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〈江戸時代(2)〉

1615(慶長20、元和01・07/13)【後水尾】 乙卯(きのとう)

  《奉行》長谷川権六(守尚・左兵衛の甥【一説に弟】・前年12/23発令)
  《代官》村山東安
  《商館長》ヤックス・スペックス

  06/19平戸の英国商館長リチャード・コックスが庭を造り琉球からきた芋(甘藷・カンショ)を植える
  幕府の禁教政策により仏寺の創建が盛んに
  禅寺だった東禅寺がキリシタン宗徒の妨害で廃寺に。僧・浄慶が譲り受け東林山・深崇寺(浄土真宗本願寺派)とする
     【1627(寛永04)?】
  炉粕町に本覚寺が建つ
     1868(明治01)廃寺
  岩瀬道八幡神社が創建
  ウイリアム・アダムスの船が故障し琉球へ立ち寄る。蕃藷(サツマイモ・南蛮渡りのいも)の存在を知り、平戸へ持ち込む

1616(元和02)【後水尾】 丙辰(ひのえたつ)

  《奉行》長谷川権六
  《代官》村山東安(斬罪)、末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス

  08/08平戸、長崎以外での中国船を除く外国船の貿易取引を一切禁止する
  12/01《10/26》末次平蔵政直にキリシタンであると訴えられ罷免し甲斐に流されていた代官の村山等安が江戸で斬首
     末次と村山は不仲で等安を父興善時代の貸与銀15貫目の不払いを理由に幕府へ訴え
     村山等安の息子がドミニコ会宣教師をかくまっていたことが露見し将軍家忠が激怒したことによる
     末次平蔵政直が等安の跡を継いで長崎代官に。のち末次家が代官を世襲することに
     末次家は朱印船貿易を経営し、投資し、中国の生糸を大量買占めをし巨万の富をつかむ
     1676(延宝04)代官末次家4代平蔵茂朝と嫡子平兵衛の国禁品の密貿易が発覚
     巨額の財産は没収され父子は隠岐に流罪、一類は斬罪その他に処せられる
     末次家没落後、代官事務は町年寄のうち2人が加役(兼務)で外町を支配
     長崎代官の制度がなくなる
     末次家が闕所となったとき没収された資産は優に60万石の大名に匹敵するもの
  肥前唐津の金重院の修験道(やまぶし)青木賢清が長崎に来着
     1623(元和09)青木賢清(かたきよ)が、三神の祭祀を譲り受ける
     「諏方大明神」「住吉大明神」「森崎大権現」を祀る
     1625(寛永02)西山郷圓山(現松森の地)に諏訪神社を建立、「諏方」「住吉」「森崎」の三神を合祀
     青木賢清は初代宮司となり産土神として再興
  旧本博多町天満宮の地に伝誉関徹が一寺(大音寺)を創立
     1641(寛永18)鍛冶屋町に移転
     戦後大音寺が放火により本堂を焼失、鉄筋コンクリート建築により再建
  長崎の人口がキリシタン迫害のため3万人以下に減る
  岡山より訪れた僧・阿門利(あじゃり)龍宣が医山遍照院・延命寺(真言宗御室派)を創建
     流行していた疫病を治すことと港に出入する船舶の海上安全を祈願するため
     1657(明暦03)長崎奉行立山役所の門を延命寺の山門として移築
  大和五条から松倉重政が原城に入封
     1618(元和04)1615(元和01)の一国一城令により日乃江城と原城が廃城。新たに島原城(森岳城)を築く
  平戸のオランダ商館前に防波堤ができる
     1618(元和04)商館の民家50軒を移転させ商館を拡張
  はじめて南蛮通詞が任命される。西吉兵衛が南蛮大通詞に
  松倉重政が島原の領主になると、度々小浜の湯治を訪れる

1617(元和03)【後水尾】 丁巳(ひのとみ)

  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス

  10/02神ノ島の沖合にある高鉾島で宣教師をかくまうガスパル上田彦次郎、アンドレア吉田が処刑
     海中に投げ捨てられる。二十六聖人以後、最初の殉教
     ガスパル彦次郎はナバレット神父のアンドレア吉田はエルナンド神父の宿主
     のちオランダ人は高鉾島をパーペンベルグ島(パーパの島・キリシタンの島)と呼ぶ
  僧・伝誉が本博多町のミゼリコルディア教会跡地を賜り正覚山中道院・大音寺(浄土宗)を創建
     1638(寛永15)現在地に移築
     1641(寛永18)境内免租の朱印を賜る
  大村のジョアン・バウチスタ・マシャド神父とペドロ神父が十二社権現で斬首
     大村で最初の殉教者となる
  第2回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は呉允謙、総人数428。使命は和平と国情視察
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1624(寛永01)第3回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は鄭●(山冠に立)総人数460。使命は徳川家光の将軍職就任祝い

1618(元和04)【後水尾】 戊午(つちのえうま)

