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〈安土桃山時代(2)〉

1570(永禄13、元亀01・04/23)【正親町】 庚午(かのえうま)

  春/コメス・デ・トーレスが長崎の小さくて美しい「諸聖人に捧げる教会」に移り住む
     試練を乗り越えて信仰を守り続けた大村純忠が、トーレス神父を見舞いに訪れる
  07/来日した新しい布教長フランシスコ・カブラル神父が天草の志岐(苓北町)で宣教師会議を開く
     会議では長崎の新しい町と港の問題が協議決定
  10/トーレス神父が志岐にて死去した頃
     フィゲレイド神父は福田から長崎湾に入り、トラバソス船長とともに新しい港の位置を決定
  長崎開港協定が成立
  領主大村純忠は隣国領主との抗争を止めるため長崎をイエズス会へ寄進
     イエズス会領となった長崎には全国各地からキリスト教徒や商人が集まり急速に発展
  大村純忠の臣下、朝長対馬、長崎甚左衛門、宣教師フォゲレード等により新しい町造りがはじまる
  大村純忠の息子喜前も受洗、サンチョの洗礼名を受ける

1571(元亀02)【正親町】 辛未(かのとひつじ)

  03/大村純忠の家老朝長対馬守が長崎村の森崎と堀の間に6丁の町を拓いて町を建てる
     トーレス神父が大村純忠と会談した時、他の地で迫害されていた信者たちに分け与えるためひとつの土地を頼む
     《嶋原町》《大村町》《平戸町》《横瀬浦町》《文知町(分知町)》《外浦町》ができる
     「島原町」は有馬修理太輔義純、「大村町」は大村理専、「平戸町」は日浦与左衛門、
     「横瀬浦」「外浦町」は横瀬浦与五左衛門、「文知町」は則文知による
     岬が賑やかになる。戸数400余。人口1千〜1500
     長崎の静かな海に突き出ていた松と薮で覆われた細長い崎。区域面積は約8千坪、2.6ha
     6町の場所「カリアン書簡」には草原、「長崎剳記」には麦畑、「イエズス会士日本通信」には森林と記録
  03/12ポルトガル国王ドン・セバスチアンは東インド地方でポルトガル人が日本人男女を売買することを厳禁に
     違反したポルトガル人は財産没収、日本人は放免と布告
  夏ポルトガル船2隻が初めて長崎に入港。外国との交流が多くなる
  司令官トリスタン・デ・ウエガ率いるポルトガル船3隻が長崎に入港
  フィゲイレド神父が町の突端の波止場の傍の岬の先端に小さな聖堂「サン・パウロ教会(岬の教会)」を建てる
     長い航海を終えた異国の船員にとって、船上から眺める教会の姿は夢みるような美しい光景だった
     のち聖母マリアに捧げられたこの教会は次第に大きくなり、日本の教会の中心となるまでに発展
     1581(天正09)増改築される
     1585(天正13)すぐに手狭になって更に大きな教会の建設のため工事がすすめられる
     1587(天正15)工事半ばにして豊臣秀吉の禁教令が発布
     1587(天正15)岬の新しい教会が完成
     1589(天正17)秀吉の命令によって取り壊される
     1590(天正18)岬の教会が閉鎖
     イエズス会員はトードス・オス・サントスとミゼリコルディアの組の教会を利用
     1590(天正18)再び許されて建て直される
     傍らにはイエズス会の本部が出来上がる
     1601(慶長06)セルケイラ司教の司式により「サン・パウロ教会(岬の教会)」の献堂式が挙行される
     「サン・パウロ教会(岬の教会)」はヴァリニャーノの指導の下で改築
     またセルケイラ司教は岬の教会に日本司教区大神学校を設立
     1602(慶長07)長崎で一番大きな準司教座教会「被昇天のサンタ・マリア」となる
     敷地内にはイエズス会本部や学校があり、初期キリスト教文化の中心地となる
     イエズス会本部には会員約50人、学校には生徒約80人、職員約40人
     十年制大学校は、キリスト教の他、日本の歴史、礼法、仏教概論、ラテン語、
     音楽、絵画、天文学、数学、暦学を教え、オルガン時計、印刷機や天文器機等も製作
     1603(慶長08)塔(やぐら)が建ち3つの鐘と珍しい時計がつけられる
      大時計の文字盤には時刻がローマ数字と干支の2通りに記されている
      陰陽両式の日を示すカレンダー時計で、3つの鐘が音を奏するチャイム時計
     市民たちは時間ごとにここに来て文字盤を見ながらチャイムを聞くのを楽しみにしていた
     時計の製作はジョワンニ・ニコラオ神父。イタリアルネサンス派の画家で教会の祭壇の絵や壁画を描くために派遣
     1614(慶長19)09/禁教令による切支丹弾圧により破却される
  町の発展とともに、佐賀の龍造寺、深堀の深堀氏などとの紛争が起こる
  純忠の庇護のもとキリスト教は盛んになり、一方神社仏閣は布教の妨げになるとして、次々に焼き払われ壊滅の状態に
  南蛮船入津根拠地の福田の浦のキリシタン信徒数が1250人に
  イエズス会宣教師が開いた長崎湊は「三方山高く海深く風波穏やかにしてこれに過たる湊なし」と報告書に記される
     それまでのキリシタン時代、宣教師の報告書によると平戸、口之津、横瀬浦、七釜などの湊が著名
  伊王島が長崎に入港する外国船の目印の島「ガバロス島(ロバの背)」と呼ばれる
  日本全国のキリシタンの数が約3万人に増える
     1579(天正07)約10万人に

