバ、スルプリ、聖香油、十字架などミサに用いる一式の外、
        キリスト像、聖母マリア画、聖務日課、ロザリオ、ディシヒリナ、教理書などを所持
     シドッチ神父は「親指のマリア」画を持参
     長崎奉行所の記録によると「堅壱尺、横八寸五分、
      但裏ハ皆木にてかねのくわん打有之候(うちこれありそうろう)、赤とんすの袋へ入候。白ドンスに赤きうら也」と
     11/09長崎に護送
     1709(宝永06)11/01シドッチ神父は幕府の儒者新井白石の尋問を受けるため江戸小日向の山屋敷に送られる
     はじめ所持品は後から送るとして目録だけだったが間もなく送られてくる
     新井白石は「親指のマリア」画を「6此女の像年の比(ころ)四十ちかきほどニ見えて目をちゐりて
      鼻みねたちてうれはしき面躰也(おざしなり)、頭にかつきし衣の色ハ青藍色下に着しものハ白かりしやおほつかなし」と
     1714(正徳04)03/01シドッチ神父が召使いの長助・はる夫婦に洗礼を授けた廉により詰牢へ移される
     のち新井白石はシドチを尋問して西洋の国情や文化を探究
     その成果が「西洋記聞」「采覧異言」で鎖国下の日本の西洋研究の基礎とる
  12/21夜、新地蔵番人権左衛門、佐助の火の不始末により新地番所暗灯から出火
      新地蔵番人・権左衛門、佐助01/18入牢
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  大徳寺が本籠町岸上に移る
     自然災害の都度公借を受け累積借銀を多額となり、外国貿易の不振で唐からの寄付は皆無
     檀家を持たず什宝物は漸次売却、本堂・鐘楼などの建造物も売却
     1868(明治01)廃寺
  楢林鎮山が将軍綱吉に召される
  今紺屋町の銀細工職人の久保田権左衛門を密輸の罪で投獄

1708(宝永05)頃

  中国原産の落葉樹ナンキンハゼが長崎に渡来

1709(宝永06)【中御門】 己丑(つちのとうし)

  《奉行》佐久間安芸守(08/着)、別所播磨守(08/発)、永井讃岐守(09/29退任)、駒木根肥後守(在勤)
  《商館長》ヤスペル・ファン・マンスダーレ(←10/22→)ヘルマヌス・メンシンフ

  02/第7代領主茂晴は諫早領内の息災を祈り本明川上流、富川に竜神を祭る
     また岸壁に五百羅漢像を彫刻するなどして安泰を祈願
     継続事業として9年間の歳月を費やす
  09/深堀騒動」「長崎騒動」の 深堀側遠島9人の赦免状が江戸から長崎奉行所に届く。晴れて故郷の土が踏める日がくる
  11/01シドッチ神父は幕府の儒者新井白石の尋問を受けるため江戸小日向の山屋敷に送られる
     はじめ所持品は後から送るとして目録だけだったが間もなく送られてくる
     新井白石は没収品の「親指のマリア」画を「6此女の像年の比(ころ)四十ちかきほどニ見えて目をちゐりて
      鼻みねたちてうれはしき面躰也(おざしなり)、頭にかつきし衣の色ハ青藍色下に着しものハ白かりしやおほつかなし」と
     シドッチ神父はイタリア人在俗司祭で、前年、大隅国屋久島に上陸するが、忽ちにして捕まり長崎奉行所へ送られた
     1714(正徳04)03/01シドッチ神父が召使いの長助・はる夫婦に洗礼を授けた廉により詰牢へ移される
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  初代江崎清蔵が魚の町に鼈甲店「江崎べっ甲店」を創業。日本一古いべっ甲店といわれる
     1898(明治31)建築面積403平方米、木造2階建の店舗が建つ
     店鋪外観は東が町家風、西が土蔵風、上げ下げ窓や隅石飾りなど軒回りや窓回りが洋風
     店鋪室内は全体が洋風

1710(宝永07)【中御門】 庚寅(かのえとら)

  《奉行》久松備後守(定持・前目付・01/11発令・07/着)、駒木根肥後守(07/発)、
      佐久間安芸守(在勤)、別所播磨守(在府)
  《商館長》ヘルマヌス・メンシンフ(←11/10→)ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン

  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  僧圓識が横超山・発心寺(浄土真宗本願寺派)を開創。子孫は累代、大光寺の役僧として勤続
     1818(文政01)一代限りの寺号公称を許される
     1878(明治11)三栗円照のとき寺号公称が独立
  遊女の神社詣、両親の病気見舞い、諏訪神事の踊り奉納、仏事等の外出が許可される
  大神宮(伊勢宮)が銭屋川の鮎で初めて鮎神事を執り行なう
  越前平戸の領民五平太が高島の広磯で石炭を発見。炭穴を開き採掘を行なう

宝永年間(1704〜1711)

