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〈江戸時代(4)〉

1644(寛永21、正保01・12/16)【後光明】 甲申(きのえさる)

  《奉行》馬場三郎左衛門(09/着)、山崎権八郎
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ヤン・ファン・エルセラック(←11/24→)ピーテル・アントニスゾーン・オーフェルトワーテル

  09/07「長崎くんち」…船津町、本博多町、樺島町、平戸町、
     新紙屋町、麹屋町、馬町、本鍛冶屋町、浜町、銀屋町、諏訪町
  09/09「長崎くんち」…榎津町、古川町、本紙屋町、新大工町、
     磨屋町、毛皮屋町、大村町、本五島町、今町、金屋町
  久留米の禅僧・石峯祖芳が長崎奉行で書物改めの役を命じられ、その功労を賞される
     奉行・馬場三郎左衛門が一寺の創建を許可。唐通事の娃頴川官兵衛が寄進
     河東山・禅林寺(臨済宗妙心寺派)を創建。本山は京都花園妙心寺
  山伏周教が今博多町に徳苑院を開創
     1678(延宝06)禅林寺に譲与、八幡町に移転、徳苑寺に改称
     1868(明治01)廃寺に
  下筑後町に利生院が創建
     1658(萬治01)聖無動寺と改称
  福田の砦・手熊館跡地に白髭大明神を勧請して白髭神社を創建。祭神は猿田彦命
  諸檀越が崇福寺[唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のひとつ]の殿堂を整えることに着手
     1646(正保03)唐商何高材の寄進により本堂1階建て黄檗様式の大雄宝殿が創建
     大雄宝殿は明末の華南方面の建築手法による

1645(正保02)【後光明】 乙酉(きのととり)

  《奉行》山崎権八郎(09/着)、馬場三郎左衛門
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》ピーテル・アントニスゾーン・オーフェルトワーテル(←11/30→)レイニール・ファン・ツム

  07/17夕方から強い風が吹き、夜半には暴風となり、翌朝まで雨風が吹き荒れる
     出島を囲む石垣の大半が飛ばされ、家屋や番小屋が倒されるなど多くの被害を受ける
     6隻入港していたオランダ船のうちレウェリック号に積まれた大砲9門が海に落ちる
     商館員たちが必死に探すが見つけられず、日本の潜水夫と契約を結び探してもらうことに
     のち最終的に4門の大砲が引き揚げられたが、残りは行方知れずに
  09/07「長崎くんち」…油屋町、今石灰町、筑後町、今籠町、
     今鍛冶屋町、西中町、東中町、豊後町、内下町、外浦町、島原町
  09/09「長崎くんち」…築町、桜町、小川町、内中町、上町、
     八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、新高麗町、炉粕町
  真言僧・慶順が出来大工町の桃溪橋傍に青光寺を創建
     1868(明治01)廃寺に
  出来大工町の光雲寺境内に松島神社が勧請される
     1854(安政01)松島神社が本河内に移され、本河内の古くからの稲荷の小祠と合祀。松島稲荷神社と称する
  豊後府内の城主・日野根織部正吉明が柞原(ゆすばる)八幡宮を風頭山のふもと元晧台寺の敷地に勧請
     1748(寛延01)隣接の聖福寺が敷地拡張のため中川郷に移転。中川八幡神社
  丸山町、寄合町の遊女の出島蘭館出入りが許される
     丸山遊女は日本行き、唐人行き、オランダ(出島)行きに分類、オランダ行きが最低とされた
  僧玄澄が炉粕町の丸馬場に小庵を建て住む
     1652(承応01)一応の寺院を建立しようと発願
     時の長崎奉行黒川与兵衛正直・甲斐庄喜右衛門正述も助けて一寺が完成
     さらに玄澄は江戸に上り、東叡山昆沙門堂門主、前大僧正公海に拝謁
     一寺開創の意を述べ、末寺になることを願いでる
     公海は自筆の書、松嶽山の三大字を書き与え正光院と名づけ安禅寺の寺号を授ける
     その上、探幽斎守信が描く東照大権現尊像を絵所狩野宗貞に写させたもの、
     日光門跡輪王寺一品親王染筆の大猷院殿(大猷院=家光公)の宝号筆を併せて賜る
     玄澄は、長崎に帰ると直ちに廟を寺内に建ててこれを祀る
     本堂や庫裏は丸馬場であり丸馬場公園一帯が境内
     1672(寛文12)秋/長崎奉行牛込忠左衛門勝登が二代院主玄海と計り寺の整備を行なう
     御宮・御霊殿・二王門・鐘楼・本堂・庫裡・僧房・浴室・僧厨に至るまで総てが完備
     1681(天和01)東叡山より厳有院(四代将軍家綱)の位牌を賜る
     これを機に、以後、免租朱印地に準じ歴代将軍の位牌を安置することとなる
     のち長崎における東照宮として崇敬を集める
     1687(貞享04)以降、歴代長崎奉行が頻繁に参詣。奉行交替に際しては、随時の居館になるのが慣例に
     そのため行装所として門外に屋舎を建てて従臣の宿泊に備える
     1689(元禄02)新地御庫の土后祠、弁才天祠、大黒天祠が当寺の支配になる。唐船置銀から当寺へ寄付させる
     1819(文政02)乙名頭取や総町乙名の寄進によって石門が建立
     1868(明治01)明治維新で幕府の庇護がなくなり廃寺となる。御宮等は破壊
     1874(明治07)内務省公布に基き、安禅寺遺址に公園設置が決まり、長崎公園が誕生。俗に諏訪公園とも
     1889(明治22)05/徳川家歴代将軍を祀る東照宮が丸馬場上の高台に移る
     1897(明治30)05/社殿が建立される
     1901(明治34)長崎県知事大森鐘一の尽力で東照宮神社として再興、諏訪神社の境内神社となる
     1910(明治43)09/19諏訪神社の末社となる

