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〈江戸時代(7)〉

元禄初期(1688〜)

  ジャンケン(石拳)などの「拳」が中国から長崎に伝わる

1688(貞享05、元禄01・09/30)【東山】 戊辰(つちのえたつ)

  《奉行》川口源左衛門(01/発・11/着)、山岡十兵衛(12/発)、宮城主殿(在勤)
  《商館長》ヘンドリック・ファン・バイテンヘム(←10/13→)コルネリス・ファン・アウトホールン

  08/14奉行が遠見触番頭の日高一郎兵衛、吉村善右衛門を呼び出す
     唐蘭船の監視体制を強化し、抜荷(密貿易)を取締るために新規に番所を建てるよう命じる
      1604(慶長09)ポルトガルへの糸割符仕法、1631(寛永08)唐船への糸割符仕法、
      1672(寛文12)市法貨物仕法・市法売買法、1685(貞享02)定高仕法などで統制した結果、抜荷の増発を招く
     のち遠見触番頭は協議を重ね小瀬戸に番所建設を具申
     両奉行が小瀬戸を検分、遠見番所、中御番所、不寝番所を設置することに
     遠見番10人(今井、福井、児嶋、古川、鬼塚、別府、塩澤、舘、嘉悦、戸瀬)を新たに召抱える
     水主20人を召抱え番所付御注進船4艘を配する
     11/30長崎奉行が巡見、勤務がはじまる
     長崎村庄屋の近郊、のちの鉄砲方高木道之助宅の側(現桜馬場)に長崎村十善寺郷より数軒が移転。新十人町と呼称
     1867(慶応03)12/小瀬戸の番所が廃止
     1868(明治01)04/06遠見番所の廃止の達しがでる
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  出島蘭館医としてウイルム・ホフマンらが来日
     大通詞の楢林春斎(鎮山)が師事して外科を学ぶ(楢林流開祖)
     楢林春斎(鎮山)にアンブロアス・パレ(フランス後期ルネッサンスの名医)の「外科全書」を伝える
     1706(宝永03)鎮山は「紅夷外科宗伝」を著す
     もとはアンブロアス・パレ(フランス後期ルネッサンスの名医)の「外科全書」
  長崎村小島郷十善寺(十禅寺)跡の長崎御薬園が薬園の役目を終える
     新たに立山奉行所内(現立山町)に御薬園が開設
     立山奉行所内では狭くて不自由なところも
     1720(享保05)薬園の役目を終える
     新たに小島村の天草代官所跡地(小島郷十善寺)に御薬園が移される
     1179坪(現十人町)に立山役所内の薬草木を移し、更に輸入した薬草木を植える
     吉宗により海外から有用植物の輸入が奨励されたこともあり、受け入れの窓口を果たしていた長崎の薬園の業務が増える
     受け入れた苗や種子は一旦栽培した後、江戸の小石川や駒場の御薬園に送られる
     また、幕府用品が不足した場合は直接に献上したり、奥医師に高額で売り渡す
  入港唐船数が年間194(内積戻77)で史上最高。延べ9128人の中国人が渡来
     長崎市中の人口は約6万人
     翌年より唐商船の来航数を70に制限
  大村藩領三重浦南京船と取引をした大掛かりな抜け荷団が検挙される
     頭人のもと資金をだす金元、船を調えるもの、船を動かす水主、買取った商品を売りさばくもの…など
     それぞれが分業化された大規模な組織
  小島郷に稲荷岳神社が創建
  住之江神社が創建
  永昌寺、梅香崎、小瀬戸に遠見番所を設置

1689(元禄02)【東山】 己巳(つちのとみ)

  《奉行》山岡十兵衛(10/着)、宮城主殿(11/発)、川口源左衛門(在勤)
  《商館長》コルネリス・ファン・アウトホールン(←11/01→)バルタザール・スウェールス

