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〈室町時代(2)〉3・戦国時代

1532(享禄05、天文01・07/29)【後奈良】 壬辰(みずのえたつ)


1540(天文09)【後奈良】 庚子(かのえね)

  王直が東シナ海沿岸海域の貿易を広げるため福江に来航
     領主宇久盛定は喜んで通称を許し江川城下高台に居住地を与える
      王直は玄界灘から東シナ海の広い海洋で最も勢力のある海賊の首領。自ら明儒五峯と名のり暴威を奮う
      呂宋(ルソン)、安南、暹羅(シャム)、マラッカなどに禁制貨物の密貿易をして巨万の富をなす

1542(天文11)【後奈良】 壬寅(みずのえとら)

  平戸松浦家第25代松浦隆信は中国の海商王直を誘致、彼を仲介とする中国との交易を行なう

1543(天文12)【後奈良】 癸卯(みずのとう)

  08/末乗組員100余人の大船が種子島に漂着
     07/末にマカオを出帆、途中、他の海賊船と一戦を交え、台風にあい漂流していた王直の船
     漂流船に毛色の変わった乗組員がおり、村主は王直と筆談の結果、南蛮人(ポルトガル人)とわかる
     王直が筆談役となり島主種子島時尭(ときたか)が引見する
     南蛮人が携えていた細長い一物。のち戦国諸大名が垂涎の的となる鉄砲
  1隻の唐船が種子島に漂着
     船には国際貿易を口実に、植民地獲得に熱心だったポルトガル人2人が乗船
     鉄砲を伝える

1547(天文16)【後奈良】 丁未(ひのとひつじ)

  ザビエルがマラッカで鹿児島出身の日本人ヤジロウと出会う
     日本人が優秀なことを知り日本への布教を決意

1549(天文18)【後奈良】 己酉(つちのととり)

  08/15《07/22》トレイス一行が鹿児島に上陸。島津貴久に謁見し布教許可を得る。フランシスコ・ザビエルも同行
     フランシスコ・ザビエルはカステラ、ボール、金平糖、有平糖、ビスカウトなどを携行
     1550(天文19)08/上来崎。樺島から平戸に渡る
     1550(天文19)09/松浦隆信は多いに歓待。火器製造などと引き換えに布教許可を得る
      ザビエルの宿主となった木村家をはじめ100人余りに洗礼を授ける
     1551(天文20)01/日本全国へ布教しようと天皇へ謁見するため山口を経て京都へ
     都の荒廃ぶりに落胆。小京都といわれた山口に戻り、大内義隆に謁見、城下に布教を開始
     1551(天文20)09/豊後の大友宗麟の招きで府内におもむく
     1551(天文20)11/インドに戻る
     1552(天文21)12/03中国布教のため上陸した上川島の地で熱病にかかり死亡

1550(天文19)【後奈良】 庚戌(かのえいぬ)

  08/聖フランシスコ・ザビエルを乗せたポルトガル船が鹿児島から船で西九州の海岸に沿って樺島に着き平戸へ赴く
     平戸藩主松浦隆信に招かれ約1か月の滞在
     平戸では数人に洗礼を授け、その信者の共同体をコスメ・デ・トーレス神父に任せる
     ザビエルはその道を開拓し、トーレスは最初の牧者となる
     続いてバルタザル・ガゴ、ガスパル・ヴィレラ、イルマン、ルイス・デ・アルメイダなどがその教会を育てる
     ガゴ神父から洗礼を受けた籠手田家は、平戸の教会の柱となる
     平戸で布教、信者約180人を得る
  王直の手引きによりドワルテ・ダ・ガマ率いるポルトガル船が平戸に入港
     平戸白狐山城城主松浦隆信とのあいだに通商交渉が成立
  ポルトガル人が平戸商館員のためにパンをもたらす
     パンはポルトガル語で(pao)、英語で(bread)、漢字で(麺麭)

1551(天文20)【後奈良】 辛亥(かのとい)