  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス

  伊良林郷(現浄安寺)の正覚寺が新橋町、現市立中央保育所の地に移転(寺町の筋をはさんで向かい側)
     1630(寛永07)本古川町からの出火で類焼
     1676(延宝04)境内狭溢を理由に小島郷現在地に移転
  伴天連の訴人に銀30枚の高札が立つ
  1615(元和01)の一国一城令により日乃江城と原城が廃城に
     松倉重政は新たに島原城(森岳城)の築城に着工。築城まで7年の歳月がかかる
     1637(寛永14)12/11《10/25》島原一揆が起こる。一揆軍が原城に籠城
  平戸のオランダ商館。商館の民家50軒を移転させ商館を拡張
     1641(寛永18)長崎出島に移転
     直接の移転理由は建物の破風にキリスト紀元の年号を書き記していたことによる
     またポルトガル貿易禁止による長崎の衰退を防ぐ狙いもあり、鎖国体制の完成を意味する象徴的な出来事

元和02〜04(1616〜1618)

  平戸オランダ商館に近代塗装のペンキが施される

1619(元和05)【後水尾】 己未(つちのとひつじ)

  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス

  12/01《10/26》末次平蔵政直にキリシタンであると訴えられ罷免し甲斐に流されていた村山等安が江戸で斬首
     末次と村山は不仲で等安を父興善時代の貸与銀15貫目の不払いを理由に幕府へ訴え
     村山等安の息子がドミニコ会宣教師をかくまっていたことが露見し将軍家忠が激怒したことによる
     【1616(元和02)?】
  幕府はキリスト教の危機を感じ『大追放』を行なう
     宣教師62人、信徒53人がポルトガル船でマカオに追放。宣教師31人と信徒多数がマニラヘ
     マニラ行には高山右近らも含まれた
  サン・フランシスコ教会跡にクルス牢ができる
     宣教師や信者が入れられ西坂の丘まで引き連れていかれ殉教
  勝山町のサン・ドミンゴ教会跡地に代官の末次平蔵が代官屋敷を建てる
  長崎で殉教が行なわれる
  トードス・オス・サントス教会堂(諸聖人教会堂)がサン・ロセンソ教会などとともに破壊される
     のち東土参台(とうどのさんだい)、トードノサンタと記憶され唐渡山(とうどさん)と呼ばれる
     いまの城の古址のこと
     1643(寛永20)教会跡地に春徳寺が創建

1620(元和06)【後水尾】 庚申(かのえさる)

  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス

  皆吉宅跡を欧陽雲台が買い別荘地としていた場所
     のち南京地方出身の船主が集まり、航海の安全を祈願して寺町の欧陽雲台の別荘地に媽姐堂を建立
     明国江西省の僧・真圓を庵主として小庵をつくる
     隠元が東明山・興福寺(黄檗宗)[唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のひとつ]を開法開山
     日本黄檗宗発祥の地。南京地方の人の寺で、南京寺、赤寺といわれ、三江会所があった
     【1623(元和09)開祖?】
     長崎に来た中国人の中にはキリスト教とがおり、長崎奉行が幕府の命で唐人の宗教についても厳重な取り調べ
     (1)対して長崎在留の南京地方船主達は遺憾に思い、進んで来舶唐人中のキリスト教信者を調査
     (2)海上の安全を祈り(3)故人の冥福を祈るため…仏殿を設ける
     1632(寛永09)興福寺第2代の住持・黙子如定が本堂の大雄宝殿を建立
     本堂は中国工匠による純粋の中国建築
     精緻な彫刻、華麗な彩色に氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井などが珍しい
     コンブラ仲間は後に出島を通して醤油や酒を陶器の瓶に詰めて輸出するようになる
     1641(寛永18)殿堂、山門、経蔵などを工事
     1663(寛文03)本堂の大雄宝殿が大火で類焼
     1689(元禄02)本堂の大雄宝殿が再建
     1690(元禄03)山門が再建される
     元禄年間(1688〜1704)中国の海の神を祀る媽姐堂が再建される
     1865(慶応01)本堂の大雄宝殿が暴風で大破
     1883(明治16)中国から工匠を招き本堂の大雄宝殿が再建
     中国清朝の華南系の建築様式をよく伝える
  佐賀の山伏高覚院盛宥が今籠町に祇園社(天王社)を開創
     1626(寛永03)長崎奉行に許可され京都祇園社の神霊を天王社に合祀。祇園宮延寿院と改称
     1638(寛永15)高野平郷(鍛冶屋町)に遷宮、高覚院は僧となり、頭巾頭を伊勢宮南覚院に譲与
     1667(寛文07)江戸東叡山の末寺、宝樹山現応寺
     のち3代住職玄澄は安禅寺の開山で以後も同寺住職を兼帯
     1766(明和03)大火により焼失
     1773(安永02)市中の町々、人々の寄付により再建
     1819(文政02)一の鳥居が風頭石で建立
     1868(明治01)神仏分離に伴い澤宣嘉総督により八坂神社と命名
     1879(明治12)本殿、拝殿の改修工事竣工に際し宮司、小西成則(易堂)により扁額を手書き
     人が集まる里の意を込めてコザト偏の「八阪神社」に改める
     明治期現應寺(祇園社)の鐘楼が清水寺に移される
     明治期宮司小西成則の身内・十四世忍達恵等大和尚が清水寺住職として就任
     全国でも稀な神社と寺の境内が結ばれる参道が整備
     1924(大正13)昭和天皇御成婚記念により狛犬が替わる
  大村本経寺の僧日慧【日恵?】がキリスト教徒の迫害を受けながら筑後町のサン・ジョアン・バプチスタ教会跡に聖林山本蓮寺を建立
     1641(寛永18)大村氏などが支援して寺地を拡大。皓台寺、大音寺とともに長崎三大寺のひとつに
  桜町のサン・フランシスコ教会跡に囚獄屋敷が建つ
     1881(明治14)09/囚監が片淵郷の乃武館跡に移る
  島原7か村124人が殉教の決意ローマへ表明