  01/15オランダ商館長アウトホールンが江戸参府に向かう途中、検使の豊田五左衛門が阿蘭陀大通詞加福吉左衛門を切り殺す
     場所は長崎街道最大の難所・冷水峠越えを明日に控えた鳥栖の田代宿
     口論の末の殺害だったが、止めに入った下役水野与右衛門にも手傷を負わせる。当の本人は切腹
     一行は大混乱に陥り長崎に戻る
     のち検使、下役、阿蘭陀通詞など人員をすべて入れ替え新しい陣容で再出発
  01/16唐人屋敷の造営工事が起工
     町年寄高木四郎兵衛、後藤庄左衛門が建築主任として万事の指揮にあたる
     今下町の乙名荒木市左衛門、内中町の乙名相原忠右衛門、今石灰町の乙名川原喜兵衛、
     新大工町の乙名安藤小右衛門、諸事差配役となり造営事務の各部門を担当
     大工の経験をかわれ出来大工町の乙名岡崎喜兵衛が大工差配役に
     01/27第1回唐人入居4888人。19棟
     04/15唐人屋敷が完成竣工
  01/27唐人屋敷に第1回唐人入居4888人。19棟
  04/15幕府が長崎奉行、平戸侯、島原侯に唐人屋敷(唐館)を造らせる
     1635(寛永12)唐船入港寄港地を長崎1港に限定して以降、密貿易が増加し治安維持が悪化したため
     十善寺村の薬園9373坪余の土地唐人屋敷に、市中に雑居していた在留唐人4888人を収容
      周囲を7尺以上の練塀で囲み、その外側に幅6尺、深6尺の溝渠を巡らす
      さらに外側に一定の空地を設け竹垣(竹矢来)で囲む厳重さ
      屋敷内への日本人の無用の出入りは非常に制限されたが、中国人の外出はかなり自由
      2階建長屋20楝の屋敷[3間×36間(2楝)、3間×37間(9楝)、3間×18間(9楝)]
      他に役人詰所、大門(一の門)、二の門、市場、天后堂(関帝廟)、土神堂、観音堂、牢獄などがある
      屋敷は門と総門とで区分、二の門の門頭には出島蘭賠と同じように日本人の出入りを取り締まる禁制の高札が立つ
      大門の脇に番所が設けられ無用の出入りを改める
      二の門の中に入ることができた日本人は遊女のみ。奉行所役人でもみだりに入ることは許されない
      大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれる
      唐人屋敷への出入りは厳しい制約があるが中国人の外出はかなり自由
      長崎奉行の支配下に置かれ管理は町年寄以下の地役人により行なわれる
     建設費は銀634貫目余。うち400貰目は幕府から借用、残りは総町が出資
     公借銀は5か年のうちに毎年80貫を返済
     財源は唐人から家賃として輸入品売り上げ高銀100貫につき銀2貫119匁を徴しこれにあてる
     近接民家15軒は、唐人屋敷の防火のため十善寺上の山に移転を命ぜられ、補償金として坪当り32匁9分3厘を支払われる
     1784(天明04)07/24唐人屋敷が天后堂(関帝廟)を残しほとんど全焼。在留唐人892人は唐4寺に収容
     のち唐人たちの自前の建築が許され再建。長屋は12楝(3間×9間の2階建、延べ床面積648坪)と4分の1に縮小
     1859(安政06)開国後は廃屋化
     1868(慶応04)まで
     1870(明治03)焼失
     のち市民に分譲
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  市中14か町に対して市内に火災が起きたときは、すぐさま唐人屋敷にむかい館内に詰めるよう命じる
     火事のときは遠近にかかわらず唐人屋敷に詰めて待機
     14か町…今石灰町、今鍛冶屋町、本五島町、新石灰町、島原町、出来鍛冶屋町、
      西築町、今籠町、本籠町、油屋町、東築町、北馬町、丸山町、寄合町
  向井去来が40才のとき長崎を訪れる。滞在期間は3か月
     向井去来は1651(慶安04)、後興善町に生まれ、8才のとき[1658(万治01)]に一家で京都に移り住む
     1698(元禄11)49歳のとき、再び長崎を訪れる。滞在期間は1年3か月
     故郷の気安さもあり各地を尋ね歩く。度々句会に出席しては句を吟じ、「入長崎記」ほかの俳文・記録を残す
     1704(宝永01)10/08《09/10》向井去来が京都・聖護院近くの家で病没
  新地御庫の土后祠、弁才天祠、大黒天祠が丸馬場安禅寺の支配になる。唐船置銀から当寺へ寄付させる
     1819(文政02)乙名頭取や総町乙名の寄進によって石門が建立
  唐船からの輸入品は560種余
     生糸やリンズ、サヤ、チリメン等の織物、反物、また砂糖、鹿皮、薬品、香料、金属、書籍など
     唐船への輸出品は銅と俵物(海産物)
     のち大阪の泉屋(住友家)が銅の売り込みに活躍
     のち江戸の呉服商三井家が絹織物の輸入に熱心
  興福寺の本堂の大雄宝殿が再建
     1690(元禄03)山門が再建される
  長崎の家数1万1435(家持3459・借家7967)、人口5万1359(男2万6376・女2万4904)
     1694(元禄07)家数1万1494、人口5万3522(男2万7844・女2万5778)

1690(元禄03)【東山】 庚午(かのえうま)

  《奉行》宮城主殿(10/着)、川口源左衛門(10/発)、山岡十兵衛(在勤)
  《商館長》バルタザール・スウェールス(←10/21→)ヘンドリック・ファン・バイテンヘム

