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〈安土桃山時代(3)〉

1592(天正20、文禄01・12/08)【後陽成】 壬辰(みずのえたつ)

  《奉行》寺沢志摩守(広高・前肥前唐津領主)

  09/04ヴァリニアーノは長崎を出帆。中国布教に努めるためマカオに滞在
     1598(慶長03)06/24ヴァリニャーノ神父が新しい司教ドン・ルイス・セルケイラとともに長崎に着く

     ヴァリニャーノは3度目の来日
  6町に続いて博多町(のち本博多町)、樺島町、今町、本五島町、内下町ができる
  豊臣秀吉が博多町に長崎奉行所を設置
     1633(寛永10)火災で焼失
     外浦町の旧大坂江戸割符会所の敷地を2分し東役所と西役所が設置
     1671(寛文11)牛込忠左衛門奉行のとき、東役所が立山の旧サンタマリア教会の地に移る
     外浦町の敷地全部が西役所となり、東役所は立山役所と改称される
  初代奉行に肥前唐津の領主・寺澤志摩守広高が任命される
     1602(慶長07)退官
     奉行は行政、警察、裁判事務、外国との貿易、長崎の防備に至る行政、司法、軍事全般を掌握
     初期の奉行は行政官であるより貿易業者的色彩が強く、常時長崎に駐在せず外国船との貿易時だけ長崎に赴く
     実際の行政は代官・町年寄などが代行
     1867(慶応03)10/12125代奉行・河津伊豆守祐邦が任命される
     1868(慶応04)01/14河津伊豆守祐邦が長崎を脱出
  初代代官に長崎の裕福な商人村山東安が任命される。村山東安は朱印船貿易により巨利を得た豪商
     (代官は地役人の筆頭。管轄地の貢物、調租を司り、唐、蘭輸入貨物の検査や寺社の管理等)
     1616(元和02)12/01《10/26》末次平蔵政直にキリシタンであると訴えられ罷免し甲斐に流されていた村山等安が江戸で斬首
     末次と村山は不仲で等安を父興善時代の貸与銀15貫目の不払いを理由に幕府へ訴え
     村山等安の息子がドミニコ会宣教師をかくまっていたことが露見し将軍家忠が激怒したことによる
     末次平蔵政直が等安の跡を継いで長崎代官に。のち末次家が代官を世襲することに
     末次家は朱印船貿易を経営し、投資し、中国の生糸を大量買占めをし巨万の富をつかむ
     1676(延宝04)代官末次家4代平蔵茂朝と嫡子平兵衛の国禁品の密貿易が発覚
     巨額の財産は没収され父子は隠岐に流罪、一類は斬罪その他に処せられる
     末次家没落後、代官事務は町年寄のうち2人が加役(兼務)で外町を支配
     長崎代官の制度がなくなる
     末次家が闕所となったとき没収された資産は優に60万石の大名に匹敵するもの
     1739(元文04)03/15代官再設される。御用物方高木作右衛門忠与が長崎付地方3千石の代官に。御用物方も兼務
     幕末まで世襲する
     1849(嘉永02)10/江戸時代最後の代官・高木作右衛門忠知が任命される
     1868(慶応04)02/高木作右衛門忠知が長崎府取締役に
  ロケ・デ・メロ司令官の寄付により筑後町(本蓮寺)にサン・ジョアン・バプチスタ教会が建つ【1605(慶長10)】
     教会はサン・ラザロ病院(ハンセン病病院)の付属で慈善団体ミゼリコルディアの組により運営
     社会的に放置されたハンセン病患者を救護治療したとされるが、収容規模や医療実績の記録は確認されず
     ハンセン病や重い皮膚病などの患者を救護するためキリスト教関係者が設けた医療施設。大分、京都、大阪などにも設置
     1614(慶長19)09/禁教令による切支丹弾圧により破却される
  小島地区上から流れる玉帯川の川口、鍛冶屋町と本石灰町の間に土橋の「川口橋」が架かる。「黒川橋」とも
     のちの思案橋
     のち土橋から木の橋になる
     のち屋根のついた木廊橋となる
     1875(明治08)07/火災で焼失、石橋に架け替え
     1914(大正03)03/30コンクリートを塗った鉄橋に架け替え
     1956(昭和31)道路拡張に伴い撤去
     1970(昭和45)思案橋に欄干の一部が復元
  長崎町中の防衛のため島原町と本博多町の境に大堀一ノ堀を、博多町の奉行所の北側に小堀つくる
     のち小堀は埋立てられ堀町が造成
  幕府時代、最高の地位にあった4人の町人・頭人の名称が町年寄と改められる
  五島列島の領主宇久純玄が、これまでの宇久姓を五島に改称
  平戸では司祭3人の毒殺を前ぶれとして情勢は大きく転回
  文禄の役で朝鮮出兵のため肥前・名護屋城に出陣中の豊臣秀吉の元へ、長崎代表として代官の村山等安が名乗りでる
     村山等安はポルトガル人から習ったカステーラや南蛮菓子を作り豊臣秀吉に献上
  豊臣秀吉により朱印船の貿易制度が開始される
     朱印船とは「異国渡海朱印状」と呼ばれる渡航証明書を持ちアジア諸国と交易した船のこと
     それまで黙認されていた私貿易を統制するもの
     【豊臣秀吉?徳川家康による】
     1604(慶長09)以降朱印船が盛んとなる
     1635(寛永12)日本人の海外渡航が全面的に禁止され外航用の朱印船は国内海運に不向きなため姿を消す