1620(元和06)頃

  出島埋立工事の際、熊本県八代の出身者が移住してくる
     高野家創業者の勇助もそのうちのひとり。勇助は万屋町にて魚屋を開業
     1675(延宝03)からすみの店、高野家を創業
     万屋町の魚屋、高野勇助が野母崎方面に赴きボラのマコを塩漬けにしたからすみをを作る
     売り出したところ味が評判に
     1712(正徳02)長崎奉行から幕府へ献上されるようになる
     幕府は勇助に年俸銀100匁を下賜。献上は維新まで続く
     明治初期本下町(現築町)に移転

1621(元和07)【後水尾】 辛酉(かのととり)

  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》ヤックス・スペックス(←10/29→)レオナルド・カンプス

  桶屋町の寺が東本願寺から浄土宗大谷派光永寺の寺号を得る
     1663(寛文03)火災にあい焼失。再建される

1622(元和08)【後水尾】 壬戌(みずのえいぬ)

  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》レオナルド・カンプス

  09/10《08/05》西坂で宣教師と天主教徒55人が殉教。スピノラ神父ら25人が火刑、30人が斬首の殉教
     二十六聖人と異り、ほとんどが長崎在住の信者。元和の大殉教
  長崎奉行の長谷川権六が日本に潜入した伴天連2人と船長を西坂で火刑、船員10人を斬罪に
  荒木宗太郎が交趾(こうち)国の王族阮(グエン)氏の
     娘・王加久戸女(わかくとめ・アニオさん)を妻とする
  5人組の制度が敷かれる
     5人組…向こう3軒両隣りの単位で神父をかくまっていないかキリシタンがいないかを互いに監視
     キリシタンが組内にいる場合、組内が届ければかくまった本人が、組外から訴えられると5人組全部が処罰
  新高麗町が長崎奉行長谷川権六郎が神社の由来を聞き馬場郷の敷地を寄進
     社殿の造営を助成
     のち宝生院威福寺の寺号を受ける
     1868(明治01)廃寺、天満神社となり桜馬場天満宮となる
     1874(明治07)村社となる
  イエズス会の神父と3人の信徒が島原の今村刑場で火刑にあう。今村刑場で最初の殉教
     1658(万治01)大村郡崩れで捕らえられた信徒が斬首される。今村刑場で最後の殉教となる
  宇久島で捕らえられたカミロ・コンスタンツォ神父が田平の焼罪の丘で火あぶりとなり殉教

1623(元和09)【後水尾】 癸亥(みずのとい)

  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》レオナルド・カンプス(←11/21→)コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  佐嘉の修験道者、金重院青木賢清(かたきよ)が長崎にきて神社再興に乗りだす
     公文九郎左衛門より諏方大明神・住吉大明神・森崎大権現三神の祭祀を譲り受ける
     *東山の地に打ち捨てられた「諏方(すわ)大明神」と刻まれた碑石
     *小島かみなり岡の小祠に祀られた小島大王ともいわれた「住吉大明神
     *長崎6町を構築する際に壊された天満天神「森崎大権現(杵崎大明神)」を祀る
     1624(寛永01)青木賢清が奉行や代官らの保護援助により、西山郷圓山(現松の森)に3神を1社に合祀
     「諏訪神社」として創建
     奉行・代官はキリシタンを排除し神仏再興策をとる
     1625(寛永02)社殿が建立
     青木は社殿造営でキリシタンから「天狗(悪魔)」と罵倒され妨害され、大村の人夫を使う等の苦難の末に完成
     「諏方」「住吉」「森崎」の三神を合祀。初代宮司青木賢清により産土神として再興
     1647(正保04)02/05長崎奉行が諏方社に対し幕命を伝える
     旧神宮寺の旧跡「玉園山」の一区を社地として下賜される旨
     12/05《11/09》社殿造営工事がはじまる
     1651(慶安04)壮大な社殿が完成
     10/03《08/19》松森の地より遷宮
     以降、調停や幕府の崇敬が厚く長崎の総鎮守府に
  山城国・京都清水寺の真言僧・慶順が仏像を抱いて来崎
     薬師石(瑞光石)が光った場所に長崎山・清水寺(真言宗霊雲寺派)を開く
     1627(寛永04)島原城主松倉重政が瓦葺の堂(瓦堂)を寄捨、石欄をめぐらし京都の清水寺を模して建立
     1642(寛永19)博多商人初代伊東小左衛門が京都で鋳造した鐘を寄進
     1668(寛文08)唐商人何高材が黄檗様式が随所に見られる本堂を寄進
     鐘楼堂は隣の現応寺にあったもの
     1771(明和08)石門が建立
  浄土僧・転誉が長州の萩から阿弥陀如来像を背負って来崎
     教化に努め長崎奉行長谷川権六の助力で堂宇を建立
     のち万年山比経院・三宝寺(浄土宗)となる
  平戸の英国商館が英本国の外交方針の転換により平戸撤退を余儀なくされ、通商を断念
     対日通商への参入の遅れ、中国貿易への取引の失敗などから不振になり閉鎖される
  漆工長兵衛が舶来中国人から青貝漆器の製作法を学ぶ

