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昭和時代(6) 昭和時代(7) 昭和時代(8) 昭和時代(9) 昭和時代(10) 昭和時代(11) 平成時代(1) 平成時代(2)


〈飛鳥時代〉

0597【推古05】 丁巳(ひのとみ)

  百済聖明王の第3王子、琳聖太子が来朝。崇嶽山頂で香を焚き北辰星をまつる
     のち肥後八代の白木山、周防山口の桂木山とともに西国妙見垂跡三山の霊場の名を誇る。崇嶽はその筆頭に

0604【推古12】 甲子(きのえね)

  「玳瑁杖(たいまいのつえ)」「玳瑁如意(たいまいにょい)」
     「螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」等が中国からもたらされる


〈白鳳時代〉

0674【天武03】 甲戌(きのえいぬ)

  対馬厳原の佐須鉱山で日本で初めて銀が産出。献上する

0701(大宝01・03/21)【文武】 辛丑(かのとうし)

  大宝律令が制定される
  行基が雲仙小浜に満明寺を建立、山岳仏教を広める
     のち何度も火災にかかる
     のち温泉山(うんぜんざん)満明寺の山号が雲仙の総称となる。温泉と信仰の山
     1115(永久03)定僧上人が満明寺を再興。別所と札の原とに一千坊の繁栄をみせる

0708(慶雲05、和銅01・01/11)【元明】 戊申(つちのえさる)

  07/元明天皇の勅願により高来町法川に行基が和銅寺を創建
     人々に異変を及ぼしていた肥後国宇土郡の橋脚で7体の観音像を彫る
     その1体が法川弘済院和銅寺の本尊となる


〈奈良時代〉

0712(和銅05)【元明】 壬子(みずのえね)

  行基菩薩が筑紫巡錫のとき、岩屋山に大権現を祀る
     のち弘法大師・空海が来錫。護摩の法を修し寺門大いに栄える
     平安から鎌倉・室町寺院繁栄し別院36坊を数える。西国有数の巨刹に
     のち次第に寺運が衰微
     0994(正暦05)藤原直純が伊予から下向。大村の久原に居城を構える。地名をとり初代大村氏となる
     下向の途中、郡岳の太郎大権現と岩屋山大権現を以って鎮護の岩屋山神宮寺にする(崇嶽神宮寺と表裏の関係)
     1260(文応01)頃北条時頼が諸国回遊の途次、この地に及ぶ
     1350(北朝・観応01)将軍足利氏が修復し寺領若干を付す
     1555(弘治01)有馬軍勢が乱入、風上から放火したため本坊、別院など諸堂宇がことごとく全焼
     のち里人が相寄って跡地に小堂が建つ
     1574(天正02)キリスト教徒による破却にあい廃滅
     1660(萬治03)領主・大村純長が大村家の祈願所として再興。2人扶持を給し岩屋山神通寺と改称
     1773(安永02)「密蔵界」と刻まれた石造アーチ門を建立
     のち寺運衰微。寺観の壮大を誇った女人禁制の一大霊場も廃滅
     1868(明治01)岩屋神社に

0733(天平05)【聖武】 癸酉(みずのととり)

  03/21《03/01》歌人の山上億良が遣唐大使丹比広成に会い、値嘉島(ちかのしま・五島列島)を入れた祝歌を贈る
       値嘉(ちか)の岫(さき)より大伴の 御津(みつ)の濱辺びに 直泊(ただはて)に
       御(み)船は泊(は)てむ つつみなく 幸(さき)くいまして早歸りませ
       [「新訂 新訓 万葉集 上巻」(岩波文庫/佐佐木信綱編)巻五 八九四(三一)より]

0740(天平12)【聖武】 庚辰(かのえたつ)

  馬牛屠殺禁止令が発令される
     のち幕末まで馬牛の屠殺業は存在せず

0754(天平勝宝06)【孝謙】 甲午(きのえうま)

  唐僧、鑑真が蜂蜜、石蜜、蔗糖、甘蔗をもたらす


〈平安時代〉

0804(延暦23)【桓武】 甲申(きのえさる)