1592(天正20、文禄01)頃

  人口増加に伴って6町に接近した大村領長崎村に本博多町、椛島町、今町、本五島町、内下町ができる

1593(文禄02)【後陽成】 癸巳(みずのとみ)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  筑前博多の博多商人が長崎で初めて今博多町、古町、桶屋町に遊女屋をひらく
     南蛮人を相手に遊興の場を供する
     【延宝年間(1673〜1680)より100年にほど足らない?、1606(慶長11)?、1607(慶長12)?】
  豊臣秀吉はポルトガル人のために長崎での伴天連10人の駐在を許す。教会の建設を許可

1594(文禄03)【後陽成】 甲午(きのえうま)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  08/23盗賊団の首領石川五右衛門が親子党類ともに京都の三条河原で釜ゆでの極刑に処される
     関白秀次に大金で雇われ豊臣秀吉を暗殺すべく忍び込むが捕縛
  聖ペトロ・バプチスタらが長崎を訪れ、上町にサン・ラザロ病院付属の聖堂を利用
  浦上の入口にサン・ラザロ病院がイエズス会によって建てられる。病院には付属の小聖堂もつく

1595(文禄04)【後陽成】 乙未(きのとひつじ)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  八良尾(北有馬町)のセミナリヨが有家に移転
     1597(慶長02)長崎のトードス・オス・サントス教会内にコレジヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設

慶長初め(1596〜)

  菊地蒲三郎正重が長崎浦上村に来住、居住地の地名から高谷小左衛門と改称
     菊地蒲三郎正重は1554(天文23)、肥後の菊地氏が大友宗麟に討たれ滅亡、のち大友氏の家臣となったその末孫
     1605(慶長10)庄屋が不在だった浦上村で浦上村惣庄屋となり、庄屋屋敷(現浦上天主堂)を置く
     明治維新まで代々庄屋を世襲