  09/28《08/26》ドイツ最大の学究旅行家で博物学者のエンゲルベルト・ケンペルが世界旅行の途中、日本に立ち寄る
     出島に商館医として2年間滞在。2度の江戸参府を体験
     ケンペルは先駆的な日本学者としてヨーロッパでもっともよく知られた代表的な人物
     著書「日本誌」[1727(享保12)没後刊行]は鎖国日本の内側の姿を本格的、科学的にヨーロッパに紹介している
       正式のタイトルは『日本誌、その帝国の往古と現在の状況および政府について
         また、その諸寺院、宮殿、城郭およびその他の建築について
         その「産出する」金属類、鉱物、樹木、植物、諸動物、鳥類および魚類について
         皇室および幕府の事蹟と継承について
         さらに、国民の由来、宗教、農工業、ならびにオランダ人および中国人との通商について
         あわせて、シャム王国の記述を付す』という
     来日した年、ケンペルが出島に薬草園をつくる。出島3学者(ケンペル、ツェンベリー、シーボルト)のひとり
  11/貿易商園山善爾が私費により伊勢町〜八幡町に石橋の阿弥陀橋(極楽橋)を架ける
     1795(寛政07)07/19大水害で多いに破損
     崩落の記録はなし
     1982(昭和57)07/23大水害後の河川改良工事で解体
     のち改架
  12/長崎奉行を諸大夫席とし従五位下に叙することとなる(諏方神事に侍1人を出して警備させ、奉行を神輿に供奉させる)
     1658(萬治01)諏方社神主が正六位下に叙せられ無位の奉行はその下位に位置する
     諸家との均衡および外交上、奉行を無位無官にしておくことはできず
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  興福寺の山門が再建される
     元禄年間(1688〜1704)中国の海の神を祀る媽姐堂が再建される
  唐人屋敷の火の元番がはじまる。宿町より2人が番人となる
     火の元番の賃金は1日2匁が長崎会所より支給

1691(元禄04)【東山】 辛未(かのとひつじ)

  《奉行》川口摂津守(宗恒・10/着)、山岡対馬守(景助・10/発)、宮城越前守(和澄・在勤)
  《商館長》ヘンドリック・ファン・バイテンヘム(←11/09→)コルネリス・ファン・アウトホールン

  03/05夜、火具を揃えていたことが判明、放火未遂となる
      大黒町・中川弥左衛門下女さつ(21)04/03刎首獄門
      大黒町・中川弥左衛門(43)04/03長崎十里四方追放
      西上町・三四郎(46)は、さつに証人として偽りの申立てを頼まれ→04/03刎首獄門
  09/唐人屋敷内に唐船船頭達の願いが許され土神堂を建立
     1784(天明04)火災で焼失
     のち唐三ケ寺(興福寺・崇福寺・福済寺)の●●により復旧、数度改修
     1950(昭和25)09/13老朽化のため石殿のみを残し解体
     1978(昭和53)05/10長崎市が復興工事
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、西上町、
     八百屋町(羅漢踊)、勝山町(大薩摩)、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
     丸山町、寄合町は傾城の踊りをやめ、禿童の踊りを行なう
  09/唐人の願いにより、本年の諏方神事から大波戸の御旅所での諏訪大祭の奉納踊りの観覧が許される
     【1692(元禄05)?】
  唐館に探番が詰めることになり出入改めが厳しくなる
  唐人が初めてお旅所にて諏訪大祭の奉納踊りを見物する
  出島蘭館医ケンペルが諏訪神事奉納踊りを観覧
  ケンペルが甲比丹の江戸参府に随行
  禿(かむろ)たちが諏訪神事の先踊りをすることになり、遊女の先踊りはやめに
  領主大村純長が村の安全と武運長久を祈願し道栄崎に祠を建て弁財天を安置
     1859(安政06)外国人居留地造成のため住民が浪ノ平に移住、弁財天も古河の辻に移し浪ノ平の氏神に
     1868(明治01)伊都岐島神社に改称
     1910(明治43)以前から祀られていた琴平神社に合祀
  外科医栗崎道明正羽、吉田自庵、村山自泊の3人が江戸に召され幕医となる
     栗崎道明正羽は長崎の南蛮医栗崎道喜の4男で、長崎奉行所の役医であった
     1701(元禄14)浅野長矩の刀傷事件で吉良上野介を治療する
  外科医の栗崎道明正羽、吉田自庵、村山自泊の3人が江戸に召され幕医となる
     各録200石を支給され、子孫代々幕府に仕えて医官となる
     栗崎道明正羽は長崎の南蛮医栗崎道喜の4男で、長崎奉行所の役医
     1701(元禄14)松の廊下での浅野長矩の刀傷事件で吉良上野介を治療

1692(元禄05)【東山】 壬申(みずのえさる)

  《奉行》山岡対馬守(10/着)、宮城越前守(11/発)、川口摂津守(在勤)
  《商館長》コルネリス・ファン・アウトホールン(←10/29→)ヘンドリック・ファン・バイテンヘム