1646(正保03)【後光明】 丙戌(ひのえいぬ)

  《奉行》馬場三郎左衛門(09/着)、山崎権八郎(09/発)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》レイニール・ファン・ツム(←10/27)(10/28→)ウイルレム・フェルステーヘン

  09/07「長崎くんち」…本大工町、今博多町、本紺屋町、今魚町、
     本籠町、材木町、古町、上筑後町、後興善町、江戸町、本興善町
  09/09「長崎くんち」…浦五島町、引地町、掘町、新町、
     本石灰町、桶屋町、大井手町、船大工町、袋町、酒屋町
  11/28伊勢宮社殿竣工
     12/08遷宮式を行なう
     1710(宝永07)大神宮(伊勢宮)が銭屋川の鮎で初めて鮎神事を執り行なう
     1901(明治34)伊勢宮大神宮にて長崎初の神前結婚式が執り行われる
  唐商何高材の寄進により崇福寺の本堂1階建て黄檗様式の大雄宝殿が創建
     崇福寺は[唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のひとつ
     大雄宝殿は明末の華南方面の建築手法による
     1681(元和01)大雄宝殿が2階建てに重層化。1階の黄檗様式に対し2階は和様式
  高麗町の大覚院内に本社八幡宮を勧請し祀る
     1653(承応02)八幡宮の社殿が創建
     1693(元禄06)寺号を大覚寺
     1868(明治01)八幡神社に
     1878(明治11)宮地嶽神社を勧請し宮地嶽八幡神社に
  光雲寺が創建
  炉粕町に高林寺が創建
     1912(明治45)炉粕町の地を三菱造船所に売り、鳴滝2丁目の現在地に移転改築
  上筑後町に永昌寺が創建
     1688(元禄01)遠見番所が置かれる
  釈清安が照円寺を創建。江戸期から明治期を通じて西浦上地区唯一の真宗の寺院

1647(正保04)【後光明】 丁亥(ひのとい)

  《奉行》山崎権八郎(09/着)、馬場三郎左衛門(09/発)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞(09/12死去)、末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ウイルレム・フェルステーヘン(←10/10)(11/03→)フレデリック・コイエット