1596(文禄05、慶長01・10/27)【後陽成】 丙申(ひのえさる)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  07/12積み荷を満載したスペインのガレオン船サン・フェリッペ号がメキシコへ向けてフィリピンのマニラを出港
     10/上嵐に遭い四国・土佐海岸に漂着
     船には約200人の船員、乗客とフィリッポ・デ・ヘスス(後に殉教者の1人となる)も司祭叙階のため乗船
     10/19浦戸港に入港しようとしたサン・フェリッペ号が土佐港口で座礁、沈みかける
        膨大な量の絹、織物等が海に投げ込まれ、舟で砂浜へ陸揚げ
        積み荷は詳しく土佐の大名長曽我部によって秀吉のもとへ報告
        秀吉は増田長盛に命じ、サン・フェリペ号の積み荷をことごとく押収、京都へと運ばれる
        積み荷をめぐる確執から騒ぎは次第に大きくなる
     航海士は地図を見せ小さい日本に比べスペインは広大なことを誇る
     いかにして世界各地に広大な領土を入手したかの問いに
     「宣教師を派遣してキリスト教化を進め、その後、軍隊を送り占領した」と答え。対して豊臣秀吉が激怒
     12/08《慶長01・10/19》夜、キリスト教に不安を感じた秀吉がフランシスコ会と信者に対する捕縛命令を出す
      京都、大阪のキリシタン24人を捕らえ長崎での処刑が命じられる
     12/09《慶長01・10/20》京都フランシスコ会聖堂にいたレオン烏丸、パウロ鈴木、ボナペントゥラ、トマス小崎、ガブリエルが拘束
     12/10《慶長01・10/21》アンドレス小笠原の家でパウロ三木、ヨハネ五島、ディエゴ喜斎の3人が拘束
     京都、大阪に居た宣教師と熱心な信者が次々と捕えられる
     1597・01/03《慶長01・11/15》捕えた24人の修道会士と信者は処刑を決めた秀吉の命により、
     見せしめのため鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛に引かせた荷車に乗せられて引き回わされる
     1597・01/04《慶長01・11/16》明け方、牢を引きだされた24人は大阪、堺と引き回され、堺の牢に監禁
     1597・01/08《慶長01・11/20》秀吉は24人を長崎で磔刑にする判決を下す
     1597・01/09《慶長01・11/21》殉教者が堺を出発。長崎・西坂の丘に向けて歩きはじめる
  日本の司教ドン・ペドロ・マルティネスが迎えられる
  豊後町と桜町の間に二ノ堀をつくる
     1680(延宝08)08/涸水がちで埋められる。桜町通筋一面に土砂を埋め左右に石垣を築かれる
  筑後善導寺の僧聖誉玄故は仏教の廃絶を嘆き、再興を志して来崎
     1598(慶長03)稲佐山麓にキリシタン禁教後仏法再興の最初の寺として悟真寺が創立される