  最澄が唐より砂糖を持ち帰る

0806(延暦25、大同01・05/18)【平城】 丙戌(ひのえいぬ)

  空海、唐国から煎餅の製法を伝える

0819(弘仁10)【嵯峨】 己亥(つちのとい)

  嵯峨天皇の勅願によって長崎で最大の規模を誇る神宮寺を崇嶽(瓊杵山)の麓に建立
     長崎奉行や一般市民の信仰があり、特に長崎在住の華僑は海上交通の守護神と仰ぎ海上交通の安全と貿易の隆昌を祈る
     寺社は桜馬場中学校、諏訪神社、諏訪公園、炉粕町、馬町、立山町一帯で支院は30余坊あった
     0841(承和08)一度、修復される
     1350(南朝・正平05)征西将軍懐良親王が修復。5千貫の地を付与
     1581(天正09)10/切支丹宗徒の放火により焼亡
     のち崇嶽廃寺。80余所に散在していた支院末坊も次第に廃絶
     1624(寛永01)八幡町に開かれた真言僧長慶の吉祥院が讃岐の金比羅大権現を勧請
     1705(宝永02)吉祥院が崇嶽(瓊杵山)に移り、讃岐国の金刀比羅大権現の分霊金毘羅神(金比羅神社)を祀る
     祈祷所、拝殿などを建て次第に寺観が整う
     崇嶽(瓊杵山)が金比羅山とも呼ばれるようになる
     1725(享保10)神宮寺の寺号が再興
     のち「華蔵界」と刻まれた石造アーチ門を建立
     1868(明治01)神仏分離令により金刀比羅神社と改称

弘仁年間(0810〜0823)

  長崎が寺領となる

0841(承和08)【仁明】 辛酉(かのととり)

  崇嶽の神宮寺が一度、修復される
     1350(南朝・正平05)征西将軍懐良親王が修復。5千貫の地を付与

0860(貞観02)【清和】 庚辰(かのえたつ)

  温泉岳(雲仙岳)が噴火

0905(延喜05)【醍醐】 乙丑(きのとうし)

  08/「養老律令」の律・令・格の施行細則を集大成した法典「延喜式」の編纂が藤原時平ほか11人によって開始
       藤原時平、藤原定国、藤原有穂、平惟範、紀長谷雄、藤原菅根、
       三善清行、大蔵善行、藤原道明、大中臣安則、三統理平、惟宗善経
     0927(延長05)12/式が藤原忠平ほか4人により奏進する
     のち修訂が加えられる
     0967(康保04)施行される。全50巻。条数は約3300条
      神祇官関係の式(巻1〜10)、太政官八省関係の式(巻11〜40)、
      その他の官司関係の式(巻41〜49)、雑式(巻50)律令官制に従って配列される
     神祇官関係の式(巻1〜巻10)のうち、巻9・10は神名帳
        官社の一覧表で祈年祭奉幣にあずかる神社2861社 (天神地祇3132座)を国郡別に羅列
        記載された神社が「式内社」。 式内社は平安時代(10世紀)すでに官社として認定された神社で、由緒ある神社
     ◎肥前國:4座 大1小3
      松浦郡:2座大1小1
      ○田嶋坐神社[タシマノ](名神大)
       田島神社「田心姫尊、市杵嶋姫尊、湍津姫尊 配 大山祇神 合 稚武王尊」
      ○志々伎神社[シシキ]
       志々伎神社「十城別命 配 鴨一隼命、七郎氏廣」
      基肄郡[キイ]:1座小
      ○荒穂神社[アラホ]
       荒穂神社[あらほ]「瓊瓊杵尊 合 住吉大神、春日大神、五十猛命、加茂大神、八幡大神、寶滿大神」
      佐嘉郡[サカ]:1座小
      ○與止日女神社[ヨトヒメ]
       与止日女神社[よどひめ]「與止日女命」神功皇后の妹神といわれる

0927(延長05)【醍醐】 丁亥(ひのとい)