  宣教師フランシスコ・ザビエルが山口の大内義隆に時計を献上
  日本全国のキリシタンの数が1千人〜1千5百人くらいに増える
     1571(元亀02)約3万人に
     1579(天正07)約10万人に
     1582(天正10)約15万人に
     1587(天正15)約20万人に
     1605(慶長10)約75万人に

1552(天文21)【後奈良】 壬子(みずのえね)

  ルイス・デ・アルメイダが医師、貿易商人として日本平戸に初めて渡来。貿易に従事
     アルメイダはポルトガル人。リスボンの裕福な貴族の子で宣教師・医療伝導師(外科医)
     1555(天文24、弘治01・10/23)アルメイダが再渡来、豊後府内でイエズス会に入り慈恵病院を建てる
     また豊後の府内に乳牛牧場を付設した育児院を建て、間引きされる乳児の救済事業を起こす
     1556(弘治02)イエズス会に入会しイルマン(修道士)として九州北部で活動
     1558(弘治04、永禄01・02/28)私財を投じ豊後府内にわが国最初の洋式病院を開設
     アルメイダが豊後府内にわが国最初の洋式医学校を創立
     日本人医師の養成も行ない、西洋医術の導入者・社会福祉事業家として知られる
     西洋文明に関心をよせていた織田信長も宣教師を保護し教会堂(南蛮寺)、安土に学校(セミナリオ)の建設を許可
     宣教師は布教活動の傍ら医療活動も行ない、グレゴリアとルイは病人に投薬と治療を施す
     また江州伊吹山に薬園を設けポルトガルより3000種の薬草を移植
     のち初めて牛乳を飲ませ、病人の滋養食にカステラを焼いて与える
     1562(永禄05)07/アルメイダ、トーレス、イルマン、ジョアン・フェルナンデスが横瀬浦の教会を育てる
     のち島原、口之津などで布教、島原半島に教会となるべき寺を与えて布教を許す
     1563(永禄06)04/有馬領内に入り、島原と口之津に教会を開く
     1565(永禄08)アルメイダとイルマン、ロレンソによって五島の福江と奥浦に教会が建つ
     1566(永禄09)冬の五島灘を渡り布教
     五島藩主五島純定や島民の病気を治療。祈梼などに頼っていた島民から感謝される
     1567(永禄10)長崎に派遣、布教を開始
     1568(永禄11)長崎へのキリスト教布教がヴィレラに引き継がれる。1570(元亀01)
     1583(天正11)熱心にみちた布教活動を続けていたが、天草河内浦の藁葺きの貧しい住院で死亡
     帰国しなかったのは、ユダヤ人(新キリスト教徒)の出身でありながらカトリックに改宗したことで
     ユダヤ教信仰の大罪を犯し、帰国後の処刑を恐れ、日本を安住できる幸せの島と選んだこと

1553(天文22)【後奈良】 癸丑(みずのとうし)


1554(天文23)【後奈良】 甲寅(きのえとら)

  肥後の雄・菊地氏が大友宗麟に討たれ滅亡

天文年間(1532〜1555)

  平戸に渡来したフランシスコ教会の神父がカステラの製法を伝授

1555(天文24、弘治01・10/23)【後奈良】 乙卯(きのとう)

  第14代、長崎甚左衛門の弟・織部亮為英が京都から東山(長照寺付近)の地に諏方明神を分霊勧請
     信濃の諏訪神社から御霊分け?
  ルイス・デ・アルメイダが再渡来。豊後府内でイエズス会に入り慈恵病院を建てる
     また豊後の府内に乳牛牧場を付設した育児院を建て、間引きされる乳児の救済事業を起こす
     1556(弘治02)イエズス会に入会しイルマン(修道士)として九州北部で活動
  有馬軍勢が岩屋山神宮寺に乱入、風上から放火したため本坊、別院など諸堂宇がことごとく全焼
     のち里人が相寄って跡地に小堂が建つ
     1574(天正02)キリスト教徒による破却にあい廃滅

1556(弘治02)【後奈良】 丙辰(ひのえたつ)