  02/05長崎奉行が西山郷圓山(現松の森)の「諏訪神社」に幕命を伝える
     旧神宮寺の旧跡「玉園山」の一区を社地として下賜される旨
     12/05《11/09》社殿造営工事がはじまる
     1651(慶安04)04/壮大な社殿が完成
     1651(慶安04)08/19遷宮
  06/04大洪水がおこり酒屋町の橋、袋町の橋、本古川町(本紺屋町)の橋が流れ落ち、濱町大橋は半ばより折れる
     酒屋町の橋は眼鏡橋のこと、1648(慶安01)の重修が修復か再架かは不明
  06/24ポルトガル修好使節乗組みのポルトガル船2隻来航
     06/26港内に入り通商を請う
     07/28使節に通商不許可、来航厳禁を通告
     08/06帰帆
  浦上淵村竹久保郷の能満院万福寺に弁財天を合祀。稲佐弁天社とも呼ばれるようになる
     1868(明治01)淵神社
  幕命により緊急情報の報告連絡機関として近国諸侯、家士による「聞役」を長崎に駐在させる
     《聞役を置いた14藩》
     薩摩、長州、久留米、柳川、島原、唐津、大村、五島…5〜9月在勤
     肥後、筑前、佐嘉、対馬、小倉、平戸…年中在勤
  向井去来の父、向井元升が幕府の許可を得て私力で東上町に聖堂と学舎を創設
     学門所「長崎聖堂」を建てる
     1663(寛文03)寛文の大火で焼失し一時中絶
     1676(延宝04)長崎奉行牛込忠左衛門が再興
     1711(正徳01)08/伊勢町の鋳銭所跡に移転、545坪の長崎聖堂(中島聖堂)が竣工【1714(正徳04)?】
     1868(明治01)廃止となる
     1959(昭和34)03/大学門と規模を縮小した大成殿が保存のため興福寺の境内に移築復元
  僧長音が桶屋町に妙音院を創建
     のち西山郷に移り能仁寺と改称
     1868(明治01)廃寺

1648(正保05、慶安01・02/15)【後光明】 戊子(つちのえね)

  《奉行》馬場三郎左衛門(09/着)、山崎権八郎(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》フレデリック・コイエット(←12/09→)ディルク・スヌーク

  08/諏方社が神宮寺の寺号を賜い玉園山神宮寺と改称
     1683(天和03)08/諏方社が神宮寺の寺号をやめて神道一式となる
  眼鏡橋を平戸好夢が重修
     重修が修復か再架かは不明
     1982(昭和57)07/23大水害で半壊
  山王権現の廟社を建立。山王神社が創立
     1652(承応01)現在地の坂本町に移転
  馬込郷に船蔵が建つ
  インドネシアから出島への途次船上で死亡したペーター・ブロチオフがオランダ人で初めて悟真寺に埋葬
  田上に真言僧尭存が観音寺を開創し「観音院」と公称
     1686(貞享03)尭存が高齢化して黄檗宗の僧、天州和尚に後の住職を委任。同宗の「石動山観音寺」となる
     開基には天州の師で臨済34世黄檗山万福寺第4代住持独湛を仰ぎ天州は開山
     唐船寄進銀受納資格を持つ黄檗山直属の末寺となる
  樋口権右衛門がオランダの医師カスハルより学んだ様式測量術を「規矩元法」と称して、免許状の形式で門人に伝える
     内容の大半は村上昌弘の「量地指南(1733)」、「量地指南後編(1754)」として公刊
     三角法を応用し、コンパスと定規を用いて距離と高さを測り、現地を縮図して地図作成を行う方法を示す
     のち時代とともにオランダ人を通じ様式測量術が漸次導入、多くの測量書が出版
  中国人医師の穎川入徳が小浜に来て、湯が病気などに効能のあること発見。温泉地として広く知られるようになる

1649(慶安02)【後光明】 己丑(つちのとうし)