  オランダから蘭鶏(紅毛鶏)が渡来

1711(宝永08、正徳01・04/25)【中御門】 辛卯(かのとう)

  《奉行》別所播磨守(04/11依頼免職)、大岡備前守(清相・前西丸留守居・04/12発令・09/着)
      佐久間安芸守(10/発)、駒木根肥後守(在府)、久松備後守(在勤)
  《商館長》ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(←10/31→)コルネリス・ラルディン

  05/幕府より高札。放火対策としての定めを出す
     一、火を付ける者を早く申出し、もし隠し置きにおいては其罪重かるへし
       たとひ同類たりといふ共、申出めに於ては其罪を許され褒美をやる
     一、火をつける者を見付けたら是を捕へ、早く申出るへし、見逃してはいけない
     一、怪しき者あらば、せんさくを遂げて、早く奉行所へめしつれてくること
     一、火事の節鑓、長刀、刀、脇差などぬきみにしてはいけない
     一、火事場其外いずれの所にても、金銭諸色拾ったものは奉行所へ持参すること
       もし隠置き他所よりあらわるるに於ては、其罪重し
       たとひ同類たりともいふ共、申出輩は其罪をゆるされ褒美をやる
  08/東上町の「立山書院」が伊勢町の鋳銭所跡に移転、545坪の長崎聖堂(中島聖堂)が竣工【1714(正徳04)?】
     1868(明治01)廃止となる
     1959(昭和34)03/大学門と規模を縮小した大成殿が興福寺の境内に移築復元
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  第8回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙泰億、総人数500。使命は徳川家宣の将軍職就任祝い
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1719(享保04)第9回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は洪致中、総人数475。使命は徳川吉宗の将軍職就任祝い

1712(正徳02)【中御門】 壬辰(みずのえたつ)

  《奉行》駒木根肥後守(01/着)、久松備後守(01/発)、大岡備前守(在勤)、>佐久間安芸守(在府)
  《商館長》コルネリス・ラルディン(←10/20→)ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン

  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  オランダ船に関して野母・小瀬戸両番所の14人が鯨船1艘にて見張を強化
     前年、オランダ船が長崎沖での抜荷が発覚したことによる
  万屋町の魚屋、高野勇助の作るボラのマコを塩漬けにしたからすみが、長崎奉行から幕府へ献上されるようになる
     幕府は勇助に年俸銀100匁を下賜。献上は維新まで続く
     明治初期本下町(現築町)に移転
  ケンペルが「廻国奇観(海外奇聞)」を刊行
  天然痘流行(〜翌年03/まで患者3000余人)

1713(正徳03)【中御門】 癸巳(みずのとみ)

  《奉行》佐久間安芸守(03/12退任)、久松備後守(08/着)、大岡備前守(09/発)、駒木根肥後守(在勤)
  《商館長》ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(←11/07→)コルネリス・ラルディン

  01/23夜、本五島町より出火。浦五島町に延焼
  03/長崎奉行の定員が3人となる(1人在府、2人在勤、毎年1人交代)
  07/14人災や天災が続き米価騰貴のため米商の買占めがある。市民は怒って米屋を打ちこわす
     米価騰貴のため米はもちろん雑穀の類さえ食べられず木の葉までも口に入れ飢えをしのぎ体力が消耗
     のちコレラが流行。貧者ばかり5千人余が死亡
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  烏帽子山近くの平野地を拓き金毘羅大権現を祀るの本社を建立
  長崎奉行久松備後守定持らが松森神社を大改修
     本殿周囲を飾る「職人尽(ほり物)」が奉納される
     彫刻者は御用指物師喜兵衛・同藤右衛門。長崎奉行御用絵師小原慶山が下絵を描く
  奉行所訓令
     唐人屋敷へ行く遊女は午後2時から4時までに出入りすること
     多人数の時は午後4時から7時まで出入りさせる
     大門の内で遊女、禿(かむろ)、遣手は念を入れ改め、その上遊女、禿は二の門の内へ入れ遣手は大門の外にだすこと
     遊女が一夜だけでなく二、三夜づつ留置きたい場合は毎日改めるには及ばない。宿へ帰るときに改めること

1714(正徳04)【中御門】 甲午(きのえうま)

  《奉行》大岡備前守(09/着)、駒木根肥後守(10/発・11/18作事奉行転出)、久松備後守(在勤)
  《商館長》コルネリス・ラルディン(←10/27→)ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン

  03/01江戸小日向の山屋敷に送られたシドッチ神父が、召使いの長助・はる夫婦に洗礼を授けた廉により詰牢へ移される
     シドッチ神父はイタリア人在俗司祭で、大隅国屋久島に上陸するが、忽ちにして捕まり長崎奉行所へ送られた
  06/寄合町、引田屋の遊女浮雲が唐船主許端澄との間に混血児を出産、吉之助と名づける。6才で死去
  11/18長崎奉行が2人制となる(1人在勤、毎年交代)
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  在留唐人が初めて諏方社に参拝。神社側では憩席を設け、茶菓子や食事を出して歓待
     在留唐人らは3〜4か月、長いものは年余にわたって唐人屋敷内に滞留するが自由に外出ができず無聊に苦しむ
     そこで神社・仏閣のうち18か所を指定し、墓参・参拝または花見という名目で外出が許可
     唐人たちにとって神社詣では寺詣でとともに解放されたレクリエーションの日となる