  ルイス・デ・アルメイダがイエズス会に入会しイルマン(修道士)として九州北部で活動
     1558(弘治04、永禄01・02/28)私財を投じ豊後府内にわが国最初の洋式病院を開設
     南蛮流外科技術を伝え医師の養成をするための洋式医学校を創立
     西洋医術の導入者・社会福祉事業家として知られる

1557(弘治03)【正親町】 丁巳(ひのとみ)


1558(弘治04、永禄01・02/28)【正親町】 戊午(つちのえうま)

  唐船が初めて長崎に来る
     【永禄05(1562)、慶長05(1600)諸説あり】
  西洋文明に関心をよせていた織田信長も宣教師を保護し教会堂(南蛮寺)、学校(セミナリオ)の建設を許可
  ルイス・デ・アルメイダが私財を投じ豊後府内にわが国最初の洋式病院を開設
     アルメイダが豊後府内にわが国最初の洋式医学校を創立
     日本人医師の養成も行ない、西洋医術の導入者・社会福祉事業家として知られる
     西洋文明に関心をよせていた織田信長も宣教師を保護し教会堂(南蛮寺)、安土に学校(セミナリオ)の建設を許可
     宣教師は布教活動の傍ら医療活動も行ない、グレゴリアとルイは病人に投薬と治療を施す
     また江州伊吹山に薬園を設けポルトガルより3000種の薬草を移植
     のち初めて牛乳を飲ませ、病人の滋養食にカステラを焼いて与える
     1562(永禄05)07/アルメイダをはじめトーレス、イルマン、ジョアン・フェルナンデスが横瀬浦の教会を育てる
  ヴィレラ神父がガーコ神父の支援で度島を訪れ信者を獲得

1559(永禄02)【正親町】 己未(つちのとひつじ)


1560(永禄03)【正親町】 庚申(かのえさる)


1561(永禄04)【正親町】 辛酉(かのととり)

  度島、生月に熱心なキリシタン信者が多くなる
     度島では約500人の住民全員が信者に、生月では住民1500人の内半数以上が信者に
  平戸にてポルトガル船乗組員と平戸町人の間に大乱闘が起こる
     ポルトガル船長以下3人が死亡。「宮ノ前事件」
  キリスト教の布教が大きな傷害となり平戸のポルトガル貿易がいったん頓挫する

1562(永禄05)【正親町】 壬戌(みずのえいぬ)

  06/日本布教長のトルレスがルイス・デ・アルメイダに命じて大村純忠と交渉をさせ横瀬浦の港を開港
     大村純忠は平戸に代わる港として横瀬浦を開港する。大村純忠とキリスト教が出会う
     [開港協定]・布教の自由・会堂の建設・横瀬浦港町の半分の土地と農民を教会に治めさせる
     李・朱医学の祖、田代三喜が活躍
     ・宣教師の同意なしに異教徒を居住させない・ポルトガル貿易のために来る商人は10年間の免税
     有馬藩主義直は口之津を貿易港として開くため、横瀬浦から修道士アルメイダを招く
     修道士アルメイダは島原、口之津などで布教、島原半島に教会となるべき寺を与えて布教を許す
     のち賑やかな開港地となり日本キリスト教の中心地に
     のちトルレスは横瀬浦で数百人に洗礼を授ける
     京都、豊後、博多、平戸などから信徒が移住。会堂が建てられ日曜日には信徒であふれる
     1563(永禄06)06/初大村純忠が重臣を引き連れ横瀬浦で洗礼を受ける。日本初のキリシタン大名の誕生
     1563(永禄06)07/大村家の反純忠派のクーデターにより大村城が襲撃される
     横瀬浦は焼き打ち事件により壊滅トルレス、フロイスは逃れる
  07/ルイス・デ・アルメイダ、トーレス、イルマン、ジョアン・フェルナンデスが横瀬浦の教会を育てる
     のち島原、口之津などで布教、島原半島に教会となるべき寺を与えて布教を許す
     1563(永禄06)04/有馬領内に入り、島原と口之津に教会を開く
  07/ルイス・デ・アルメイダをはじめトーレス、イルマン、ジョアン・フェルナンデスが横瀬浦の教会を育てる
  年の暮/平戸の根獅子、生月、度島に布教
  有馬義直が口之津を貿易港として開港