1597(慶長02)【後陽成】 丁酉(ひのととり)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  01/09殉教者が堺を出発。長崎・西坂の丘に向けて歩きはじめる
     京都、大阪などで捕えられ、片耳をそがれ、町々を大八車で引きまわされた後、長崎へ送られる
     殉教者の世話のため付き添い、執拗に願い出て殉教者に加わったペトロ助四郎
     殉教者を最後まで見届けようと誓い、願って殉教者に加わった信者フランシスコ吉が加わる
     02/04《慶長01・12/18》彼杵に到着。3隻の舟に分乗し大村湾を渡る
     02/04《慶長01・12/18》午後11時、時津に着く。舟中泊
     02/05《慶長01・12/19》早朝に上陸し、浦上街道を歩く
     02/05《慶長01・12/19》午後05時、西坂の丘に着く
  02/05朝、西坂の丘は処刑される殉教者を一目見ようとする人々で埋めつくされる
     ポルトガル人たちは穴が開いている罪人の刑場でなく、海に突き出た岬を奉行代理に懇願
     鉄の輪で首と両手首、両足を固定、十字架は穴に立てられる
     殉教の地へたどり着いた26人の殉教者は十字架に縛りつけられ、十字架は一列に並べて西坂の丘に建てられる
     処刑が始まり、若い修道士フィリッポ・デ・ヘススが槍で突かれ、最初の血を流す
     アントニオとルドビコの2人の少年は賛えの「子らよ、主をたたえよ」を歌い、歌声が終わる間際に槍で突かれる
     次々に処刑は進み、最後にペトロ・バプチスタ司祭が血を流して処刑が終わる
       聖フランシスコ吉(京都/大工)
       聖コスメ竹屋(尾張/刀研師 /38歳?)
       聖ペトロ助四郎(京都)
       聖ミカエル小崎(伊勢/弓矢師/46歳)
       聖ディエゴ喜斎(備前/イルマン(修道者)/64歳)
       聖パウロ三木(摂津/イルマン(修道者)/33歳)
       聖パウロ茨木(尾張/桶屋/54歳 )
       聖ヨハネ五島(五島/イルマン(修道者)/19歳)
       聖ルドビコ茨木(尾張 /12歳)
       聖アントニオ(長崎/13歳)
       聖ペトロ・バプチスタ(スペイン/サン・エステパン/司祭、48歳)
       聖マルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン/アギラ/司祭/30歳)
       聖フィリッポ・デ・ヘスス(メキシコ/修道士/24歳)
       聖ゴンザロ・ガルシア(インド/修道士/40歳)
       聖フランシスコ・ブランコ(スペイン/ガルシア/司祭/28歳)
       聖フランシスコ・デ・サン・ミゲル(スペイン/修道士/53歳)
       聖マチアス(京都)
       聖レオン烏丸(尾張/伝道士/48歳)
       聖ボナベントゥラ(京都)
       聖トマス小崎(伊勢/14歳)
       聖ヨアキム榊原(大阪/40歳)
       聖フランシスコ医師(京都/医師/46歳)
       聖トマス談義者(伊勢/薬種商/36歳?)
       聖ヨハネ絹屋(京都/織物師(大工?)/28歳)
       聖ガブリエル(伊勢/19歳)
       聖パウロ鈴木(尾張/49歳)
     のち鎖国、キリスト教への迫害が終わるまでに600人を越えるキリスト教信者の血が流される
     1862(文久02)06/08ローマ法王ピオ9世が「西坂で殉教した26人を聖人に列する」ことを宣言
     以降「日本廿六聖人」と呼ばれる
  02/05マルティンス司教は岬の教会の修道院の窓から殉教の場所を見る
     マルティンス司教は夕暮れに西坂までおもむき十字架の前で祈りを捧げる
  07/08ルイス・フロイスが長崎で病死。享年65才
  長崎の市街が人口増加で狭溢となり、田畠に町割をはじめる
  市街人口増加のため田畑が拓かれて町屋となる
     酒屋町、袋町、本紺屋町、材木町ができる。以降にできたまちは外町に
  大波戸に制札場を設置
     1680(延宝08)08/豊後町に移す。昼番1人、夜番3人勤務
     1765(明和02)08/八百屋町に移す
  有家のセミナリヨが長崎のトードス・オス・サントス教会内にコレジヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設
     1598(慶長03)長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内にコレジヨ、印刷所とともに移転
  天草のコレジヨが長崎のトードス・オス・サントス教会内にセミナリヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設
     1598(慶長03)長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内にセミナリヨ、印刷所とともに移転
  度島のキリシタン全島民をことごとく誅伐
  1596年度版「年報」でフロイスが日本の惨状を報告
     「草の根や樫の実や玉葱を食べ、また或る時は大麦、豌豆(えんどう)、わずかな米」しか食べない