  12/「養老律令」の律・令・格の施行細則を集大成した法典「延喜式」が藤原忠平ほか4人により奏進する
     のち修訂が加えられる
     0967(康保04)施行される。全50巻。条数は約3300条

0960(天徳04・宋の建隆01)【村上】 庚申(かのえさる)

  03/23媽姐が中国福建省興化府●(艸冠に甫)田県の東南に浮かぶ●(さんずいに眉)洲という小島で林氏の娘として生まれる
     生後1月たっても泣き声をてず、黙娘と名づけられる
     幼少の時から聡明で9歳で金剛経に親しむ
     小さい時から賢くよく神通力を示し悪をしりぞけて世間を救う
     15歳の時三教(儒教・仏教・道教)の本を全て読み尽くしていたといわれる
     19歳の頃家で機を織りながら疲れてウトウトしていると父と兄の乗った船が難破する夢をみる
     媽姐はとっさに海中に身を躍らせ、兄を口にくわえ父をつかんでけんめいに泳ぐ
     そのとき母に起こされ返事をしたため兄を離してしまう
     ちょうど父と兄の乗った船が海難事故にあい、父は助かるが兄は溺れて亡くなった知らせが届く
     23歳の頃桃花山で妖怪の金精(千里眼)と水精(順風耳)が付近の作物を荒らし村人をこまらせる
     千里眼は千里先を見ることができ、順風耳は千里先のかすかな物音を聞きつける能力をもつ
     2人の精をみつけた媽姐は、ハンカチをひと振りすると両精は目が眩み、手がしびれてひれふする
     媽姐は両精を許し、海上を守護を手伝わせることにする
     0987(宋の太祖雍煕04)09/0928歳のとき修行を終えた媽姐は、人々を救うため家人に別れをつげる
     媽姐は神となり五色の雲に乗って昇天する
     のち彼女が紅い衣装をつけ海上を飛び、難民を救助している姿が見られるようになる
     のち霊験あらたかに護国救民を行ない、郷民は廟を当てて祭るようになる
     のち歴代の皇帝がそれぞれ贈り名をし、元の世祖は「天妃」、清の康煕は「天后」、清の道光は「天上聖母」を贈る

0967(康保04)【冷泉】 丁卯(ひのとう)

  「養老律令」の律・令・格の施行細則を集大成した法典「延喜式」が施行される
     全50巻。条数は約3300条
      神祇官関係の式(巻1〜10)、太政官八省関係の式(巻11〜40)、
      その他の官司関係の式(巻41〜49)、雑式(巻50)律令官制に従って配列される
     神祇官関係の式(巻1〜巻10)のうち、巻9・10は神名帳
        官社の一覧表で祈年祭奉幣にあずかる神社2861社 (天神地祇3132座)を国郡別に羅列
        記載された神社が「式内社」。 式内社は平安時代(10世紀)すでに官社として認定された神社で、由緒ある神社
     ◎肥前國:4座 大1小3
      松浦郡:2座大1小1
      ○田嶋坐神社[タシマノ](名神大)
       田島神社「田心姫尊、市杵嶋姫尊、湍津姫尊 配 大山祇神 合 稚武王尊」
      ○志々伎神社[シシキ]
       志々伎神社「十城別命 配 鴨一隼命、七郎氏廣」
      基肄郡[キイ]:1座小
      ○荒穂神社[アラホ]
       荒穂神社[あらほ]「瓊瓊杵尊 合 住吉大神、春日大神、五十猛命、加茂大神、八幡大神、寶滿大神」
      佐嘉郡[サカ]:1座小
      ○與止日女神社[ヨトヒメ]
       与止日女神社[よどひめ]「與止日女命」神功皇后の妹神といわれる

0987(寛和03、永延01・04/05 宋の太祖雍煕04)【一条】 丁亥(ひのとい)

  09/09修行を終えた28歳の媽姐は人々を救うため家人に別れをつげる
     媽姐は神となり五色の雲に乗って昇天する
     のち彼女が紅い衣装をつけ海上を飛び、難民を救助している姿が見られるようになる
     のち霊験あらたかに護国救民を行ない、郷民は廟を当てて祭るようになる
     のち歴代の皇帝がそれぞれ贈り名をし、元の世祖は「天妃」、清の康煕は「天后」、清の道光は「天上聖母」を贈る