  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  09/唐人の願いにより、本年の諏方神事から大波戸の御旅所での諏訪大祭の奉納踊りの観覧が許される
     【1691(元禄04)?】
  ケンペルが二度めの江戸参府に同行
  エンゲルベルト・ケンペルの著書「日本歴史」のなかの遊女町の記事
     1)丸山の遊女町は2町から成り立つ
     2)遊女屋の建築は市中で最も壮麗
     3)丸山の遊女屋の設備は非常によく行き届いている
     4)遊女の年季は10年から20年
     5)遊女屋の抱え遊女数は1軒で7人から30人位
     6)遊女の教養は舞踏、音曲、読み書き等一通り教えられる
     7)揚代は1匁から2歩まで、それ以上とると罰せられる
     8)お茶ひき女郎、無作法な女郎は罰せられる
     9)年季終了後、社会は年季奉公した女を世間並みの女と同等に待遇する
     10)遊女奉公の罪は遊女其の者にはなく親にあるとされる
     11)遊女屋の社会的地位は卑賎でありくつわと呼ばれる
  丸山町の遊女577人、寄合町の遊女866人と最多に
     1902(明治35)丸山町、寄合町両町の貸座敷39軒、芸妓180人、娼妓520人

1693(元禄06)【東山】 癸酉(みずのととり)

  《奉行》宮城越前守(10/着)、川口摂津守(10/発・12/15江戸町奉行転出)、山岡対馬守(在勤)
  《商館長》ヘンドリック・ファン・バイテンヘム(←10/19→)ヘリット・ド・ヘーレ

  08/04シャム船が入港。漂流中に救助された広南人18人、うち女9人が乗船
     08/17唐人屋敷への上陸が許可される
     10/広南船で帰国
  09/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/11還御
     (7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  10/17大村藩22代領主大村純長が武運長久と村中安全を祈願し自領の戸町村雄浦郷に一宇の社殿を建てる
     諏方大明神を祀る。大浦諏訪神社が創建
     以来、付近の住民は毎年09/09に大祭を執行。大浦くんちと称する
     1891(明治24)相生町の諏訪神社で神社再興200年祭の祭礼に「俄(にわか)踊り」の奉納がある
  丸山町、寄合町が諏訪神事のため長崎会所から8貫目を借用、年賦償還として箇所銀から差し引く
  高麗町、大覚院内の八幡宮の寺号を大覚寺
     1868(明治01)八幡神社に
     1878(明治11)宮地嶽神社を勧請し宮地嶽八幡神社
  六枚板(現三ツ山町)と乳母(現女の都)で金山の採掘が行なわれる

1694(元禄07)【東山】 甲戌(きのえいぬ)

  《奉行》近藤備中守(用章・前御先鉄砲頭・01/11発令・10/着)、山岡対馬守(10/発・12/14退任)、宮城越前守(在勤)
  《商館長》ヘリット・ド・ヘーレ(←11/07→)ヘンドリック・ダイクマン

  10/江戸商人の伏見屋四郎兵衛が唐、蘭船の売れ残り品を元価銀1千貫目分だけ銅で交易することが認められる
     代物替=定額以上の貿易品も銅で支払えることになり銀の流出を防ぐ
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  ●●町に鍵屋薬品本舗が創業
     屋号「鍵屋」の由来は鍵の作り方を秘密にしたように薬の製法も秘伝とされていたことから
     紀州藩出身の立石某が中国から入った薬を日本人の体質に合うように処方、改善して「鍵屋肥児丸(ひにがん)」製造
     江戸中期立石某より漢方医の森家が受け継ぐ
     明治時代福地家へと伝わる
     「鍵屋・肥児丸(ひにがん)」
       子供の食欲不振や胃弱、過食など、「疳虫」と呼ばれる胃腸障害などに効果、効能があるといわれる
     「鍵屋・順和湯(じゅんわとう)」
       女性特有の症状…産前産後、妊娠のむくみ、つわり、ヒステリー、月経不順、足腰の痛み、手足腰冷込み、
       逆上(のぼせ)、頭痛、感冒、更年期障害、更年期の神経症、めまい…などに効能・効果がある
  聖福寺に長崎で一番大きな梵鐘が寄進される。俗に鉄心の大鐘と呼ばれる
     鐘には撞木が両側につけられていて異船襲来のときは、この鐘をついて警報が発せられる
     1703(元禄16)山門が建立される
  松尾芭蕉が西国なかんずく長崎への旅を志すが、途中大坂で発病
     駈け付けた向井去来などの門人に見取られて御堂筋の旅宿花屋で客死。近江膳所の義仲寺に葬られる
  長崎の家数1万1494、人口5万3522(男2万7844・女2万5778)
     1696(元禄09)家数1万1257、人口6万4522(男3万3469・女3万0549)

1695(元禄08)【東山】 乙亥(きのとい)