  《奉行》山崎権八郎(09/着)、馬場三郎左衛門(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ディルク・スヌーク(←11/05→)アントニオ・ファン・ブロウクホルスト

  福済寺が泉州人の僧蘊謙(うんげん)により重興開山
     ●(ちゃく・「シ・さんずい」に「章」)州人の檀家が多く●(左に同じ)州寺ともいった
     のち筑後町に移転
     1655(明暦01)黄檗天竺様式の大雄宝殿が建立
  オランダ商館医としてカスパル・スハンベルヘンが渡来
     通詞西玄甫ら日本人青年4人が官許を得て彼に紅毛医術の教授を受ける(紅毛医師の医術がカスパル流)
  死亡したオランダ使節ドクトル・ピーテル・プロクホービスがオランダ人として初めて悟真寺に埋葬される
  仏教信仰が厚い丸山の名妓梅は光雲寺の松雲禅師に来訪を請い「普門品」の講義を聞く
     道で名妓梅と禅師とが出会ったときは禅師から挨拶するほど
  明朝末期の乱を逃れて長崎にきた漢方医頴川入徳が小浜へ。温泉の特効を説く

1650(慶安03)【後光明】 庚寅(かのえとら)

  《奉行》山崎権八郎(10/17死去・春徳寺に埋葬)、黒川与兵衛(正直・前目付・11/19発令)、馬場三郎左衛門
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》アントニオ・ファン・ブロウクホルスト(←10/25→)ピーテル・ステルテミウス

  06/町火消が創設
     それまで火災が発生したときは各町の町役人がそれぞれの火消人足を引連れて消防
  10/高一覧により堂門川(西山川)に石造アーチ橋の大手橋(堂門橋)が架かる
     1721(享保06)閏07/28大洪水で破損。掛り町の北馬町、南馬町、新大工町銀1貫500目を拝借し修理
     1934(昭和09)大手橋の擬宝珠親柱1本を眼鏡橋に補充活用
  春徳寺の開山泰室清安が梵鐘をつくらせる
     施主は枝村八郎兵衛尉重勝、鋳工は江戸御花入屋閑入。銘は元南禅寺高大寺住三江紹益
     1699(元禄12)崎陽芭蕉門人が芭蕉句碑を建立、時雨塚をつくる

1651(慶安04)【後光明】 辛卯(かのとう)

  《奉行》黒川与兵衛(06/着)、馬場三郎左衛門(11/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ピーテル・ステルテミウス(←11/03)(11/01→)アドリアーン・ファン・デル・ブルフ

  02/奉行馬場三郎左衛門が正覚寺下に玉帯橋を架ける
     玉帯橋の命名は明治15(1882)以降で、それまでは油街橋、油屋町橋、南石橋と呼ばれていた
     1795(寛政07)07/19大水害で少し破損
  04/西山郷圓山(現松の森)から移る「諏訪神社」壮大な社殿が旧神宮寺の旧跡、「玉園山」の地に完成
     10/03《08/19》遷宮
     以降、調停や幕府の崇敬が厚く長崎の総鎮守府に
     ●/●《09/13》造営完了の祝能の催しあり
  万屋町で開業していた南蛮医の栗崎道喜が86歳で没

慶安年間(1648〜1652)

  魚類集散場(魚市場)が金屋町から(今)魚町に移転
     問屋、漁業者は仕込金前貸に縛られた隷属的な関係にあり、漁業者の取込みや荷引きをめぐって問屋間の紛争が続く
     1664(寛文04)材木町(賑町)の本通りに移る

1652(慶安05、承応01・09/18)【後光明】 壬辰(みずのえたつ)

  《奉行》馬場三郎左衛門(01/退任)、甲斐庄喜右衛門(正述・前普請奉行・01/28発令・06/着)、黒川与兵衛(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》アドリアーン・ファン・デル・ブルフ(←11/03)(11/04→)フレデリック・コイエット