1715(正徳05)【中御門】 乙未(きのとひつじ)

  《奉行》久松備後守(03/発・11/07作事奉行転出)、石河土佐守(政郷・前目付・11/07発令)、大岡備前守(在勤、
  《商館長》ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(←10/19→)ヒデオン・バウダン

  01/11新井白石の建議により「長崎新令」(正徳新令)が実施
     幕府が銅の不足から発布。「竈銀(かまどぎん)」「箇所銀(かしょぎん)」の制度が始まる
     貿易額は唐船30隻、銀6千貫目、オランダ船2隻、銀3千貫目となる
     オランダ貿易、唐貿易の利益は幕府への運上金、地役人の給料、他を差し引いても毎年7万両位は残る
     7万両は長崎77か町の町民に配分。配分の時期は07/と12/の2回、
     地主には箇所に応じて「箇所銀」が借家人には世帯に応じて「かまど銀」が各町の乙名を通じて配られる
     税金、助成金他を除き渡され、箇所銀は平均して銀130匁、かまど銀は30匁 (現在の約20万円、5万円に相当)
     農民の税負担は4公6民といわれ、収入の4割が税金として取り立てられ他国の人にとってはうらやましい限り
     長崎の町全体が唐貿易、オランダ貿易になんらかの形で協力しており、長崎の人にとっては当然のこと
     制度は他に例を見ない自治体のしくみであり150年間も続く
     1867(慶応03)制度が終わる
  06/遊女を大門で改めるとき
     第1は唐人票及び書付け又は日本人の書物を見出したら、早速差し出すこと
     第2は遊女、禿(かむろ)、遣手の懐中の品、籠包み物、箱の中に金銀の有無を調べ、もしあれば申し出ること
     但し唐人が与えたのに間違えなければ遊女に取らせるから正直に申し出ること
     唐金銀の他、或いは端物類、衣類器物の類いを唐人から遊女へ与えるのは
       唐人の自由に任せるから乙名、組頭が聞いて申し出ること
  07/長崎奉行から丸山町、寄合町へ訓令
     遊女がオランダ人、唐人の子を懐妊したらすぐ申し出ること
     隠していたら遊女、主人、乙名も罰せられる
     唐人は滞在中、唐館内で混血児を養育してよい
     唐人帰国後に混血児を出生したらその遊女の抱主である遊女屋で養育し、父唐人が再渡来したときに申し聞かせること
     唐人が滞在中に出生した混血児については父唐人帰国後の養育方法をよく相談しておくこと
     唐人の混血児は父が本国へ連れていきたいと願っても絶対に許可しない
       オランダ人との場合も同様
  08/寄合町、引田屋の遊女大山が台湾船主、林達文との間に男児を出産。10/に死去
  09/寄合町、引田屋の遊女浮橋が広東船主、李韜士との間に女児を出産。7日後に死去
  10/寄合町、佐伯屋の遊女大山が寧波船主、鄭大典との間に男児を出産。10/末に死去
  10/寄合町、薩摩屋の遊女白藤が寧波船主、何定扶との間に女児を出産。11/に死去
  10/丸山町、岩田屋の遊女八重雲が寧波船主、王哲卿(63)との間に男児を出産。金八と名づける
     のち王はしばしば渡来、八重雲と金八の行末を見守り計らう
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  南部藩が薬園を設置
  目附が長崎に常駐するようになる
     最初の長崎在勤の目附として石川三右衛門、大久保一郎右衛門が任命
     長崎における外国貿易法の大改正のとき。幕府は長崎へ政治、貿易、外交その他の監察官として上使御目附を配する
     長崎奉行立山役所の上段平地に役宅として岩原御目附屋敷を新設
     岩原御目附屋敷は、御勘定方役宅として総坪数863坪を建設
     御本屋1棟、土蔵1棟、東長屋1棟1部屋、向長屋1棟2部屋、川上長屋1棟1部屋、厩長屋1棟4部屋
  長崎奉行の布告
     「当地の風俗として女の心だてがよろしくない。身持ちが悪く、夫をも敬わず、甚だしきにいたっては夫に悪事を
     すすめる者がいる。そしてその悪事によって少しでも金銀を儲け出せばそれで自分の身を飾ろうとする。そうなる
     ともう夫は要らないと、夫婦の縁を切るものもなかにはあるという。怪しからぬことである。その罪は軽くない」
  長崎の家数1万0206(家持1703・借家8500)、人口4万1553
     1771(明和08)家数1万0143、人口2万9897