元和年間(1615〜1624)

  長崎の漆工生島藤七が来泊の中国人から螺鈿(らでん)の法を学ぶ
  佐賀藩が支藩の諌早藩に領地を貸すよう(実際は取り上げ)難題を持ちかける
     断りきれなかった諫早藩の生活は苦しくなる
     寛永年間同じく佐賀藩が支藩の諌早藩に、領地を貸すよう(実際は取り上げ)難題を持ちかける

1624(元和10、寛永01)【後水尾】 甲子(きのえね)

  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  09/09湯立神事がはじまる
  青木賢清が奉行や代官らの保護援助により、西山郷圓山(現松の森)に3神を1社に合祀。「諏訪神社」として創建
     3神…諏方大明神、住吉大明神、森崎大権現(杵崎大明神)
     奉行・代官はキリシタンを排除し神仏再興策をとる
     1625(寛永02)社殿が建立
     青木は社殿造営でキリシタンから「天狗(悪魔)」と罵倒され妨害され、大村の人夫を使う等の苦難の末に完成
     「諏方」「住吉」「森崎」の三神を合祀。初代宮司青木賢清により産土神として再興
  唐津の僧誓誉が草庵を結んで開蒼庵とする
     のち一寺を建て東雲山・浄安寺(浄土宗)の寺号を得る
     聖徳太子が作ったといわれる薬師如来を奉安
  福砂屋がポルトガル人からカステーラの製法を習う。引地町に創業
     1775(安永04)六代目市良次の頃、市中の発展と共に船大工町に移転
     ●●(明治●●)12代清太郎のとき蝙蝠を商標として、特製の白菊、黄菊、五三焼など独特なカステラを作る
  長崎の浜田弥兵衛がフィリピンへ渡り眼鏡作りを習う。生島藤七に教えて作らせる
  八幡町に開かれた真言僧長慶の吉祥院が讃岐の金比羅大権現を勧請
     1705(宝永02)吉祥院が崇嶽(瓊杵山)に移り、讃岐国の金刀比羅大権現の分霊金毘羅神(金比羅神社)を祀る
     祈祷所、拝殿などを建て次第に寺観が整う
     崇嶽(瓊杵山)が金比羅山とも呼ばれるようになる
  中国人貿易商の鄭芝龍と平戸の日本女性田川マツのあいだに鄭成功が生まれる
  第3回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は鄭●(山冠に立)総人数460。使命は徳川家光の将軍職就任祝い
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1636(寛永13)第4回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は任絖、総人数478。使命は朝鮮政策の確認と対馬藩の擁護

1625(寛永02)【後水尾】 乙丑(きのとうし)

  《奉行》長谷川権六
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  諏訪神社」の社殿が西山郷圓山(現松の森)の地に建立
     1647(正保04)02/05長崎奉行が諏方社に対し幕命を伝える
     旧神宮寺の旧跡「玉園山」の一区を社地として下賜される旨
     12/05《11/09》社殿造営工事がはじまる
     1651(慶安04)04/壮大な社殿が完成
     10/03《08/19》松森の地より遷宮
     09/13造営完了の祝能の催しあり
     以降、調停や幕府の崇敬が厚く長崎の総鎮守府に
  青木賢清が西山郷圓山(現松森の地)に社殿を造営するにあたり、キリシタンの勢力が強く妨害も強くなる
     造営の用材は人夫もすべて大村など他地方に求めるなど苦心
     青木はキリシタンから「天狗(=悪魔)」とののしられる
  山伏大学院照寛が本紙屋町に玉泉院を開創
     のち馬場郷の威福寺内に移転
     1758(宝暦08)寄合町の現地に
     1868(明治01)玉泉神社
  キリシタンに破却された六地蔵を村人が赤迫の岸壁に再興

1626(寛永03)【後水尾】 丙寅(ひのえとら)