1572(元亀03)【正親町】 壬申(みずのえさる)


1573(元亀04、天正01)【正親町】 癸酉(みずのととり)

  諫早の豪族西郷純堯が長崎に攻め入る。岬の6か町まで攻撃
  南蛮菓子の輸入盛んになる。主なものはカスティラ、パン、ボーロ、金平糖、有平糖、カルメラ、ビスカウト、鶏卵素麺等

1574(天正02)【正親町】 甲戌(きのえいぬ)

  03/西郷、深堀の連合軍が長崎を攻撃
     長崎甚左衛門純景の砦と城下の村、トードス・オス・サントス教会を焼く
     キリシタン達は6町の外側に木の柵をつくり堀をほり防備を固め撃退
     のちトードス・オス・サントス教会が再建される
  岩屋山神宮寺がキリスト教徒による破却にあい廃滅
     1660(萬治03)領主・大村純長が大村家の祈願所として再興。2人扶持を給し岩屋山神通寺と改称
  滑石平宗寺の境内に建立されていた石地蔵をキリシタンが破却
     1625(寛永02)キリシタンに破却された六地蔵が村人により赤迫の岸壁に再興
  大村純忠が大改宗運動を展開。領内すべての神社仏閣を破壊し、全領民6万人をキリシタン化
     それまでは改宗後も伊勢神宮の神符を受けていたり、真言僧との交渉を保っていた
     純忠は自分の周囲をとりまく神仏信仰という従来からの宗教的環境を、改宗後約10年をかけて徐々にとり払う
  大村領内に約6万人の信徒を数え、そのほとんどがキリシタンとなる

1575(天正03)【正親町】 乙亥(きのとい)

  織田信長の時代に2度目の象が日本に渡来
     享保13(1728)3度目の象が渡来

1576(天正04)【正親町】 丙子(ひのえね)

  ポルトガル船により日本に初めて玉蜀黍(とうもろこし)がもたらされる
  トードス・オス・サントス教会の傍らの薬草園にポルトガル人が初めてじゃがいも(オランダイモ)を植える
     【1598(慶長03)ジャガタラから南蛮船で長崎にもたらす】
     1624〜1644(寛永年間)長崎で食用に栽培
  有馬正直妻子、重臣30人とともに口之津にて洗礼
  島原半島のキリスト教信者が2万人に
  有馬義直が死去、次子晴信、有馬13代領主となる

1577(天正05)【正親町】 丁丑(ひのとうし)

  12/九州は龍造寺、大友、島津の有力諸侯が覇権を争う時代
     佐賀の龍造寺隆信が数万の兵を以て島原半島神代へ上陸。有馬軍と交戦し勝利
     軍を二手に分け、嫡男政家に1万数千の軍勢を与えると千々石へ向かわせ釜蓋城に攻め寄せる
     城将大和守は頗る胆力がり、急を村民に伝えて堅く守り老臣木戸萬九郎、町田兵七郎と力戦大いに勉める
     しかし衆寡敵せず、刃折れ矢尽きて自刃。ときに25歳
  西郷氏が佐賀の龍造寺隆信によりつぶされる

1578(天正06)【正親町】 戊寅(つちのえとら)

  深堀勢が長崎に侵入。長崎甚左衛門純景がかろうじて撃退

1579(天正07)【正親町】 己卯(つちのとう)