1716(正徳06、享保01・06/22)【中御門】 丙申(ひのえさる)

  《奉行》石河土佐守(04/着)、大岡備前守(05/発)
  《商館長》ヒデオン・バウダン(←11/03→)ヨアン・アウエル

  03/寄合町の豊後屋たま下人勘八が酒に酔い煙草の火を捨置き、豊後屋たま2階より出火。大事には至らず
     勘八は入牢
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  本籠町に蛇踊が伝わる

1717(享保02)【中御門】 丁酉(ひのととり)

  《奉行》大岡備前守(04/12西丸留守居転出)、日下部丹波守(博貞・前目付・05/21発令・09/着)、石河土佐守(09/発)
  《商館長》ヨアン・アウエル(←10/24→)クリスティアン・ファン・フレイベルフ

  09/聖福寺の梵鐘が再鋳される
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  長崎聖堂の学頭であり唐通事でもある盧草拙(ろそうせつ)が自宅に北辰妙見尊星を祀る
     1719(享保04)諏訪神社吟味役・村田四次郎が自宅に祀った妙見尊神と合祀。社殿が完成し西山妙見社に
     1868(明治01)西山神社となる
  船津町〜恵美酒町の木橋の本新橋を石橋に改める
  長崎での刑罰に入墨が加わる
     手首から3寸ほど上に1寸5分ほどの横線が2本引かれる
     初犯1本、再犯2本、3犯3本で長崎追放

1718(享保03)【中御門】 戊戌(つちのえいぬ)

  《奉行》石河土佐守(10/着)、日下部丹波守(10/発)
  《商館長》クリスティアン・ファン・フレイベルフ(←10/13→)ヨアン・アウエル

  07/28大雨洪水のため溺死者46人。川沿いの38町が床上浸水に
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  平戸小屋郷に保食大神(うけもちのおおかみ)を勧請し烏岩神社が祀られる

1719(享保04)【中御門】 己亥(つちのとい)

  《奉行》日下部丹波守(10/着)、石河土佐守(10/発)
  《商館長》ヨアン・アウエル

  05/以降長雨と大風3度、人家農作の損害が寛大
     3か村の人民に米174石9斗を配与
  07/江戸町浜手の米蔵(浜蔵)の位置が不便なため北瀬崎に移転。総坪数1561坪、土蔵3軒
     1724(享保09)北瀬崎の米蔵が北の御蔵という名称に
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  盧草拙が祀った北辰妙見尊星と諏訪神社吟味役・村田四次郎が祀った妙見尊神を合祀
     長崎奉行石河土佐守の許しを得て盧草拙の自宅に北辰・妙見の二神を祀る社殿を建立
     盧草拙は長崎聖堂学頭
     のち西山郷に社殿が完成し西山妙見社とよばれる
     1868(明治01)日本神話の造化3神を祀る西山神社となる
  西川如見の名声を聞いた徳川吉宗が、西川如見と廬草拙を江戸に招き20日間にわたり質問をする
     世界の学問から日本がいかに遅れているかを説き、洋学解禁を決断させる
     西川如見は長崎の鍛治屋町生まれで天文・地理学者
     1720(享保05)西川如見の大胆な提言により、キリスト教以外の洋書輸入が解禁となる
     洋書の解禁により日本の学問は近代化への1歩を踏み出す
  西川如見の子忠次郎が「長崎夜話草」を著す
     吉宗に謁見を賜わり、ヨーロパの学問や中国の学問について質問される
     1735(享保20)幕府天文御用方となる
  対馬の宗家から幕府に献上された6粒の朝鮮人参の種を日光に植える
     およそ50年後1万株に増えたといわれ、幕府は朝鮮人参の栽培にとりわけ力を入れる
  第9回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は洪致中、総人数475。使命は徳川吉宗の将軍職就任祝い
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1748(延享05)第10回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は洪啓禧、総人数475。使命は徳川家重の将軍職就任祝い

1720(享保05)【中御門】 庚子(かのえね)

  《奉行》石河土佐守(10/着)、日下部丹波守(10/発)
  《商館長》ヨアン・アウエル(←10/21→)ルーローフ・ディオダティ

  04/08夜、八幡町より出火。21戸を焼失
  08/天草代官所所属の小島郷(梅香崎・南瀬崎)の米蔵を長崎所属に改められる
     総坪数275坪半、土蔵3軒
     1724(享保09)南瀬崎の米蔵が南の御蔵という名称に
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  清の船主・伊孚九が幕府の命に応じてペルシア馬の雄2頭を日本に初めて輸入
  立山奉行所内(現立山町)の御薬園が薬園の役目を終える
     新たに小島村の天草代官所跡地(小島郷十善寺)に御薬園が移される
     1179坪(現十人町)に立山役所内の薬草木を移し、更に輸入した薬草木を植える
     吉宗により海外から有用植物の輸入が奨励されたこともあり、受け入れの窓口を果たしていた長崎の薬園の業務が増える
     受け入れた苗や種子は一旦栽培した後、江戸の小石川や駒場の御薬園に送られる
     また、幕府用品が不足した場合は直接に献上したり、奥医師に高額で売り渡す
     1809(文化06)薬園の役目を終える
  幕府が注文した雄馬2頭が唐船で長崎に渡来
  徳川吉宗への西川如見の大胆な提言により、キリスト教以外の洋書輸入が解禁となる
     洋書の解禁により日本の学問は近代化への1歩を踏み出す
  幕府が江戸駒場に薬苑を開設