1563(永禄06)【正親町】 癸亥(みずのとい)

  04/ルイス・デ・アルメイダが有馬領内に入り、島原と口之津に教会を開く
     1565(永禄08)アルメイダとイルマン、ロレンソによって五島の福江と奥浦に教会が建つ
  06/初大村純忠が横瀬浦の教会で重臣25人とともに洗礼。ドン・バルトロメオの洗礼名を受ける
     日本最初のキリシタン大名となる
     豪族長崎甚左衛門も洗礼を受ける
  07/06《06/16》イエズス会の司祭フロイスがポルトガル船で神父として横瀬浦に上陸
  マラッカのカピタン、ドン・フランシスコ・デ・サの弟デン・ペドロ・ダ・ゲーラが横瀬浦に到着
     ゲーラは大村純忠に数々の南蛮渡りの土産とともに葡萄酒の大瓶を贈呈
     大村純忠のキリスト教への改宗に対する喜びを表すため
     大村純忠は答礼として船を訪ね、ポルトガル人は多いに歓迎。船を旗で飾り、礼砲を放ち、大祝宴を開きもてなす
  横瀬浦から宣教が広がり、西彼杵半島の村々の主だった人々が洗礼を受ける
  07/義弟ら反純忠派や武雄の後藤貴明がクーデターを起こし横瀬浦の町がほぼ壊滅状態に「横瀬浦焼き打ち事件」
  07/大村家の反純忠派のクーデターにより大村城が襲撃される
  秋/横瀬浦が破壊。フロイスは逃れ、トーレスは口之津に移り住み、布教活動に対して指導を与える

1564(永禄07)【正親町】 甲子(きのえね)

  06/ポルトガル船は横瀬浦に入港できず平戸に寄港
  横瀬浦に代わる貿易港の候補としては3港があがる
     長崎外港の福田、 天草の志岐とともに、有馬義貞により原半島の南端口ノ津にも誘致
  福田と平戸に教会が完成

1565(永禄08)【正親町】 乙丑(きのとうし)

  06/福田にポルトガル船が入港、貿易港となる
  ポルトガル船の福田入港に対し松浦氏が襲撃するが敗れる。「南蛮船襲撃事件」
     松浦水軍の戦死者80人、負傷者120余人。ポルトガル戦死者8人、負傷者1人
  福田の信仰の火が戸町へと飛ぶ
  トレイス神父が口之津を布教の本拠地「日本教会の本部」とする
  ルイス・デ・アルメイダとイルマン、ロレンソによって五島の福江と奥浦に教会が建つ
     1566(永禄09)冬の五島灘を渡り布教
     五島藩主五島純定や島民の病気を治療。祈梼などに頼っていた島民から感謝される

1566(永禄09)【正親町】 丙寅(ひのえとら)

  ルイス・デ・アルメイダが冬の五島灘を渡り布教
     五島藩主五島純定や島民の病気を治療。祈梼などに頼っていた島民から感謝される
     1567(永禄10)長崎に派遣、布教を開始

1567(永禄10)【正親町】 丁卯(ひのとう)