  07/25《07/02》決裁権をもつイエズス会の日本巡察師ヴァリニアーノがポルトガル船で口之津に上陸
     有馬晴信は大いに歓待
     ヴァリニアーノは宣教師を集めて布教会議(口之津会議)を開く
     ヨーロッパの学校制度を導入したセミナリヨ、コレジヨの設立を提案
      キリシタンの増加で宣教師が不足、日本司祭を養成するため高等教育機関を作ろうとするが他の神父の反対にあう
      長崎に入港しなかったのは深堀氏による長崎攻撃の危険を避けるため
     1579(天正07)セミナリヨ、コレジヨの設立を計画
     1580(天正08)セミナリヨ、コレジヨの設立を決断
     1582(天正10)01/184人の天正遣欧少年使節とともに長崎を出帆
     日本人の若者をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを企てる
     ヨーロッパのキリスト教文化の偉大さを目の当たりにさせ、帰国後、日本人の口から同胞に伝えさせる目的
     1590(天正18)06/20インド副王の使節の資格を持ち天正遣欧少年使節一行とともに長崎に戻る
     1591(天正19)閏01/08聚楽第で豊臣秀吉に謁見、インド副王の書状や贈物を奉呈
     聚楽第は豊臣秀吉が京都に建てた家で東西600米、南北700米。建て方は城郭風で聚楽城とも呼ばれる
     秀吉の死後、 養子の秀次の追放とともに、取り壊される
     1592(文禄01)09/04長崎を出帆。中国布教に努めるためマカオに滞在
     1598(慶長03)06/24新しい司教ドン・ルイス・セルケイラとともに長崎に着く
     ヴァリニャーノは3度目の来日
     1601(慶長06)岬の突端に「岬の教会」を再建
     1603(慶長08)マカオに戻る
     1606(慶長11)マカオにて67才で死去
  ヴァリニアーノは他の神父の反対にあうキリシタン布教を目的に日本を3地区に分けコレジヨ、セミナリヨ設立計画
     1580(天正08)セミナリヨ、コレジヨの設立を決断
  ポルトガル人がインドシナ半島のカンボジアから日本に初めて南瓜(かぼちゃ)の種子をもたらす
  ポルトガル人が日本に初めて西瓜(すいか)の種子をもたらす
     【一説に1654(承応03)隠元が種を持参し長崎で栽培したとも】
  龍造寺氏が有馬晴信を攻撃
  日本全国のキリシタンの数が約10万人に増える
     1582(天正10)約15万人に

1580(天正08)【正親町】 庚辰(かのえたつ)