  04/興福寺3代住職逸念(明僧)が福州黄檗山万福寺の隠元に渡来を願う書を送る
     日本の仏教が官による保護に甘え堕落したのを憂い、改革し復興するため
     のち隠元は応じず使者の自恕を送り、ふたたび渡来をうながす
     1954(承応03)08/17《07/05》鄭成功が準備した船に隠元が30人の供と乗り3年の約束で来崎。興福寺に入る
  12/新高麗町に伊勢宮前〜高麗町に石橋の高麗橋が架かる
     【興福寺の檀徒である蘇州府の寄付で造られた】
     【伊勢の宮の神主が惣町勧化(長崎総町)の寄付で架けた】
     【陸手(くがて)28町の乙名の寄付で架けた】等の説がある
     1866(慶応02)04/麹屋町の池島正助が私費380両で架け替え
     1915(大正04)04/コンクリートで八幡町方4尺、伊勢町方15尺斜めに橋面を増設
     1982(昭和57)07/23大水害後の河川改良工事で解体
     のち改架
     1993(平成05)03/西山ダム下に移築復元
  渋江公師が出来大工町に水神神社を開創
     のち炉粕町に
     1739(元文04)八幡町、銭屋川の倉田水樋水源地近くに移転
     1920(大正09)本河内水源地に近い現在地に移転
  圓福寺(山王神社)が現在の地へ
     1868(明治01)山王日吉神社に
  炉粕町の丸馬場に小庵を建て住む僧玄澄が一応の寺院を建立しようと発願
     時の長崎奉行黒川与兵衛正直・甲斐庄喜右衛門正述も助けて一寺が完成
     さらに玄澄は江戸に上り、東叡山昆沙門堂門主、前大僧正公海に拝謁
     一寺開創の意を述べ、末寺になることを願いでる
     公海は自筆の書、松嶽山の三大字を書き与え正光院と名づけ安禅寺の寺号を授ける
     その上、探幽斎守信が描く東照大権現尊像を絵所狩野宗貞に写させたもの、
     日光門跡輪王寺一品親王染筆の大猷院殿(大猷院=家光公)の宝号筆を併せて賜る
     玄澄は、長崎に帰ると直ちに廟を寺内に建ててこれを祀る
     本堂や庫裏は丸馬場であり丸馬場公園一帯が境内
     1672(寛文12)秋/長崎奉行牛込忠左衛門勝登が二代院主玄海と計り寺の整備を行なう
     御宮・御霊殿・二王門・鐘楼・本堂・庫裡・僧房・浴室・僧厨に至るまで総てが完備
  4代藩主大村純長により徳川家歴代将軍の霊を祀るため円融寺が創建
     1868(明治01)廃寺となり護国神社となる
     のち境内奥の斜面に、江戸時代初期様式で造られた庭園が残される
     立石を組み合わせた枯山水の庭園で、国の名勝に指定される
  消防その他人夫雇入等を定める

1653(承応02)【後光明】 癸巳(みずのとみ)

  《奉行》黒川与兵衛(09/着)、甲斐庄喜右衛門(10/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》フレデリック・コイエット(←11/10)(11/04→)ハブリール・ハッパルト