  《奉行》丹波遠江守(長守・前目付・02/05発令・10/着)、宮城越前守(11/発)、近藤備中守(在勤)
  《商館長》ヘンドリック・ダイクマン(←10/27→)コルネリス・ファン・アウトホールン

  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
     大村町の傘鉾の文字を北島雪山が書く
  伊良林郷矢ノ平・大久保、馬込郷濱の平に、初めて火葬場を設ける
  長崎港口の高島で五平太が火を燃やしていると木の下の黒い岩(石炭)が燃えだすのを発見
  江戸町の28坪が埋立てられる
  西川如見が「華夷通商考」を著し、中国、南洋、西洋の事情を紹介する
  雲仙の湯元が藩の管下を離れて個人経営となる
     九州鎮護の守り神、雲仙神社と満明寺に参詣する諸大名の陣屋「湯守の宿」として創業
     共同浴場・延暦湯の経営も兼ねる
     1721(享保06)湯元旅館2代目の加藤小左衛門が小地獄温泉を開く

1696(元禄09)【東山】 丙子(ひのえね)

  《奉行》宮城越前守(02/14江戸で死去)、諏訪下総守(頼蔭・前持筒頭・03/28発令・10/着)、
      近藤備中守(10/発)、丹波遠江守(在勤)
  《商館長》コルネリス・ファン・アウトホールン(←10/15→)ヘンドリック・ダイクマン

  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  江戸町の大波戸32坪と16坪が順次埋立てられる
  出島乙名の吉川儀部右衛門の願いによって、笹山甚五右衛門を新たに任命。交代で勤務
  長崎の家数1万1257、人口6万4522(男3万3469・女3万0549)
     1703(元禄16)家数(家持8500・借家1万0206)、人口4万1553

1697(元禄10)【東山】 丁丑(ひのとうし)

  《奉行》近藤備中守(10/着)、丹波遠江守(11/発)、諏訪下総守(在勤)
  《商館長》ヘンドリック・ダイクマン(←11/03→)ピーテル・ド・フォス

  02/15本紺屋町より出火
  10/銀5千貫目を限度とする銅代物替貿易は長崎が経営することになる。代物替会所を本興善町に設立
  12/河村嘉兵衛(河村甚右衛門?)の母妙了尼が私費で古町〜本紙屋町に石橋の古町橋を架ける
     1721(享保06)閏07/28洪水で崩流
     1739(元文04)11/僧周傳により再架
     1795(寛政07)07/19破損
     1796(寛政08)05/26〜06/06崩流
     1803(享和03)08/09公費で長崎奉行所が架設
     1982(昭和57)07/23大水害で流失ののち再架
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町

1698(元禄11)【東山】 戊寅(つちのえとら)

  《奉行》諏訪下総守(08/発・09/26免職閉門)、丹波遠江守(10/着)、近藤備中守(在勤)
  《商館長》ピーテル・ド・フォス(←10/23→)ヘンドリック・ダイクマン