0994(正暦05)【一条】 甲午(きのえうま)

  藤原直純が伊予から下向。大村の久原に居城を構える。地名をとり初代大村氏となる
     下向の途中、郡岳の太郎大権現と岩屋山大権現を以って鎮護の岩屋山神宮寺にする(崇嶽神宮寺と表裏の関係)
     1260(文応01)頃北条時頼が諸国回遊の途次、この地に及ぶ

1115(永久03)【鳥羽】 乙未(きのとひつじ)

  定僧上人が満明寺を再興。別所と札の原とに一千坊の繁栄をみせる

1177(安元03、治承01・08/04)【高倉】 丁酉(ひのととり)

  俊寛僧都、藤原成恒、平康頼が鬼界が島(伊王島)に流刑さる

1180(治承04)【安徳】 庚子(かのえね)

  平兼盛(平包守)が老手(現福田)、手隈(現手熊)の定使職に任ぜられる
  有王が鬼界が島で俊寛僧都と合う
     俊寛僧都断食ののち死去、有王が墓の印に小姫松を植える

1186(文治02)【後鳥羽】 丙午(ひのえうま)

  平重盛の曾孫長崎小太郎重綱が源頼朝から深江浦(長崎)の地を賜わり西下。砦を構える
     【1222(承久04、貞応01)?】
     1587(天正15)14代長崎甚左衛門純景が故あって長崎を退去【1578(天正06)?】

1189(文治05)【後鳥羽】 己酉(つちのととり)

  平兼盛が戦死し弟の兼信が地頭となり老手村を福田村と改め、自ら姓を福田に改める

1191(建久02)【後鳥羽】 辛亥(かのとい)

  栄西禅師が宋より平戸に帰国、小院「冨春庵」で10数人の弟子とともに禅規を行なう。日本最初の禅伝来
     また栄西は優良な茶の実を持ち帰り、[新しい抹茶(碾茶)]の製茶の法を伝える
     宗朝禅林の喫茶の法を伝え「喫茶養生法」を著す
     禅房の裏山約2畝に茶の種を播き茶畑とする
     【背振山のこと?】
     のち拇尾から宇治へ全国へ広まる
     それまで茶は平安期など遣隋使、遣唐使により伝わり朝廷の特殊な法会の供応や薬用など上層貴族階級用
     その後、衰退の傾向に合ったが栄西により一般庶民のものに

1192(建久03)以降【後鳥羽】 壬子(みずのえね)

  長崎のもとの地名、深江浦や瓊の浦の名称が史料に見られ、ときに永崎浦とも記されるようになる
     1331(北朝・元徳03)以降地名として「長崎」の字が定着するようになる


〈鎌倉時代〉

1222(承久04、貞応01・04/13)【後堀河】 壬午(みずのえうま)

  長崎小太郎重綱が長崎に来て城館(現城の古祉)を築く

1255(建長07)【後深草】 乙卯(きのとう)

  長崎半島(野母半島)中央部城山の麓に位置する地域の名称が深堀となる
     上総国伊南荘深堀の深堀五郎左衛門尉能仲が承久の役の戦功により肥前国戸八浦の地頭職に補任されたことから
     元禄年間(1688〜1704)佐賀藩深堀領として、藩主鍋島綱茂のもと鍋島官左衛門茂春が領主を勤める
     1889(明治22)深堀、大篭、香焼が合併して深堀村となる
     1898(明治31)香焼が分離
     1955(昭和30)01/第5次市域拡張で長崎市に編入合併

1260(正元02、文応01・04/13)【亀山】 庚申(かのえさる)

  北条時頼が諸国回遊の途次、岩屋山神宮寺に及ぶ
     1350(北朝・観応01)将軍足利氏が修復し寺領若干を付す

1274(文永11)【後宇多】 甲戌(きのえいぬ)