  03/代官末次平蔵が自費で諏方神社拝殿を造る
  05/唐大通事陳道隆[穎川(えがわ)藤右【左?】衛門]が私財を投じ螢茶屋に一の瀬橋を架ける
     陳道隆は前年に妻を亡くす
     長さ9.1米、幅4.4米のアーチ型の石橋
     1887(明治20)頃橋銘に「ICHINOSEBASHI」と刻まれる
     【一説に1882(明治15)の日見国道改修の折り】
  07/17稲佐浦で唐船が焼失
     唐船の燿火には順番をもって船附町制度を設ける
     町が順番で消防・警備等にあたり出火の際その他に備えるため人夫を雇う
     長崎最初の消防組織
  山岡氏の荘に春徳寺2代住職心伝が東渕山雲龍寺を建てる。場所は桜馬場町観音堂から蛍茶屋方面一帯のうち
     如意輪観音を祀り、初夏に咲く紫藤が有名に
     のち春徳寺の退隠僧が入る
     1772(明和09)07/02大風により紫藤が折れる。寺も衰微
     1868(明治01)廃寺となる
     長崎家の花苑の地山岡吉兵衛の別荘地吉兵衛が寄進
  高麗町の大覚院内に八幡宮の社殿を創建
     1693(元禄06)寺号を大覚寺
     1868(明治01)八幡神社に
     1878(明治11)宮地嶽神社を勧請し宮地嶽八幡神社
  高鉾に砲台を築く
  町田市左衛門が官許を得てポルトガル定期船マードレ・デ・デウス号の引き揚げを試みる。銀300貫を引揚げる
     のち江戸期、大正期、昭和期に探索するが何も発見できず
     1980(昭和55)10/31笹川良一が関係する日本海洋開発が財宝の引き揚げを試みる
     港口四郎ケ島南約8百米の海上で、調査船上には本島長崎市長ら関係者以外の20人の姿も
     音波探知機には反応するが船体は発見できず
  高力忠房に従って島原に赴任した加藤善左衛門が雲仙に古湯を開き湯小屋を設ける
     のち加藤善左衛門が雲仙に湯元旅館を創業
     1672(寛文07)湯元旅館2代目の加藤小左衛門が湯守役に任ぜられる
     山留役として乙名を兼ねた役目につき雲仙一帯を管理

1654(承応03)【後西】 甲午(きのえうま)

  《奉行》甲斐庄喜右衛門(09/着)、黒川与兵衛(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ハブリール・ハッパルト(←10/31→)レオナルド・ウイニンクス

  03/林守●(でん・「殿」の下に「土」)が私費で
     一の瀬川の支流・鳴瀧川に径間5.1米の石橋中川(なかご)橋を架ける
     (林守●は前年に母を亡くす)
     1918(大正07)下流に新しく中川橋が架かり古橋と改称
  08/17《07/05》夜、黄檗派の明・福建省の僧隠元禅師(63)が長崎港に着く
     鄭成功が準備した船に30人の供と乗り3年の約束で来崎
     興福寺第三代住職逸然性融(わが国唐絵の祖)の要請による
     翌朝唐三寺の僧俗に迎えられ興福寺に晋山。住持となる
     独言性聞以下の弟子たちや諸種の職人など30余人を伴う
     10/15冬期結制で日本僧70人、唐僧20余人に
     1655(明暦01)05/23隠元が崇福寺に晋山し、興福寺と崇福寺の住持となる
     それまでの住持は監寺(かんす)に下る
     隠元は仏教の堕落は自浄作用が期待できず、外圧による改革を試すことに
     08/09京都妙心寺の僧龍渓らによる懇請により摂津富田の普門寺へ向かうため長崎を離れる
     はじめは長崎に3年ほどいて中国へ帰る予定だった
     1658(万治01)江戸で将軍家綱に謁見、酒井忠勝らのすすめで永住を決意
     1661(寛文01)京へ上り将軍家の保護のもと、宇治に寺地を授かり黄檗山万福寺(新黄檗)を開山
     弟子たちが各地に散り黄檗禅を広める
  07/05夜、黄隠元が携行品のひとつにインゲンマメを持ってくる
     他に唐豆、胡麻豆腐、胡麻あえ、けんちん汁。すいか、れんこん、なすび、もやしなどの中国野菜や普茶料理
     印鑑、明朝体文字、木魚、ダイニングテーブルなどを伝える。
     インゲンマメは興福寺に植えられる
     のち黄檗宗の文化とともに全国に広がる
     隠元の名は来日前から知れ渡っており「隠元冠字考」には
     隠元卓、隠元机、隠元帽子、隠元布団、隠元豆腐、隠元西瓜、隠元ハスなどがあった
  出島在留オランダ人が初めて大波戸御旅所の桟敷で諏方神事のお下りと奉納踊「長崎くんち」を観覧する
  向井元升が蘭通詞西玄甫を介し、紅毛医師アンス・ヨハンステイペルらの教示で「紅毛流外科秘要」(7巻)を著す
  歴代阿蘭陀商館長は陸上埋葬許可の陳情を続け、ガブリエルハッパールトのとき初めて悟真寺に蘭人の遺体埋葬が許可
     それまで幕府は在留オランダ人の死者を陸上に葬ることを許可せず
     遺骸は海上4〜5哩沖におもりを付けて水葬をを命じていた
     1659(萬治02)長崎散宿の唐人たちが墓地入口に祭場石壇、石製香炉を造り、春秋の祭祀法要を営む