  04/大村純忠は、軍事的、宗教的な理由から長崎6町と茂木の町をイエズス会の知行地として寄進し教会領とする
     【1579(天正07)?】
     イエズス会に譲ったのは知行権だけで領土権と司法権はは大村氏が握る
     寄進した理由
     ○日本側…軍費に窮していた長崎純景は南蛮人から莫大な借銀をする
       しかし返済できず保証人の大村純忠は調停に当たった有馬鎮純の勧告により担保としての土地を引き渡した
     ○イエズス会側…反キリストの龍造寺一族から大村純忠や有馬晴信の有する土地を奪われないようにするため
       大村純忠の強敵龍造寺隆信から攻撃を受けなくてすむ
       イエズス会に譲渡すれば龍造寺から土地も自分の身も守ることが出来ると考えた
     純忠は軍事的経済的な安全策と考え、入港税と貿易の利益を安定確保できることに
     教会の発展は更に大きくなる
     その他の条件(1)純忠は年々1千ドカドの船舶税をポルトガル人から徴収
     (2)日本人に対する裁判は大村側の手で行なう…など
     年収1千ドカドは一部を長崎に居住する神父達の生活維持費に
     一部を長崎・茂木2か所の要塞設備の費用に充当。残りを大村家、有馬家において分配
     1588(天正16)04/02豊臣秀吉が長崎の他、茂木、浦上のイエズス会知行所を没収し公領とする
  勝山で長崎軍が西郷、深堀の連合軍を破る。勝山の由来にもなる
  ヴァリニアーノがセミナリヨ、コレジヨの設立を決断
  イエズス会の初等教育機関として聖職者の養成学校のセミナリヨがミヤコ(安土)とシモ(有馬)に設立
     ミヤコ地区は京都を中心にした近畿。織田信長の希望による。シモ地区は長崎、西九州を含め有馬(北有馬町)日野江城下に
     セミナリヨ…中学と工芸学校、小神学校を兼ねた教育施設。語学や音楽教育が重視
      日本語、算数、ローマ字、ラテン語、ポルトガル語、キリスト教、仏教、日本史、声楽、器楽、
      油絵、水彩画、銅版画、銅版彫刻、オルガン製作、時計製作、天文器械制作等を教える
     カリキュラムはイエズス会学事規則に準じて運営
     ミヤコ(安土)、府内(豊後)、シモ(豊後以外の九州)の3布教区に分けて1校ずつ設立
     シモ(有馬)のセミナリヨの最初の入学生は22人。なかにはミゲル千々石、ジュリアノ中浦、マルチノ原もいる
     ラテン語は作文のほか、ラテン語で演説をし、ときには討論もあった
     のち戦乱と追害で各地を転々とすることに
       ミヤコ(安土)の変遷
       1582(天正10)高槻に移る1585(天正13)大阪に移る
       1587(天正15)浦上のセミナリヨと合併し有馬に移転
     1586(天正14)島津氏に頼っていた有馬晴信は政治的危機に立たされシモ(有馬)のセミナリヨを浦上に避難させる
     豊臣秀吉による九州出兵の動員令による
     1587(天正15)浦上のセミナリヨと大坂[旧ミヤコ(安土)]のセミナリヨが合併し有馬に移転。生徒は70人を数える
     1588(天正16)有馬の神父、修道士の数が増え目立ち、八良尾(北有馬町)に移転
     1589(天正17)加津佐に移転
     1591(天正19)八良尾(北有馬町)に移転
     1595(文禄04)有家に移転
     1597(慶長02)長崎のトードス・オス・サントス教会内にコレジヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設
     1598(慶長03)長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内にコレジヨ、印刷所とともに移転
     1601(慶長06)有馬に移転
     1612(慶長17)有馬の宣教師が追放される。長崎のトードス・オス・サントス教会内に移転
     1614(慶長19)閉鎖
     【一説には合併後、浦上平戸有馬八良尾加津佐八良尾[1592(文禄01)]志岐(天草)
       大江有家トードス・オス・サントス(長崎)[1597(慶長02)]閉鎖[1614(慶長19)]】
     【一説には山口生月長崎(浦上)有馬八良尾加津佐八良尾有家長崎(サントス)
       天草志岐長崎(岬)有馬長崎(サントス)長崎(岬)マニラマカオ】
  イエズス会の大学に相当する高等教育機関としてコレジヨが府内(豊後)に設立
     コレジヨ…大学と神学校を兼ねた高等教育機関。神学や哲学、語学教育が重視
      人文、社会、自然の3系列をおく、4年の一般教育課程
      日本宗教、日本語、日本文学、民族学、数学、天文学、地理学、法律、ラテン語、ポルトガル語を教授
      この後に4年の哲学、神学の専門課程を置く
     カリキュラムはイエズス会学事規則に準じて運営
     ミヤコ(安土)、府内(豊後)、シモ(豊後以外の九州)の3布教区に分けて1校ずつ設立
     のち戦乱と追害で各地を転々とすることに
     1586(天正14)山口に移転
     1587(天正15)山田(生月島)に移転
     1588(天正16)千々石に移転
     1589(天正17)有家に移転
     1590(天正18)加津佐に移転
     1591(天正19)天草に移転
     1597(慶長02)長崎のトードス・オス・サントス教会内にセミナリヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設
     1598(慶長03)長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内にセミナリヨ、印刷所とともに移転
     1614(慶長19)閉鎖
     【一説には設立後、平戸[1587(天正15)]千々石[1588(天正16)]有家[1589(天正17)]
       加津佐[1590(天正18)]天草[1591(天正19)]長崎[1597(慶長02)]閉鎖[1614(慶長19)]】
  ヴァリニャーノ神父が臼杵にノヴィシャード(修練院)を設立
     ミヤコ(安土)、府内(豊後)、シモ(豊後以外の九州)の3布教区に分けて1校ずつ設立
     のち戦乱と追害で各地を転々とすることに
  巡察使ヴァリニアーノの口ノ津来訪を機に、有馬義貞の子・晴信が夫人とともに改宗
     教名をドン・プロタジオといい、時に13歳
  アレッサンドロ・ヴァリニヤーノ神父が長崎を訪れる

1580(天正08)頃

  サン・ジュアン・パウチスタ寺(筑後町、現本蓮寺)、サンタ・マリア寺、サンタ・クルス寺(炉粕町)、
     サント・ドミンゴ寺(勝山町、旧勝山小学校)、サン・フランシスコ寺(桜町、牢屋、現市役所別館)、
     サン・アントニオ寺(本大工町、現長崎市公会堂)、サン・アウグスチノ寺(本古川町、中島川傍)、
     サン・チャゴ寺(酒屋町、現長崎相互銀行)、サン・ペトロ寺(今町)、オーガスチン寺他が建設