  《奉行》長谷川権六(04/退任)、水野河内守(守信・前使番・04/発令)
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  10/25・28《09/06・09》後水尾院天皇が京都二条城に行幸したときの献立にカステラがでる
  キリシタン弾圧強化のため長崎奉行の水野守信が絵踏をはじめる
     目付から長崎奉行となった水野河内守守信は踏絵を始め、キリシタン弾圧を厳しくする
     初めの目的はキリシタンに聖像を踏ませ背教させるため
     【1628(寛永05)、1629(寛永06)等諸説あり】
     踏絵と絵踏のちがい
      踏絵…踏む絵のこと(踏ませる絵)
      絵踏…絵を踏むこと(踏ませる行為)
     1629(寛永06)絵踏が年中行事化する
     毎年《01/04〜09》各町の乙名、組頭ら町役人が家々を訪れるなど市内で行なわれる
      丸山遊女は乙名の家で踏ませる
     毎年《01/12〜17》長崎村、山里村、淵村で行なわれる
     毎年《02/07〜12》日見村、古賀村、茂木村、野母村、高浜村で行なわれる
     のち踏絵には当初、画像が用いられたが損傷が激しくなる
     のちマドリッド造幣局で製造された銅牌を板に嵌め込み用いるようになる
     銅牌は無原罪の聖母2枚、ロザリオの聖母3枚、ピエタ1枚、エッチェホモ4枚
     のち貸し出しに不足するようになる
     1669(寛文09)本古川町の鋳物師萩原祐佐に命じ唐銅の踏絵板20枚を作らせる
     唐銅はエッチェホモ5枚、十字架上のキリスト5枚、ピエタ5枚、ロザリオの聖母5枚
     そのうちの1枚は長崎から天草へ貸し出したときに誤って海に落としてしまう
     鋳物師萩原祐佐は真に迫った出来栄えのためキリシタンと疑われ処刑される
     1858(安政05)春/日米修好通商条約の締結によって年中行事の絵踏行事が廃止される
     踏絵板は長崎奉行所の蔵に収められる
  長崎奉行の水野守信がキリシタン弾圧を強化。入牢中のバテレン数人を火刑に
  上筑後町の洪泰寺が寺町の現在地へ移転
     境内に丈六の大仏を祭る華厳殿
     1642(寛永19)晧台寺と改める
  肥前松浦郡の浪人・川上久右衛門光房所有の菅原道真直筆の露像が様々な奇跡をおこす
     今博多町の自宅側に祠を祀り天満宮と名づけ人々の信仰を受ける
     1630(寛永07)浪人川上久右衛門光房の今博多町の自宅側の天満宮の祠を同町中島川畔に移転。仮殿を造営
     翌年初めて例祭を執行
     1656(明暦02)08/28長崎奉行黒川与兵衛の肝入りで今博多町の天満宮を西山郷円山の諏方神社鎮座跡地に遷座
     祭神は菅原道真、父君菅原是善とその先祖天日穂命
     1659(萬治02)09/25諏方社跡の地に天満宮神殿竣工、正遷宮を行なう
     1680(延宝08)元諏方社の跡に移った天満宮の社殿を長崎奉行牛込忠左衛門勝登が整備
     新築や改築で正殿、拝殿から正門まですべての建物が整備、松森神社の落成大祭が行なわれる
     長崎奉行牛込忠左衛門が「涼しさや御影とたのむ松の森」を詠じ、神前に奉納
     松森神社(松森天満宮)の名称の基になった句
     由来は、境内に同根3株の立派な松の木があり、「松」と木が3つでできている「森」の文字が当てられる
     奉行の要請で豪商魏之●(王篇に炎)が正門を寄進
     1713(正徳03)長崎奉行久松備後守定持らが松森神社を大改修
     本殿周囲を飾る「職人尽(ほり物)」が奉納される
     彫刻者は御用指物師喜兵衛・同藤右衛門。長崎奉行御用絵師小原慶山が下絵を描く
  正覚寺開祖道智の隠居所として十善寺郷に廣済寺が創立
     1676(延宝04)正覚寺境内に移る
     1883(明治16)正覚寺内から独立、現在の中新町に移転
  戸町神社(松尾大明神)が創建
  修験者宥道が岩原郷に躰性寺を創建
     1868(明治01)廃寺
  僧浄念(俗名高光甚左衛門信宗)が下筑後町に観善寺を創建
     1671(寛文11)上筑後町の現在地に移建
  稲佐坊山に聖徳寺が創建
     ●●(●●00)銭座に移る
  今籠町の祇園社(天王社)が長崎奉行に許可され京都祇園社の神霊を天王社に合祀。祇園宮延寿院と改称
     1638(寛永15)高野平郷(鍛冶屋町)に遷宮、開創した山伏高覚院は僧となり、頭巾頭を伊勢宮南覚院に譲与

1627(寛永04)【後水尾】 丁卯(ひのとう)

  《奉行》水野河内守
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

    02/18《01/03》島原藩主の松倉重政がパウロ内堀作右衛門ら16人を拷問し殉教させる
     重政は雲仙地獄に投げ込み、熱湯責めで拷問。雲仙地獄責めのはじまり
  長崎奉行の水野守信がキリシタン340人を松倉重政に引き渡し処刑させる
  長崎の信徒の組織が残る
  最後のキリシタン乙名・町田と後藤が江戸に追放。他の信者のリーダーたちはマカオに流される
  島原城主松倉重政が長崎山・清水寺(真言宗霊雲寺派)を建立
     松倉重政は瓦葺の堂(瓦堂)を寄捨、石欄をめぐらし京都の清水寺を模す
     1642(寛永19)博多商人初代伊東小左衛門が京都で鋳造した鐘を寄進
  島原城主の松倉重政が雲仙地獄でキリシタン追害を行なう
     地獄の熱湯をかけるなどして転宗を迫るもの
     長崎奉行の竹中采女も次々にキリシタンを雲仙に送り残酷な拷問を繰り広げる
     1632(寛永09)この年まで5年間にわたり続く