1655(承応04、明暦01・04/13)【後西】 乙未(きのとひつじ)

  《奉行》黒川与兵衛(09/着)、甲斐庄喜右衛門(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》レオナルド・ウイニンクス(←10/23→)ヨアン・ボーヘリヨン

  04/幕府が糸割符制度を廃止。唐蘭からの輸入品が全て相対貿易となる
     長崎貿易はすべてが自由売買となる
     のち相対貿易により国内の貿易商人間の競争の激化を招くことに
     結果、輸入商品の価格が騰貴し金銀の流出が増大
     のち一時的に銀の輸出を禁止するが効果は上がらず
     1672(寛文12)11/貿易を市法売買法に変更
     市法売買法…市法会所が輸入品を評価した価格で買い入れ国内の商人に売る
      利益は幕府や長崎の町民や関係した商人に分配
      自由貿易から再び官営貿易・統制貿易に戻ったことに
      ただ、貿易額の制限ができず、額が年を追って増加することに
     輸入品はすべて入札で値段を決めることに
     売り手の外国人(オランダ人、中国人)には不利な安値であり、長崎商人が暴利を得る
     安値に対して外国人は商品の量を増やし長崎商人の支払いは増える一方に
  05/23隠元が崇福寺に晋山し、興福寺と崇福寺の住持となる
     それまでの住持は監寺(かんす)に下る
     08/09京都妙心寺の僧龍渓らによる懇請により摂津富田の普門寺へ向かうため長崎を離れる
     はじめは長崎に3年ほどいて中国へ帰る予定だった
     1658(万治01)江戸で将軍家綱に謁見、酒井忠勝らのすすめで永住を決意
  08/10《07/09》隠元の招きで木庵が来崎。福済寺に入る
     のち万福寺第2代となり法を継ぐ
  「長崎くんち」…船津町、本博多町、樺島町、平戸町、新紙屋町、麹屋町、馬町、本鍛冶屋町、浜町、銀屋町、諏訪町
  長崎くんちの踊り町の従来の慣習
     それまで出島・丸山・寄合の3町を除いた63町を3分して3年で一巡
      09/07に11町、09/09に10町、丸山・寄合は毎年奉納
     本年から6分して6年一巡と改め、当年は1町・翌年は10町に変更
      丸山・寄合町は従来通り毎年、踊りを奉納
  福済寺で黄檗天竺様式の大雄宝殿が建立
     1658(万治01)唐大通事頴川藤左衛門が山門を寄進
  唐人が初めて競渡舟(ペーロン)を行なう
     ☆前年の冬から長崎港に停泊していた数隻の唐人の人々が小船で競漕し船神をまつり風を祈ったのが始まり
     ☆楚の屈原が汨羅(べきら)の川に身を投じた05/05、その死を悼んだ故事にちなむとも
  第6回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙●(王編に行)、総人数485。使命は徳川家綱の将軍職就任祝い
     第6回以降は主として将軍就任の祝賀を目的に派遣
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1682(天和02)第7回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は尹趾完、総人数473。使命は徳川綱吉の将軍職就任祝い

1655(承応04、明暦01)頃

  袋町橋が架かる

承応年間(1652〜1655)

  からすみ[ボラなどの卵(はららご、腹子=マコ)で作る塩乾品]が中国から長崎に伝来
     当初はボラではなく、サワラの卵巣を使い、色は黒く、形が唐墨に似てその名がつく