1721(享保06)【中御門】 辛丑(かのとうし)

  《奉行》日下部丹波守(10/着)、石河土佐守(10/発)
  《商館長》ルーローフ・ディオダティ(←11/09→)ヘンドリック・デュルフェン

  閏07/28連日降雨の後、夜半の大雷雨、地震により烽火山から泥水噴出し市中が大洪水に
     38町が浸水。水死46人(男17、女59)流失潰家120かまど「享保の大水害
     奉行所は家1軒米1升、流家の者米1斗と銭300文を与え救済
     崩流・損壊の総計22橋
     大手橋……………………………のち掛り町の北馬町、南馬町、新大工町銀1貫500目を拝借し修理
     大井手橋…………………………1740(元文05)再架
     編笠橋……………………………再架のち1795(寛政07)07/19崩流
     古町橋……………………………1739(元文04)11/僧周傳により再架
     一覧橋……………………………再架のち1795(寛政07)07/19崩流
     すすき原橋………………………1722(享保07)再架
     東新橋……………………………1742(寛保02)アーチ石橋を再架。費用は新橋町、本大工町の掛り町が負担
     魚市橋……………………………木橋で再架のち1795(寛政07)07/19崩落
     袋(町)橋………………………被害を受ける
     本古川町(本紺屋町)橋………少なくとも被害は受ける。のち1795(寛政07)07/19崩流
     榎津橋、萬屋町橋、阿弥陀橋…無事
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  雲仙の湯元旅館2代目の加藤小左衛門が小地獄温泉を開く
     1878(明治11)湯元旅館9代目の加藤小左衛門が新湯を開く

1722(享保07)【中御門】 壬寅(みずのえとら)

  《奉行》石河土佐守(10/着)、日下部丹波守(10/発)
  《商館長》ヘンドリック・デュルフェン

  09/田上名の合戦原(合戦場)で初めて石火矢(大砲)の試射を行なう
  10/寄合町、引田屋の遊女両山が寧波船主、謝榿臣と脇船主、陳伯威から唐館に呼入れられ梅之助を出産
     1723(亨保08)仁三郎を出産
     1724(亨保09)林之助を出産。7才で死去
     梅之助と仁三郎は両山の親元、諏訪町に1728(元文03)まで居住
  11/中紺屋町と今紺屋町をつなぐ石橋のすすき原橋が中紺屋町、今紺屋町の掛り町が拝借銀を願い再架
     1795(寛政07)07/19大洪水で破損
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  諏訪神社の長坂が73段に改修される
  幕府は歌舞伎、浄瑠璃の心中物を禁止し、情死を処罰する
  薬種商桐山太左衛門が幕府の許可を得て下総国千葉郡小金原に薬園を開設

1723(享保08)【中御門】 癸卯(みずのとう)

  《奉行》日下部丹波守(10/着)、石河土佐守(10/発)
  《商館長》ヘンドリック・デュルフェン(←10/18→)ヨハネス・テーデンス

  今博多町の天満宮跡地に再び天満宮を建て広徳山大行寺と号する
     1868(明治01)大行寺は廃寺となり、天満宮のみに
     1969(昭和44)04/25都市計画で松ノ森神社内に移る
  本覚寺の霊海僧が豊前英彦山から神霊を分祀、標高401.8米の舞岳(眉岳)に英彦山神を勧請する
     のち英彦山と呼ぶようになる
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町

1724(享保09)【中御門】 甲辰(きのえたつ)

  《奉行》石河土佐守(10/着)、日下部丹波守(11/発)
  《商館長》ヨハネス・テーデンス

  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  北瀬崎米蔵が北の御蔵に、南瀬崎米蔵が南の御蔵という名称に

1725(享保10)【中御門】 乙巳(きのとみ)