1598(慶長03)【後陽成】 戊戌(つちのえいぬ)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  06/24ヴァリニャーノ神父が新しい司教ドン・ルイス・セルケイラとともに長崎に着く
     ヴァリニャーノは3度目の来日
     1601(慶長06)ヴァリニアーノが岬の突端に「岬の教会」を再建
     1603(慶長08)マカオに戻る
     1606(慶長11)マカオにて67才で死去
  09/18《08/18》豊臣秀吉が死去
  稲佐山麓にキリシタン禁教後仏法再興の最初の寺として僧聖誉が悟真寺を創立
     開基は聖誉はキリスト教全盛下の長崎で布教に尽力した筑後善導寺の僧
     開基は聖誉の法徳を慕って帰依した唐商欧陽華宇と張吉泉。本尊は明時代の唐仏、阿弥陀三尊
     もともとはの地方豪族稲佐氏の居館跡、岩屋山神通寺の支院跡といわれる
     1602(慶長07)唯一の仏教寺だった悟真寺が福建省出身者の菩提寺となる
     中国人たちは悟真寺を菩提寺として周辺に墓地を設ける
     1649(慶安02)死亡したオランダ使節ドクトル・ピーテル・プロクホービスがオランダ人として初めて埋葬
     1654(承応03)ガブリエルハッパールト阿蘭陀商館長のとき初めて蘭人の遺体埋葬が許可される
     1659(萬治02)長崎散宿の唐人たちが墓地入口に祭場石壇、石製香炉を造り、春秋の祭祀法要を営む
     1858(安政05)プチャーチンが来航。日露修好通商条約締結交渉は進展せず、出航入港を繰り返している最中
     コレラが発生し乗組員20人が死亡、オランダ人墓地の上方に初めてロシア人の遺体を葬る
     1945(昭和20)原爆で本堂その他を失う
     1959(昭和34)原爆で倒壊した本堂が再建
     仏教の寺有地山内に、キリスト教、イスラム教、道教などの異教徒が埋葬される墓地は、他にあまり例がない
  文禄、慶長の役で多数の高麗人男女が捕らえられ長崎へ。安い値段でポルトガル人に売られマカオに送られる
     日本人男女も唐人やシャム人などに売られる
     秀吉が日本奴隷売買禁止令をだし長崎奉行寺沢志摩守は違反者を死刑に
     中国ではイエズス会司教ドン・ペイドロ・マルチイネスが日本人奴隷を売買した場合、破門と罰金を命じる
  トードス・オス・サントス教会内のセミナリヨが長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内に移転
     コレジヨ、印刷所とともに移る
     1601(慶長06)有馬に移転
  トードス・オス・サントス教会内のコレジヨが長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内に移転
     セミナリヨ、印刷所とともに移る
     1614(慶長19)1580(天正08)に設立され戦乱と追害で各地を転々としたコレジヨが閉鎖される
  オランダから5隻の船隊が東洋に派遣
     1599(慶長04)04/南米マゼラン海峡の到着し、南太平洋にさしかかったとき大嵐に遭遇
     1599(慶長04)11/かろうじて残ったデ・リーフデ号とホープ号の2隻はサンタマリア島(チリ)を日本に向かって出発
     のち太平洋上で暴風雨に遭遇し、ホープ号は行方不明となる
     1600(慶長05)04/195隻のうち「デ・リーフデ号」1隻が豊後、臼杵の佐志生に漂着する
     110人の乗組員のうち生存船員はわずか24人
     歩けるのはウィリアム・アダムス他6人だけ。うち3人は上陸の翌日に死亡
     長崎のイエズス会の宣教師は「オランダ人は海賊」として、国外追放を進言
     関ヶ原を目前にした家康はデ・リーフデ号の船長を呼び寄せる
     のち航海士のウィリアム・アダムスは直ちに徳川家康に拝謁。才識を認められる
     のち家康の側近として数学や天文学など西洋文化を紹介し、また家康の外交顧問として活躍
     大阪に来た英国人ウイリアム・アダムズから、オランダとイギリスが日本との交易を望んでいることを知る
     ウイリアム・アダムスは家康に召され対西洋関係の顧問となる
     のち外国人として初めて旗本になり、神奈川の三浦に250石の領地を与えられる
     三浦按針と名乗り日本に永住する

1599(慶長04)【後陽成】 己亥(つちのとい)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  04/オランダから5隻の船隊が東洋に派遣が南米マゼラン海峡の到着し、南太平洋にさしかかったとき大嵐に遭遇
     11/かろうじて残ったデ・リーフデ号とホープ号の2隻はサンタマリア島(チリ)を日本に向かって出発
     のち太平洋上で暴風雨に遭遇し、ホープ号は行方不明となる
     1600(慶長05)04/195隻のうち「デ・リーフデ号」1隻が豊後、臼杵の佐志生に漂着する
     110人の乗組員のうち生存船員はわずか24人
     歩けるのはウィリアム・アダムス他6人だけ。うち3人は上陸の翌日に死亡
     長崎のイエズス会の宣教師は「オランダ人は海賊」として、国外追放を進言
     関ヶ原を目前にした家康はデ・リーフデ号の船長を呼び寄せる
     のち航海士のウィリアム・アダムスは直ちに徳川家康に拝謁。才識を認められる
     のち家康の側近として数学や天文学など西洋文化を紹介し、また家康の外交顧問として活躍
     大阪に来た英国人ウイリアム・アダムズから、オランダとイギリスが日本との交易を望んでいることを知る
     ウイリアム・アダムスは家康に召され対西洋関係の顧問となる
     のち外国人として初めて旗本になり、神奈川の三浦に250石の領地を与えられる
     三浦按針と名乗り日本に永住する
  南蛮人がタバコの種子を輸入し桜馬場に試植。日本初のタバコ栽培
     【1605(慶長10)?】
  平戸の領主籠手田安一が長崎へ逃れる
     藩主からキリスト教徒をやめるよう言われるが、家族や信仰を守るため家来をつれて長崎へ