  04/08夜、七つ半に西役所(長崎奉行諏訪下総守頼蔭)より出火
     04/09暁、残火により西役所が焼失。江戸からの咎めもなく西役所は公費にて再建
  04/23元禄の大火。暁(午前4時頃)、後興善町より出火22か町に延焼し
     新興善町、本興善町、本博多町、堀町、新町、船津町、浦五島町、
     本五島町、大黒町、恵美須町、西中町、西上町、下筑後町、金屋町が全部焼失
     豊後町、小川町、樺島町、東上町、上筑後町、今下町の幾分を焼失
     家屋2044戸、土蔵33棟、本蓮寺、法泉寺、穢多住宅、唐船貨物(28艘分の積荷)、貿易品など3377貫目を焼失
     焼死者は男7人、女1人。犬121、猫297。罹災者9832人
     五島町、大黒町の海岸にある唐人土荷蔵33(唐船荷物24隻分)が焼失
     翌日午後4時に鎮火
     奉行所より米200俵をだし罹災民を救済、佐賀侯鍋島氏は定価(1俵5匁)をもって米2千俵を類焼者に貸与
  06/01万屋町で投火
  06/10万屋町で投火。06/01ともに万屋町伊右衛門(20)が内田左兵衛宅に投火
     万屋町・伊右衛門長崎十里四方追放、立帰るときは死罪
  07/09美濃北方(岐阜市北方町)の人で芭蕉晩年の弟子の各務支考が来崎
     各務支考は「俗詠平語」を旗印に諸国を行脚し、俳諧を広く日本人各層に普及する
     長崎では酒屋町の簑田卯七の住まい十里亭に宿す
  11/岡正敏が大井手町〜本紙屋町に石橋の大井手橋を架ける
     1721(享保06)閏07/28洪水で崩流
     1740(元文05)再架
     1795(寛政07)07/19洪水で崩流
     1796(寛政08)05/26仮橋が流失
     1804(文化01)09/25公費で再架
     1911(明治44)09/在来の石材を用いて拱石橋に架け替え
     1982(昭和57)07/23大水害で流失のち再架
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  中国貿易に銀2千貫目分の俵物諸色による代物替が許可され、唐船の数が80隻に増加
     糸割符会所を幕府の長崎貿易官営化として貿易を司る役所「長崎会所」と改め東中町にて正式に発足
     町年寄筆頭高木彦右衛門が勘定奉行直属の幕吏身分、異国商売吟味定役并運上銀納方役となる
     長崎会所は外国貿易と運上事務を統括。市政・貿易を中心に会計事務や貿易業務の一切を取り扱う
      貿易額の決算から地役人約2千人の諸給与、地下配分、幕府への上納金、
      市内や長崎10か村の徴税・貿易品入札・品物の引渡しなど
      天災・人災による被害の復旧や災民救済にかかる多額費用は「非常備金」「貧民救助米代」の名目で長崎会所が支出
       以前の災民救済は幕府に直接救済を頼み大坂金庫より支出
     彦右衛門のもと町年寄4人に兼任を含む請払役12人と筆者小役15人の陣容
     一般貿易収入以外に取引高に比例して得た礼銀などを長崎奉行、目付、地役人、特権商人、長崎町人へ配られる
     利益銀の「箇所銀」「かまど銀」(ボーナス?)が7月と12月に配分される
     のち八百屋町の敷地219坪余の会所に移す
       会所調役、目付、吟味役、請払役、筆者、金見、銀見、札読、極印打などの諸役が設けられる
     1859(安政06)06/02奉行管理の下、長崎会所の一部として外交、貿易事務を処理する湊会所を俵物役所内に設置
  楢林鎮山が通詞役を辞して、医学の研究に専念
     通詞役は長男量右衛門が継ぎ江戸町に住し、医業は次男新吉(二代栄哲)が継承して屋敷は大村町に
  向井去来が49才のとき、再び長崎を訪れる。滞在期間は1年3か月
     故郷の気安さもあり各地を尋ね歩く。度々句会に出席しては句を吟じ、「入長崎記」ほかの俳文・記録を残す
     1704(宝永01)10/08《09/10》向井去来が京都・聖護院近くの家で病没
  唐蘭貿易の総元締高木彦右衛門が唐船70隻の他に10隻増やし定額6千貫の他に銀高2千貫目の俵物諸色による代物替法が許可
     輸出品の銅の生産が減ったために代わり俵物の支払いにより貿易
     俵物とは[煎海鼠(いりこ)、鱶鰭(ふかひれ)、干鮑(ほしあわび)の海産物]のこと
     請色とは[昆布(こんぶ)、鯣(するめ)、天草(てんぐさ)など]のこと

島原藩主松平忠雄の時代[1698(元禄11)〜1735(享保20)]

  島原の初市見世で煎餅を焼いて売る

1699(元禄12)【東山】 己卯(つちのとう)

  《奉行》林土佐守(忠和・前徒の頭・06/28発令)、大嶋伊勢守(義也・前新番頭・06/28発令・10/着)、
      近藤備中守(10/発)、丹波遠江守(在勤)
  《商館長》ヘンドリック・ダイクマン(←10/12)(10/21→)ピーテル・ド・フォス