  《奉行》日下部丹波守(10/着)、石河土佐守(10/発)
  《商館長》ヨハネス・テーデンス(←10/25→)ヨアン・ド・ハルトッホ

  春濱町の築地に鋳銅所を設け、貿易代の品として棹銅を鋳造。「築地銅座
     1738(元文03)廃止となる
     1741(寛保01)鋳銅所跡地で鉄銭の鋳造が行なわれる
     1745(延享02)廃止となる
  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  11/15夜、西上町の細井清兵衛宅より出火。9世帯を焼失(「細井火事」という)
  洋馬5頭(ペルシア馬3頭、ジャワ馬2頭)を輸入。一緒に馬術師も渡来
  オランダ商館から将軍吉宗に塩漬肉1貫目、ハム600匁を納上
  崇嶽(瓊杵山)の金刀比羅大権現を祀る本社にて弘仁年中の神宮寺の寺号を公式再興
     のち「華蔵界」と刻まれた石造アーチ門を建立
     1868(明治01)神仏分離令により金刀比羅神社と改称
  出来大工町乙名若杉喜三太が自宅に祀っていた伊良林神社の分霊を矢の平に移す
     小さな社殿を建て矢ノ平稲荷神社に

1726(享保11)【中御門】 丙午(ひのえうま)

  《奉行》石河土佐守(05/25退任)、三宅周防守(康敬・前目付・05/28発令・10/着)、日下部丹波守(11/発)
  《商館長》ヨアン・ド・ハルトッホ(←10/15→)ピーテル・ボックスティン

  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  幕府が駿府に薬苑を開設

1727(享保12)【中御門】 丁未(ひのとひつじ)

  《奉行》日下部丹波守(閏01/11退任)、渡辺出雲守(永倫・前目付・閏01/15発令・08/着)、三宅周防守(10/発)
  《商館長》ピーテル・ボックスティン(←11/03→)アブラハム・ミネドンク

  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  ケイツル、諏方社流鏑馬場で乗馬の練習を行う。陳宋若・沈大成も日本馬で練習し見物人が殺到
  ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの著書「日本誌」が刊行
     鎖国日本の内側の姿を本格的、科学的にヨーロッパに紹介
     正式タイトルは『日本誌、その帝国の往古と現在の状況および政府について
     また、その諸寺院、宮殿、城郭およびその他の建築について
     その「産出する」金属類、鉱物、樹木、植物、諸動物、鳥類および魚類について
     皇室および幕府の事蹟と継承について
     さらに、国民の由来、宗教、農工業、ならびにオランダ人および中国人との通商について
     あわせて、シャム王国の記述を付す
』という

1728(享保13)【中御門】 戊申(つちのえさる)

  《奉行》三宅周防守(10/着)、渡辺出雲守(10/発・翌年05/13江戸で死去)
  《商館長》アブラハム・ミネドンク(←10/20)(10/22→)ピーテル・ボックスティン

  07/19《06/13》安南国(ベトナム)産の、将軍吉宗の希望で雄雌各1頭が唐船で長崎に入港
     【一説にオランダ船に乗って】
     1408(応永15)、1575(天正03)に次いで徳川吉宗の時代に3度目の象
     陸揚げするのに大波止から海中へ長い仮橋を作り、唐船を横づけ
     仮橋には土を置き、象の通り路だけ空けて土手のように土を盛り上げ、1頭宛てに象使いがつきそい慎重に上陸
     象はひとまず唐人屋敷の中に収容
     雌1頭は菓子を与え過ぎ象の舌の上に「できもの」ができ象使いが八方手をつす
     長崎の豪胆な町人が口に手をさし入れ舌の「できもの」を洗う
     10/15《09/13》苦痛がやわらぎ元気を取り戻したかに見えたが、雌象はほどなく死亡
     残りの7歳の雄象は江戸の将軍吉宗へ献上
     1729(享保14)04/10《03/13》長崎を出発
     14人の飼育係に交代で見守られ江戸までの300里を行進
     長崎奉行より出された用意すべき飼料を見て街道の諸藩が驚く
     新わら200斤、笹葉150斤、草100斤、大唐米8升、芭蕉2本、あんなし饅頭5拾、橙5拾、九年母3拾…
     「献上もの」とあって、道中は取締り厳しく、街道の小石を取り除き橋を架け換えムシロを敷く
     他に道路、宿舎の整備、驚くから鼠をだすな、人声をだすな…など細かい注意がいくつもでる
     要所に水桶を置く。大変な騒ぎに
     04/261日に4里、5里と歩き京都に到着。京都浄華院に収容。3日後、中御門上皇が御覧に
     爵位がない象は中御門天皇に拝謁できないと従四位に叙せられる
     04/29京都出発
     途中、大井川ではいかだを組んで渡す
     06/21《05/25》長崎をでて74日目にして江戸到着、浜御殿の象舎に入る。 沿道黒山の群集を驚かす
     05/27江戸城内に引き入れられ、将軍吉宗は諸大名と共に象見物
     将軍謁見。象は前足を折り、頭上高く鼻を振り上げ挨拶。象は曲芸を演じて愛嬌を振りまき一同感嘆の声をあげる
     1日の食糧が相当量なため幕府はもてあます
     唐米8升、あんなん饅頭50、橙50、新わら200斤、笹の葉50斤、 イタヤカズラ100斤、草1千斤など
     のち浜御殿で13年間飼われるが飼育法が分からず幕府は持て余す。享保の改革にそぐわず、次第にやせ衰える
     のち郊外中野村の百姓の源助に貸与。象舎を作って移す
     源助は象を見せ物にしあくどく儲けに使う
     1749(寛延02)源助は餌代をけちり栄養失調で餓死
     1816(文化13)甲比丹ヘンドリキ・ドーフが 将軍家へ象の献上を申し出たが、その儀に及ばずと謝絶
  08/05諏方社にて将軍吉宗の嗣子家重の癌瘡快癒で祝賀。神事及び神事能の催しを行なう
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町