1581(天正09)【正親町】 辛巳(かのとみ)

  10/キリシタン宗徒が崇嶽の神宮寺を焼く
     のち崇嶽廃寺。80余所に散在していた支院末坊も次第に廃絶
     1624(寛永01)八幡町に開かれた真言僧長慶の吉祥院が讃岐の金比羅大権現を勧請
  岬の先端の「サン・パウロ教会(岬の教会)」が増改築される
     1585(天正13)すぐに手狭になって更に大きな教会の建設のため工事がすすめられる
  オランダがイスパニアの覊絆を脱して独立を宣言

1582(天正10)【正親町】 壬午(みずのえうま)

  02/20《01/18》ポルトガル・イエズス会巡察使ヴァリニャーノが計画した遣欧少年使節4人がポルトガル船で出帆
     【《01/28》?】
     目的はヨーロッパの卓越した文化・文明を目の当たりに体験させ
      帰国後、日本人の口から同胞に伝えさせ布教を容易にすること
      ローマ法王や王侯貴族に会わせて日本布教の援助を引きだすこと
     使節はすべて有馬セミナリヨの1期生生徒
      大友宗麟の名代の遠縁のマンショ伊東祐益(14・日向出身)、
      有馬晴信・大村純忠の名代として2人の親族のミゲル千々石直員(13・大村純忠の甥・有馬鎮貴の従弟)
      純忠の家臣の子、ジュリアノ中浦甚五郎(14・中浦出身)とマルチノ原(13・波佐見出身)に副使を命じる
     通訳兼監督としてメスキータ神父が引率し、コンスタンチノ・ドラード(15)が4人の従者として同行
     1583(天正11)ヴァリニャーノはゴアまで同行
     1584(天正12)リスボンに到着。マドリードから地中海を経てイタリアへ
    ※1585(天正13)03/23《02/22》ローマで法王ゴリウス13世に公式謁見
     1586(天正14)スペインを経てリスボンより帰国
     のちマカオで豊臣秀吉の宣教師追放令を聞く
     日本入国はインド副王使節の資格で許可される
    ※1590(天正18)07/21《06/20》長崎に戻るが秀吉の伴天連追放令により静かな帰国
    ※1591(天正19)ヴァリニャーノは少年使節と豊臣秀吉に謁見
  ミヤコ(安土)のセミナリヨが高槻に移転      1585(天正13)大阪に移転
  日本全国のキリシタンの数が約15万人に増える
     1587(天正15)約20万人に

1583(天正11)【正親町】 癸未(みずのとひつじ)

  ポルトガルにならって「他者への愛」を実行する団体「ミゼリコルディア(慈悲)の組」が設立
     堺出身の金銀細工職人ジョスティノ・カサリア(ジュスチノ・カザリヤ?)が長崎へ
     福祉事業団体の組が本博多町に発足。聖堂ができる
     会員らが私財を投じ救済を行なう。のち広範囲の社会事業など相互扶助で実行
     医療、癩病院、老人病院、死者埋葬、孤児養老院、未亡人保護、救貧、矯風活動、高利貸禁止など
     1614(慶長19)厳しい弾圧のもと壊される
  イタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオが聖堂の祭壇画や壁画を描くために日本に派遣される
     長崎のセミナリヨの画学舎で洋画の手法を生徒に教える
  ルイス・デ・アルメイダは熱心にみちた布教活動を続けていたが、天草河内浦の藁葺きの貧しい住院で死亡
     帰国しなかったのは、ユダヤ人(新キリスト教徒)の出身でありながらカトリックに改宗したことで
     ユダヤ教信仰の大罪を犯し、帰国後の処刑を恐れ、日本を安住できる幸せの島と選んだこと

1584(天正12)【正親町】 甲申(きのえさる)

  龍造寺隆信が島津義久、有馬晴信軍に倒される
  島原領主の有馬晴信は、勝利の記念に自領の浦上の村をイエズス会の知行地として寄進する
     浦上の村々がキリシタンとなる
     多くの教会が建ち並び南蛮貿易の港として繁栄を誇る。ポルトガル人は町に自由に住、交易を行う
  イスパニア船が平戸に来航。英西戦争の敗北により数年で平戸を去る

1584(天正12)頃

  里郷(長崎大医学部から大学病院あたり)に教会堂とハンセン氏病院ができる

1585(天正13)【正親町】 乙酉(きのととり)