1600(慶長05)【後陽成】 庚子(かのえね)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  04/195隻のうち「デ・リーフデ号」1隻が豊後、臼杵の佐志生に漂着する
     110人の乗組員のうち生存船員はわずか24人
     歩けるのはウィリアム・アダムス他6人だけ。うち3人は上陸の翌日に死亡
     長崎のイエズス会の宣教師は「オランダ人は海賊」として、国外追放を進言
     関ヶ原を目前にした家康はデ・リーフデ号の船長を呼び寄せる
     のち航海士のウィリアム・アダムスは直ちに徳川家康に拝謁。才識を認められる
     のち家康の側近として数学や天文学など西洋文化を紹介し、また家康の外交顧問として活躍
     大阪に来た英国人ウイリアム・アダムズから、オランダとイギリスが日本との交易を望んでいることを知る
     ウイリアム・アダムスは家康に召され対西洋関係の顧問となる
     のち外国人として初めて旗本になり、神奈川の三浦に250石の領地を与えられる
     三浦按針と名乗り日本に永住する
  南馬町の囚獄を桜町に移す
     1881(明治14)09/囚監が片淵郷の乃武館跡に移る
  イギリスが東インド会社を設立
  尼寺の安禅寺が創始
     のちまもなく廃寺
     1645(正保02)僧玄澄が炉粕町の丸馬場に小庵を建て住む

1601(慶長06)【後陽成】 辛丑(かのとうし)

  《奉行》寺沢志摩守
  《代官》村山東安

  06/29マニラ港からポルトガル船によって平戸にタバコの種子が伝わる
     08/徳川家康に献上
  秋/サン・パウロ教会(岬の教会)」で日本人の2人が初めて司祭として叙階
     イエズス会のセバスチャン木村とルイス・ニアバラ
  長崎6町で初の火災が起きる
  桜町から真っ直ぐ延びる道に我が国初の石畳が敷かれる
     石畳の道は平戸から習ってきたもの
  引地町と袋町の間に三ノ堀をつくり小川を通す。内町と外町の境界を定める
     1605(慶長10)一部が埋立てられ引地町が造成
     1672(寛文12)涸水がちで埋められる
  元亀開港以後、桜町にあったキリシタン墓地をメスキータ神父が立山の山すそ山のサンタ・マリア付近に移設
     サン・ミゲル墓地
     墓地にはクルスが建てられていた(クルス町)
     1611(慶長16)サン・フランシスコ教会と修道院が建つ
     1614(慶長19)教会と修道院は大追害のときに破却
     1620(元和06)サン・フランシスコ教会跡に囚獄屋敷が建てられる
  炉滓町に墓地が建ち、サン・ミゲルに捧げられた小聖堂が造られる
  長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内のセミナリヨが有馬に移転
     1612(慶長17)有馬の宣教師が追放される。長崎のトードス・オス・サントス教会内に移転
  イタリア人芸術家のジョワンニ・ニコラオ神父が天草や有馬のセミナリヨ、長崎のコレジヨなどに時計の製作法を伝授
  大村と有馬にも立派な教会が建立
  セルケイラ司教の司式により「サン・パウロ教会(岬の教会)」の献堂式が挙行される
     「サン・パウロ教会(岬の教会)」はヴァリニャーノの指導の下で改築
     またセルケイラ司教は岬の教会に日本司教区大神学校を設立
     1602(慶長07)長崎で一番大きな準司教座教会「被昇天のサンタ・マリア」となる
     敷地内にはイエズス会本部や学校があり、初期キリスト教文化の中心地となる
     イエズス会本部には会員約50人、学校には生徒約80人、職員約40人
     十年制大学校は、キリスト教の他、日本の歴史、礼法、仏教概論、ラテン語、
     音楽、絵画、天文学、数学、暦学を教え、オルガン時計、印刷機や天文器機等も製作