1729(享保14)【中御門】 己酉(つちのととり)

  《奉行》細井因幡守(安明・前奈良奉行・06/28発令・10/着)、三宅周防守(11/発)
  《商館長》ピーテル・ボックスティン(←10/12→)アブラハム・ミネドンク

  04/10《03/13》安南国産の生き残った7歳の雄象が江戸の将軍へ献上。長崎を出発
     14人の飼育係に交代で見守られ江戸までの300里を行進
     長崎奉行より出された用意すべき飼料を見て街道の諸藩が驚く
     新わら200斤、笹葉150斤、草100斤、大唐米8升、芭蕉2本、あんなし饅頭5拾、橙5拾、九年母3拾…
     「献上もの」とあって、道中は取締り厳しく、街道の小石を取り除き橋を架け換えムシロを敷く
     他に道路、宿舎の整備、驚くから鼠をだすな、人声をだすな…など細かい注意がいくつもでる
     要所に水桶を置く。大変な騒ぎに
     1729(享保14)04/261日に4里、5里と歩き京都に到着。京都浄華院に収容。3日後、中御門上皇が御覧に
     爵位がない象は中御門天皇に拝謁できないと従四位に叙せられる
  04/26安南国産の生き残った7歳の雄象が1日に4里、5里と歩き京都に到着
     京都浄華院に収容。3日後、中御門上皇が御覧に
     爵位がない象は中御門天皇に拝謁できないと従四位に叙せられる
     04/29京都出発
     途中、大井川ではいかだを組んで渡す
     06/21《05/25》長崎をでて74日目にして江戸到着、浜御殿の象舎に入る。 沿道黒山の群集を驚かす
  06/21《05/25》安南国産の生き残った7歳の雄象が長崎をでて74日目にして江戸到着、浜御殿の象舎に入る
      沿道の黒山の群集を驚かす
     05/27江戸城内に引き入れられ、将軍吉宗は諸大名と共に象見物
     将軍謁見。象は前足を折り、頭上高く鼻を振り上げ挨拶。象は曲芸を演じて愛嬌を振りまき一同感嘆の声をあげる
     1日の食糧が相当量なため幕府はもてあます
     唐米8升、あんなん饅頭50、橙50、新わら200斤、笹の葉50斤、 イタヤカズラ100斤、草1千斤など
     のち浜御殿で13年間飼われるが飼育法が分からず幕府は持て余す。享保の改革にそぐわず、次第にやせ衰える
     のち郊外中野村の百姓の源助に貸与。象舎を作って移す
     源助は象を見せ物にしあくどく儲けに使う
     1749(寛延02)源助は餌代をけちり栄養失調で餓死
  森野藤助が幕府の御薬草御用係植村左平次の大和での採薬道中を案内
     報酬に薬草を貰い「森野薬園」にて栽培をはじめる
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  奉行所訓令
     丸山遊女が寺社詣りなどの際、絹紬以上の物を着用してはならない。普段の寺社参詣は無用
  長崎の時計師幸野吉郎左衛門が将軍家の香箱時計を修繕

1730(享保15)【中御門】 庚戌(かのえいぬ)

  《奉行》三宅周防守(10/着)、細井因幡守(01/発)
  《商館長》アブラハム・ミネドンク(←10/31→)ピーテル・ボックスティン

  09/06昏、諏訪町より出火
  09/07「長崎くんち」を雨天強行するも途中で中止
     09/09踊り直し。09/09渡御09/11還御
     (2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  幕府から長崎奉行所へ長崎でも敲仕置きを申しつけるよう達し
     天保年間(1830〜1844)の諸事留には下帯を外しての敲は如何なものかと、下帯をさせての敲になる
     50敲、100敲がある
  浦上川河口付近で新田の開発のため埋立てが行なわれる
     のち数回にわたり埋立てられ浜口町、川口町、岩川町あたりができる

1731(享保16)【中御門】 辛亥(かのとい)

  《奉行》細井因幡守(10/着)、三宅周防守(11/発)
  《商館長》ピーテル・ボックスティン

  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  宮甚右衛門が官許を得て稲佐の稗田浜に鋳銅所を建て棹銅を造る
     1738(元文03)廃止となる
  大村で享保の大飢饉を芋で免れる
     のち評判になり幕府に望まれ芋窯(貯蔵用に土の中に掘った穴)から取った種芋を江戸へ送る
     のち青木昆陽が研究し全国に栽培が普及