1656(明暦02)【後西】 丙申(ひのえさる)

  《奉行》甲斐庄喜右衛門(09/着)、黒川与兵衛(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ヨアン・ボーヘリヨン(←11/01→)ザハリアス・ワーヘナール

  04/12将軍家綱の疱瘡全快を祝い長崎奉行以下諸役人らが諏方社に能を奉納
     以後、幕府に慶事あれば祝儀の神事及び能を奉納することが例となる
  08/28今博多町の中島川畔にある天満宮を崎奉行黒川与兵衛の肝入りで西山郷円山の諏方神社鎮座跡地に遷座
     祭神は菅原道真、父君菅原是善とその先祖天日穂命
     1659(萬治02)09/25諏方社跡の地に天満宮神殿竣工、正遷宮を行なう。のちの松森神社
  今博多町の天満宮跡地には修験者が住む
     1723(享保08)今博多町の跡地に再び天満宮を建て広徳山大行寺と号する
     1868(明治01)大行寺は廃寺となり、天満宮のみに
     1969(昭和44)04/25都市計画で松ノ森神社内に移る
  Christovao Ferreira(ポルトガル人で拷問の末改宗し帰化、沢野忠安を名乗る)の遺稿を西玄甫が訳す
     1658(万治01)これを向井元升が著わし「乾坤弁説」と題し上梓

1657(明暦03)【後西】 丁酉(ひのととり)

  《奉行》黒川与兵衛(09/着)、甲斐庄喜右衛門(09/発)
  《代官》末次平蔵(3代)茂房
  《商館長》ザハリアス・ワーヘナール(←10/27→)ヨアン・ブーシェリヨン

  05/高一覧により桶屋町〜本紙屋町に石橋の一覧橋(桶屋町橋)が架かる
     1721(享保06)閏07/28、1795(寛政07)07/19大洪水で流失
     1801(享和01)09/22代銀12貫目の公費で再架
     1982(昭和57)07/23大水害で流失ののち再架
  11/02夜、本鍛冶屋町の糸屋七郎衛門宅より出火、止宿の唐人荷物を全て焼亡
  11/06夜、本紺屋町の志筑孫兵衛宅より出火
  12/06夜、長崎村十善寺郷の百姓家より出火、家3軒を焼失
  12/21夜、東中町の村田宇兵衛借家錦屋市兵衛門より出火、家6軒を焼失
  12/24長崎代官、末次平蔵茂房が母や婦人たちを引き連れオランダ冬至(クリスマス)見物のため出島蘭館に赴く
  即非如一が渡海して長崎の崇福寺に入り中興開山となる
     1663(寛文03)宇治黄檗に上り12年ぶりに隠元と再会
     その帰りに小倉で藩主小笠原忠真に引き留められ広寿山福聚寺を開創、開山となる
     1668(寛文08)長崎の崇福寺に戻る
     1671(寛文11)06/26《05/20》師隠元に先立ち56歳で示寂
     遺言により崇福寺後山で当時は珍しかった荼毘(火葬)に付される
  樺島町にあった大村藩蔵屋敷が西中町に移る
     1896(明治29)大村藩蔵屋敷跡地に西中町教会ができる
  長崎奉行立山役所の門を延命寺の山門として移築
  唐僧木庵禅師が瓊杵山、崇嶽の名をもつ山を山頂からの景趣を賞して無凡山と名づける
  大村の仏谷洞窟周辺を中心に郡川流域の潜伏キリシタン608人が捕らえられる「郡崩れ」
     411人が処刑、78人が牢死、20人が永牢。長崎、大村、平戸、佐賀、島原の5か所に投獄
     大村牢に入れられた殉教者131人は放虎原で斬首。首と胴が500米ほど離して埋められる
     「大村郡崩れ」は初めてのキリシタン大検挙事件
  江戸大火の折り浅野因幡守と井伊掃部頭が燻皮羽織を着用して駆付ける。火事装束の起源

1658(明暦04、萬治01・07/23)【後西】 戊戌(つちのえいぬ)


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