1602(慶長07)【後陽成】 壬寅(みずのえとら)

  《奉行》寺沢志摩守広高(本年退職)
  《代官》村山東安

  03/20オランダ東インド会社(V.O.C.=Vereenigde Oostindische Compagnie)が設立
     世界初の株式会社で資本金650万グルテン、本社はアムステルダムに設置
     商業活動のみでなく、条約の締結権、軍隊の交戦権、植民地経営権など喜望峰以東の諸種の特権を与えられる
     アジアでの交易や植民に従事
  11/19第3代日本教区長ルイス・デ・セルケイラ司教がローマ教皇クレメンテ8世あて定例報告書
     西坂での宣教師の処刑に対し豊臣秀吉は「日本占領のためスパイだから殺した」と放言したことに当惑していると記す
  唯一の仏教寺だった悟真寺が福建省出身者の菩提寺となる
     中国人が貿易の基盤を築くと悟真寺の檀家となり、悟真寺を菩提寺として近い高台に唐人墓地を開設
     1641(嘉永18)オランダ商館が平戸から出島に移り、まもなく悟真寺の墓域の一画がオランダ人に割り当てられる
     1648(慶安01)インドネシアから出島への途次船上で死亡したペーター・ブロチオフがオランダ人で初めてに埋葬
     1654(承応03)初めて蘭人の遺体を埋葬
     1659(萬治02)長崎散宿の唐人たちが墓地入口に祭場石壇、石製香炉を造り、春秋の祭祀法要を営む
     1858(萬治01)ロシアのフリゲート艦「アスコルド号」の艦内でコレラが発生
     死亡した数人の乗組員を埋葬するためロシア人墓地を開設
     のち日露戦争で犠牲となった兵士を合葬した集団墓地を含め270のロシア人の墓が造られる
     1870(明治03)オランダ人商人ヤナス・ラインフート(53)が悟真寺オランダ人墓地に埋葬された最後の人物に
     悟真寺のオランダ人墓地の埋葬者数(41)
       オランダ(18)、ロシア(4)、イギリス(3)、インド(1)、不明(15)
     悟真寺の稲佐国際墓地の埋葬者数(31)
       アメリカ(12)、イギリス(9)、フランス(2)、ポルトガル(2)、ドイツ(1)、中国(1)、不明(4)
     1918(大正07)09/墓地の門と煉瓦塀がオランダ政府によって設置
     1945(昭和20)08/09原爆で悟真寺の本堂が倒壊
     1959(昭和34)原爆で倒壊した本堂が再建
  町の突端の波止場の傍に建つ「サン・パウロ教会(岬の教会)」が「被昇天のサンタ・マリア教会」に
     「被昇天のサンタ・マリア教会」は長崎で一番大きな準司教座教会となる
     敷地内にはイエズス会本部や学校があり、初期キリスト教文化の中心地となる
     イエズス会本部には会員約50人、学校には生徒約80人、職員約40人
     十年制大学校は、キリスト教の他、日本の歴史、礼法、仏教概論、ラテン語、
     音楽、絵画、天文学、数学、暦学を教え、オルガン時計、印刷機や天文器機等も製作
     1603(慶長08)塔(やぐら)が建ち3つの鐘と珍しい時計がつけられる
      大時計の文字盤には時刻がローマ数字と干支の2通りに記されている
      陰陽両式の日を示すカレンダー時計で、3つの鐘が音を奏するチャイム時計
     市民たちは時間ごとにここに来て文字盤を見ながらチャイムを聞くのを楽しみにしていた
     時計の製作はジョワンニ・ニコラオ神父。イタリアルネサンス派の画家で教会の祭壇の絵や壁画を描くために派遣

1603(慶長08)【後陽成】 癸卯(みずのとう)


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