1732(享保17)【中御門】 壬子(みずのえね)

  《奉行》三宅周防守(08/07大目付転出)、大森山城守(時長・前目付・08/07発令・12/着)、細井因幡守(在勤)
  《商館長》ピーテル・ボックスティン(←11/07→)ヘンドリック・ファン・デル・ベル

  02/寄合町、肥前屋の遊女朝波が唐館で男児を出産
     相手方の唐人、呉竜官は自分の子と認めず、混血児ではなく父なし子として取り扱われる
     抱主肥前屋八左衛門は朝波を臨月まで唐館においたのは不調法と叱責され奉行所に証文2通を差出すよう命じられる
  05/05諏方社にて将軍吉宗の子家重の婚儀祝賀とし神事及び神事能を催す
     以後、将軍及び嗣子の吉慶に際して神事能を催す
  06/米価が高騰し石90匁となる。1.5倍に
     奉行大森山城守は人民に斗米を施し唐3か寺の他、寺56か所にて施粥
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  唐人屋敷に出入りした丸山遊女の延べ人数は2万4644人、
     出島商館に出入りした丸山遊女の延べ人数は339人
  うんかの大発生により西日本一帯が大凶作となる
     大村藩7代藩主純富のとき領内も平年作の9割の被害を受ける
     へいぜい琉球芋(甘藷)を栽培して備え多数の餓死者をださずにすむ

1733(享保18)【中御門】 癸丑(みずのとうし)

  《奉行》細井因幡守(01/発・11/着)、大森山城守(11/発)
  《商館長》ヘンドリック・ファン・デル・ベル(←10/27→)ローヒル・ド・ラフェル

  01/07米価高値の売買に対し桶屋町・古町・今博多町・大井手町の米屋に市中の「かるきもの」33人が集まる
     穀物を取散らかし騒動を起こす
     乙名が訴え検使をを指出し鎮める
  02/筑後屋の遊女若紫が客唐人陳●(手偏に倫の旁)三との間に男児を出産、万太郎と名づける
     08/死去
  12/01夜、長崎村小島郷より出火
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  本博多町、大音寺坂の坂の上、ミゼリコルディア教会跡、大音寺跡に坂上神社が建立
     (坂の上天満宮、土産天神、駕屋天神、大音寺坂天神とも)
     原爆で焼失
     1955(昭和30)坂の下に社殿を新築。坂の下なのに坂上神社
  長崎奉行大森山城守が東北諸国の米を迴漕させて難民に施す。長崎での餓死者はなし
  博多屋久左衛門、鱗形屋勘十郎、刀屋八郎兵衛、河内屋庄兵衛、
     森弥次兵衛、春善次郎、村山庄右衛門、服部甚次郎ら町方、寺社方にて寄付、施粥が行われる
  緑蘿庵、大悲庵、廣徳庵、曇華庵、万寿庵、廣福庵などで施粥が行われる
  生月の益富又左衛門が捕鯨の方法を突組(銛で突いて捕る)を網組(網に絡ませ銛で突き捕る)に改める

1734(享保19)【中御門】 甲寅(きのえとら)

  《奉行》大森山城守(02/04退任)、窪田肥前守(忠任・前佐渡奉行・02/08発令・08/着)、細井因幡守(09/発)
  《商館長》ローヒル・ド・ラフェル(←10/16→)ダビド・ドリンクマン

  02/寄合町、薩摩屋の遊女初瀬が唐人陳捷英との間に男児、吉之助を出産
  03/12唐人30人が許しを得て諏方社の神事能を見る
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
     大波戸の御旅所にて湯立神事が再開される

1735(享保20)【桜町】 乙卯(きのとう)

  《奉行》細井因幡守(08/着)、窪田肥前守(09/発)
  《商館長》ダビド・ドリンクマン(←11/04→)ベルナルドス・コープ・ア・フルーン

  09/諏方社大祭費が銀11貫目余に。各町の費用はこのほかとする
  11/25夜、八百屋町藤崎久右衛門宅より出火。東中町、勝山町に延焼、55戸を焼失(「火玉火事」)
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  西川如見の子忠次郎が幕府天文御用方となる

享保年間(1716〜1736)

  浦上新田のため潮水の出入りを調整する堰堤を築く(井樋ノ口のはじめ、現宝町辺り)
  インド原産の夾竹桃(キョウチクトウ)が中国を経て長崎に移入
  長崎ガラスによるビードロ細工が長崎土産として有名になるまで発展
     眼鏡類や宙吹き素文のガラス器類、髪差し、笄(こうがい)、玉飾りのつり灯籠など
  木場六枚板に住む松浦家元家老パウロ原田善左衛門夫妻が難河原で火あぶりとなり殉教
  伊藤伊兵衛が江戸巣鴨に薬園を設置
  高松藩が薬園を設置

1736(享保21、元文01・04/28)【桜町】 丙辰(ひのえたつ)


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