  11/04《10/05》900隻の兵船に乗った蒙古・高麗軍2万8千人が対馬に上陸。元寇(文永の役)
     対馬守護代の宋助国は80余騎とともに厳原から佐須浦に直行。防戦するが討死
     11/13《10/14》元軍は佐須浦に火をつけ壱岐に向かう
     対馬を蹂躙した蒙古・高麗軍が壱岐を襲い上陸。多数の島民を虐殺
     守護代の平景隆はご家人100余騎とともに応戦するが、勝負とならず自殺
     対馬への進攻と同様に島民は殺害され生け捕りにされる
     女たちは1か所に集められ手の平に穴を開け数珠つなぎにされ、舷側にくくりつけられるなど残酷な目にあう
     11/19《10/20》元軍はさらに進攻し博多湾西部に上陸
     各所で激戦が繰り広げられ、蒙古軍の石火矢を用いた集団戦法にかき回され水城まで退却
     沿岸周辺での戦いは元軍が優勢だったが船は戻りはじめる。翌日には撤退し博多湾から消える
     撤退の途中で大暴風雨「神風」が吹き荒れる
     蒙古軍の兵船は大破、沈没し遠征軍2万8千人のうち帰国したのは1万4500人のみ

1281(弘安04)【後宇多】 辛巳(かのとみ)

  06/モンゴルの皇帝フビライが再び日本征服を企てる。2つに分け第2次遠征軍を向かわせる。元寇(弘安の役)
     東路軍対馬と壱岐を経て九州の上陸拠点とした福岡の志賀島に来襲
     博多湾を守備する日本勢の猛攻により上陸して進撃できず壱岐へ退却
     07/☆平戸に移動し遅れてきた江浦軍と合流
     08/12《07/27》平戸を出発した東路軍、江浦軍の両軍が鷹島に移動
     日本勢は鷹島のモンゴル軍を果敢に攻撃
     08/15《07/30》夜半から大爆風「神風」が吹き荒れ4400隻の船がほとんど壊滅
     元軍の未帰還者10万人、高麗軍の未帰還者7千人

正応年間(1288〜1293)

  船越又次郎入道如覚が船越城を築く。伊佐早之庄を支配する庄司となり姓を伊佐早と変える
  西郷(南高瑞穂町)の西郷氏が次第にその勢力を拡大し宇木(有喜)に城を構える


〈室町時代(1)〉1・南北朝時代

1331([南朝]元徳03、元弘01・08/09【後醍醐】)([北朝]元徳03【光厳】)以降 辛未(かのとひつじ)

  地名として「長崎」の字が定着するようになる
     それまでは深江浦や瓊の浦の名称が史料に見られ、ときに永崎浦とも記されるようになる

1346([南朝]興国07、正平01・12/08【後村上】)([北朝]貞和02【光明】丙戌(ひのえいぬ)

  島原半島一円に勢力を伸ばす有馬連澄が日野江城を築く
     60〜70米の台状台地の上にあった山城で、本丸を中心に南東部に二の丸、北西部には三の丸が築かれる

1350([南朝]正平05【後村上】) ([北朝]貞和06、観応01・02/27【崇光】庚寅(かのえとら)

  将軍足利氏が岩屋山神宮寺を修復し寺領若干を付す
     1555(弘治01)有馬軍勢が乱入、風上から放火したため本坊、別院など諸堂宇がことごとく全焼
  崇嶽の神宮寺が征西将軍懐良親王により修復。5千貫の地を付与
     1581(天正09)10/切支丹宗徒の放火により焼亡

1354([南朝]正平09【後村上】) ([北朝]文和03【後光厳】甲午(きのえうま)

  田上に皆行庵として創建
     1663(寛文03)島原藩主高力摂津守忠房が再興し田上寺と改称


〈室町時代(1)〉2・足利時代

1408(応永15)【後小松】 戊子(つちのえね)

  足利義持の時代に日本に初めて象が渡来
     1575(天正03)2度目の象が渡来
     1728(享保13)3度目の象が渡来
     1816(文化13)甲比丹ヘンドリキ・ドーフが 将軍家へ象の献上を申し出たが、その儀に及ばずと謝絶