  03/27出島乙名から立山役所、西役所へ口上書を差し出す
     内容は「唐館同様に蘭館へも昼夜ともに遊女、禿(かむろ)の出入を許可されたい」との旨
     1700(元禄13)05/12許可が下りる
  03/大井手橋を架けた岡正敏の弟・岡正恒が私費で今魚町〜諏方町に石造アーチ橋の魚市橋を架ける
     1721(享保06)07/28大洪水で崩落
     のち木橋を再架
     1795(寛政07)07/19大洪水で崩落
     1796(寛政08)05/26大洪水で仮橋が崩落
     1800(寛政12)11/18石橋が完成
     1810(文化07)03/06崩流
     1813(文化10)08/木橋に架け替え
     1842(文化10)08/木橋に架け替え
     1842(天保13)07/石橋に架け替え
     1925(大正14)コンクリート橋に架け替え
  06/28長崎奉行を4人として隔年2人交代となる
  07/04内町・外町の取り扱いの区別を廃止し長崎80町すべでが長崎奉行の支配下になる
     総町に地下銀を平等に配分する
     外町常行司福田伝次兵衛・久松善兵衛を新たに町年寄に任命、各15人扶持銀37貫300目を給する
     これより町年寄6人となり貿易事務を分掌する
  08/12〜14諫早に町並みを変えてしまうほどの大水害が発生
     08/12降り出した雨で本明川の水量が増量
     08/13大雨によりついに河水は氾濫、町中に濁流となって流れ込み 大参事に
     検分使の報告によると死者487、水損の田地570町余、 生産高にして3930石余に
     生産高の34パーセントが水害にあう
     家臣団の居住地域であった宇戸・笹神町方面の被害がひどく、 ほとんどの家屋が流出
     被災後、本小路、袋小路等の土木工事がすすみ170坪余の屋敷割りが行われる
     1709(宝永06)02/第7代領主茂晴は今後の領内の息災を祈り本明川上流、富川に竜神を祭る
     また岸壁に五百羅漢像を彫刻するなどして安泰を祈願
     継続事業として9年間の歳月を費やす
  12/芭蕉供養塔「時雨塚」が●●●●に建立
     楢林鎮山(元阿蘭陀大通詞で楢林流紅毛外科の祖・俳号陀方)が書を担当
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  岸村夫妻が私費で今博多町〜本紙屋町に編笠橋を架ける。中島川に架かるアーチ石橋、最後の新架設
     1721(享保06)閏07/28洪水で崩流
     1795(寛政07)07/19洪水で崩流
     1796(寛政08)05/26大洪水で仮橋が崩落
     1802(享和02)08/08公費で再架
     1810(文化07)03/06大水で欄干が破損
     1982(昭和57)07/23大水害で流失のち再架
  元禄の大火など大火予防のため倉庫の所有者39人が唐人屋敷前面の西濱町海岸を海面埋築
     唐船専用の荷物倉所「新地蔵」の造成工事がはじまる
     1702(元禄15)完成
     1868(明治01)12/下外国人居留地に編入されるまで
  春徳寺の境内に崎陽芭蕉門人が芭蕉句碑を建立、時雨塚をつくる

1700(元禄13)【東山】 庚辰(かのえたつ)

  《奉行》林土佐守(04/着)、丹波遠江守(04/発)、近藤備中守(10/着)、大嶋伊勢守(10/発)
  《商館長》ピーテル・ド・フォス(←10/31→)ヘンドリック・ダイクマン

  12/20早朝佐賀鍋島領深堀の武士数10人が浜町の高木邸に侵入
     長崎の町年寄で代物替会所の頭取・高木彦右衛門とその一統7人を討ち取る
     [事件の発端]深堀の家士深堀三右衛門(69)、柴原武右衛門(59)の両人と高木家の仲間のあいだで、
     三右衛門使用の杖でハネた泥が惣内・高木の合羽にかかった些細なこと
     因縁をつけ、2人の武士は平身低頭してわび、 いちおう落着
     が、高木の威をかりる惣内は、仲間たち20人をもって長崎五島町の深堀屋敷へ押しかける
     さきの2人は刀を抜き、追い払おうとしたが、逆に両差しを取られる
     深堀に注進されると、親類、縁者、同僚は逐次、陸路で3里ほど離れた長崎へ向かう
     人数がそろった深堀方は、高木邸に切りこみ面目を果たす
     引揚げのとき三右衛門は高木邸玄関式台で、武右衛門は橋の上で切腹、他は深堀屋敷へ帰る
     事件は長崎奉行から江戸の老中へ報告
      長崎側は「深堀騒動」、深堀側は「長崎騒動」と呼び、
     1702(元禄15)の赤穂浪士の吉良邸討入りになぞらえ、俗に「長崎版忠臣蔵」ともいわれる
     1701(元禄14)03/判決申渡し
     深堀側は切腹10人、遠島9人、主人鍋島官左衛門は当日不在につき御構無用、切腹者の跡目相続は切米15石の扶持で許可
     高木側は闕所、倅の彦八は大小を召し上げ、長崎七里四方追放、京、大阪、江戸払い、使用人8人には死刑
     1709(宝永06)09/江戸から9人の赦免状が長崎奉行所に届く。晴れて故郷の土が踏める日がくる
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、
     本石灰町、酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  丸山町の乙名・安田次右衛門が奉行所の許しを得て
     自邸の菅公神像を小島郷に移し社殿を建て梅園天満宮となる。丸山町の鎮守社
  諫早で大干害に見舞われ多数の人が食物に困る

1701(元禄14)【東山】 辛巳(かのとみ)

  《奉行》丹波遠江守(04/着)、林土佐守(04/発)、大嶋伊勢守(10/着)、近藤備中守(10/発・12/01大目付転出)
  《商館長》ヘンドリック・ダイクマン(←10/21→)アブラハム・ドゥフラス