  03/23《02/22》遣欧少年使節がローマで法王ゴリウス13世に公式謁見
     1590(天正18)07/21《06/20》変わり果てた長崎に帰る
  岬の先端の「サン・パウロ教会(岬の教会)」がすぐに手狭になり更に大きな教会の建設のため工事がすすむ
     1587(天正15)工事半ばにして豊臣秀吉の禁教令が発布
  高槻のセミナリヨ[旧ミヤコ(安土)のセミナリヨ]が大阪に移転
     1587(天正15)浦上のセミナリヨと合併し有馬に移転。生徒は70人を数える

1586(天正14)【後陽成】 丙戌(ひのえいぬ)

  福田兼親が大村純忠の娘を嫁とする
  福田大和守忠兼が砦・手熊館を築く
     1644(寛永21)跡地に白髭大明神を勧請して白髭神社を創建
  豊臣秀吉が九州出兵の動員令を出す
  島津氏に頼っていた有馬晴信は政治的危機に立たされシモ(有馬)のセミナリヨを浦上に避難させる
     豊臣秀吉による九州出兵の動員令による
     1587(天正15)浦上のセミナリヨがミヤコ(安土)とセミナリヨが合併し有馬に移転。生徒は70人を数える
  府内(豊後)のコレジヨが山口に移転
     1587(天正15)山田(生月島)に移転

1587(天正15)【後陽成】 丁亥(ひのとい)

  06/07織田信長を滅ぼした豊臣秀吉が天下をとり九州を平定
  07/24《06/19》織田信長の後を受け継ぎ、天下統一を果たした豊臣秀吉は、突然に「伴天連追放令」を出す
     キリスト教を禁じ、宣教師に国外退去を命じるが一方ではポルトガル船の来港と貿易は許す
     追放令をだした要因のひとつに、秀吉の求愛を大村・有馬のキリシタン女性が頑としてはねつけた報復
     追放令をだした真の狙い…キリシタン勢力が諸大名と結びつき、己の統一政権が脅かされること
       長崎という外国領度ができたことに将来を憂いたこと
  長崎がイエズス会領であることを知った豊臣秀吉は6町、茂木、浦上を接収
  豊臣秀吉の禁教令が下り、平戸領主松浦隆信の子鎮信が禁教に踏みきる
  岬の先端の「サン・パウロ教会(岬の教会)」が工事半ばにして豊臣秀吉の禁教令が発布
     1587(天正15)岬の新しい教会が完成
     1589(天正17)秀吉の命令によって取り壊される
  豊臣秀吉の九州征伐にあたり、4人の長崎頭人が生まれ行政が委任され統治せしめる
     幕府時代、最高の地位にあった町人で世襲を例とする
     高木勘右衛門、高島了悦、後藤惣太郎、町田宗賀
     1592(天正20)幕府時代、最高の地位にあった4人の町人・頭人の名称が町年寄と改める
  宣教師を追放、教会を破壊、キリスト教徒には多額の罰金を課す
  14代長崎甚左衛門純景が故あって長崎を退去【1578(天正06)?】
  キリシタン政策のため5人組制度が強化
     5人組のなかにキリシタンがいると分かれば、早く訴えないと全員が処罰
     元はキリシタンと知っていても信仰を守っているかどうか分からなくなっていた
  西郷信尚が豊臣秀吉の島津攻略の命令に従わず筑後柳川の龍造寺家晴に攻め滅ぼされる
   龍造寺家晴は初代諫早藩主として2万2千石を領する
  浦上のセミナリヨと大坂[旧ミヤコ(安土)]のセミナリヨが合併し有馬に移転。生徒は70人を数える
     1588(天正16)有馬の神父、修道士の数が増え目立ち、八良尾(北有馬町)に移転
  山口のコレジヨが山田(生月島)に移転
     1588(天正16)千々石に移転
  博多でキリシタン大名の高山右近は豊臣秀吉から、信仰か領地かを選べと迫られ、ためらわず信仰を選ぶ
  日本全国のキリシタンの数が約20万人に増える
     1605(慶長10)約75万人に

1588(天正16)【後陽成】 戊子(つちのえね)

  02/伴天連追放令をうけイエズス会が3人のみマカオへ退去させる
     残る110人にのぼる伴天連は九州各地に潜伏させ一般農民を対象に布教
     結果として、却って布教が地につく
  04/02豊臣秀吉は改めて長崎の他、茂木、浦上のイエズス会知行所を没収し公領とする
  豊臣秀吉が没収した旧キリシタン知行地の代官に鍋島飛騨守信生を任命
     浅野弾正少弼長吉、戸田民部少輔勝隆に長崎の支配を委任
  有馬のセミナリヨで神父、修道士の数が増え目立ち、八良尾(北有馬町)に移転
     1589(天正17)加津佐に移転
  山田(生月島)のコレジヨが千々石に移転
     1589(天正17)有家に移転
  イギリスがイスパニアの無敵艦隊を打ち破りアジアへの道を開く
     1600(慶長05)イギリス東インド会社を設立