  口之津にポルトガル船が入港、貿易港となる
  大村純忠が口之津のトーレス神父を訪れる
     話合いの結果、口之津のトルレス、ルイス・デ・アルメイダを長崎に派遣、布教を開始させる
     1568(永禄11)布教はヴィレラに引き継がれる。1570(元亀01)まで
  ルイス・デ・アルメイダが長崎に派遣、布教を開始
     1568(永禄11)長崎へのキリスト教布教がヴィレラに引き継がれる。1570(元亀01)
  ルイス・デ・アルメイダはすでに信者のベルナルド長崎甚左衛門から自館の近くに土地と小さな寺を受ける
     寺に布教所(現春徳寺)を設け布教と医療を行う
     1569(永禄12)09/長崎甚左衛門純景が夫婦川町の丘の仏寺を改造
     【11/01?】
     ガスパル・ヴィレラ神父の宣教は効果的で長崎初の教会トードス・オス・サントス(諸聖人教会堂)を建設
     1574(天正02)03/深堀勢の攻撃を受け焼失
     1597(慶長02)セミナリヨやコレジヨ、ノビシアード(修練院)が設置され活字印刷所なども併設
     1598(慶長03)頃コレジヨ、印刷所、セミナリヨが岬の教会に移る
     1612(慶長17)トードス・オス・サントス教会が増改築される
     庭内には八代の殉教者の遺骨を納める小さな聖堂も造られる。この場所も巡礼地になる
     1619(元和05)破壊
     のち東土参台(とうどのさんだい)、トードノサンタと記憶され唐渡山(とうどさん)と呼ばれる
     いまの城の古址のこと
     1643(寛永20)教会跡地に春徳寺が創建


〈安土桃山時代(1)〉

1568(永禄11)【正親町】 戊辰(つちのえたつ)

  12/08無原罪の聖母に捧げられた教会を三城城の麓に開く
  八剱神社が神南の地に創建
     1661(寛文01)現在の地に
     のち小島郷の鎮守社となる
     【1663(寛文3)創建?】
  伴天連のヴィレラが教会を造るために来崎
  ルイス・デ・アルメイダによる長崎へのキリスト教布教がヴィレラに引き継がれる。1570(元亀01)
     1583(天正11)熱心にみちた布教活動を続けていたが、天草河内浦の藁葺きの貧しい住院で死亡
     帰国しなかったのは、ユダヤ人(新キリスト教徒)の出身でありながらカトリックに改宗したことで
     ユダヤ教信仰の大罪を犯し、帰国後の処刑を恐れ、日本を安住できる幸せの島と選んだこと
  トーレスが長崎を訪れ、福田の宣教師ヴィレダ神父を長崎に任命し、トーレス自身は大村に移る
  口之津のキリスト教信者1200人に

1569(永禄12)【正親町】 己巳(つちのとみ)

  09/長崎甚左衛門純景が夫婦川町の丘の仏寺を改造【11/01?】
     ガスパル・ヴィレラ神父の宣教は効果的で長崎初の教会トードス・オス・サントス(諸聖人教会堂)を建設
     1574(天正02)03/西郷、深堀の連合軍が長崎を攻撃
     長崎甚左衛門純景の砦と城下の村、トードス・オス・サントス教会を焼く
     キリシタン達は6町の外側に木の柵をつくり堀をほり防備を固め撃退
     のち再建される   長崎のキリシタンが約1500人に
  ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが京都二条城で信長にギャマンの壺入りの金米糖を贈る
  原城を構築した有馬貴純の族臣、千々石淡路守の命により、島原半島の西を固めるため、千々石へ
     千々石氏の根拠地・小倉城山に釜蓋城を築城
     のち千々石淡路守の死後、有馬晴純が実子千々石大和守直員(なおかず)を送り千々石氏を継がせる
     1577(天正05)12/九州は龍造寺、大友、島津の有力諸侯が覇権を争う時代
     佐賀の龍造寺隆信が数万の兵を以て島原半島神代へ上陸。有馬軍と交戦し勝利
     軍を二手に分け、嫡男政家に1万数千の軍勢を与えると千々石へ向かわせ釜蓋城に攻め寄せる
     城将大和守は頗る胆力がり、急を村民に伝えて堅く守り老臣木戸萬九郎、町田兵七郎と力戦大いに勉める
     しかし衆寡敵せず、刃折れ矢尽きて自刃。ときに25歳

永禄年間(1559〜1570)

  平戸城下の天門寺を中心に教会堂14、信者5千をかぞえる

1570(永禄13、元亀01・04/23)【正親町】 庚午(かのえうま)


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