  01/23暁、本石灰町より出火
     丸山、寄合町が全焼。遊女町も類焼、記録類がほとんど焼失
  01/《元禄13・12/》5代将軍徳川綱吉の「生類憐みの令」を死罪覚悟で無視し郡奉行の陶山訥庵が対馬全島の猪を退治
     対馬の山に住む猪が村に下り作物を食い荒らし、作物は甚大な被害を受ける
     心強い協力者として平田類右衛門が加わる
     10年後対馬全島の猪根絶を完了。農作物の危害を防ぐ
  03/深堀騒動」「長崎騒動」の判決申渡し
     深堀側は切腹10人、遠島9人、主人鍋島官左衛門は当日不在につき御構無用、切腹者の跡目相続は切米15石の扶持で許可
     高木側は闕所、倅の彦八は大小を召し上げ、長崎七里四方追放、京、大阪、江戸払い、使用人8人には死刑
     1709(宝永06)09/江戸から9人の赦免状が長崎奉行所に届く。晴れて故郷の土が踏める日がくる
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  赤穂城主・浅野長矩が江戸城殿中にて吉良義央を討ち切腹
     (「深堀騒動」を模倣したといわれる)
  南蛮医栗崎道喜の4男栗崎道明正羽が松の廊下での浅野長矩の刀傷事件で吉良上野介を治療する
     栗崎道明正羽は元長崎奉行所役医で幕医
  オランダよりべっ甲の輸入がはじまる。長崎にべっ甲業をはじめる者がでる

1702(元禄15)【東山】 壬午(みずのえうま)

  《奉行》林土佐守(04/着)、丹波遠江守(04/発・閏08/15江戸町奉行転出)、
      永井讃岐守(直允・前火の元改・01/11発令・10/着)、大嶋伊勢守(10/発)、
      別所播磨守(常治・前目付・10/15発令)
  《商館長》アブラハム・ドゥフラス(←10/30)(11/09→)フェルディナンド・ド・フロート

  07/女唐人甘祖がジャガタラ船で渡来、唐人屋敷への上陸が許可される
     11出帆帰国
  10/20奉行所から女唐人の渡来厳禁の申し渡し
  12/樺島町より出火
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  唐人屋敷前面に唐船専用の荷物倉所「新地蔵」(現新地町)が竣工
     総面積約3500坪、土蔵12楝の他、荷役場、役人詰所などがある

1703(元禄16)【東山】 癸未(みずのとひつじ)

  《奉行》別所播磨守(03/着)、林土佐守(05/発・11/15江戸町奉行転出)、
      大嶋伊勢守(07/28作事奉行転出)、石尾阿波守(氏信・前目付・07/28発令)、
      佐久間安芸守(信就・前西丸留守居・11/15発令)、永井讃岐守(在勤)
  《商館長》フェルディナンド・ド・フロート(←10/30→)ヒデオン・タント

  10/31夜5つ半時、唐人屋敷で出火。長小屋1棟3間11部屋が焼失
     69、70、71番の暹羅船の3艘割当の船頭部屋
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  月珍が伊勢町に大徳寺を開創
     1704(宝永01)大教院として梅香崎に移転創建
     1707(宝永04)御朱印地となり三大寺(晧台寺、大音寺、本蓮寺)と同格になる
     1708(宝永05)本籠町岸上に移る
     自然災害の都度公借を受け累積借銀を多額となり、外国貿易の不振で唐からの寄付は皆無
     檀家を持たず什宝物は漸次売却、本堂・鐘楼などの建造物も売却
     1868(明治01廃寺
  聖福寺に山門が建立される
     1705(宝永02)天王殿が建立
     天王殿は中央に仏殿があり左右に通り抜けられる門がある
  長崎の家数(家持8500・借家1万0206)、人口4万1553
     1715(正徳05)家数1万0206(家持1703・借家8500)、人口4万1553

元禄年間(1688〜1704)

  唐大通詞・林道栄が領主大村純長から邸地を与えられる。道栄が浜の由来
  オランダ船が出島にコーヒー(南蛮茶)を持ち込む
  興福寺の中国の海の神を祀る媽姐堂が再建される
     1865(慶応01)本堂の大雄宝殿が暴風で大破
  深堀の地が佐賀藩深堀領として、藩主鍋島綱茂のもと鍋島官左衛門茂春が領主を勤める
     1889(明治22)深堀、大篭、香焼が合併して深堀村となる
  尾張藩が薬園を設置
  亀(玳瑁=たいまい)が「奢侈禁止令」により庶民には手に入りにくい貴重なものとなる
     奢侈禁止令=江戸幕府が士農工商を問わずに発令した贅沢を禁じる法令及び命令
     それまで亀は鶴とともに長寿のしるしとしてめでたい品とされ、かんざし、櫛、箸などが各地の大名に愛用された
     のちある藩主が幕府に対し、婚礼に際し「是非ともタイマイ製品は必要である」と上申を行なう
     「玳瑁は唐より渡来した高価品であるが、わが日本内地の亀の甲で作る品は差し支えなきや」と苦肉
     「鼈甲(すっぽんのこう)で作る品ならば一向に差し支えなし」と許可を得る
     以来、玳瑁の名称は鼈甲(べっこう)と改称される

1704(元禄17、宝永01・03/13)【東山】 甲申(きのえさる)


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