1589(天正17)【後陽成】 己丑(つちのとうし)

  岬の先端の「サン・パウロ教会(岬の教会)」が秀吉の命令によって取り壊される
     1590(天正18)岬の教会が閉鎖
     イエズス会員はトードス・オス・サントスとミゼリコルディアの組の教会を利用
     1590(天正18)再び許されて建て直される
     傍らにはイエズス会の本部が出来上がる
  八良尾(北有馬町)のセミナリヨが加津佐に移転
     1591(天正19)八良尾(北有馬町)に移転
  千々石のコレジヨが有家に移転
     1590(天正18)加津佐に移転

1590(天正18)【後陽成】 庚寅(かのえとら)

  07/05天下統一を目指す豊臣秀吉に最後まで抵抗していた北条氏がついに屈する
    7/13秀吉は北条氏の本拠地小田原城に入城。全国統一がほぼ完成
     この日、北条氏の領地関東の6か国(伊豆、相模、武蔵、上野、上総、下総)を徳川家康に与える
  07/21《06/20》ヴァリニアーノがインド副王の使節の資格を持ち天正遣欧少年使節一行とともに長崎に戻る
    長崎はキリスト教が禁じられ、宣教師に国外退去を命じた変わり果てたあとの姿に
    1591(天正19)閏01/08天正遣欧少年使節一行は聚楽第で豊臣秀吉に謁見、インド副王の書状や贈物を奉呈
     洋楽器[フラウト(フルート)、レベカ(小型バイオリン)、ラウテ(リュート)、クラボ(鍵盤楽器)]を演奏
     少年たちはジョスカン・デ・プレ作曲の恋の歌「ミュ・ルグレ(千々の悲しみ)」を歌う
    のち4人とも天草のイエズス会修練院に入る
      ミゲルは途中で棄教、千々和清左衛門として大村喜前に仕える
      マンショは1612(慶長17)11/13司祭として長崎のコレジヨで病死
      マルチノは1614(慶長19)禁教令がでたときにマカオへ追放、1929(寛永06)病死
      ジュリアノは日本で信徒の世話を続け1633(寛永10)10/21西坂で殉教
      太い棒に吊るされる前に「私はローマに行った中浦神父です」と叫ぶ
    1592(文禄01)09/04ヴァリニアーノは長崎を出帆。中国布教に努めるためマカオに滞在
  07/21《06/20》遣欧少年使節が長崎に帰ったとき、巡察使ヴァリニャーノは印刷機を持ち込む
     我が国最初の金属活字印刷機械で梱包されたまま加津佐のコレジヨへ送られる
     ヴァリニアーノの指示で日本語の活字製造が研究
     のち戦乱と追害でセミナリヨやコレジヨとともに各地を転々
     1591(天正19)ローマ字つづりの和文による聖人伝「サントスの御作業の内抜き書物第一」が刊行
     我が国初の西洋印刷機による金属活字本で欧文の翻訳出版
     1591(天正19)加津佐で片仮名体の木活字の見本が作られる
     平仮名体の木活字で教理書「どちりなきりしたん」が作られる
     他にパンフレットや「加津佐物語」などが印刷
     のち金属活字印刷機械は加津佐→天草→長崎などへ移される
     1603(慶長08)日葡(日本・ポルトガル)辞書が長崎で刊行
     1614(慶長19)金属活字印刷機械がマカオへ渡る
     出版活動によって生まれたキリシタン版は宗門書、文典、文学書など約50種となる
  白亜の美しサンタ・マリア教会が立山に建つ
     ポルトガルの船員の航海の安全を願って港に面した山にサンタ・マリア教会を建てる習慣から
     岬の被昇天サンタ・マリア教会に対し山のサンタ・マリア教会と呼ばれる
     【設立は1591(天正19)、1594(文禄03)、1600(慶長05)とも】
     のち小聖堂が市民の憩いの場所となる
     1614(慶長19)09/禁教令による切支丹弾圧により破却される
     内町と外町の境界が明瞭となる
  岬の先端の「サン・パウロ教会(岬の教会)」が閉鎖
     イエズス会員はトードス・オス・サントスとミゼリコルディアの組の教会を利用
     1590(天正18)再び許されて建て直される
     傍らにはイエズス会の本部が出来上がる
     1601(慶長06)サン・パウロ教会(岬の教会)」が、セルケイラ司教の司式により献堂式が挙行
     ヴァリニャーノの指導の下で改築していた
     1601(慶長06)セルケイラ司教が岬の教会に日本司教区大神学校を設立
  布教にあたる宣教師ルイス・フロイスがイエズス会の本部に報告書を送る
     文中、島原の日野江城と場内の屋敷の様子を伝えるくだり
     「この建物の美しく雅やかなたたずまいは一同に気は入った。
     大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。
     この屋敷は最近建てられ見事な出来栄えとなった城郭の中にある。
     その城郭を見たポルトガル人たちは、日本にこれほど壮麗な建造物があるなどと考えてもみなかった」
  有家のコレジヨが加津佐に移転
     1591(天正19)天草に移転