1628(寛永05)【後水尾】 戊辰(つちのえたつ)

  《奉行》水野河内守(大坂町奉行転出)
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  唐僧覚悔が弟子了然と覚意を伴い渡来、岩原郷に庵を建て天后聖母(媽姐聖母?)を祀る
     切支丹禁制が最高潮の時、唐人は宗教上のことで貿易の利潤を失わないために地方別の寺院建立が得策と考える
     福済寺[唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のひとつ]の起源
     1649(慶安02)泉州人の僧蘊謙(うんげん)が重興開山
     ●(ちゃく・「シ・さんずい」に「章」)州人の檀家が多く●(左に同じ)州寺ともいった
     のち筑後町に移転
     1655(明暦01)黄檗天竺様式の大雄宝殿が建立
     1658(万治01)唐大通事頴川藤左衛門が山門を寄進
     1945(昭和20)08/09唐大通事頴川藤左衛門が寄進した山門、黄檗天竺様式の大雄宝殿が原爆で焼失
     1979(昭和54)福済寺に「万国霊廟長崎観音」が建立
  新高麗町民が伊勢宮再興を祈願。奉行所に願出、唐津出身の天台宗修験南岳院存祐を神主に推挙
        存祐は伊勢に赴き外宮長官の檜垣常晨より許状を受取る
     1639(寛永16)山伏南岳院存祐が(新)高麗町に伊勢大神宮祈祷所を建て伊勢宮を再興させる
     1646(正保03)11/28伊勢宮社殿竣工
     12/08遷宮式を行なう
     1710(宝永07)大神宮(伊勢宮)が銭屋川の鮎で初めて鮎神事を執り行なう
     1901(明治34)伊勢宮大神宮にて長崎初の神前結婚式が執り行われる
  台湾の台南にあるオランダの貿易基地に長崎代官、末次平蔵の朱印船2隻が入港
     船頭は浜田弥兵衞、武装している2隻の船の乗組員は合計で470人
     台南のゼーランジャ城の長官ピーテル・ノイツは弥兵衞が交渉のために上陸してきたのを捕らえる
     その間に武装解除し、しばらくの間、2隻を抑留しようとする
     ピーテル・ノイツは弥兵衞が襲撃してきたと誤解
     弥兵衞は交渉をするが要領を得ず。弥兵衞は逆にノイツを捕らえて人質に
     結果、双方がいきり立ち数人が集まり乱が及ぼうとするところ、和解が成立

1629(寛永06)【明正】 己巳(つちのとみ)

  《奉行》竹中采女正(重興・前豊後府内城主)
  《代官》末次平蔵政直
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  01/長崎奉行竹中采女正が板踏絵をつくらせ広く絵踏みを行なわさせる
  07/長崎奉行の竹中采女正が松倉重政の勧めでキリシタンを雲仙地獄で拷問。最初の犠牲は64人
  残酷で有名な長崎奉行竹中采女正がキリシタンが浦上の山に隠れていることを知る
     山に火をつけて狩り出し、長崎に連れていき駿河問にかける
     駿河問=拷問の一種で、手足を背中に回して縛りその綱を四隅の柱に吊るす
         ヨリをかけて手を離すとヨリが戻り吊るされた体が回り気を失う。何回も繰り返し棒で叩く
  キリシタン弾圧強化のため長崎奉行が絵踏を年中行事化する
     毎年《01/04〜09》各町の乙名、組頭ら町役人が家々を訪れるなど市内で行なわれる
      丸山遊女は乙名の家で踏ませる
     毎年《01/12〜17》長崎村、山里村、淵村で行なわれる
     毎年《02/07〜12》日見村、古賀村、茂木村、野母村、高浜村で行なわれる
     のち踏絵には当初、画像が用いられたが損傷が激しくなる
     のちマドリッド造幣局で製造された銅牌を板に嵌め込み用いるようになる
     銅牌は無原罪の聖母2枚、ロザリオの聖母3枚、ピエタ1枚、エッチェホモ4枚
     のち貸し出しに不足するようになる
     1669(寛文09)本古川町の鋳物師萩原祐佐に命じ唐銅の踏絵板20枚を作らせる
     唐銅はエッチェホモ5枚、十字架上のキリスト5枚、ピエタ5枚、ロザリオの聖母5枚
     そのうちの1枚は長崎から天草へ貸し出したときに誤って海に落としてしまう
     鋳物師萩原祐佐は真に迫った出来栄えのためキリシタンと疑われ処刑される
  福州地方の唐人を檀越とする唐寺を建てる
     中国福州出身の王引、何高材、魏之●(王偏に炎)、林仁兵衛らが唐僧超然を招く
     崇福寺の開基となる[唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のひとつ]
     最初は船神媽祖を祭る小堂。福州地方出身の豪商達が多く帰依し、次第に殿堂が整備
     1632(寛永09)在留の福州地方出身者が一寺建立の官許を得る
     1635(寛永12)唐僧・超然が聖寿山・崇福寺(黄檗宗)を創建
     1644(正保01)諸檀越が殿堂を整えることに着手
     1646(正保03)唐商何高材の寄進により本堂1階建て黄檗様式の大雄宝殿が創建
     大雄宝殿は明末の華南方面の建築手法による
     1681(元和01)大雄宝殿が2階建てに重層化。1階の黄檗様式に対し2階は和様式