〈室町時代(1)〉3・戦国時代

1480(文明12)【後土御門】 庚子(かのえね)

  大村藩主の大村純伊が島原諫早の連合軍に勝利して領地を奪回
     突然の勝利の祝いの席に急きょ寿司をふるまい領主や将兵に喜ばれる
     もろぶたを箱にして炊立てのご飯をのせ、上に魚の切り身や野菜、錦糸玉子をのせ味をつけた押し寿司
     寿司は脇差により角切りに切り分けられ「角ずし」とも呼ばれる。「大村寿司」の発祥

1496(明応05)【後土御門】 丙辰(ひのえたつ)

  有馬氏8代目領主有馬貴純が日乃江城の支城として平城の原城を築城
     有明海を臨む本丸を中心に二の丸、三の丸、天草丸の4つの曲輪が配され、別名「日暮城」とも呼ばれる
     本丸は30米の断崖に建ち空堀は満潮時に水堀となる天然の要害
     のち有馬晴純の代に至り、有馬氏の全盛時代となるが、次第に衰退
     のち有馬義直の時代には佐賀の龍造寺に再三侵略される
     島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利をおさめ、島原半島の南部をかろうじて維持
     1612(慶長17)有馬晴信は岡本大八事件に連座し配流・切腹
     のち岡本大八事件により一時有馬領は没収される
     のち家康の命により、嫡子直純に有馬領4万石が下賜される
     父が処刑されたにも拘わらず14代城主となれたのは異例
     理由には15歳の時から側近として仕えていたこと、家康の曾孫国姫を妻にしていたこと
     のち直純は2年後、日向に転封に
     1616(元和02)大和五条から松倉重政が入封
     1618(元和04)1615(元和01)の一国一城令により日乃江城と原城が廃城。新たに島原城(森岳城)を築く
     1637(寛永14)12/11《10/25》島原一揆が起こる。一揆軍が原城に籠城

1510(永正07)【後柏原】 庚午(かのえうま)

  朝鮮で三浦の乱が起こり日本との国交断絶。それまでの倭館(三浦=釜山浦・塩浦・薺浦)が閉鎖
     1512(永正09)永正条約を締結。薺浦のみ再開
     1609(度長14)慶長条約で釜山浦に倭館が再設、接待貿易と対馬島民の居留に供される
     日本から銀、銅、胡椒、明ばんなどが輸出、朝鮮からは朝鮮人参、生糸、米などが輸入された
     1678(延宝06)草梁項(現釜山)に李氏朝鮮政府が日本からの通交特使のために設けた客館・新倭館が落成
     その大きさは東西450間、南北250間【規模は諸説あり一定しない】。全面積は約10万坪(出島の25倍)
     高さ6尺の石垣の外側には堀をめぐらし、門が2か所がある
     東に守門(平常の通用門)、北の宴席門は平常は開かず、れん官が来るときだけ開く
     中央に龍頭山、その東に館主館、接礼や貿易のための大庁、裁判所、代官屋、通詞屋が並び、寺院(東向寺)もある
     滞留の日本人(すべて対馬人)は館主以下の役人を含め約600人
      長崎の出島とは正反対に、日本から朝鮮におもむき、対馬藩のみの人たちが鎖国下に堂々と貿易に従事した
     1873(明治06)02/新政府外務省が接収

1512(永正09)【後柏原】 壬申(みずのえさる)

  日本と朝鮮の間に永正条約が締結。倭館・薺浦のみ再開
     1609(度長14)慶長条約で釜山浦に倭館が再設、接待貿易と対馬島民の居留に供される
     日本から銀、銅、胡椒、明ばんなどが輸出、朝鮮からは朝鮮人参、生糸、米などが輸入された

1526(大永06)【後奈良】 丙戌(ひのえいぬ)

  石見(島根県大田市)で銀山が発見

1532(享禄05、天文01・07/29)【後奈良】 壬辰(みずのえたつ)


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