1591(天正19)【後陽成】 辛卯(かのとう)

  ポルトガルの船長ロケ・デ・メロ・ペレイラが長崎へくる
     1592(天正20、文禄01・12/08)船長の寄付により筑後町(本蓮寺)にサン・ジョアン・バプチスタ教会が建つ【1605(慶長10)】
     教会はサン・ラザロ病院(ハンセン病病院)の付属で慈善団体ミゼリコルディアの組により運営
     社会的に放置されたハンセン病患者を救護治療したとされるが、収容規模や医療実績の記録は確認されず
     ハンセン病や重い皮膚病などの患者を救護するためキリスト教関係者が設けた医療施設。大分、京都、大阪などにも設置
     1614(慶長19)09/禁教令による切支丹弾圧により破却される
     1620(元和06)大村本経寺の僧日慧【日恵?】がキリスト教徒の迫害を受けながら教会跡に聖林山本蓮寺を建立
     1641(寛永18)大村氏などが支援して寺地を拡大。皓台寺、大音寺とともに長崎三大寺のひとつに
     1945(昭和20)08/09原爆ですべて焼失
     戦後本堂、書院、庫裏などが規模を縮小して再建
  閏01/08天正遣欧少年使節一行が聚楽第で豊臣秀吉に謁見、インド副王の書状や贈物を奉呈
     洋楽器[フラウト(フルート)、レベカ(小型バイオリン)、ラウテ(リュート)、クラボ(鍵盤楽器)]を演奏
     少年たちはジョスカン・デ・プレ作曲の恋の歌「ミュ・ルグレ(千々の悲しみ)」を歌う
     聚楽第は豊臣秀吉が京都に建てた家で東西600米、南北700米。建て方は城郭風で聚楽城とも呼ばれる
     聚楽第は秀吉の死後、 養子の秀次の追放とともに、取り壊される
     1592(文禄01)09/04ヴァリニアーノは長崎を出帆。中国布教に努めるためマカオに滞在
  加津佐のセミナリヨが八良尾(北有馬町)に移転
     1595(文禄04)有家に移転
  加津佐のコレジヨが天草に移転
     1597(慶長02)長崎のトードス・オス・サントス教会内にセミナリヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設
  ローマ字つづりの和文による聖人伝「サントスの御作業の内抜き書物第一」が刊行
     我が国初の西洋印刷機による金属活字本で欧文の翻訳出版
     金属活字印刷機械は1590(天正18)07/21《06/20》ヴァリニャーノが遣欧少年使節と帰国したときに長崎に持ち込む
  加津佐で片仮名体の木活字の見本が作られる
     平仮名体の木活字で教理書「どちりなきりしたん」が作られる
     他にパンフレットや「加津佐物語」などが印刷
     のち金属活字印刷機械は戦乱と追害でセミナリヨやコレジヨとともに加津佐→天草→長崎などへ移される
     1603(慶長08)日葡(日本・ポルトガル)辞書が長崎で刊行

天正年間(1573〜1592)

  戸町村雄浦郷に大浦諏訪神社が開創
     1693(元禄06)10/17大村藩22代領主大村純長が社殿を建立
  竹の久保(現淵町)の妙見社がキリシタンの社地破壊により焼失
     1634(寛永11)延命寺の僧龍宣により浦上淵村竹久保郷に能満院万福寺が建立
     1647(正保04)弁財天を合祀。稲佐弁天社とも呼ばれるようになる
     1868(明治01)淵神社
  福田城が築かれる
  種子に先立ちタバコそのものが伝来
     のち喫煙の風習が急速に広まる
  諌早地区で本格的な干拓がはじまる

元亀年間(1570〜1572)〜天正年間(1573〜92)

  ポルトガル人により後の長崎代官伊藤小七郎がカステラの製造を試みる

1592(天正20、文禄01・12/08)【後陽成】 壬辰(みずのえたつ)


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