1630(寛永07)【明正】 庚午(かのえうま)

  《奉行》竹中采女正
  《代官》末次平蔵政直(05/25江戸で死去)
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  豊後府内の建仁寺三江紹益の法子泰室清【靖】安が岩原郷に大梅山春徳寺(臨済宗)を創建
     岩原郷の場所は現在の旧県立美術博物館あたり
     1643(寛永20)幕命により末次平蔵茂貞が尽力
     貿易商末次家の寄進によりトードス・オス・サントス教会跡地に移設
     山号を初代代官末次平蔵政直の院号から華嶽山に変える。住職は代々書物改め役に従事
     1650(慶安03)開山泰室清安が梵鐘をつくらせる
     施主は枝村八郎兵衛尉重勝、鋳工は江戸御花入屋閑入。銘は元南禅寺高大寺住三江紹益
     1699(元禄12)崎陽芭蕉門人が芭蕉句碑を建立、時雨塚をつくる
  新橋町の正覚寺が本古川町からの出火で類焼
     1676(延宝04)境内狭溢を理由に小島郷現在地に移転
  浪人川上久右衛門光房の今博多町の自宅側の天満宮の祠を同町中島川畔に移転。仮殿を造営
     翌年初めて例祭を執行
     1656(明暦02)08/28長崎奉行黒川与兵衛の肝入りで今博多町の天満宮を西山郷円山の諏方神社鎮座跡地に遷座
     祭神は菅原道真、父君菅原是善とその先祖天日穂命。のちの松森神社
  松倉重政が長崎奉行所からの帰途、小浜に入浴療養中に死去

1631(寛永08)【明正】 辛未(かのとひつじ)

  《奉行》竹中采女正
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  本蓮寺を開山した日慧が個人の土地を譲り受け、弟子の日與が開基に光栄山・長照寺(日蓮宗)を創建
  筑後柳川、光源寺の住職松吟が来崎。布教をはじめる
     1637(寛永14)長崎奉行から銀屋町に寺地を与えられ巍巍山・光源寺(浄土真宗本願寺派)を開山
     1676(延宝04)火災により類焼し伊良林1丁目の現在地に移築
  僧嶺光が伊勢町に浄土宗地福院を建てる

1631(寛永08)頃

  トマス次兵衛が長崎に潜入
     金鍔次兵衛…容易なる人物。フライ・トマス・デ・サンアウグスチノという日本人
      大村生まれ、父母ともに熱心なキリシタン。6歳で有馬のセミナリオに入学
      禁教令でマカオに渡り、コレジヨに5年学ぶ。マカオに渡航してアウグスチノ会の司祭となる
     1635(寛永12)次兵衛が戸根村にいるとの報に長崎奉行は直ちに徹底した大山狩り(山関)を指令【1633(寛永10)?】
     佐賀、平戸、島原、大村の4藩に出兵を命じ、さらに大村藩には地元の土民の男のほとんど動員
     1人1歩の間隔で横一列に並び、山を越え、谷を渡って西彼杵半島を南に下る空前の山狩り
     35日かかって、関所を設けた半島の付け根の時津と浦上淵村のラインにたどり着く
     めざす次兵衛は影もなく、網にかかったのは長浦村の脇崎で、次兵衛の世話をしたという塩焼きの男1人のみ
     山関で次兵衛神父が捕らえられなかったのは江戸にあり、将軍家光の小姓たちに伝道していたため
     小姓数人がキリシタンになったことが発覚し斬殺。将軍家光は激怒し次兵衛召し捕りの厳命が下される
     べつに次兵衛神父が捕らえられなかったこととして71人のキリシタンが捕まり火刑と斬罪に処せられる
     1637(寛永14)06/15金鍔(きんつば)次兵衛が捕らえられる。のち西坂にて穴吊り拷問により処刑
       穴吊りの刑…体を綱でぎりぎり巻き、掘った穴に逆吊りにされる。口や鼻から血がしたたる過酷なモノ
1632(寛永09)【明正】 壬申(みずのえさる)

  《奉行》竹中采女正
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ

  在留の福州地方出身者が一寺建立の官許を得る
     1635(寛永12)唐僧・超然が聖寿山・崇福寺(黄檗宗)を創建
  筑後の旧黒田藩士守讃が東中町に西勝寺を建てる
  奉行竹中采女正が中島川両岸の海辺を埋立てて護岸を構築
     濱町〜築町に長さ14間、幅3間の屋根付きの木廊橋、通称大橋[のちの鐵(くろがね)橋]を架け交通の便をはかる
     濱町一帯の市街化が進む
     1663(寛文03)木廊橋より平橋に架け替える
     1868(慶応04)08/01鉄橋に架け替え
  興福寺第2代の住持・黙子如定が本堂の大雄宝殿を建立
     本堂は中国工匠による純粋の中国建築
     精緻な彫刻、華麗な彩色に氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井などが珍しい
     コンブラ仲間は後に出島を通して醤油や酒を陶器の瓶に詰めて輸出するようになる
     1641(寛永18)殿堂、山門、経蔵などを工事
  残酷な拷問が繰り広げられた雲仙地獄でのキリシタン追害が終わる

1633(寛永10)【明正】 癸酉(みずのととり)

  《奉行》竹中采女正(02/11免職)、曽我又左衛門(古祐・前目付・02/14発令)、
      今村伝四郎(正長・前下田奉行・02/14発令)
  《代官》末次平蔵(2代)茂貞
  《商館長》コルネリス・ファン・ナイエンローデ(←01/31→)ピーテル・ファン・サンテン(←09/06→)ニコラス・クーケバッケル

  02/01長崎奉行竹中妥女正重次が、その悪政と汚職のため罷免に
     唐、蘭人が輸入した物品を原価で買い上げ京阪地区に送り巨利を得ていた
     【03/20?】
     1634(寛永11)息子とともに江戸で死刑に処せられる
  02/14長崎奉行が2人制となる(1人は在府、1人は在崎、毎年交代して任務)
  02/幕府が奉書船以外の海外渡航禁止。在外5年以上の日本人の帰国を禁止。貿易を制限。キリシタン取締令を発令
     奉書船とは朱印船のこと
     貿易の制限…蘭船の滞留期間は50日、貿易は平戸港のみ。抜錨は蘭船唐船ともに9月20日を期限に
     (第1次鎖国令
     1634(寛永11)幕府が日本人の海外往来と通商を制限(第2次鎖国令)
     1635(寛永12)05/28幕府が日本人の海外渡航と海外在住、日本人の帰国を禁止(第3次鎖国令)
     唐船の入港地を長崎に限定
     朱印船貿易が終焉を迎える…日本人の海外渡航が全面的に禁止され外航用の朱印船は国内海運に不向きなため
     1636(寛永13)幕府が前年の鎖国令を強化。混血児を追放し、海外との交通を禁止などを強力に遂行
     (第4次鎖国令)
     1639(寛永16)07/05幕府がポルトガル船の渡航を禁止(第5次鎖国令)
     1641(寛永18)06/18平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す(鎖国体制が完成)
  05/本博多町奉行屋敷で失火、市街の5、6町を延焼
     外浦町の旧大坂江戸割符会所の敷地を2分し東役所と西役所が設置
     1671(寛文11)牛込忠左衛門奉行のとき、東役所が立山の旧サンタマリア教会の地に移る
     外浦町の敷地全部が西役所となり、東役所は立山役所と改称される
  恵美須町の恵美須神社を小柳五郎左衛門道長が瀬ノ脇(現飽の浦)に移し釛山恵美須神社とする
     以降、諏訪神社の末社に
  カピタンの江戸参府がはじまる
     出島のオランダ商館長が対日貿易の継続に感謝する目的で江戸に参府
     将軍に謁見しお礼を言上、献上物を呈上。オランダ商館長にとって日本の見聞を広める好機会
     有益で愉快な行事で、窮屈な出島の生活から開放される大名旅行
     長崎の出発は年末、翌正月に江戸へ到着し拝礼
     行程は長崎〜小倉、下関が陸路。下関〜室又は兵庫が水路。大坂〜京都、江戸が陸路
     オランダ人の定宿は江戸日本橋本石町3丁目の長崎屋源右衛門の家「長崎屋」
     二階には畳の上に毛せんを敷き、椅子、テーブルを置きすべてオランダ風に飾る
     所要日数は平均90日、約3か月
     オランダ人がカピタン、書記、医師の3人、長崎奉行所から正、副検事、通事、料理人など 56人、合計59人
     献上品はシャンデリア、ジュータン、更級、地球儀、望遠鏡、珍獣など
     また珍獣には象、虎、ラクダ、オランウータン、ジャコウ猫、水牛、 火食鳥
     将軍家光はシャンデリアを気にいり日光東照宮に飾る。
     定宿の江戸の長崎屋、京都の海老屋は度々火災により焼失。長崎奉行所はその再建資金援助のため白砂糖を送る
     1661(寛文01)頃出発時期の変更。長崎を正月に出発し、02/末に江戸着、03/01又は03/15日に拝礼
     1790(寛政02)貿易額が減少し4年【5年?】に1度に改定
     1850(嘉永03)最後の江戸参府が行なわれる。合計166回を数える
  潜入バテレンが長崎奉行の今村伝四郎、曽我又左衛門の考案した刑を受ける
     体を綱でまいて逆吊りにする穴吊りの刑
  長崎の教会にとって殉教者が多い年となる

1634(寛永11)【明正】 甲戌(きのえいぬ)


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